第三章 世界の果てまで

 翌朝、いつものように起床ラッパで目覚めるクラウス。ただ、この日は眠りが悪かったのか、あまり良い目覚めとは言えなかった。


 理由は明らかだった。昨日フェリックスに言われた一言が原因だった。


 ユリカも、父親から除隊を求められているのではないか。フェリックスの何気ない一言だが、それがクラウスの心に重くのしかかっていた。


 フェリックスにとっては根拠のない、冗談のような呟きだっただろう。だが、クラウスにとっては無視できない話だった。


 多くの将兵が同じような悩みにあっている中、ユリカに同じことが起きていないと断言できなかった。むしろこの時期に父親が会いに来たのだ。娘を心配するあまり、ユリカを除隊させようと説得しに来たとしても、おかしくなかった。


 もしそうだとするなら、ユリカはどうするのだろうか?


 いや、彼女のことだ。この時期に除隊などするはずがない。だが、父親の強い説得にあったとして、彼女に迷いが出ないと言えるだろうか?


 もし彼女にそんな迷いが生じてしまったら、彼女はどうなってしまうだろうか?


 そのことがクラウスには心配だった。


 一回ため息を吐く。この日は数少ない休日。休日の始まりがため息であることに、クラウスは気が重くなった。


 それでも、気が重かろうとなかろうと一日は始まる。クラウスは身支度を整えることにした。


 身支度を整え、顔を洗ったところで、クラウスの部屋にノックの音が響いた。


「ただいま。クラウス」


 ドアを開けて入って来たのはユリカだった。とても清々しい笑顔で入ってくるユリカを見て、目を丸くするクラウス。その反応にユリカがキョトンとした。


「どうしたの? 私の顔に何かついているかしら?」


「あ、いや。そうではない。大丈夫だ」


 そう答えるクラウスだが、正直彼は驚いていた。さっきまで大丈夫だろうかとユリカを心配していたが、その彼女が満面の笑みで入って来たのだ。肩透かしというべきか、予想とは違う彼女の姿にクラウスは驚いていた。


「なんだか、楽しそうだな」


「ええ、久しぶりにお父様とも会えたし、おじい様と三人で食事できて楽しかったわ」


 その言葉にクラウスはさらに驚く。今の話からすると、父親はユリカを説得しに来たのではないのだろうか?


「そうか。それはよかった」


 まだ戸惑いを感じつつも、クラウスはそれだけ呟いた。ただ、そんな彼の反応に何かを感じ取ったのか、ユリカが詰め寄ってきた。


「どうしたの? 何か悩みでもあるのかしら?」


「いや、えっと」


 その時、クラウスは昨日のフェリックスのことを思い出した。


「実は昨日、フェリックス大尉と会ったんだが、彼も少し悩んでいるようなんだ」


 それからクラウスは、昨日のフェリックスとの話をユリカに説明した。婚約者に除隊を説得されていること。除隊などできないと悩むフェリックス。恋人への想いと職務への責任との板挟みに悩むフェリックス。話を聞いていたユリカも辛そうな顔をした。


