第四章 取引

「クラウスさん! お嬢様! ご無事ですか?」


 ドアを勢いよく開いて、アイゼンが叫んだ。そんなアイゼンを、椅子に座っているクラウスたちが苦笑いを浮かべて迎えた。


「大丈夫ですわ。アイゼン大使。どこも怪我はありません。ねえ? あなた」


「はい。ご心配をおかけして、申し訳ありません」


 そんな二人の言葉を受けて、アイゼンがほっと胸を撫で下ろす。余程心配だったのか、近くにある椅子にドカッと座り込んだ。


「よかった……美術館で爆発事故が起きたと聞いて、寒気がしましたよ。しかも病院に運ばれたというから、驚きました」


 今、クラウスたちがいるのはパブロフスクにある病院だった。クラウスたちはその一室で体を休めていた。病院には他にも爆発事故の怪我人が運ばれている。クラウスたちも怪我はしていないが、現場に居合わせたということで、念のために病院に運ばれたのだ。


 アイゼンはほっとしたところで、改めてクラウスたちに向き直った。


「それで、爆発が起きたということですが、何があったか詳しく聞かせてくれませんか?」


 その問いかけにクラウスが戸惑いを見せる。どう説明すればよいのか、彼の中で整理ができていないのだ。


 その時、誰かがドアをノックした。医者だろうかと思い、クラウスがどうぞと声をかけた。


 ドアを開いて入室する人物を見て、クラウスもアイゼンも同じように驚いた。


「よかった。お二人とも、何事もなかったようで何よりです」


 そう言ってハープサル大臣が微笑みを浮かべる。大臣が病院の一室を訪ねるという光景にも驚くが、しかしそれ以上に二人は大臣の後ろにいる人物に驚いていた。


「へ、陛下!?」


 ハープサルの後ろにはフォードル皇帝がいた。ハープサルに続くように部屋に入ってくる皇帝に驚き、アイゼンがその場に起立する。それに倣うようにクラウスとユリカも立ち上がった。その様子にフォードルは手を振った。


「ああ、そのままでいい。自由にしてくれ」


 皇帝から許しを受けるも、さすがにクラウスもアイゼンも戸惑いを見せる。


 そんな中、ユリカだけは堂々とした態度を見せた。


「ありがとうございます。それでは、失礼して」


 微笑みながら椅子に着席するユリカ。クラウスたちはまだ戸惑っているが、彼女が座るのを見て、自分たちも着席した。


 その時、フォードルの視線がユリカに向かう。


「そちらはハルトブルク家の御令嬢、ユリカ殿だったかな?」


 フォードルの言葉にニッコリと微笑むユリカ。とても嬉しそうにはにかんだ。


「お初にお目にかかります。スタールの孫娘、ユリカ・フォン・ハルトブルクにございます」


 ユリカに倣い、クラウスも名乗りを上げる。


「自分はクラウス。クラウス・フォン・シャルンストと申します。陛下」


「クラウス殿か……今日は色々と助かった。礼を申し上げる」


「あ、いや。もったいない御言葉です。陛下」


 皇帝直々の言葉に戸惑うクラウス。病院の一室で、アスタボの皇帝と言葉を交わすなど、誰が信じてくれるだろうか? クラウスは自分でも信じられない気分だった。


「ハルトブルク家、それにスタール殿のことはよく知っている。言ってくれれば歓迎したというのに」


「いいえ、陛下。御言葉は嬉しいのですが、今回は仕事でこの国を訪れましたの。挨拶もなしというのは無礼かと思いましたが、あまり大袈裟にしたくありませんでしたので」


 そう答えるユリカ。それを聞いていたフォードルは静かに頷いた。


「ふむ……ハープサルから話は聞いている。二人はグラーセンの帝国統一計画のためにアスタボを訪れていると。それはスタール宰相かグラーセン政府の依頼かね?」


「もしくは、その両方かも知れませんわ」


 皇帝を前にしてもユリカはいつもと変わらぬ笑みを見せていた。そして、彼女はフォードル皇帝に言い寄った。


「陛下の言うとおり、私たちはグラーセンによる帝国統一のために、陛下の治めるこの国を訪れました。貴国には、我がグラーセンの統一計画に協力していただきたいのです」


「お、おいユリカ」


 思わずクラウスが止めに入ろうとする。皇帝相手に直接交渉を持ちかけるというのは、さすがに不敬と言われかねないことだ。横に立っているアイゼンも緊張しているのがわかった。


 しかし、それを不敬と思っていないのか、フォードルはなおも頷いて見せた。


「ふむ……ハープサルから聞いていた通りだ。その協力というのは、グラーセンとアンネルが戦争になった時に、貴国に協力するということだろうか?」


 はっきりと戦争と口にするフォードル。実際戦火の香りが日に日に濃くなっているのだ。誰もが戦争が近いことを感じ取っていた。


 フォードルの問いかけにユリカは誤魔化すことなく、真っ直ぐに言葉を返した。


「さすがに参戦まで要請はしません。貴国にはグラーセンとの間に不可侵条約、もしくは中立を表明していただきたいのです。グラーセンが避けたいのは、アンネルと貴国によるグラーセンの挟撃です。いかがでしょう?」


 沈黙が漂う。ユリカの言葉に皇帝は何も答えない。まるで今の言葉を反芻するように、フォードルは考え込んでいた。


 そうしてしばらくした後で、フォードルが口を開いた。


「ユリカ殿、それにクラウス殿もアイゼン大使も、我が国の協力を取り付けるためにここにいると思う。ハープサルともそのために交渉を繰り返していることも。あくまで外交はここにいるハープサルや、政府に任せている。ただ、私個人の意見としては、グラーセンとアンネルの戦争には不介入でいたいと思っている」


 一瞬希望が見えた気がした。だが、それも束の間、フォードルはすぐに首を横に振った。


「だが、今言ったように全ては政府が決定することだ。私は意見することはあっても、直接決定を下すことはない。私が言えるのはここまでだ」


 それにと、フォードルはさらに話を続けた。


「ハープサルから聞いているかもしれないが、グラーセンを積極的に支持することも憚られる。我が国にも立場というものがあるのだ。申し訳ないが、あまりいい顔はできないのだ」


 やはり皇帝も同じことを考えているようだ。アスタボはグラーセンを支持できない。それはフォードルにとっても同じことで、彼にとっても難しい問題のようだった。


 クラウスが顔を下げる。しかしその一瞬、この時を待ってたとばかりにユリカが笑う。彼女は一気に皇帝に語り掛けた。


「陛下。その支持できない事情というのは、今日の美術館での出来事と関係あるのでしょうか?」


 その場が凍り付いた気がした。あまりに大胆な質問にクラウスとアイゼンがぎょっとしていた。さらにフォードルとハープサルも、目を見開いてユリカを見つめた。その場にいる全員の視線を受け止めて、ユリカはニッコリと笑った。


