第四章 希望を語って

 すでに夜となっていた。クラウスたちはスタールの屋敷にやって来て、今は応接間で休んでいた。


 休んでいたというより、呆然としていたと言うべきかもしれない。彼らは何かを語るでもなく、椅子に座り込んでいた。


 街での銃撃事件の後、二人はそのまま屋敷にやって来たのだ。スタールに事件について話すと、スタールはそのまま出かけて行ってしまった。事件について何かやるべきことがあるようだった。


 クラウスは事件現場での出来事を思い起こす。現場では恋人を撃ち、呆然としていた女性。彼女が言い放った言葉が、クラウスの頭から離れずにいた。


 女性は軍人の恋人を戦場に行かせないために、銃で彼を撃ったのだ。そうすることで、彼を戦争から守ろうとしたのだ。


 彼女にとってそれだけが、彼を戦争から助けるために必要なことだったのだ。


 その事実がクラウスたちに、重苦しい感情を抱かせていた。


 今も俯くユリカ。きっと彼女も、恋人を撃った女性のことを思い出して、やるせない気持ちになっているに違いなかった。


 その時、応接間のドアが開かれた。


「二人とも、大丈夫かね?」


 やって来たのはスタールだった。スタールの姿を見て、クラウスが立ち上がった。


「閣下。あの二人は?」


「もう大丈夫だと思う。彼は病院で手当てをしている。命に別状は無いし、足の怪我もすぐに治るだろう。彼女の方は警察で保護してもらっている。まだ精神的に不安定みたいだから、さすがに警察が見張っている。変な気を起こさないよう気を付けてもらうつもりだ」


 スタールの説明にホッと一息つく二人。女性の状態も心配になるほどで、自殺でもするのではないかとすら思うほどだった。


「しかし、さすがに困ったことだ。さすがに無視できない事件だからね」


 スタールも椅子に座り込む。彼は溜息を吐いて参ったとばかりに首を横に振った。


「警察には事件の情報を明かさないよう指示を出しておいた。戦場に連れて行かれる前に恋人を撃ったなんて、そんなことが世間に広まれば、他にも事件を真似る人間が出てくるかもしれないからね」


 国内では戦争が近づいていることに、不安を抱く人間が増えている。そんな中、この事件のことが世間に知られれば、同じことを考える者がいてもおかしくなかった。


 スタールはすぐに警察に情報統制を布いた。新聞社などに情報が広まらないよう、必要以上に事件のことを広めないようにしていた。


 しかし、それでもスタールは頭を抱えた。


「とは言え、人の口に南京錠をかけることはできない。どうしたって事件のことは世間に広まるだろう。速かれ遅かれ、新聞社にも嗅ぎつけられてしまう。そればっかりはどうすることもできない。本当に困ったことだ」


 情報や噂というのは、水みたいに漏れてしまうものだ。しかも一旦漏れてしまえば、すぐに広がってしまう。まるで伝染病みたいに人から人へ。街から街へと。


 そうなってしまえば、スタールの力でも抑えることは出来なくなるだろう。


 何より、このような事件が起きるほどに人々の不安は高まっているのだ。


 もはや限界に達しているのだ。これ以上時間を無駄にすることはできなかった。


「なんとかして、世論を戦争支持に傾けないといけない。何かいい方法でもあればいいのだが……」


 スタールの呟きは、空しく虚空に溶けていく。クラウスたちも同じようにうなだれた。


 世論というのは巨大な生き物であり、気まぐれであり、自由に扱うことのできないものだ。グラーセン国内の世論は戦争に対して不安になり、動揺を見せている。開戦か反戦か。それを戦争支持に傾けて、挙国一致体制を築く必要があった。


 言葉にするのは簡単だが、それを現実のものとするのは困難な話だ。


 そのことを理解している彼らは何も言えずにいた。三人分の沈黙が部屋に漂った。


 しばらくそうしていると、スタールが口を開いた。


「今日はもう帰りなさい。君たちのことも嗅ぎつけられるかもしれない。わかっていると思うが、記者がやって来ても何も言わずに帰りなさい。いいね」


 仕事熱心な新聞社のことだ。事件のことでクラウスたちのことを知る可能性がある。記者たちがクラウスたちを追ってきてもおかしくはなかった。


「外に馬車を呼んである。それに乗って帰るといい」


「わかりました。おじい様もお気をつけて」


「今日はありがとうございます。落ち着いたらまた」


 クラウスたちはお礼を伝えると、そのまま部屋を出た。そんな二人をスタールは静かに見送るのだった。


 馬車の中で無言で向かい合うクラウスとユリカ。二人は馬車の中から街の光景を眺めていた。


 あんな事件が起きた後でも、人々はいつもと同じ日常を過ごしている。そのことがクラウスには不思議に思えた。


 クラウスは事件を起こした女性のことを思い出す。事件現場で倒れこむ男と、彼を撃った彼女。


 あの時、彼女は泣いていた。あれは男を撃った後悔でも、恋人との間に起きた悲劇を悲しんでいるわけでもない。


 あれは運命に打ちのめされた者の顔だった。どうしようもない運命を前にした時、人はその運命の不条理に絶望する。抗おうとしても、立ち向かおうとしても、人間は運命というものに翻弄される。