「そう。フェリックス大尉も……」


「ああ。大尉も真面目な人だから、大層悩んでいたよ」


 あの時のフェリックスは悲しそうな顔をしていた。あの顔を思い出すと、クラウスは胸が締め付けられる思いだった。


「あなたは何て言ってあげたの?」


 ユリカが問いかける。クラウスはおぼろげな記憶を拾い上げる。


「まあ、少なくともそんなフェリックス大尉を相手は選んだんだろうし、大尉は胸を張っていいと思うとは伝えたが……」


 正直、その言葉が慰めになったかはわからなかった。もう少し気の利いた言葉があったのではないかと、今さらながらクラウスは考えてしまう。


「ふーん……」


 そのクラウスの答えを聞いたユリカはニコリと笑った。


「まあ、合格かしらね?」


 その言葉にキョトンとするクラウス。ユリカはさらに続けた。


「そうね。少なくとも、大尉も元気になったと思うわよ」


「……そうかな。そうだといいんだが」


 今でも自信がないのは確かだった。だが、ユリカがそう言ってくれるのだ。それだけでもクラウスには安心できるのだから、不思議なものだった。


「でも、本当にそれだけかしら?」


 するとユリカがもう一度クラウスに向き直った。


「あなたが悩んでいるのは、本当にそれだけかしら?」


 ユリカの瞳が真っ直ぐにクラウスを射抜く。その瞳に捕らえられ、クラウスは思わずたじろいでしまう。


 クラウスに言い逃れは出来なかった。彼は本当に悩んでいることをユリカにぶつけてみた。


「君は大丈夫なのか? その、ヘルベルトさんから何か言われていないのか?」


 そのクラウスの言葉に、ユリカは何のことかと一瞬理解できずにいた。かと思うと彼女はニンマリと笑みを浮かべた。


「私のこと、心配してくれていたのかしら?」


「ああ。まあそんなところだ」


 思わず目を逸らすクラウス。その反応を見て、ユリカが笑い出した。


「あなたって、本当に優しいわね。こっちが心配になるくらい」


 何故そっちが心配するのだろうか? 疑問が浮かぶクラウスだが、そんな彼にユリカが答えてくれた。


「大丈夫よ。お父様からは特に何も言われていないわ。普通に楽しくお話してきただけよ」


「そう、なのか?」


 そう問いかけるクラウス。今の彼女の顔を見ると、少なくとも嘘ではなさそうだった。


「それならいいが、どんな話をしたんだ?」


「あら? 聞きたい?」


 その時、ユリカの顔がいつもの悪戯な笑みになったのをクラウスは見た。嫌な予感がするクラウスをユリカは逃がさなかった。


「色々な話をしたわ。特にあなたと冒険した時のことは、話していてとても気持ちよかったわ」


「……待ってくれ。私の話をしてきたのか?」


 思わず口を挟むクラウス。ユリカは面白そうに彼を見た。


「あなたがどれだけカッコよかったか、ちゃんと話しておいたから」


 一体彼女は父親に、自分のことをどんな風に話したのだろうか? 気にはなるが、怖くて聞けないクラウス。そんな彼の反応を楽しみながらユリカが言った。


「今度はあなたも一緒に食事をしましょう。お父様ともお話してあげてね」


 そのお誘いにクラウスは何も答えることができなかった。


 ヘルベルトにどんな顔をして会えばいいのだろうか? クラウスにまた新たな悩みができてしまうのだった。


「あ、そうそう。今日は休みだけど、何か予定はあるのかしら?」


「いや、私は特に何もないが」


「ならよかった。今日は私と出かけない? 一緒に来てほしい所があるの。いいかしら?」


 まるでお出かけをせがむ子供のように誘うユリカ。


「別にかまわないが、どこに行くんだ?」


「秘密。来てからのお楽しみよ」


 楽しそうに笑うユリカ。こういう時の彼女は何か企んでいそうで不安ではあるのだが、何も用事がないのも事実なので、クラウスには断る理由がなかった。


「大丈夫よ。あなたもきっと楽しんでくれると思うわ」


「そうか。それなら楽しみにしておくよ」




 ユリカに連れられて向かったのは、オデルンの外れにある商店街で、中心部とは一味違う、趣のある街だった。


 いい街ではあるのだが、正直クラウスには意外だった。ユリカに誘われるままにここに来たが、こんな場所だとは思っていなかったのだ。


「さあ来て。こっちよ」


 そのユリカはとても楽しそうに歩いていた。今から行く場所に早く行きたいと、その瞳が語っていた。


「着いたわ。ここよ」


 そう言ってユリカが立ち止まったのは、どこにでもある普通の店だった。


 店の名は『アトリエ・アントン』とあった。


「なんだ? 画廊に用があったのか?」