「陛下。もしよろしければ、その複雑な事情とやらに、何かしら協力ができるかもしれません。私ごときでよければ、お話しいただけませんでしょうか?」


「ユリカ、いくらなんでもそれは……」


 さすがに止めようとするクラウス。だが、彼女の笑みは止まらない。ユリカは今も皇帝を見つめ、彼の答えを待っていた。


 その笑みがどのように映って見えたのか、フォードルは溜息を吐いた。


「……いいだろう。私から話そう」


「陛下、よろしいのですか?」


 ハープサルが止めに入ろうとする。それをフォードルは静かに制した。


「今回のことで彼らまで巻き込んだのだ。説明する責任というのもあるだろう。それにこれほどの騒ぎになったのだ。いつまでも隠し通せまい。許せ」


「……わかりました。陛下がよろしいのであれば」


 そう言って一歩下がるハープサル。そしてフォードルがユリカたちの前に歩み寄る。


「今から話すのはこの国の暗愚の部分であり、苦しみの顔だ。よろしいか?」


 フォードルの問いかけにユリカも、それにクラウスたちも頷く。それを見てフォードルは静かに口を開いた。



「美術館で起きた爆発。あれは私を狙って起きた爆発だ」



 フォードルの言葉が一瞬理解できなかった。『皇帝を狙った爆発』という言葉を、彼らは受け止められなかった。


「陛下、それはどういう?」


「言ったままの通りだ。あれは私を狙って起きた暗殺未遂事件なのだ」


 あまりに淡々と語られるものだから、クラウスはそれを現実だとは受け止められなかった。そんな彼に皇帝はなおも冷たい真実を突きつけた。


「今この国には、私を狙う反逆者たちがいるらしいのだ。彼らは私の暗殺を計画しており、今日の爆発はそれを実行したものなのだ」


 フォードルは静かに語り続ける。それは暗殺計画を他人事と思っているのか、それとも反逆者たちの殺意を受け止めてなお、皇帝の威厳を示そうとているものなのか、クラウスにはわからなかった。


「しかし陛下、その反逆者というのは何者なのでしょうか? 何故彼らはこのような暴挙を企てているのでしょうか?」


 唖然とするクラウスに代わってユリカが問いかける。するとフォードルが一瞬苦い顔を見せた。


「それを語るには、この国の歴史を語らねばならない。君たちはアスタボの近代化について、どこまで知っている?」


 質問を返すフォードル。質問の意図がわからず首を傾げるクラウス。不思議に思いながらもクラウスはその問いに答えた。


「確かアスタボは、先帝によって近代化が始まったと聞いています。その先帝の御意志を引き継いで、今は陛下が近代化を推し進めていると」


 アスタボは先帝、つまりフォードルの父の代から近代化が始まった。フォードルの父がアスタボの近代化を推し進め、その政策を現皇帝であるフォードルが引き継いでいた。


 それが暗殺事件とどう関係があるのか? クラウスのそんな疑問に答えるようにフォードルが話を続けた。


「君の言うとおり、アスタボの近代化は私の父が始めたものだ。父は君たちのグラーセンやさらにアンネル。それにローグ王国から多くの技術を学び、アスタボの改革に乗り出した。そんな父が行った政策に『農奴解放令』がある」


「農奴解放……確かそれまで奴隷同然だった農民を法的に自由にするという政策だとか」


 農奴。それは農業に従事する奴隷だった。各地の領主が所有する財産であり、土地に縛られた奴隷であった。領主の許しなく土地の移転や転業は認められないが、領主の庇護を得る代わりに領主へ納税の義務を負う人々だった。


 西側諸国の市民が自由と権利を有していたのに対し、アスタボの農奴は生き方すら自由に決められない状態だった。フォードルの父、アムルスキは彼らの解放が、アスタボの近代化に不可欠と考え、農奴を開放する勅令を出したのだ。


 一見すると理想的な政策であり、問題などないように思えた。だが、フォードルの顔は暗いままだった。


「農奴を解放する。言葉だけなら理想的にも思えるが、しかしこれには大きな問題があったのだ。」


「問題、ですか?」


 思わず訊き返すクラウス。一体何が問題だというのか? フォードルがさらに続けた。


「解放された農奴は生活が豊かになるどころか、さらに貧しくなる結果を生んでしまったのだ」


 クラウスは言葉の意味がわからなかった。自由を得た彼らが何故貧しくなってしまったのか? その疑問に答えるために、今度はハープサルが口を開いた。


「農奴を解放する。そこまではよかったのです。ですが、それまで領主の所有物であった農奴たちは、良くも悪くも領主の庇護も得ていたのです。そんな彼らが領主から離れ、自由になった時、彼らは自分たちが何をすればいいのか、わからなかったのです」


 何をするべきかわからない。それが何を意味するのか、クラウスはさらに問い続けた。


「わからなかったとは、どういうことですか?」


「それまで農奴が生産した作物は税として領主に納められました。そうして得た作物を領主たちと商人たちの間で取引が行われ、そこで得た資金を農奴に再分配するという仕組みだったのです。この仕組みだと税の額と分配される資金は領主たちに左右されるので、税収が安定せず、また平等にもなりません。その歪さを是正するための解放令なのです」


 税率はその土地の領主によって定められる。税が重いかどうかは領主によって決まるもので、農奴たちの生活は領主によって大きく変わってしまう。その不平等と不安定さは農奴たちを苦しめ、時に農奴による反乱を引き起こしてきた。それを農奴を解放し、個人単位での課税とすることで、税収の安定と増大を狙ったのだ。


 話だけなら理想的な政策だ。だがハープサルの苦しそうな顔が、そうではないことを語っていた。


「解放された農奴は確かに自由となりました。しかし自由になったということは、全て彼ら自身で行動しなければならないということです。それまで領主に任せていた農産物の売買を、彼ら自身で行わなければなりません。しかし、農奴たちは畑の耕し方、収穫の仕方は知っていても、作物の売買の仕方は知りませんでした。そこを商人たちに目をつけられたのです。売買の仕方、それに作物の適正価格を知らない農奴たちは作物を安く買い叩かれました。その結果、農奴たちは解放される前よりも貧しい生活を強いられることになったのです」


 ハープサルが辛そうに声を上げる。それは苦しい生活を送る農奴の悲痛な叫びにも聞こえた。


「そんな……先帝は対策を打たなかったのですか?」


「気付いた時にはもう遅すぎました。その時には農奴たちの苦しみは頂点に達しており、農奴たちは農村から逃げていきました。その結果、ある地域では飢饉すら起きる有様でした」


 その時、クラウスはあることを思い出す。確かアスタボでは小麦価格が不安定になっていると。


「閣下。もしかしてアスタボにおける小麦価格が安定していないのは……」


「その通りです。農村の生産力が落ち込んだことで生まれた現象です。ひどいところでは飢饉による死者が増えていると報告を受けています」


「飢饉ですか……しかしそのような話は大使館でも聞いていませんが」


 アイゼンがそう言うと、今度はフォードルが口を開く。


「我々がその事実を隠したのだ。近代国家になろうとするアスタボにとって、飢饉の発生はイメージが悪くなる恐れがある。国民を飢えさせるような大国など、あってはならないと」


 帝国にとって飢饉が起きたという事実は、他国に知られたくない恥に思えたのだろう。アスタボを包み込む冬の猛吹雪のように、不都合な真実も覆い隠したのだ。


「結局は農奴や市民に対する教育政策の失敗が招いたことです。事実、農奴たちの識字率はひどいもので、字が読めるだけマシな方です。今さらではありますが、少しでも状況を是正しようと取り組んではいますが……先帝の近代化の中で唯一の失敗でしょう」


 ハープサルの深い溜息が部屋を包んだ。解放されたが、生活の苦しい農奴たち。飢饉による死者の増加。その悲劇を生んだアスタボの近代化。それらの話を聞いていたクラウスが改めて口を開く。


「それでは、陛下を狙う反逆者たちというのは……」


 そこまで話を聞けば大体わかる。ユリカもアイゼンも真実を察していた。そんな彼らにフォードルが真実を告げた。


「そうだ。近代化によって疲弊した農村出身者による反乱だ。彼らは先帝、私と私の父による近代化に反発し、私を暗殺することでアスタボを作り替えようと考えているのだ」


 はじめて明かされる真実にクラウスは一人震えていた。横ではユリカもアイゼンも神妙な面持ちだった。密かに計画されていた皇帝暗殺という凶行。アスタボが隠してきた真実は彼らを震撼させるには十分だった。


 その時、クラウスは疑問を抱く。彼はその疑問を投げ掛けた。


「すいません。暗殺とは確かに恐ろしいですが、その話とグラーセンの統一計画にどんな関係が?」


 最初はアスタボが何故グラーセンの統一計画を支持できないのかという質問から始まった話だ。今の話と何か関係があるのだろうか? 