 彼女は恋人を戦争から守ろうとしていたのだろう。恋人と何度も話をして、多くのことを考えたに違いない。


 それでも、二人はどうすることもできなかったのだ。そうして彼らが辿り着いた結末は、クラウスたちも目の当たりにした惨劇だった。


 あの時、彼女は絶望したのだ。どうすることもできない運命に。抗うことのできない運命に。


 その時の顔をクラウスは思い出していた。彼女の顔に刻まれた絶望を、クラウスは一生忘れることはできないだろう。


「何を考えているの?」


 ユリカが声をかけてくる。答えなどわかっているはずなのに、それでも問いかけるのは、そうしないと不安になるからだろう。クラウスはその問いかけに答える。


「あの女性のことをな。かなり思い詰めていたようだから、気になってな」


 そう語る間もクラウスは外を眺めていた。外には恋人や夫婦。もしくは家族などが楽しそうに街を歩く姿が見えていた。その姿を見ながらクラウスも声を上げた。


「今、この国に住む人たちは、みんな同じように不安になっているのかな……?」


 国内は戦争を前に不安や動揺が広がっているという。その不安は、あの時の女性が抱いていたものと同じものだ。


 もし事件のことが国内に知られたなら、他にも彼女と同じことをする人が出るのだろうか?


 それだけは避けるべきだ。戦争を前にして、国も国民も一つにまとまらなければ、戦争に勝つことが出来なくなる。


 しかし、どうすればいいというのか? どうすればこの国に漂う不安を一掃できるというのか?


 答えの出ない問いかけがクラウスの中で繰り返された。


 その時、クラウスはあることを思い出した。


「フェリックスさんは、どうしてるかな?」


 参謀本部で働くフェリックス。彼も戦争を前に、大切な人との間で思い悩んでいた。


「……少し、心配ね」


 ユリカが呟く。さすがに事件と同じような事にはならないとは思う。思うのだが、どうしても不安は消えなかった。


「時間があったら、二人で会いに行こうか」


 クラウスが言うと、ユリカは頷きだけ返すのだった。



 翌日、クラウスたちは参謀本部の中を歩き回っていた。昨日二人で話したように、フェリックスと話をするためだった。


 さっそく会いに行こうとする二人だが、よく考えるとフェリックスがどこにいるのか、二人は知らなかった。参謀本部にいるはずなのだが、どこにいるのかまでは知らないのだ。


 一度フェリックスが所属する鉄道課に行ったのだが、そこにはいなかった。仕方なく二人はフェリックスを探すことにした。


「フェリックス大尉、どこにいるのかしら?」


「外には出ていないとは思うが……」


 正直、フェリックスがどこにいるかなど、二人には心当たりがなかった。


「どうする? 今日はやめにしておくか?」


 クラウスが提案する。日を改めて会うという選択もあった。しかしユリカは首を振ってそれを否定した。


「何かあってからじゃ、遅いのよ」


 ユリカの言葉に思わず口を閉ざすクラウス。もし今もフェリックスが悩んでいるのなら、今こそ話をするべきなのだ。もしフェリックスにも悲劇が起きたら、今度はクラウスが絶望する時なのだ。


「……ああ、そうだな。フェリックスさんに会わないと」


「クラウスさん? それにユリカ様も」


 そんな二人にかけられる声。二人が振り向くと、そこにフェリックスがいた。


 深刻そうに話し合う二人を、キョトンとして見つめるフェリックス。そんなフェリックスを見て、クラウスが安堵の溜息を吐くのだった。




「鉄道課の方で、お二人が私を探していると聞きました。何か御用でしたか?」


 どうやらフェリックスの方でも二人のことを探していたようだ。クラウスたちはフェリックスを部屋まで来るよう誘った。フェリックスも特に急ぎの用事はないということで、三人はそのままクラウスの部屋へ行くことになった。


 クラウスの部屋で三人はテーブルを挟んで向かい合う。手元には三人分の紅茶が並んでいた。


「えっと……」


 何を語るべきか、クラウスが口ごもる。見ればユリカも深刻そうな顔をしていた。


「もしかして、何か重大な任務のお話でもあるのでしょうか?」


 そんな二人の様子から、フェリックスが只ならぬ雰囲気を感じ取ったようだ。


「あ、いえ。そういうわけではないのです。ただ、大尉のことが少し心配になりまして」


「心配、ですか?」


 クラウスの一言に怪訝な顔をするフェリックス。クラウスはどう答えたものか、ますます困ってしまった。まさか事件のことを説明するわけにもいかないし、それに婚約者に撃たれるかもなんて、言えたものではなかった。


 どうしようかと悩んでいると、代わりにユリカが口を開いた。


「申し訳ありません、大尉。実はクラウスの方から、大尉と婚約者との間で悩みがあると聞きましたの。それで私の方でも気になりましたので、無理を言って大尉に会いに行こうということになりましたの」