 アトリエと名が付くのは大抵画廊と相場が決まっていた。きっとこの店もそうなのだろうとクラウスは拍子抜けしていた。


 その反応を見て、ユリカがニタリと笑みを浮かべていた。


「なんだ? 何かおかしいのか?」


「ふふ、いいからいいから。中に入りましょう」


 わけがわからぬまま、クラウスはユリカと一緒にアトリエへと入った。


「……え?」


 その光景を目の当たりにした瞬間、クラウスは息をするのも忘れてしまった。ショックのあまり、その場に立ち尽くしてしまった。


 店に入ると、店内の壁一面に絵が飾られていたのだ。いや、ただの絵ならそこまで驚くことはないだろう。


 ただ、そこにある絵があまりにもリアル過ぎたのだ。まるで本物の人間が絵の中にいるのではないかと、そう思えるほどにリアルな絵だったのだ。


 それらが壁一面に飾られているのだ。その光景にクラウスは圧倒されていた。


 そんな彼の反応が予想通りだったのか、ユリカはクツクツと笑うのだった。


 店内には何人かの店員と幾人かの客がいた。絵を買いに来たというより、何か相談に来ているようだった。


「いらっしゃいませ。アトリエ・アントンへようこそ」


 そんな二人に、店主と思しき男が声をかけてきた。


「はじめまして。当アトリエのオーナー。アントン・ヴェルナーです」


 柔らかな微笑みを浮かべるアントン。スーツを着た紳士で、宝石商や画廊をやっていそうな印象の持ち主だった。そのアントンが笑みを浮かべながら口を開いた。


「写真を見るのは初めてですか?」


「写真?」


 クラウスは初めて聞く言葉に首を傾げた。クラウスの反応を見て、アントンがその場にある写真を一枚手に取った。


「最近普及し始めた新しい技術なんです。我々が見ている光景を、そのまま紙に写し出すことができるのですよ。人やモノ。目に映るものなら、こんな風に写真にすることができるんです」


 アントンはそう言って、手に持っている写真を掲げて見せた。そこには笑顔で佇む婦人が写し出されていた。まるで写真の中から笑いかけられているようだった。


「まさかこんな技術ができていたとは……驚きました」


「そうですね。写真そのものは何年も前にあったのですが、技術的に未発達で、普及するには程遠い代物でした。こうして手軽に写真を撮ることができるのも、つい最近になってからですよ」


 改めてクラウスは壁に飾られている写真を見つめた。そのほとんどは人を映したもので、中には街の風景を撮ったものもあった。


「ね? すごいでしょう? 私もおじい様に教えられて驚いたのよ」


「ああ……確かにすごいな。こんな技術ができていたなんて、知らなかった」


 クラウスは素直に感心していた。まるで世界そのものを切り取り、紙に写し出すかのような技術など、想像もしていなかった。実家の父親に話しても、信じてくれるとは思えなかった。


「おや? そちらのお客様はすでにご存知でしたか?」


「はい。実は我が祖父のスタールに教えられて、ここに来ましたの」


「ああ! ではあなたがユリカ様でしたか! ようこそ我がアトリエへ」


 アントンが嬉しそうに手を差し出す。ユリカもその手を握り返した。


「なんだ? 閣下もここに来ていたのか?」


「ええ、そうなのよ。昨日おじい様と話した時、写真のことを教えてくれたの。おじい様もここで撮った写真を見せてくれたわ。私もお父様もびっくりよ」


 なるほど。確かにあの新しもの好きなスタールなら、写真のことを知ったら喜びそうだった。何せ鉄道が普及し始めた頃から、我先にと鉄道で旅行に出ていたというくらいなのだ。写真という新しい技術も、スタールなら面白がるに違いなかった。


 クラウスがそんなことを考えていると、ユリカが笑みを浮かべて語り掛けてきた。


「それでね。今日はここで二人の写真を撮ってもらおうと思うの」


「え? 私たちの写真を?」


 ユリカからの意外な提案に、クラウスが戸惑いを見せた。


「えっと……どうしたらいいんだ? 何か準備をした方が良かったか?」


 その反応が面白いのか、ユリカもアントンも笑い出した。


「大丈夫ですよ。ただポーズを決めてくれれば、それを私が撮影するだけです。数分で終わりますよ」


「ほら、怖いことは何もないわ。記念に撮りましょう」


「そ、そうか。それなら」


 クラウスはまだ戸惑い気味ではあるが、ユリカの誘いを受けることにした。


 二人はアントンに連れられて、スタジオと呼ばれる場所に案内された。何もない、少し広いスペース。そこが写真を撮影するための場所らしく、そこでポーズを決めるよう指示された。