「実は帝国に参加する構成国の一つに、一部の人々が逃げ込んでいるようなのです」


「逃げ込んでいる、ですか?」


「はい。南部で飢饉に苦しんでいる人々の中で、シェイエルンなどに逃げようとしている人がいるのです。実際に出ていく人もいるようで、政府としても看過できないことなのです」

人口の流出。それは即ち、労働力の流出である。もしそれが大規模なものとなれば、経済的な打撃となるのは明白だった。


「もしこのままクロイツ帝国が復活すれば、南部の人々の目には帝国は恵まれた土地に映るでしょう。そうなればますます人口の流出は加速するでしょう。我々としては、それは避けたいことなのです」


 ここでやっと点と点が繋がったような気がした。帝国統一を目指すグラーセン。その帝国に逃げようとアスタボの人々。それはアスタボ政府にとっては頭も痛い話だった。


「失礼、よろしいですか?」


 その時、ユリカが手を挙げた。


「それなら、アスタボにとってグラーセンを支持する理由はない。ならば我が国の統一計画を妨害してもいいはず。それをなさらないのには、何か理由があるのでしょうか?」


「……本当ならここで話すようなことではないのですが、実はグラーセンとはある取引をしたいのです」


「取引、ですか?」


 クラウスが訊き返す。取引という言葉につい身構えてしまう。ハープサルはその取引の中身を告げた。


「ここ、パブロフスクのさらに西にハンゼグラードという都市がありますが、この港町の港湾機能を拡大・拡充させたいのです。グラーセンにはそれを認めていただきたいのです」


 ハンゼグラードはパブロフスクより西に位置し、グラーセンにより近い位置にあった。


「ハンゼグラードの港湾機能の拡大、ですか?」


「そうです。簡単に言うと、大型船の入港も可能となる港湾機能をハンゼグラードに作りたいのです」


 そこまで聞いたところで、クラウスはこの話が何を意味するか察した。それは横で聞いていたアイゼンも同じだったようで、すかさずハープサルに言葉をかけた。


「閣下。それはつまり、ハンゼグラードを軍港都市にしようとお考えということでしょうか?」


 大型船が停泊できるということは、軍艦も停泊できるということだ。海軍というのはそれだけで脅威であり、強大な抑止力足りうる。ハンゼグラードはグラーセンに近い位置にある。そこに軍港を設置するというのは、確かに大きな問題だ。


 アイゼンの問いかけにもハープサルは動じなかった。


「否定はしません。我々はハンゼグラードを西に開けた港町にしたいのです。軍港としても貿易港としても、ここを大きな港湾都市にしたいのです。当然これはグラーセンとっても無視できない話になります。なので、我がアスタボはグラーセンの統一計画を邪魔しない代わりに、ハンゼグラードの拡大を認めてもらおうと考えたのです」


 これは立派な外交交渉だった。軍港の設置というのは、簡単には認めることのできない話である。アスタボはそれをグラーセンの統一計画に乗じて認めさせようと考えていたのだ。


「しかし、それは中々大きな問題になります。グラーセン政府がそれを認めるかは、さすがに難しいかもしれませんが……」


 アイゼンが外交官としての立場から意見を述べた。それくらいデリケートな問題であり、本当なら何年もかけて交渉するような内容である。アイゼンの反応も当然だった。


「……君たちはこのアスタボに来る時、船で来たのか?」


 その時、じっと押し黙っていたフォードルが口を開いた。それはクラウスたちに向けられた問いかけだった。


「え、ええ。私たちはグラーセンからこのパブロフスクまで、船でやってきました。それが何か?」


「今はまだ素晴らしい船旅だったかもしれない。だが、これが冬になればそうもいかない。このパブロフスクの海は氷に囲まれてしまうのだ」


 皇帝が語るのは、この国が抱えている重大な問題だった。


「冬になれば巨大な氷山が海を覆うのだ。氷山はまるで騎兵隊のように海を流れていく。そうなれば、この海を航行するのはとても危険だ。氷山に衝突すれば貨物船はもちろん、軍艦ですら沈没してしまうだろう。それがパブロフスクの冬なのだ」


 氷山というのはそれだけで危険である。これまで多くの船が氷山との衝突事故を起こしてきた。


「だが、ハンゼグラードならば氷山は来ることはなく、冬の間も安全な航行が可能となる。我々にとっては軍艦を安全な港に停泊でき、グラーセンなど他国にとっては安全に我が国と航路を繋ぐことができる……わかるかね?」


 フォードルが窓の外を見た。彼の視線の先は西方。その彼方にはグラーセンやアンネル、ローグなどの西の世界が広がっていた。


「私は、アスタボは冬にも負けない、西への港が欲しいのだ」


 フォードルはそう呟いた。かつての歴代皇帝が願ったように、彼もまた望んでいるのだ。西に開けた港を持つことを。いつか海に出ることを望んだ初代皇帝のように、彼の視線もはるか西に向かっていた。


 

 話を聞き終えたところで、アイゼンが口を開いた。


「ハンゼグラードの港の拡張。軍港の設置。さすがにグラーセンにとっても大きな問題ですし、正式な外交交渉が必要とは思いますが……」


 アイゼンがユリカを見た。彼女は一度だけ頷くと、アイゼンも了解したように笑った。


「我が国が最優先とするのは帝国の統一です。それを達成するためならば、他国との交渉で譲歩することも辞さないでしょう。ハンゼグラードについてもグラーセン、特にスタール宰相はお認めになると思います。もちろん、軍艦の保有数などである程度交渉は必要かと思いますが、過度な緊張状態にならなければ大丈夫でしょう」


 アイゼンの話に今度はハープサルが驚いた。横にいるフォードルについても同じで、アイゼンの話を信じられない様子だった。


「お、お待ちください。こちらとしてはありがたい話ですが、ここでそのような答えを出してもよろしいのですか? 外交問題になりかねないことですし、慎重に進めるべきでは?」


 ハープサルとしては、アイゼンの見解はありがたいのだろうが、ここで簡単に答えを出してくることに驚いているようだ。それにアイゼンの見解がグラーセン本国と一致するとは限らないのだ。ここでアイゼンの言葉の全てを信じることは出来ないのだ。