 ユリカが簡単に話してみると、その説明に納得したフェリックスが申し訳なさそうにした。


「なるほど。そういうことでしたか。申し訳ありません、心配をかけてしまいした」


 そう言って苦笑いを浮かべる。フェリックス。すると彼はそのまま顔を上げた。


「もう大丈夫です。私も、彼女も大丈夫です」


 思わずクラウスは目を疑った。フェリックスは晴れ晴れとした笑みを見せてくれた。あの日、思い悩んでいたフェリックスからは想像できない笑顔だった。


「あ……えっと、大丈夫、ですか?」


「はい。色々と悩んでいましたが、私も彼女ももう大丈夫です。心配いりません」


 その様子から何かを察したのか、ユリカが問いかけてきた。


「大尉。婚約者の方と何をお話になりましたの?」


 ユリカが問いかけると、フェリックスが恥ずかしそうにしていた。


「その……彼女とは私の『夢』のことを話しました」


「夢とは、何ですの?」


 その時、フェリックスがクラウスに顔を向けた。懐かしそうに笑いながら、彼は話を続けた。


「ビュルテンでもクラウスさんにお話ししましたが、もし帝国が統一した時、私は帝国の全国地図を作るのが夢なのです。新たにできるであろう、祖国の全国地図を」


 以前クラウスたちがビュルテンに行った時、クラウスはフェリックスと語り合ったことがあった。いつか統一された帝国の、全国地図を作るのがフェリックスの夢なのだと。


「統一された帝国を旅し、帝国全土の地図を作ることが私の夢でした。その地図を持って、結婚した彼女と、いつか生まれる子供と共に帝国を旅すること。それが私の夢なのです」


 そう語るフェリックスの顔は、ビュルテンで見せた時と同じ微笑みだった。色褪せることのない夢を語る彼の顔は、あの日と変わらない微笑みに満ちていた。


「私は彼女にその夢を語りました。そして伝えました。この夢を叶えるために、私は帰ってくると」


 照れ笑いを見せるフェリックス。しかしそれを聞いていたユリカは茶化すようなことはなく、何か美しいものを見るような顔で、フェリックスを見つめていた。


「……それで、相手の方は何と?」


 フェリックスがその時のことを思い出したのか、幸せそうに笑った。


「私と、私の夢を待っていると。だから、無事に帰ってきてほしい、と」


 それは信頼の言葉だったのだろう。フェリックスの婚約者は彼の夢を聞いて。そこに信頼を見出したのだ。フェリックスは必ず、夢のために帰ってきてくれるのだと。


 この瞬間、フェリックスだけが抱いていた夢は、二人の大切な願いになったのだ。


「だから、もう大丈夫です。彼女も私も、一緒にこの戦争を生き抜いて見せますよ」


 待つのは辛いだろう。置いて行かれるのは悲しいだろう。だけど、待つ者の戦いというのもあるのだ。婚約者は覚悟を決めたのだ。共に戦争に立ち向かうことを。フェリックスが必ず帰ってきてくれると信じることができるから。