「ポーズ、ですか……どんなポーズが良いでしょうか?」


「どんなポーズでもいいんですよ。たとえば二人並んで笑ってもいいですし、手を握ってもいいですし。何だったら見つめ合ってもいいんですよ」


「いや、さすがにそれは……」


「ふふ、変なの」


 恥しそうにするクラウスにユリカが面白そうに笑う。


「ほら、私に任せなさいな」


 そう言って、ユリカがクラウスの手を取った。ここはこうした方がいい。そこはこうしてみようなどと、ユリカが細かく指示を出す。クラウスはユリカに言われるがまま、彼女の言うとおりにポーズを取った。


 そんな二人のポーズを見て、アントンが嬉しそうに笑った。


「素晴らしい。それでいきましょう」


 アントンは手元にある写真機を構え、二人をレンズに捉えた。


「はい。そのままでいいですよ。3・2・1で撮りますよ」


 アントンの写真機が二人を睨む。思わず緊張するクラウス。するとユリカが声をかけてきた。


「ほら。笑って。せっかくの色男が台無しよ」


「あ、ああ。わかった」


 ユリカに言われてクラウスは笑みを浮かべる。横に並ぶユリカも微笑む。準備ができたのを見計らって、アントンが何か機材を持ち上げて、二人に話しかけた。


「それでは、3・2・1.はい!」


 フラッシュと呼ばれる眩い光が二人を照らす。アントンはさらにフラッシュを焚き続け、写真を撮り続けた。


「はい。ありがとうございます。いい写真が撮れたと思いますよ」


「それはよかった。美人になっているといいのですけど」


「大丈夫。写真は真実を写し出すものですから。お嬢様の美しさも完璧に撮れてますよ」


 楽しそうに話すユリカとアントン。それを見つめながら、クラウスは変に疲れた気分だった。


「それで、現像……写真にするには時間がかかりますが、どうします? どこかにお送りしますか?」


「あ、それならおじい様の屋敷に送ってもらってもいいかしら?」


「わかりました。楽しみにしていてください」


 アントンと話し合うユリカ。その二人をよそにクラウスが壁に飾られている写真に目を向けた。


「しかし、本当にすごいですね。これなら画家に肖像画を依頼する必要がなくなりますね」


「そうですね。実際に肖像写真を目当てにここを訪れる人も多いですからね。昔は撮影に二十分以上必要だったのですが、今では数秒で撮影できるようになりました。絵画と違い、自分の姿を永遠に写真に残すことができるのです。素晴らしいことだと思いますよ」


 確かに絵画で肖像画を描くにしても、その人物の真実にどこまで近づけるかは、画家の腕に頼らざるを得なかった。だが、この写真機さえあれば、画家のように絵の具や技術を持たなくても、誰もが写真を撮ることができるのだ。


 これでは画家が仕事を失うことになるだろう。クラウスがそんなことを考えていると、アントンがさらに口を開いた。


「ですが、私はこの写真はもっと別の価値があるように思います」


「別の価値、ですか?」


 アントンはそう言うと、一枚の写真を手に取った。そこには街の公園の風景が写し出されていた。


「この写真は街の外れにある公園で、一週間前に撮影したものです。これはその瞬間にあった光景で、遠く離れた場所、遠い過去にあった世界です。それをこの写真が、私たちに伝えてくれるのです。それは、とてもすごいことなんだと思うのです」


 確かにアントンの言うとおり、その一枚の写真は、クラウスたちが知り得るはずのない事を教えてくれた。自分たちの知らない場所で、会ったことのない人たちがそこにいた。写真は自分たちが知るはずのない、この世界の真実を自分たちに伝えてくれるのだ。