「まず本国に連絡するべきかと思いますが……」


「大丈夫ですわ」


 心配そうなハープサルにユリカが声をかける。心配するなと笑顔が語っていた。


「おじい様……スタール宰相のことはよく知っています。彼ならばハンゼグラードについてもお認めになりますわ」


 孫娘であるユリカの言葉。スタールのことをよく知る彼女の言葉にフォードルとハープサルも呆気に取られる。スタールが本当にそれを認めるのかと。


「何故、そう言い切れるのです?」


 ハープサルが問い返す。するとユリカがフォードルに視線を向けた。


「西に広がる大海を夢見るお二人ならば、帝国統一を悲願とする、私たちの気持ちもわかるのではないでしょうか?」


 その一言に目を見開くフォードルたち。彼らが西と繋がる港を望むように、ユリカたちの悲願はクロイツ帝国の統一なのだ。お互いに大願を抱く者同士。そのため何でもするだろう。


 その時、ユリカが微笑みを浮かべた。


「おじい様は欲張りな方ですから、自分が欲しいものは何を支払ってでも手に入れようとしますわ」


 スタールなら交渉に応じるだろう。ユリカはそう言っているのだ。


 その言葉にフォードルたちの緊張が和らいだ。これで彼らが望む新しい港が建設できるのだ。


 だが、これで問題は終わりではない。彼らにはもう一つ、解決しなければならない問題があった。


「あとは、皇帝暗殺を企てる反逆者ですわね」


 ユリカの一言に空気が変わる。ピリッとした空気が肌を流れた。


「陛下。その反逆者については、私たちにお任せいただけますでしょうか?」


「何?」


 ユリカの何気ない一言にフォードルたちは今度こそ驚いた。


「その反逆者の件、解決できましたら、我がグラーセンの統一計画を支持していただけませんでしょうか?」


「お、お待ちください!」


 ユリカの申し出のハープサルが慌てて口を挟む。


「さすがにユリカ殿を巻き込むわけにはまいりません。貴方様はグラーセンの要人であり、そのような方を危険な目に遭わせては、グラーセンに対してどう説明していいか……」


「大臣の言うとおりだ。ユリカ殿」


 フォードルも口を開く。


「この国の問題に貴方を巻き込んでは、あまりに情けない。アスタボとしても、皇帝としても面目が立たなくなる。もし貴方に何かあれば、スタール宰相に申し訳ない。どうか考え直してほしい」


 確かに自国の問題にユリカを巻き込んでは、アスタボとしては具合の悪い話に違いない。国家としての体面に関わりかねないことだ。


 しかし、ユリカもそのことを理解しているようで、安心するようにフォードルたちに視線を向けた。


「大丈夫です。私たちは目立たず、内密に動きます。決してアスタボにとって悪いようにはしませんわ」


「いや、しかし……」


 なおも懸念を示そうとするハープサル。するとそんな彼にユリカはいつもの笑みを浮かべた。


「大丈夫。私、これでも運がいいんですの。きっと今回も上手くいきますわ」


 何も根拠のない自信。誰も保証しない言葉。だというのにユリカが言うと、何故かそれが当然のように思えた。いつもクラウスは感じていた。彼女が言えば、全てが真実のように思えるのだから不思議なのだと。そして、それが彼女の魅力でもあるのだと。


 きっとフォードルとハープサルも同じように感じたに違いない。彼女の言葉を聞いた二人は、呆気に取られながらも、どこか面白そうにしていた。その二人を見ながら、クラウスも静かに笑うのだった。




 翌朝、新聞を広げるクラウス。そこには昨日美術館で起きた爆発事故について報じられていた。皇帝がいたという事実は伏せられており、全ては不幸な事故として報じられていた。


 昨日フォードルたちと別れる時、クラウスたちは事件のことを口外しないよう言われた。暗殺事件のことが世間に広まれば、皇帝に対する権威が揺らぐ可能性もあるということだった。


 確かに理解できないでもなかった。皇帝が狙われているという事実は、それだけでも皇帝の威厳が弱くなるし、何より国外に対する風聞が悪くなる。権威や格式というのは、体面や風聞というものも大事なのだ。


「おはよう。具合は大丈夫かしら?」


 そう言って、ユリカが部屋に入ってきた。


「昨日は色々と動いたし、疲れてない?」


 確かに昨日は事故に遭ったり、怪我人を助けたりと走り回ったのだ。疲労が残っていてもおかしくはないが、不思議と疲れはなかった。


「ああ、身体の調子はいい。病院の食事がよかったのかもしれないな」


 美味しい食事と甘美な酒は体を壊すのに、簡素な病院食は身体を良くしてくれる。どうして神はそのようなルールを作ったのか、常に人々は首を傾げるのだ。


「あら。それなら病院の食事でも持って、今度ピクニックにでも行こうかしら? きっと楽しくなるわよ」


 野原の真ん中で簡素な病院食を広げる。想像してみると、なんとも珍妙な光景だった。


 その時、ユリカがクラウスに近寄ると、彼が読んでいる新聞に目を向けた。


「ふうん、こんな風に書かれているのね」


 何を考えているかわからない笑みを浮かべ、そんなことを呟いた。


「まあ、ハープサル閣下が緘口令を布いているようだし、あまり情報が出回っていないのかもしれないな」


 それもどこまで隠し通せるか、正直わからない。噂というのは、どうしてもどこかで漏れ出たりするのだ。


「しかし、昨日は陛下を前にあんなことを言っていたが、例のテロリストたちのこと、どうするんだ?」


 ユリカは反逆者たちの件は自分たちに任せてほしいと、フォードルたちに申し出た。大胆な申し出だが、しかし実際にどうするつもりなのか、クラウスにはわからなかった。


 するとユリカはいつもと同じような笑みを浮かべた。


「いつもと同じよ。まずは相手の情報を集めるところから始めるわ」


「情報、か。しかしどうやって集めるんだ? 皇帝暗殺を狙うような相手だぞ。そんな簡単に尻尾を掴めるとは思えないが?」


 未遂に終わったとはいえ、皇帝暗殺を実行した組織だ。そんなものを相手にするのは難しいことだ。


 何かアテがあるのかとクラウスが思っていると、ユリカはニヤリと笑ってみせた。


「大丈夫。そろそろ来ると思うのだけど」


 ユリカがそう言うと、ドアの向こうからアイゼンが声をかけてきた。


「お嬢様。お客様です」


 そう言ってドアを開いてアイゼンが入ってきた。そのアイゼンの後ろにいる人物を見て驚いた。新聞社・コメルサントのヤコブレフがそこにいた。



「お待ちしておりました。ヤコブレフ様」


「どうも。今日はお招きいただき、ありがとうございます」


 そう言って二人は握手を交わした。そんな二人をクラウスは訝しげに見ていた。


 大使館の一室でクラウスとユリカ。そして机を挟んでヤコブレフが席に着いていた。何故ヤコブレフが大使館にやって来たのか、クラウスは不思議でたまらなかった。そんなクラウスをよそにユリカが口を開いた。


「新聞社は今はお忙しいでしょう? それなのにお呼び立てして申し訳ありませんわ」


「とんでもない。呼ばれなければこちらから訪ねるつもりでしたから、ありがたいですよ」


 そんなヤコブレフの言葉にクラウスはさらに首を傾げた。何故ヤコブレフが自分たちを訪ねようとするのか? その疑問に答えるようにヤコブレフはさらに続けた。


「昨日の美術館の爆発事故。その当事者のお話は是非とも伺いたいと思っていましたから」


 その一言で全てが繋がった。どうやらヤコブレフは、クラウスたちが爆発事故の現場に居合わせていたことを突き止めているのだ。当事者である自分たちに取材をしたいと思っていたのを、ユリカから呼び出されたということだ。


