第三章 街を巡って

 アスタボという国は基本的には北国であり、寒い気候の国だ。グラーセンなどの西側の国と比べて冬が長い国だ。


 パブロフスクにあるグラーセン大使館。その一室で目を覚ますクラウス。参謀本部と違って起床ラッパもないのだが、それでも自然と目を覚ましてしまう。


 ベッドで体を起こすと、一気に意識が覚醒する。アスタボ特有の冷たい空気が彼の脳を覚醒させた。


 彼はそのまま身支度を整えて部屋を出た。それから彼は食堂へと足を運んだ。


「おはようございます。クラウスさん」


 食堂に入ると、すでにアイゼンがいた。コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。


「おはようございます。アイゼン大使も早いですね」


「ええ。このコーヒーを飲みたくて、つい早起きしてしまうんですよ」


 そんなことを笑いながら語るアイゼン。


「昨日はアスタボのビールは楽しめましたか?」


 いきなりアイゼンが問いかける。その問いかけにクラウスは苦笑いを浮かべる。


「美女二人に囲まれましたので、緊張で味がわからなくなりましたよ」


「それはそれは。ぜいたくな悩みですね」


 そんな風にニコニコと笑うアイゼンだった。そんなアイゼンにクラウスはさらに苦笑する。


「ユリカも貴方も意地悪な人だ。私だけ仲間外れにして楽しむのだから。少しは話してくれてもいいのに」


 そのクラウスの一言にアイゼンはニンマリと笑うのだ。


 昨日、ユリカはナタリアを呼び出し、彼女からアスタボ政府の内情について探る作戦を決行した。その作戦についてはアイゼンも了承していたようで、知らなかったのはクラウスだけだった。


 ユリカのことだから、クラウスを驚かせようと黙っていたのはわかる。ただ、アイゼンまでその悪戯に加担していたことに、クラウスは苦笑いを浮かべるのだった。


「楽しんでいただけましたか?」


 悪びれもせず、そんな風に答えるアイゼン。その雰囲気は、スタールを思わせるものがあった。


「スタール閣下に関わった人は、そんな風に悪戯好きになる呪いでもかけられるのですか?」


「ははは。まあ確かに閣下の影響はありますね。外交官たるもの、ユーモアを持つべきだと教えられましたね」


 その論理はわからなくもないが、悪戯とユーモアは別ではないかと思うクラウス。すると、そんなクラウスを見てアイゼンが微笑んだ。


「ユリカ様とは長く、一緒にいたようですね」


 いきなりそんなことを言われて、クラウスは首を傾げる。どういう意味かと考えていると、アイゼンがさらに続けた。


「ユリカ様から悪戯をされても、あまり悪い気はしないでしょう? あの方と一緒にいると、それも楽しくなってくるものなんですよ。クラウスさんも、ちょっと楽しそうにしていましたよ」


 そんな恥ずかしいことを言われて、口ごもってしまうクラウス。その様子が面白くて、アイゼンがますます笑い出した。


「前にも話してくれましたが、お二人は素敵な旅をしてきたようですね。とても羨ましいです」


 ニッコリと笑うアイゼン。それが悔しいクラウスは、少しだけ反論しておいた。


「死ぬかもしれない冒険でしたら、ご一緒しますか?」


 すると、アイゼンは一言だけ返した。


「それはないでしょう。たとえ死んでも、お嬢様に叩き起こされるでしょうから」


 その答えにクラウスは変に納得した。確かにユリカなら、それくらいのことはしてくれるかもしれない。そう思うとつい笑ってしまう。


「おはようございます。お二人とも、早いのね」


 その時、ユリカが食堂に入ってきた。


「何か楽しそうな話をしているようね。私も混ぜてもらっていいかしら?」


「わかりました。温かい朝食でも食べながら、お話ししましょう」


 アスタボでは温かい食事が好まれる。温かい料理だと、話が弾むからだ。


 どんな食事が出るか、ユリカはすでに楽しそうにしていた。


「なるほど。ナタリアさんはそんな風に仰っていましたか」


 朝食を食べながら呟くアイゼン。テーブルにはパンや鶏肉。それにボルシチという赤いスープが並んでいた。ボルシチからは湯気が立っており、その色を見るだけでも体が温まりそうだった。