「ここにある肖像写真や、風景写真も確かに写真の力でしょう。でも、それはあくまで芸術としての写真の力です。おそらく、写真はこれから

の世界を大きく変えると思いますよ」


 かつて人類史の中で、世界を変えた技術は確かにあった。活版印刷はそれまで限られた人にしか届かなかった書物や文章を、大量印刷によって遠く彼方にいる人にも届くことができるようにした。


 天文学はこの世界の真実の姿を描き出し、航海術は人々を遠い世界へと羽ばたかせた。


 科学史において世界を変えた技術は幾度も生まれてきた。もしかしたら写真も、人類と世界を大きく変えるかもしれなかった。


「私の写真が何を成すかはまだわかりませんが、これからもどんどん写真を撮り続けたいと思いますよ」


 そう語るアントンの顔は輝いていた。きっと世界を変えてきた人間は、こんな顔をして未来を見つめていたに違いない。クラウスはそんな風に考えていた。




「写真か……本当にすごい技術だな。驚きだ」


 店を出てからクラウスはずっと写真について話していた。彼にとっても写真という技術は驚きであり、その衝撃が頭から離れずにいた。


「ね? 来てよかったでしょう? きっと気に入ると思ってたわ」


「そうだな。来てよかったよ。そういえばスタール閣下も来たことがあるのか?」


「ええ、そうよ。自分の肖像写真を自慢してくれたわ。それを見たら私も撮りたくなって、ぜひあなたと一緒に撮りたかったのよ」


「そうか。それは光栄だな」


 二人で楽しく話しながら、クラウスはアントンの店で見た多くの写真を思い出す。


 まるで世界そのものを切り取ったかのような一枚の紙切れ。その一枚は確かにこの世界に存在した一瞬の光景であり、遠く離れた人にも届けることができるのだ。その意味を知り、クラウスは改めてその価値を感じ取った。


「確かにアントンさんの言うとおり、写真は世界を変えるかもしれないな」


 クラウスの何気ない呟き。それを聞いたユリカが小さく笑う。


「世界が変わる瞬間は、いつもこんな風に訪れたのかもしれないわね」


 産業革命が始まってから、世界は劇的に変わった。蒸気機関は世界を大きく突き動かし、鉄道は人々の世界をさらに広くしてくれた。想像しかできなかった世界の果てへも、人類は行くことができるようになった。


 今こうしている間にも世界は大きく変わりつつある。それをクラウスは実感したのだった。


「本当に技術の進歩には驚かされてばかりだ。こうしている間にも、新しい技術が発明されて、科学が発展していく。すごいことだ」


「本当にね。もしかしたらいつか、空を飛べるようになるかもしれないわね」


 空想じみたことを呟くユリカ。さすがにクラウスも笑ってしまった。


「さすがにそれはないだろう。空を飛ぶなんて、魔法の絨毯でもないと不可能だ」


「あら? そんなことはないわよ。だって、今の科学は空想の魔法だって乗り越えているのよ。魔法の絨毯がなくても、人類はきっと空を飛ぶことができるようになるわ」


 そう答えるユリカに、クラウスは否定する言葉がなかった。彼女の言うとおり、科学技術は空想やお伽話の世界を乗り越えてきた。。彼女の言うとおり、いつか人間は空を飛べるようになるかもしれない。その時は、魔法の絨毯を夢見る必要がなくなるのだ。