 そして、呼び出したということはユリカには何か狙いがあるようだ。こんな状況まで利用しようとするのだから、相変わらず彼女の恐ろしさに内心で呆れるクラウスだった。


「さて、私をお呼びいただいたということは、何かお話があると思うのですが?」


 ヤコブレフもユリカが何かを狙っていると察しているようだった。話が早いとばかりにユリカはすぐに答えた。


「ヤコブレフ様。よろしければここで取引をしていただけませんか?」


「ほう。取引ですか?」


 取引という言葉に興味を惹かれたのか、ヤコブレフが面白そうな顔をした。そんな彼にユリカが取引の内容を伝えた。


「貴方が知りたい情報と、私たちが知りたい情報を交換していただけませんでしょうか?」


 その一言にヤコブレフがニイっと笑った。なるほど、これがユリカの狙いということだとクラウスは理解した。確かに新聞社にいるヤコブレフなら、何か情報を持っているかもしれなかった。


「ユリカさん。その取引に応じる前に、貴方が知りたいと仰る情報とは何でしょうか?」


 ヤコブレフがそう問いかけると、ユリカは即座に答えた。


「このパブロフスクにいる武器商人のことを知りたいのです」


「武器商人、ですか?」


 意外な言葉にヤコブレフ、そしてクラウスも面食らった。


「どうしてそのようなことをお知りになりたいのですか?」


 ヤコブレフが当然の疑問を口にした。その問いかけにユリカはさらに続けた。


「あの爆発事故。あれはそれなりの爆薬が必要なはずです。普通の一般人が入手するにはそれなりのルートが必要のはず。であれば、どこかの武器商人から買い入れたと考えるべきだと思います。私はその情報を知りたいのです」


 確かにあの時の爆発はそれなりの規模のものだった。普通の人間では手に入れられない爆弾を使ったと考えるべきだ。ユリカはそこから相手の情報を手に入れようと考えているようだ。


 そこまで話を聞いたヤコブレフは少し考えた後、ユリカに切り出した。


「ユリカさん。そのような話をされるということは、やはりあの事故は、皇帝陛下を狙った爆発だったと、そう捉えてもよろしいでしょうか?」


 ヤコブレフの言葉にクラウスが腰を浮かしかけた。何故ヤコブレフが暗殺の企てを知っているのか?


 その疑問が顔に出ていたのだろう。ヤコブレフがクラウスに笑みを向けてきた。


「驚きましたか? 我々が暗殺事件について知っているのが」


「……どこでそのことを?」


 クラウスの質問にヤコブレフは笑みを返した。


「噂というのはどうしても耳に入ってくるものです。あの場に皇帝陛下がいらしたことも、少ないながら情報が集まっています。我々新聞社というのは、どんな噂も集めてしまうのです。良い噂も悪い噂もね」


 そんなことを言いながら、ヤコブレフは笑みを深めた。新聞社には独自の情報源があり、普通の人間から黒い人間からも話を聞いたりするものだ。相手がどのような人間であろうとも、それが貴重な情報源であれば、新聞社にとっては貴重な客なのだ。


 そんなヤコブレフの笑みを見て、ユリカも笑みを深めた。


「そこまで知っておいでなら、武器商人からもお話を聞けるのでしょうか?」


「ええ。彼らも貴重なお客様ですから」


 そこまで聞いて、ユリカは身を乗り出した。


「それならば、彼らとの面会をお願いしたいのですが、できますでしょうか?」


 武器商人との面会。とても危ない橋だが、ユリカは彼らから直接話を聞きたいようだった。


 その話を聞いたヤコブレフは、ユリカに問いかけた。


「それは相手の出方にもよりますが、もしそれが叶うなら、そちらはどのような情報をこちらにくれるのでしょうか?」


 情報の内容によっては取り次ぐ。ヤコブレフは暗にそう言っているようだ。ユリカもそれを察したのか、取引の内容を口にした。


「私たちはハープサル閣下。それに皇帝陛下からもお話を聞けることができます。超一級の情報を提供できるかと思います。いかがでしょう?」


 政府や皇帝からの直接の情報。確かにそれは重要な情報に違いなかった。顔には出さなかったが、ヤコブレフの興味を引くには十分な内容だった。


「ただ、一つだけ条件があります」


「条件ですか?」


「はい。暗殺事件についてはハープサル閣下から内密にするよう言われております。ですので、情報を新聞に載せるのは、全てが解決してから、ということにしていただきたいのです」


 ハープサルからは情報の口外はしないように言われている。せめて事件が解決してからでないと新聞に載せることは許されないだろう。


 しかし、新聞社にとってこれは了解しがたい条件のはずだ。情報というのは鮮度がある。できるだけ早く新しい情報を新聞に載せることが使命のはずだ。それに他の新聞社にスクープを出し抜かれる可能性だって否定できない。


 案の定ヤコブレフはその懸念を口にした。


「ふむ……それは少々難しいお話です。我々としては知り得た情報をどこよりも早く新聞にしたいのです。事件が終わった後では、その価値も薄れてしまう。あまり魅力的とは言えませんね」


 新聞社としての当然の反応だった。するとユリカは次のように話し始めた。


「もし条件を飲んでいただければ、皇帝陛下とハープサル閣下のお話を全部お話しますわ。それら全てを新聞にすれば、新聞を丸ごと事件の情報で埋め尽くすことができます。新聞一冊がまるで小説のような分厚さになるでしょう。そんな新聞が出回れば、大衆はどのような反応を示すでしょうか?」


 新聞の紙面全てが皇帝暗殺の情報で埋め尽くされる。そんな前代未聞な新聞、聞いたことがない。だがそんなセンセーショナルな新聞があれば、大衆は競って買い求めるだろう。


 とてつもない取引を持ち出すユリカ。彼女を横目で見ながら、クラウスはわずかな寒気を感じていた。そんな話、聞いたこともなかった。


「……ふふ」


 そこまで話を聞いたヤコブレフから、笑い声が漏れ出ていた。かと思えば、次の瞬間には愉快とばかりに大笑いしだした。


「はっはっは! 貴方はまるで編集者か、興行師の才能がおありのようだ。そんな新聞を作れたなら、さぞ痛快でしょうな!」


 そうしてひとしきり笑った後、ヤコブレフはユリカに向き直った。


「わかりました。その条件でいきましょう。武器商人については少しお待ちください。あちらからの返事次第ということになりますが、それでよろしいですか?」


「ええ、構いません。よろしくお願いしますわ」


 ユリカがそう言うと、ヤコブレフが右手を差し出した。その手をユリカが握り返す。交渉成立ということだった。



 大使館を後にするヤコブレフ。その背中を見送るユリカとクラウス。


「全く、君には毎回驚かされる」


 唐突に呟くクラウスにユリカの笑みが零れる。


「あら? まだ私の魅力に慣れてくれないのかしら?」


「ああ。いつも新鮮な驚きを提供してくれるから、心臓がドキドキして痛いくらいだ」


「それは大変ね」


 そんな軽口を返してくるユリカ。しかしクラウスは気が気ではなかった。武器商人と直接話をしたいというが、相手は危険な相手だ。何があるかわからない。クラウスは心配だった。