 その時、ユリカは笑っていた。美しいお伽話を聞いているような、そんな幸せそうな顔だった。


「すいません。なんだか、恥ずかしい話をしてしまいましたね」


「恥ずかしいなんて、そんなことはありませんわ」


 フェリックスの言葉にユリカはとんでもないと言った。彼女の瞳がフェリックスを真っ直ぐに見つめた。


「好きな人にそんな風に言われて、女の子が嬉しくないはずがありませんわ。大尉に言われて、相手の方は幸せ者ですわ」


「そ、そうでしょうか?」


 思わず面食らうフェリックスだったが、ユリカはそんな彼の手を握った。


「同じ女の子の私が言うのです。間違いありませんわ」


 そこにどんな根拠があるのだろうか? 婚約者が本当に同じことを考えているのかは、誰にもわからないことだ。


 だけど、ユリカは自信満々に言って見せた。彼女が見せた笑みは、何故かそれが真実であるかのように思わせる力があった。


 だからだろう。フェリックスは安心したように笑った。


「ありがとうございます。ユリカ様」


 その二人を見ていたクラウスも、静かに笑っていた。




「それでは、私はこれで」


「落ち着いたらまた、お話をしましょう」


 フェリックスを見送るクラウスたち。二人きりになると、ユリカが口を開いた。


「とても幸せそうね。大尉も、相手の人も」


「ああ、そうだな。とても幸せそうだ」


 フェリックスのことを心配していたのに、それが今は幸せそうに笑う彼を見送っている。何だか不思議な感覚だった。


 だが、とても心地良い感覚だった。


 この前クラウスは、フェリックスに言った言葉があった。相手の人はフェリックスのことを選んだのだと。それは胸を張っていいことなのだと。


 そして、それは相手の婚約者にも言えることだった。相手もまた、フェリックスが選んだ相手なのだ。それだけで相手がとても素敵な人なのだとわかった。


 クラウスは運命や宿命といったものは信じていない。あまり好きな言葉ではなかった。


 だが、もし運命の相手というものがいるのなら、それはフェリックスとその婚約者のような、そんな二人のことなのだろうと思った。


「ところでクラウス。少し聞きたいことがあるのだけど?」


 その時、ユリカが声をかけてきた。何か含みのある言葉遣いに、クラウスは嫌な気配がした。


「何だ? 何か気になることでもあるのか?」


「大尉の話を聞いていると、大尉の夢のことをあなたは知っていたみたいだけど?」


「え? ああ、ビュルテンで二人で話したことがあるが、それがどうした?」


 クラウスがそう答えると、ユリカが不満そうな顔になりながら、クラウスに人差し指を突き立てた。


「男の子っていつもそうよね。女の子を仲間外れにして、自分たちだけで楽しそうにしてるんだもの。本当にずるいわ」


 そう言われてクラウスはやっと理解した。どうやらユリカは、自分だけがフェリックスの夢のことを知らなかったのが不服だったようだ。


「いや、あの時は確か、君はすぐに寝ていたから、そのままにしていたんだ。起こすのも悪いだろう?」


「ええ、そうかもしれないわ。だけど、その後にも話をする時間はあったはずよ。それなのに私だけ仲間外れにして、男二人だけで秘密を共有するんだもの。ずるいわよ」


 ユリカの言う通りかもしれないが、別に秘密でも仲間外れにしていたわけでもない。言う必要を感じなかっただけだし、言っても仕方ないことだとクラウスは思ったのだ。


 だが、そんなことを考えるクラウスにユリカはふっと笑みを浮かべた。


「女の子はね、好きな人といろんなことを共有したい生き物なのよ。好きな人の言葉も、気持ちも、未来も」


 そう言ってユリカは女の子の想いを言葉にした。


「きっと大尉の婚約者は幸せに違いないわ。大切な人の夢を共有することができたのだから」


 フェリックスの夢を知った婚約者は、その夢を二人で共有する仲間になったのだ。それはその人にとって、何よりも幸せな出来事なのだと、ユリカは言った。


「だからね、クラウス」


 ユリカが覗き込むようにクラウスを見つめた。


「もっとあなたのことを私に教えてちょうだい。あなたの言葉も、気持ちももっと聞きたいわ」


 子供みたいなおねだりをするユリカ。そんな彼女の言葉にクラウスは呆れつつも楽しそうに笑った。


「別にいいけど、私の話なんてつまらないと思うぞ」


「大丈夫よ。少なくとも、数学の論文を読むよりは楽しいと思うわよ?」


 ニンマリと笑みを浮かべながら、そんなことを言ってくるユリカ。


 数字と記号ばかりの論文と比較されるという、よくわからない体験にクラウスは苦笑いを浮かべるのだった。




 二日後、クラウスは部屋に閉じこもっていた。


 参謀本部は相変わらず大忙しで、参謀将校たちは戦争に向けて準備を進めていた。


 クラウスも情報部で働き続けた。アンネルでの留学経験を活かし、集められた情報を分析し続けた。仕事の忙しさは増すばかりだが、誰も弱

音を吐くことはなかった。


 クラウスも仕事に専念した。可能な限り彼は与えられた仕事をこなそうと働き続けた。


 だが、どうしてもクラウスの頭に例の事件がフラッシュバックした。


 恋人を戦争に行かせないために銃を撃った女性。今頃彼女は何をしているだろうか?


 戦争が間近に迫る中、国民の不安は一層増していた。そんな不安を国民が抱いたまま戦争に突入するのは、あまりに危険だった。なんとかして国民の不安を取り除かないといけない。


 しかし、どうすればいいのか、クラウスには見当もつかなかった。幾万の民の心を一つにする。そんなこと、本当にできるのだろうか?


 わからない。どうすればいいのか? クラウスは答えの出ない悩みを抱えたまま、部屋に閉じこもっているというわけである。


 例の事件はスタールの指示通り、世間に公表されることはなかった。しかし、どこかで真相が明かされることだろう。そうなれば、国民に動揺が広がるのは避けられない。


 急がなければならない。そう考えれば考えるほどにクラウスは焦り、苦しむのだった。


 その時、ノックの音が部屋に響いた。クラウスが入室を促すと、入って来たのはユリカだった。


「あら? 色男が台無しだわ。怖い顔してどうしたのかしら?」


 クラウスの顔を見ながら苦笑いを見せるユリカ。彼女のそんな軽口に、クラウスはわずかに笑みを浮かべた。


「いや、すまない。書類を睨んでばかりいたから、笑い方を忘れてしまったようだ」


「あら。それは大変ね。それなら私が笑い方を教えてあげるわ」


 そう言ってにーっと満面の笑みを見せつけるユリカ。それに釣られてクラウスが笑うと、その様子を見てユリカも笑うのだった。


「でも、それならちょうどいいわ。気晴らしに一緒に出掛けましょう。今日はおじい様の屋敷に行きましょう」


「閣下の屋敷にか? 何か用事でもあるのか?」


「ほら、アントンさんに写真撮ってもらったでしょう? あれが屋敷に届いたらしいのよ」


 そういえばとクラウスは思い出す。数日前にアントンのアトリエで、ユリカとのツーショットを撮影していた。その時の写真がスタールの屋敷に届けられたのだ。


「そういえばそうだったな。出来上がったんだな」


「ええ。一緒に取りに行きましょう。おじい様にも会いたいし、行きましょうよ」


 確かに事件についてスタールとも話をしたかった。少し気が滅入っていることもあるし、クラウスは彼女の申し出を受けることにした。


「わかった。すぐに支度するから待っていてくれ」




「戦争が近いというのは、こういうものなのかな?」


 スタールの屋敷に向かう途上、クラウスが唐突に呟いた。その呟きにユリカが怪訝そうにクラウスを見た。


「どういうこと?」


「いや、この大陸では何度も戦争が繰り返されてきただろう? 戦争の気配が近づくたびに、当時の人々はどうしていたのかと思ってな。今この時と同じような空気だったのかな?」