「もし空が飛べるようになったら、きっとおじい様は楽しいでしょうね。おじい様なら世界の果て、いえ、もしかしたらこの空の彼方に行くかもしれないわ」


 そんな彼女の言葉につい笑ってしまうクラウス。喜び勇んで空を飛ぶスタールの姿。そんな光景が容易に想像できてしまうのだから、余計おかしかった。


「確かに閣下なら、世界の果てまで飛んでいくだろうな」


 クラウスは空を見上げた。もしかしたら彼なら、この空の向こう側まで行ってしまうかもしれない。誰も見たことがない世界まで。


「ねえ? クラウス」


 その時、ユリカが声をかけてきた。クラウスが顔を向けると、彼女はニンマリと笑って彼を見ていた。


「もし空が飛べるようになったら、一緒に飛んでくれる?」


 いつものように微笑みを浮かべるユリカ。クラウスがどんな答えをくれるのか、楽しみにしているようだった。


「……そうだな。私でよければエスコートさせてもらおう」


 クラウスが手を差し出した。


「この空に何があるのか、一緒に見に行こう」


 差し出されたクラウスの手を、ユリカがにっこり笑いながら握り返した。


「ふふ。まあまあだったわよ」


 自分としてはがんばったと思っていたクラウスは、彼女の意外な辛口評価に肩をすくめた。


「相変わらず君は厳しいな」


「あら? あなたならもっとカッコよくできるはずよ。もっとがんばってほしいっていう気持ちの現れよ」


 そんなユリカの言葉にクラウスは笑みを返した。


「ありがたい御言葉だな」




 クラウスたちはそれから街を歩き回った。特に用事もないので、適当に散策することにしたのだ。


「あまりこっちの方は来たことがないわね。あなたは来たことがある?」


「いや、私も初めてだ。まだまだこの街は、知らない場所があるのだな」


 王都・オデルン。今も発展を続ける大都市であり、多くの人間が住む街である。これだけ大きな都市なら、全て見て回るのも難しいだろう。二人は今、比較的新しくできた住宅街へやって来ていた。


 まだここに住む人が少ないのか、閑静な住宅街となっていた。


「静かでいい場所ね。こういう所も好きだわ」


「ん? そうなのか? もっとにぎやかな場所が好きだと思っていたが」


「そうね。にぎやかなのもいいけど、静かでゆっくりできるのも悪くないと思うわ」


 彼女の言葉を意外に感じるクラウス。すると、ユリカが顔を向けてきた。


「たまにでいいから、また来ましょう」


「そうだな。またいつか来るとしようか」


 そんなことを語り合う二人。静かで穏やかな時間を楽しむ二人。



 その穏やかな時間は突如、一発の銃声で破られた。



 静かな街に鋭い銃声が鳴り響いた。


「何だ!?」


 クラウスが周りを見る。周囲にいる人々も何事かと、視線を右往左往させる。


「あそこから聞こえたわ!」


 ユリカが指差したのは、すぐ横にあるアパルトマンの二階の部屋だった。耳を澄ますと、そこから何か物音も聞こえてきた。


 クラウスは何も言わず、すぐに駆け出した。それに続くようにユリカも走り出す。


 階段を駆け上がり、銃声のした部屋へと駆け込む。二人はその光景に息を飲んだ。


 一人の男が血を流して倒れていた。男は軍服を着こんでおり、足の部分が赤く染まっていた。その男の向こうでは、女性が一人、銃を握って立ち尽くしていた。銃口からは煙が流れ出しており、何が起きたかを如実に語っていた。


「大丈夫!?」


 ユリカが男へと駆けよる。男は足から出血しており、ユリカがすぐに応急処置を始めた。クラウスはそのまま銃を持った女へ近寄る。女から銃を取り上げると、彼女はその場に座り込んでしまった。


 見れば女性は今にも泣き出しそうだった。痴情のもつれか、何か言い争ったのだろうかと、クラウスはそんな風に思い込んだ。


「どうした!? どうしてこんなことを!?」


 怒るように問い詰めるクラウス。しかし女性は何も答えなかった。その代わりに倒れている男が声を上げた。


「やめてくれ……彼女は、何も悪くないんだ……」


 女性を守るように言葉を紡ぐ。その言葉に反応したのか、女性が口を開いた。


「……仕方なかったのよ。彼を助けるには、こうするしか……」


 クラウスが怪訝な顔をする。助けるとはどういうことなのか? 要領を得ない二人の言葉。すると女性が叫ぶように言った。



「彼を戦争に行かせないためには、こうするしかなかったのよ!」



 その言葉にクラウスは衝撃で頭が真っ白になった。それを聞いていたユリカも驚愕していた。


 警察官たちがやって来たのは、間もなくのことだった。

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