「大丈夫なのか? 相手は危険だぞ。何が起こるかわからないぞ」


「大丈夫。王子様が守ってくれるって信じてるから」


 そう言ってクラウスを見つめるユリカ。まだ行くと決まっていないのに、クラウスが同行することが既定路線になっているようだった。


 クラウスは呆れるが、それについては何も言わなかった。自分も同行することは最初から決めていたからだ。


「そうですね。クラウス様が一緒なら、私も安心できますよ」


 そんな二人の後ろからアイゼンが話しかけてきた。本来ならユリカの計画を止めるべきなのだろうが、アイゼンは止めることなく後押ししてくれた。


「アイゼン大使、本当によろしいのですか? 危険な気もしますが……」


「大丈夫ですよ。まあ確かにお嬢様の今回の申し出には驚いてますが、いつものことですから。それに」


 そこでアイゼンがクラウスを見た。そこには信頼の微笑みがあった。


「クラウス様を信じているというのは本当です。貴方が一緒なら、絶対大丈夫だと」


 随分と信頼されたものだとクラウスは戸惑いを見せた。それほどの評価を受けるほど、自分は何かをしてこれただろうかと首を傾げた。そのクラウスの疑問にアイゼンは答える。


「アンネルでもそうでした。今までの任務でクラウス様はお嬢様を助け、守ってくれました。今度もお嬢様を守ってくれると確信しております」


 アンネルでは囚われたユリカを助け出し、ビュルテンやシェイエルンでも共に冒険し、共に道を切り拓いてきた。


 きっと今回も成し遂げるだろう。クラウスは不思議と自信を取り戻していた。


 そんな彼の顔を見て、ユリカが言った。


「大丈夫。私がいるから」


 その一言がどれほどの意味があったかはわからない。だけど、彼女の一言は何故か、クラウスを信じさせる力があった。


 きっと今回も大丈夫。そんな根拠のない確信がクラウスを後押ししてくれるのだった。



 数日後、ヤコブレフから連絡があり、相手から招待してくれると答えが返ってきたのだった。





 月の出ていない夜だった。ハブロフスクの中心部。繁華街のとある一角。そこにクラウスたちがいた。周りには家族連れや恋人たち。もしくはこれから飲みに出ようとする男たちで溢れていた。


 そんな人通りの多い所に二人はいた。その時、二人の前に馬車が一台やって来た。


「失礼、クラウス様にユリカ様でよろしいですか?」


「あ、はい。その通りです」


「どうぞ乗ってください」


 御者に促されて馬車に乗り込むクラウスたち。馬車に乗り込んだクラウスはぎょっとした。


 その馬車の中には、仮面を着けたメイドがいた。


「あ……失礼します」


 どもりながら挨拶するクラウス。それに対して静かに会釈を返しながら、メイドは着席を促した。


「どうぞ。お座りください」


 戸惑いつつも席に座るクラウス。ユリカは特に動じることなく、涼しげな様子で座った。


 ドアが閉まると馬車はそのまま走り出す。それと同時に仮面のメイドが馬車のカーテンを閉めた。


「失礼、私たちの拠点を知られるわけにはいきませんので。どうかご容赦を」


 要するに外を見られないための措置ということだった。やはり非合法な組織のためか、アジトなどの場所は秘密のようだった。


「これから我が主の所までお運びします。しばらく時間はかかりますが、それまでご辛抱ください」


「ありがとうございます。お心遣い、感謝しますわ」


 ユリカがそう言うと、メイドは一瞬だけ微笑みを見せた。それからは誰も口を開かず、沈黙したまま時が過ぎた。


 その間、馬車はずっと走り続ける。体感で右に曲がったり左に曲がったり。もしくは坂を上ったりするのがわかった。おそらく同じところを何度も通ったりしているのだろう。そうすることでアジトの位置を知られないようにしているのだ。攪乱するための常套手段だ。


 だが、だんだんと異界へ入っていくのだけはわかった。さきほどまでの繁華街の騒ぎは遠くなり、静かな闇の音だけが漂い始めていた。


 もはや人の気配は全くなく、同じ街の中にいるのかさえわからなかった。


 そうしてしばらく走らせたところで、馬車がどこかの建物に入っていく感覚があった。それから少しして、仮面のメイドが口を開いた。


「到着したようです。どうぞ、私についてきてください」


 そう言ってメイドがドアを開いて馬車を下りた。クラウスたちも馬車から降りると、何かの建物の中のようだった。ただ、やはり場所を知られないようにするためか、窓は締め切られており、外に何があるのかわからなかった。


 メイドが歩き出すと、クラウスたちも後に続いた。それから長い廊下を歩き、一番奥の部屋に辿り着いた。メイドがその部屋のドアをノックした。


「どうぞ」


 入室を促され、ドアを開くメイド。メイドに続いてクラウスたちが部屋に入った。その部屋の奥に、一人の紳士が立っていた。


「クラウス様にユリカ様。お待ちしておりました。ようこそ、ジョミニ商会へ」


 年若い一人の紳士が、微笑みながらこちらを迎えてくれた。彼はそのままクラウスたちに名を告げた。


「私は当商会を仕切るシチョフと申します。お初にお目にかかります」


 右手を差し出すシチョフ。その手をユリカは握り返し、彼女も名乗りを上げた。


「ユリカ・フォン・ハルトブルクです。今宵はお会いいただいて、ありがたくおもいます」


 続いてクラウスもシチョフの手を握る。


「クラウス・フォン・シャルンストです」


 二人の名を聞いたシチョフは、笑みを深めながら彼らを見つめた。


「お二人にお会いできて、光栄です」


 シチョフがそう言うと、三人はそれぞれ向かい合う形で席に座った。


「しかし、お二人に会えたのは本当に光栄です。以前からお会いしたいと思っていたので」


「会いたかった、ですか?」


 シチョフの言葉を不思議に思うクラウス。自分たちに会いたかったとはどういう意味なのか? クラウスの不思議そうな顔を見て、シチョフはその疑問に答えた。


「ええ、お二人は我々のような人たちの間でも有名ですから。グラーセン参謀本部に面白い二人組がいると」


 思わず驚きの表情を浮かべるクラウス。自分たちが参謀本部の人間であることは言っていない。それなのにシチョフは最初から二人の素性を把握していた。驚くのも無理はなかった。


 対して、横にいるユリカは特に驚いた様子もなかった。


「さすがはジョミニ商会ですわ。私たちのような人間の情報も仕入れていらっしゃるのですね」


「ええ。こういう仕事は情報も大事ですから。お二人は特に噂になっていますから、気になっていたんですよ」


 確かにシチョフのように裏社会に通じている人間は、自分たちのような人間の情報も仕入れているはずだ。ビュルテンやシェイエルンでも色々やって来たのだ。噂になってもおかしくはなかった。