 戦争の大陸と呼ばれてきたユースティア大陸。グラーセンやアンネルなど、列強と呼ばれる国はもちろん、歴史に名を残さなかった小さな国でさえ戦争をしてきた。


 クラウスたちが生きるこの時代は、皇帝戦争から数十年の間、戦争が起きていない。その数十年の平和は、大陸全体の歴史から見れば一瞬にも満たない、奇跡のような時間だった。


 クラウスたちにとっては初めて感じる戦争の空気。それはこの大陸に何度も漂ってきた空気だった。


 戦争が近づいた時、人々はどのような表情をしていただろうか? 今クラウスたちが見ているような、この街のような雰囲気だったのだろうか? そんなことをクラウスは考えていた。


「きっと当時は戦争の空気は当たり前にあったんだと思う。その空気を前にしていた昔の人たちは、どんな顔をしていたんだろうな。今の私たちみたいに戸惑っていたのかな?」


 数十年、戦争が起きてこなかったこの時代。しかしそれは戦争の大陸であるユースティア大陸では、むしろあり得ないことなのだ。


「結局人間は、戦争からは逃げられないんだな」


 ある偉人は戦争を、自然災害のようなものと評した。突如吹き荒れる嵐のように、いつか必ず起きるものだと。多くの禍と同じように、人間を逃がすことはないとも。


 戦争は消えてなくなりはしない、たとえ平和になっても、それはすぐ横で静かに眠っているだけなのだ。


 この数日、戦争を前に戸惑う人々を見て、クラウスにも感じ入るものがあった。戦争を恐れる者。戦争の空気に怯え、逃げ惑う者。未来に悲観する者。様々な人がいた。


 今までに何度も戦争は繰り返されてきた。その度に人々は同じような反応を見せていたのだろうか?


 もしそうだとするなら、人間とは矛盾の生き物だ。戦争という災禍を恐れていながら、結局人間は戦争から逃げることができないのだから。


 自分にも人々の不安が感染したのだろうか? そんなことを考え、クラウスはため息を吐いた。


 その時、ユリカが口を開いた。


「そうね。人間は何度も戦争を繰り返してきたし、戦争から逃げることは出来なかったわ」


 何度も繰り返されてきた戦争、悲劇、禍。それに人間は何度も巻き込まれ、多くの血を流してきた。


「だけどね、変わらないこともあるわ」


「変わらないこと?」


 ユリカがにっこりと笑う。


「人間は何度も戦争に遭ったわ。そして、その全ての戦争を乗り越えてきたのよ。それだけは変わることはないわ」


 その言葉と共に、ユリカは満面の笑みを浮かべた。


 この大陸で何度も戦争が起きてきた。大国同士がぶつかり合い、領土の形も変わり、時には滅亡を迎え、歴史用語になった国もあった。


 多くの悲劇を経験しながら、人間はこの大陸の全ての戦争を乗り越えてきた。血で汚れても、傷付いても、人々はそれらを乗り越えてきたのだ。


 そして今、人間は長い戦争の時を経て、この時代を迎えたのだ。


 この大陸で流れた血はそのまま歴史という名の大河となり、その大河の上に人間は繁栄を築いてきたのだ。

「人間は戦争に負けなかった。きっとまた、乗り越えられるわ」


 そう言って笑みを浮かべるユリカ。


 今言ったことは決して正しくも美しくもない。戦争を経験していない小娘の戯言。そう言われても仕方のないことだ。


 戦争は必ず悲しみや憎しみを生む。どれだけ言い繕っても、きれいごとでは済まないのだ。


 それはクラウスにもわかりきったことだ。それなのに、ユリカの自信に満ちた笑みを見ると、何故か彼女の言葉を否定することができなかった。


 彼女が言えばそれが全て正しいように思える。不思議だけど、この少女の言葉にはそんな力があった。


 ユリカがクラウスに手を伸ばした。


「一緒に乗り越えましょう。二人一緒なら乗り越えられるわ」


 その顔を見つめるクラウス。少しだけそうしてから、クラウスも笑いながら彼女の手を握り返した。


「ああ、一緒に行こう」


 その言葉にユリカもにんまりと笑うのだった。




 スタールの屋敷もすでに何度目かの訪問となった。最初は戸惑い気味だったクラウスも、さすがに屋敷の威容に慣れてきた。屋敷に到着して、もう顔馴染みになった女給が出迎えてくれた。二人は女給に案内されて奥の部屋に通された。