「グラーセンの参謀本部にスパイをやっている夫婦がいると聞いています。すぐにお二人のことだとわかりましたよ」


「……はい?」


 シチョフの言葉に思わず間抜けな声を上げるクラウス。その反応に今度はシチョフは不思議そうな顔をした。


「え? 確か報告では夫婦でスパイをやっていると。違いましたか?」


「そうですね。確かに違いますわ」


 シチョフの問いかけにユリカが口を開いた。


「残念ですが私たち、『まだ』夫婦ではありませんの」


「ああ、なるほど。まだお付き合いされている段階でしたか。それは失礼をしました」


 勝手に納得するシチョフに、クラウスが慌てて訂正に入った。


「違いますよ。シチョフさん。私たちはそういう関係ではありません。上司と部下のようなものです」


 クラウスの言葉にシチョフが呆気に取られる。クラウスの言うことが信じられないといった様子だった。


「そう、なのですか? てっきりそういう関係なのだとばかり」


「違います。ユリカ、君も変なことを言わないでくれ」


「あら? 私が相手だと不満かしら?」


「そういうことではなくてだな」


 そんなことを言い合う二人を見ながら、シチョフが納得したように頷いた。


「ふむ……違うというのでしたら信じましょう。しかし、我が商会の情報伝達に不備があるようですね。お二人は夫婦なのだと報告を受けていましたので」


 本当にどんな報告をしたのか、クラウスはそちらの方が気になっていた。


 その時、仮面のメイドが紅茶を運んで来てくれた。テーブルに三人分の紅茶を置いて回ると、シチョフがメイドに微笑みかけた。


「ありがとう。下がっていていいよ」


「はい。何かありましたら、お呼びください」


 そう言って部屋から退室していくメイド。あとに残された三人はそれぞれ紅茶を口に含んだ。


「さて、それではお話を伺いましょう。当商会にどのようなご用件でしょうか?」


 シチョフが早速切り出した。ある程度察してはいるのだろうが、ユリカが知りたいことを口にした。


「シチョフ様。貴方が最近兵器を売買した相手。その方についての情報を売っていただきたいのです」


 その一言にシチョフが笑う。それは無理だと、困ったように笑った。


「申し訳ありませんが、それはできません。武器商人という汚れた仕事をしておりますが、こんな仕事でも職業倫理というものはあるのですよ。私たちはどのような客でも平等に接し、同時にどんなお客様の情報も秘匿しなければなりません。それはお客様を守るためのものであり、同時にお客様の信頼を守るために必要なのです」


 当たり前のことを語るシチョフ。それは仕事をする人間ならば、守るべき最低限のマナーである。そんな言葉を武器商人であるシチョフが口にしたことにクラウスは少なからず驚いていた。


 そんなクラウスを見つめながら、シチョフがさらに口を開いた。


「武器商人にも色々います。粗野な人間や礼節を知らない野蛮人。ですがそれ以上に紳士的にふるまう者。礼儀を重んじる者。誇り高い人間である者も。武器商人などと、決して褒められた仕事ではありません。ですが扱う商品が何であれ、商人として守るべき矜持もあるのです。ご理解いただけますか?」


 まるで自分がどういう人間であるかを示しているようだった。そして、その様子からはシチョフが敬意を持つべき相手だとも感じられた。


 ジョミニ商会は大陸でもそれなりの規模の商会だという。この商会がここまで大きくなったのも、このシチョフの存在が大きかったに違いない。


 裕福な蛮人であるより、貧しくても賢人であることを選べ。かつての哲学者が残した言葉を、クラウスは初めて実感するのだった。


 そのシチョフの言葉だったが、それを聞いていたユリカは止まることなく、さらにシチョフに語り掛けた。


「シチョフ様。確かに貴方様の言うとおりですわ。貴方様の誇りは素晴らしく、疑うべくもありませんわ。ですが、だからこそ私は貴方様の持っている誇りにお願い申し上げたいのです」


 ユリカの視線がシチョフを捉える。そこにあるのは尊敬の眼差しと、深い信頼の色だった。


「大事なお話は、素敵な殿方としたいものです。そんな少女の願い。聞いてくださいませんか?」


 微笑みを差し向けるユリカ。その微笑みに対し、今度はシチョフが笑みを返す。


「なるほど。噂通り面白い人だ」


 今の言葉が気に入ったのか、シチョフは面白そうに笑ってくれた。


「お話はわかりました。しかし、これは取引になります。それ相応の対価が必要となりますが、そちらは何を用意してくれますか?」


 当然の話だ。情報だって、ただで仕入れているわけではない。必ず代価が必要なのだ。


 するとユリカは待ってましたとばかりに口を開いた。


「シチョフ様。それはむしろ貴方様から切り出したい話ではなくて?」


 横にいたクラウスが怪訝な顔をする。一体何のことかと考えていると、ユリカはさらに続けた。


「我がグラーセンとアンネルのとの戦争。その戦争における兵器の独占販売権が欲しいのではないですか?」


 今度こそクラウスは驚いた。ユリカの言葉に思わず腰を浮かした。


 対してシチョフは驚きもせず、ただ笑みを浮かべるのみ。それが肯定の意思を示していることは明白だった。


「シチョフ様。我がグラーセンはアンネルとの戦争に備えております。そのため武器はいくらあっても足りないくらいです。もし貴方様が私たちの知りたい情報を売っていただければ、その販売権を与えてもよろしいですわ」


「おい、ユリカ」


 そこでクラウスが口を挟む。さすがに大胆すぎてクラウスも止めに入った。


「いいのか? そんな大事な話を勝手に決めてしまって」


「大丈夫よ。おじい様なら了承してくれるわ。それに、他にも話したいことがあるもの」


「話したいこと?」


 ユリカはそう言うと、もう一度シチョフに向き直った。


「シチョフ様。もし私たちの要請を受け入れてくれたなら、さらに料金を倍にしてお支払することも考えます。いかがでしょう?」


「要請、ですか。それはどのような要請ですか?」


 ユリカはその要請の内容を伝えた。


「今言ったように、グラーセンでの販売権を認めると同時に、アンネルとの兵器売買をしないでいただきたいのです」


「ほう……」


 シチョフがニィッ笑う。一体それがどんな意味を持っていたのか、シチョフが口を開く。


「つまり、貴方たちグラーセンにのみ武器を売り渡せと、そういうことですか?」


「もっとシンプルに言えば、私たちにだけ味方してほしいのです」


 あまりにシンプルな要求だった。とはいえアンネルに力を持ってほしくないグラーセンにとっては、シチョフ対する要請は当然とも言えた。


 しかし、そこでシチョフが困ったように笑う。


「そうなりますと、アンネルとのビジネスチャンスを逃がすことになります。もしその利益を担保するとなると、相当の額になると思いますが、それでもお支払いすると?」


「もちろん。お望みならば、ハルトブルク家の名前入りの契約書を作っても構いませんわ」


 どれだけの額になるか想像もつかない。もしかしたら国家規模の額になるかもしれない。だがユリカはそれでも良いと言い切った。


 そのことがシチョフにどう映ったのか、彼はユリカに問いかけた。


「失礼、貴方様をそのように言わせるのは、どのような動機ですか? 何が貴方たちにそうさせるのですか?」


 するとユリカはいつもの笑みを浮かべた。


「シチョフ様。我がグラーセンは帝国統一を計画しております。それは御存じですか?」


「ええ、存じ上げております。それが何か?」


 それから、ユリカが真っ直ぐにシチョフを見た。


「それが答えの全てでございます」


 一切のごまかしも、寸分の虚偽もない。帝国統一こそ答えの全てだった。


「帝国統一のためならば、魔王との取引も安いものですわ」


 帝国統一。そのためなら彼女はどんな取引にも応じるだろう。そんな姿が想像できるのだから、不思議なものだった。


「ふふ、なるほど」


 その時、シチョフが笑みを零した。彼女の答えが気に入ったのか、彼は満足そうに頷いた。


「いいでしょう。我が商会としてもその取引は魅力的です。まずはこちらから情報をお話ししましょう」


「ありがとうございますわ」


 そこでお互いに笑みを交わすユリカとシチョフ。相手との会話が楽しいのか、とても不穏な会話とは思えない空気だった。


 しかし、そこでシチョフが困ったように笑った。


「とはいえ、私がお話しできる内容はほとんどありません。こういう商売ですから、相手も素性を隠すことが多いですし、こちらもある程度の事情は察しているので、相手の素性を探るようなことはしません。有益な情報をそちらにもたらすとは思えませんが……」


 確かにその話にも納得できる。武器を売買するというのは、それ相応に黒い存在だということだ。特に今回は、皇帝暗殺を企てた組織なのだ。そんな簡単に尻尾を掴ませるようなことはしないだろう。


 そこでユリカが答える。


「何でもよろしいのですわ。たとえば、相手の特徴とか癖とか。何か相手を特定させるような何かがあると思うのですが」


「特徴、ですか……」


 そこでシチョフが考え込む。確かにユリカの言うとおり、どれだけ隠していても滲み出る特徴というものがある。たとえば同じ食べ物を食べるのも、地域によっては食べ方も違ったりする。それでどの地方の出身か、わかったりするものなのだ。


「そうですね。私が直接会ったのは、若い男性でした。それにその話しぶりから、どこかの貴族のような印象も受けました」


「貴族、ですか?」


 貴族の人間が皇帝暗殺など企てるだろうか? 何故そんな風に考えるのか、クラウスが問いかけた。


「何故、そのようにお考えに?」


「話し方から、それなりの教育を受けてきた人間のように思えました。最初は若かったので、学生なのではないかと思いましたよ」


 なるほどと思った。それなりの教育を受けられるのは、裕福な家計の人間か、もしくは貴族くらいのものだ。まだまだ教育というのは平等なものではなく、家計や豊かさによって格差があるのだ。


 シチョフがその若い男を貴族と思うのは、そういう理由からだった。


 その時、クラウスはあることに気付いた。


「シチョフさん。その男の話し方に何か癖はありませんでしたか? 何か訛りや方言といったがありませんでしたか?」


「訛り、ですか……」


 人間は生まれ故郷を忘れたりできない生き物だ。それは話し方や口調も同じで、どれだけ矯正しても故郷の訛りや方言がどうしてもどこかに残っていたりするものだ。


 クラウスはアンネルでの留学で語学を学んでいる。そこで各地の訛りや方言についても講義を受けていた。よほど知らない土地でもなければ、クラウスならどの土地の言葉がわかる自信があった。


 そのクラウスの問いかけにシチョフが思い出したように手を叩いた。


「そういえば、その男以外にももう一人仲間が一緒に来ていたのですが、仲間同士で話し込んでいるのを横で聞いていました。あれは確か南部の方の方言だったはずです」


 おそらくその二人は同郷の仲間だったのだろう。同郷の者同士なら、故郷の方言が自然と出ていたに違いない。


「南部、ですか。どの土地のものか、わかりませんか?」


 クラウスがさらに質問を重ねる。シチョフが記憶を掘り起こそうと思考を繰り返す。


「あれは確か……ドネプルの方言だったと思います。何回かドネプル出身の者とも話したことがあるので、間違いありません」


 ドネプルはアスタボの南部に広がる地域で、サルマタイ人という民族が多く住む地域だった。帝国領でありながら、独特の文化や歴史を持っている地域だった。


「ドネプル、ですか……」


 シチョフの言葉を反芻するように繰り返すクラウス。何か大事なことのように響く言葉だった。


 しばしの沈黙が流れる。しかし、その沈黙から生まれるものは何もなかった。


「私がわかるのは以上となります。お力になりましたでしょうか?」


「ええ、確かに貴重なお話でしたわ。ありがとうございます」


 ユリカの言葉に微笑みを返すシチョフ。すると彼は外に向けて声をかけた。


「入ってくれ」


 するとドアを開いて、仮面のメイドが入室してきた。


「そろそろお時間です。帰りは彼女がお送りします。来た時と同じ馬車にお乗りください」


 その言葉で全てを察したのか、メイドは一礼してからドアから退室した。


「よろしいのですか? 帰りまで用意してくださって」


「構いません。お客様を無事に送り届けるのも役目ですので」


 夜もかなり遅くなっていた。せっかくなので好意に甘えることにした。


「ありがとうございます。今日は貴重なお話、感謝します」


 クラウスも感謝を伝えた。するとシチョフがクラウスたちをもう一度見つめた。


「失礼、最後に一つだけ伺っても?」


 一体なんだろう? シチョフの問いかけに首を傾げるクラウス。そんな彼にシチョフが口を開く。


「お二人は本当に恋人ではないのですか?」


 そんな問いかけにクラウスは怪訝な顔をした。何故そんなことを聞くのか。


「すいません。どうしてそのようにお考えに?」


「いえ。どうしてもお似合いの組み合わせに見えてならないので、本当に恋人ではないのかと思いまして」


 どこを見ればそういう風に思うのか、やはりクラウスには疑問でしかなかった。すると彼に代わってユリカが答えた。


「確かに恋人ではないのかもしれません。ですが、もしかしたらそれ以上の関係かも知れませんわ」


 いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべながらユリカはそう答えた。その答えに横にいたクラウスは苦い顔をして見せた。


 それをどう捉えたのか、シチョフは楽しそうに笑った。


「なるほど。それは羨ましいことです」


 その答えにクラウスは何も答えられなかった。



 帰りの馬車も仮面のメイドと一緒だった。メイドとクラウスたち三人を乗せて、馬車は夜のパブロフスクを走っていた。


 三人は何も話すことなく、沈黙のまま座っていた。


「ねえ」


 その時、ユリカが横にいるクラウスに話しかけた。


「どうした?」


「さっきのシチョフさんの話、何かわかったかしら?」


「いや、どうだろう? まだはっきりとはわからないな」


 色々な話を聞けたが、まだ決定的なことはわからなかった。犯人は何者なのか、手がかりも掴めずにいた。そのことにユリカが顔を曇らせた。


「ドネプル、か。そこから何か掴めないだろうか」


「そうね。まずは帰って考えてみましょう。ハープサル閣下にも相談してみましょう」


「そうだな」


 そこで話が途切れる。あとはまた沈黙が漂うだけだった。


 一体どこに真実があるのか、クラウスは思考を繰り返すが、何もわからないままだった。


 その時、遠くで鐘の音が聞こえた。


「あれは、教会の鐘か?」


「本当だわ。もうすぐ夜明けなのね」


 それは夜明けを告げる教会の鐘だった。まだ朝日は昇っていないが、一日の始まりを告げる大事な鐘だった。確かあそこでは失業者への配給をやっていたはずだ。クラウスたちもそこで聞き込みをしていたから覚えていた。きっと今日も食事を配ったりするに違いなかった。


「……え?」


 その瞬間、クラウスの記憶が刺激された。遠くから聞こえる鐘の音。その音色が響くたびに、クラウスの中で何かが形を作り始めた。


「クラウス?」


 ハープサルは言った。南部の方で独立の機運が高まっていると。そこでは皇帝の近代化政策に反発する集団がいると。


 シチョフは言った。武器を売った相手は、南部のドネプルの訛りがあったと。そして、相手は学生のような印象だったと。


 そして、教会ではどんな話を聞いたのか?



「すいません! 教会に向かってくれませんか!」


 いきなり立ち上がり、目の前に座るメイドに叫ぶクラウス。その迫力に目を丸くするユリカ。


「お願いします! おそらく犯人はそこにいます!」


 あまりのことにユリカは何も言えず、ただ驚くだけだった。


 ただ一人、仮面のメイドは静かに頷いてくれた。


「かしこまりました」


 彼女はそう言って、御者に一言告げてくれた。それから馬車は教会に向かって走り始めた。


 少しずつ、空が明るくなり始めていた。

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