「おじい様。ユリカです。入ってもよろしくて?」


「おお、ユリカか。入りなさい」


 入室を促す声。二人はドアを開いて中に入った。


「こんにちは。おじい様。あら?」


 ユリカが不思議そうに声を上げる。何事かとクラウスが中を見ると、意外な人物がそこにいた。


「お父様。どうしましたの?」


 部屋の奥には主であるスタールと、その隣にはヘルベルトがいた。ここにいてもおかしくはないが、確かに意外な人物ではあった。


「やあ、ユリカ。元気そうで何より。それにクラウスさんも一緒だったのですね」


「あ、ど、どうも」


 微笑むヘルベルトを前に、それだけしか返せないクラウス。ヘルベルトは嫌な顔せず笑みを見せていた。


「今日もこちらにいらしたのですね。お仕事はお休みかしら?」


「ああ。仕事も一段落着いたし、少しお話をしに来たんだ。君はどうしてここに?」


「ええ、実はクラウスと一緒に写真を撮ったの。その写真ができたらしいから、取りに来ましたの」


「ああ、最近話題になっている写真か。君も撮ったんだね」


「ええ。どんな仕上がりになっているか、楽しみだわ」


 楽しそうに会話する二人を見て、やはり親子なんだなとクラウスは思った。少しヘルベルトの方が大人しい印象ではあるが、彼も楽しそうにしているように感じていた。


「それでおじい様。写真はどちらにありますの?」


「ああ、ちょっと待ってくれ。今から取りに行こう。ユリカも一緒に来てくれるか?」


 スタールはそう言うと、クラウスに視線を向けた。


「クラウスくんはここで待っていてくれ。ヘルベルトと話でもして楽しんでくれ」


「……え?」


 思わずクラウスは声を上げた。横ではヘルベルトも意外そうな顔をして驚いていた。


「い、いえ閣下。私も一緒に行きましょうか?」


「いや、大丈夫さ。それにこの前はヘルベルトとあまり話せなかっただろう? 少しの間、二人で話すといい」


 それが気遣いなのか、もしくはいつもの悪戯なのかはわからなかった。ただ、スタールは二人に話をしてほしいと考えているようだった。


 ユリカもそのことを察したのか、クラウスに笑みを向けて言った。


「ほら。お父様もお話してみたいって言ってたし、二人でお話を楽しんでちょうだい」


「あ。ああ……そうだな」


 クラウスはそれだけしか答えられなかった。さすがにここで断ることもできるはずがなかった。


「それじゃあ、ちょっと待ってておくれ」


 そうスタールが言い残すと、ユリカと共に部屋を後にした。


 部屋に残されたクラウスとヘルベルト。二人の間に沈黙が漂い始めた。


 何か話すべきだと思った。しかし何を話せばいいのか、クラウスには見当も付かなかった。こういう時、クラウスは自分の性格が嫌になるのだった。


「すいません、クラウスさん。何だか、変な感じになってしまって」


 そんなクラウスの気持ちを察したのか、ヘルベルトが申し訳なさそうに笑ってくれた。


「あ、いえ。こちらこそ、せっかくの家族の時間をお邪魔して、申し訳ありません」


 ヘルベルトの微笑みに、幾分か気が和らぐクラウス。おそらくヘルベルトも、同じように気まずさを感じていたのだろう。彼も苦笑いを浮かべていた。


「どうやら父もユリカも、私たちに気を使ってくれたみたいで、私たちに仲良しになってもらおうとしているようです。ありがたい反面、困りものですね」


 そう語った後、ヘルベルトが部屋の壁に飾られている一枚の絵に目を向けた。


「クラウスさん、絵はお好きですか?」


「絵ですか? まあ、あまり詳しくはありませんが、絵を見るのは好きです。それが何か?」


「こちらの絵。実は私が買ってきたものでして、特にお気に入りの絵なんです」


 ヘルベルトがもう一度、目の前の絵に視線を向ける。


 その絵には一人の男が何かを叫び、手を挙げている様子が描かれていた。その男の周りでは、大勢の人々が拍手をしていたり、拳を突き上げている姿があった。それは軍人であったり、普通の市民であったり、色々な人が一人の男を中心に声を上げていた。


「こちらの絵は昔、アンネルとの戦いを前に国民を鼓舞する、カール国王を描いたものなんです」


 カール国王とは、かつての皇帝戦争で、亡国の危機にあったグラーセンを救った、救国の英雄だった。


 ゲトリクス皇帝率いるアンネルとの戦争に敗北したグラーセンは、領土の割譲などの厳しい講和条約を締結し、国力は大きく減退してしまう。国家も国民も冬の時代を迎えたのだ。


 そんな時代に直面したカール国王だったが、それでも彼は王国の再興を誓い、自ら祖国の復興と改革を主導した。


 彼の改革によりグラーセンは再び国力を高め、ついにゲトリクス皇帝との戦いに勝利し、雪辱を果たすことになる。


 その絵には国民や軍隊に語り掛けるカール国王が描かれていた。国王がアンネルとの再戦を前に国民に演説をし、共に戦うことを求めている様子だった。


 この演説により国民は団結し、アンネルとの戦争に勝利することになるのだ。


 その絵を見ながらヘルベルトが語った。


「色々な絵を買うのが私の趣味でして、こちらの絵も一目で気に入ったんですよ。クラウスさんはどうですか?」


 クラウスが絵を見た。この国の運命を決した歴史的瞬間。それを描いた一枚の絵画。クラウスはその絵を前に、不思議な感動を覚えた。まるで自分がその演説を聞いているような、そんな感覚を覚えていた。


「私が言っていいのかわかりませんが……とてもいい絵だと思います」


 素直な感想だった。もっといい言葉が言えればいいのに、クラウスはそれだけしか言えない自分が恥ずかしかった


 ただ、その答えが嬉しかったのか、ヘルベルトは嬉しそうに笑った。


 しばらく無言で立っていると、ヘルベルトが口を開いた。


「クラウスさん。あなたにはお礼を言わないといけません」


「え……? お礼ですか?」


 唐突なヘルベルトの言葉にクラウスは首を傾げた。一体何のことだろう?


「失礼。何かお礼を言われるようなことを、私はしましたでしょうか?」


「ええ。あなたはユリカをずっと守ってくれました。心より、お礼を申し上げます」


 そう言って、ヘルベルトは深々と頭を下げた。戸惑うクラウスにヘルベルトは優しい微笑みを浮かべた。


「この前ユリカから、あなたのことをたくさん聞きました。色々なところを旅してきたこと。たくさん助けられたこと。からかったり悪戯すると面白いところも、あなたの魅力をたくさん教えてくれました」


 一体ユリカがどんな話をしたのか、クラウスは気になった。変なことを言ってなければよいのだが。


「クラウスさん。ユリカとは色々とお話をしたと思いますが、あの子が昔、軍人に憧れていたという話を聞いたことはありませんか?」


「え、ええ。確かにそんな話をしたことがあります」


 彼女と初めて会ったアンネルで、ユリカは幼い頃の話をしてくれた。軍人に憧れていたこと。だけど女では軍人になれないことを知って、ベッドで泣いたことを教えてくれた。


「クラウスさん。あの子と一緒にいたあなたならわかると思いますが、ユリカはこの国が大好きなんです。軍人になってこの国のために働きたいと願うほどに、彼女はこの国を愛しているんです」


「……それは、よく知っています」


 彼女をずっと見てきたクラウスは、彼女の愛国心の強さを何度も見せつけられた。何度も思い知らされた。愛国者の名が最も相応しい人だと思った。


「そんなあの子が参謀本部で軍人になると言われた時、私も妻も不安でした。何か危険な目に遭わないか。そんなことばかり考えていました。きっと彼女は、祖国のためなら命を捧げることも厭わないでしょう。でも、私も妻もそんなことは望んでいませんでした」


 とても寂しそうな言葉を紡ぐヘルベルト。父として、愛する娘を持つ者として、当たり前の反応だった。


 そんな彼の反応を見て、クラウスは気になっていたことを思い出した。クラウスはヘルベルトに問いかけた。


「ヘルベルトさん。あなたはもしかして、ユリカに除隊を勧めるためにこちらに来たのではないですか?」


 他の人たちと同じように、ヘルベルトも彼女の除隊を望んでもおかしくはない。むしろ当然のことだった。


 クラウスの問いかけにヘルベルトは笑顔を向けてきた。


「正直を申しますと、除隊してほしい気持ちはありました。ですが、そんな考えは吹き飛んでしまいましたよ」


 清々しい笑みを浮かべるヘルベルト。その答えにクラウスは怪訝な顔をした。


「吹き飛んだとは、何があったのですか?」


 そんなクラウスの質問を受けて、ヘルベルトはにっこりとクラウスを見つめた。


「あなたですよ。クラウスさん」


「……はい?」


 いきなり何を言われたのか、クラウスは理解できなかった。そんなクラウスを前にヘルベルトがさらに話し続けた。


「ユリカが言っていました。あなたと色々な旅をしてきたと。危険なこともあったし、大変なこともあったと。だけど、あなたが助けてくれたし、あなたがいてくれたから、今も旅を続けられると」


 クラウスとユリカが出会ったのはアンネルでの暗い夜だった。それから二人は多くの旅をしてきた。アンネルではユリカを助けるために奔走し、ビュルテンでは暗い洞窟を二人で歩いた。シェイエルンでは命の危険もあった。


 だけど、どれだけ危険な目に遭っても、二人の旅は終わらなかった。それは二人で並んで歩いたからだ。


「ユリカが言っていました。帝国が再び統一したら、あなたとみんなで、お祝いをしようと。帰ったらみんなでお祝いしようと」


 ヘルベルトの瞳がクラウスを捉える。そこには感謝と喜びの結晶が滲んでいた。


「もしあなたに出会っていなければ、あの子はそんなことは言わなかったでしょう。あなたがいてくれるから、あの子は帰ってくると言ってくれました。だから、あなたにはありがとうと、言わせてください」


 その言葉にクラウスは戸惑うばかりだった。自分がいることで、何かが変わっただろうかと。正直、彼は自分が何かできただろうかと、そればかり考えるのだった。


「いや……自分は何もやっていません。ただ一緒に旅をして、一緒に歩いてきただけです」


 そう答えるクラウスだが、それで十分だとヘルベルトが言った。


「それだけでいいんです。あの子の隣に誰かが並んで歩いてくれる。それだけで私はありがたいのです。それに、あの子は言ってくれました。絶対あなたと一緒に帰ってくると」


 その言葉が一体どんな意味を持っていたのか。ヘルベルトがまた笑みを零した。


「その言葉で私も覚悟ができました。あの子が戦いに赴くのなら、私はあの子の帰りを待つことにします。あの子の帰りを待つことが、私たちにとっての戦いになるのです」


 それはとても不安な戦いに違いなかった。大切な人が帰ってきてくれるのか。無事でいてくれるのか。そんな不安なことを考える毎日。それがどれほど辛く厳しいものか、想像できるものではない。


 だけど、ユリカの言葉はヘルベルトに勇気を与えたのだ。そして、大切な人を待つという戦いに赴く覚悟を与えたのだ。


 それはきっと、とても大事なことなのだ。


 そこまで言い終えて、ヘルベルトがもう一度クラウスを見た。


「クラウスさん。あなたも無事に帰ってきてください。戦争が終わったら、もっとあなたとお話させてください。あなたのことを、色々教えてください」


 微笑みを向けてくるヘルベルト。安らかで不安のない微笑み。


 ヘルベルトに言われて、クラウスは不思議な安心感を覚えた。帰ってきてほしい。そう言われるだけで、彼はここに戻ってくることができると思えるのだった。


「あまり、楽しいお話は出来ませんよ。それでも大丈夫ですか?」


 クラウスの答えにヘルベルトはニッコリと笑った。


「ハルトブルク自慢のビールなら、どんなお話でも楽しくなります。お待ちしてますよ」


 そうして部屋に二人分の笑い声が響いた。心地良い、穏やかな空気。二人の間には、満ち足りた幸福が流れるのだった。


「やあ、待たせたね二人とも」


 その時、スタールとユリカが部屋に戻ってきた。ユリカが楽しそうに笑うクラウスたちを見ると、彼女も楽しそうに笑い出した。


「お待たせ。何だか楽しそうね。どんなお話をしていたのかしら?」


「ああ、クラウスさんとは君のことを話していたよ。君のことをとても可愛いと誉めていたよ」


 思わずクラウスがぎょっとする。そんな冗談を言い出すとは思っていなかったので、ヘルベルトの言葉に耳を疑った。


「あら? そうなの? いつもは素っ気ない態度なのに、本当はそう思ってくれていたなんて、とても嬉しいわ」


「きっとクラウスさんはシャイなのですよ。許してあげてください」


 そんな風に語り合うユリカとヘルベルト。とても楽しそうに話している二人を見て、呆れつつもクラウスも嬉しそうに笑うのだった。


「あ、そうそう。写真持ってきたわよ。ほら」


 ユリカがそう言うと、その手に握られていた便箋から写真を取り出し、机の上に並べた。


 クラウスが感嘆の声を上げた。そこには確かにクラウスとユリカの二人が写っていた。


「これは……本当にすごいな。確かにあの日の私たちが写っている」


「ね? すごいでしょう? それにアントンさんも腕がいいから、綺麗に撮れているわ」


 楽しそうにはしゃぐユリカ。そのすぐ横からスタールも自分の写真を取り出した。


「いやあ、私もアントンさんに何枚も撮ってもらってね。これなんかお気に入りの一枚だが、どうかな?」


 そういえばスタールも写真が好きになって、アントンに何枚か撮ってもらっていると聞いていた。確かにスタールの写真を見れば、写真がお気に入りになるのも頷けた。


「ふふ、将来おばあさんになっても、私は綺麗だったのよって証明できるわ」


「ははは。それなら写真は必要ないだろう。君はずっと綺麗なままだろうから」


「あら。お父様ったら」


 そんな軽口を叩きながら、ヘルベルトがもう一度写真を見つめた。


「いや、しかし本当にすごいね。私は絵の方が好きだけど、写真の素晴らしさは認めないといけないね。そうだ。写真って何枚でも作れるのかな?」


「ええ。何て言ったか、フィルムだったかしら? それがあれば同じ写真が何枚でも作れるらしいわ。それがどうかしました?」


「いや、できれば同じ写真を作ってくれないかな? 妻へのお土産に何枚か持って帰りたいのだけど、できるかな?」


 その言葉にユリカも笑みを浮かべた。


「あら、いいわね。素敵だわ。どうせならお父様も一緒に写った写真も撮りましょうよ。お母様、きっと喜ぶわ」


「ああ、なるほど。それもいいかもしれないね」


 楽しそうに語るユリカとヘルベルト。こんなにも楽しそうにしているユリカも久しぶりだった。


 それに、確かに写真はいいお土産になるだろう。遠く離れた人にも自分のことを伝えることができる。それに何枚でも同じ写真が作れるのだ。遠い人、たくさんの人に写真を伝えることができる。それはとてもすごいことなのだとクラウスは改めて実感していた。



 その事実に気付いた時、クラウスが勢いよく顔を上げた。



「……? クラウス?」


 クラウスの異変に声をかけるユリカ。しかし反応はない。


「どうしたんだね? クラウスくん」


 スタールも声をかける。しかしクラウスは何も返事をしなかった。


 ヘルベルトも怪訝そうに見つめる。


 その時、クラウスが壁にある絵を見た。かつてカール国王が国民に演説した時の場面を描いた作品。


 その光景、瞬間を描いた絵画。


 そうして、クラウスの中に一つの考えが浮かび上がった。


 それは、世界を変えることのできるものだった。


「閣下。今からお願いしたいことがあります。上手くいけば、国内の世論を一気に味方に付けることができるかもしれません」


 クラウスの言葉にスタールもユリカも顔色を変えた。クラウスが何を思い付いたのか、彼らはクラウスの顔を見つめた。


「一体、どうするというのかね?」


 するとクラウスがニヤリと笑った。彼に似つかわしくない笑みを浮かべながら、クラウスは言い放った。


「我々は、世界が変わる瞬間に立ち会うかもしれません」


 それからクラウスは自分が思い付いた作戦を説明し始めた。


 その内容にスタールは納得したように頷き、ユリカは口を押えて驚いていた。


 その横で聞いていたヘルベルトは、信じられないといった様子でクラウスを見た。


 その反応もクラウスには理解できた。正直、自分でもこの作戦はとんでもないものだと自覚していたからだ。

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