 朝食を食べながらクラウスたちは、前日にナタリアから聞いた話をアイゼンに伝えた。


「ハープサル閣下も難しい立場にいます。複雑な事情があるとは思いますが……」


「ナタリアさんが言うには、ハープサル閣下にはグラーセン支持に回れない事情があるということです。それが何なのかはわかりませんが……」


「アイゼン大使。何か心当たりはありませんか?」


 ユリカが問いかける。その問いかけにはアイゼンも肩をすくめる。


「私も心当たりがありませんね。閣下は心の内を簡単に明かさない人ですから」


 アイゼンがそう答えるのも無理はなかった。長く外交に関わって来た相手だ。簡単に手の内がわかるとは思っていなかった。


「そういえば、アンネルは何か動いていませんの? アスタボに対して何か働きかけているとか、そういうことはありませんか?」


 ユリカの問いかけに顔を上げるクラウス。確かにその可能性もあるが、しかしアイゼンは首を横に振る。


「その可能性もないわけではありませんが、それほど積極的に動いてはいないようです。不気味と言えば不気味ですが……」


 実際にはよくわからないといったところだろう。もしかしたらパブロフスクにジョルジュが来ているのではと思ったが、そうした報告も今のことろなかった。


 もし来ていたら、彼女を相手にしなければならなかった。そうならないことをクラウスは内心で祈った。


「それでは、今日はどうなさいますか?」


 アイゼンが問いかける。するとユリカは少し考えこんだ後にアイゼンに申し出た。


「少し外に出て、色々調べてみたいと思います。どこか話が聞けそうなところはありませんか?」


「それでしたら、紹介したいところがありますので、そちらに行かれてはいかがでしょう?」


 そうして、この日の段取りが話し合われた。



 クラウスたちが向かったのは、アスタボで活動しているグラーセンの貿易会社だった。大陸でも特に名の知れた大企業で、アスタボでも大々的に活動していた。アスタボ政府とも繋がりがあり、ある程度アスタボの内情についても詳しかった。


 クラウスたちを迎えたのは、アスタボで長く活動している男だった。


「ようこそ、お越しくださいました。ユリカ様にクラウス様ですね。私、ローベルト・フォーンと言います。以後、お見知りおきを」


「はじめまして。ユリカ・フォン・ハルトブルクです。こちらはクラウス・フォン・シャルンスト。今回はいきなりの訪問に応えていただき、感謝しますわ」


 そんなユリカの言葉に、ローベルトはにやりと笑う。


「ご心配なく。商人というのは顧客の相談にいつでも対応できるようにしております。特に、今回はハルトブルクという上客がいらっしゃったのです。将来の投資に繋がるのであれば、妻との食事を差し置いて伺いますよ」


「あら? 私がローベルト様に儲けをもたらすかはわかりませんわよ?」


 楽しそうに答えるユリカ。するとローベルトも笑みを浮かべながら答えた。


「大丈夫です。我々商人はどんなことでも利益に繋げようとする生き物です。儲けを得られるのであれば、煉獄でも聖書を売ってみせますよ」


「あら。それは面白い仕事ですわね」


 ユリカもローベルトも歓談を楽しんでいる。特に商人であるローベルトの軽口はユリカのツボに入ったのか、とても楽しそうにしていた。


 横で見ていたクラウスは、そんなローベルトの言葉に変な感心を覚えた。商人というのも独特な感性を持っているのだなと、変に好奇心を刺激されていた。これも交渉術の一つなのかもしれない。


「とりあえず部屋に案内しましょう。どんな商談もお茶を飲みながらするのが一番ですからね」


 そう言ってローベルトに連れられて会社の中を歩き出すクラウスたち。彼らはそのままローベルトの執務室に連れてこられた。


 そこではすでに女給が控えており、彼らのためにお茶を用意させていた。


「どうぞ、こちらに」


 ローベルトに促されて、席に座るクラウスたち。それを見届けて、女給が退室していく。残ったのはクラウスとユリカ、そしてローベルトだった。


「さて、何か私にお聞きしたいということでしたが、私にお答えできる内容でしょうか?」


 ローベルトが問いかけてくる。どんな話なのか、ある程度予想はしているのだろう。ユリカはその問いかけをぶつけた。


「ローベルト様。存じていると思いますが、我々はグラーセンとアスタボとの間に不可侵条約を結びたいと考えております。ですがアスタボからは色よい返事がなく、交渉が難航しているのが現状です。それでアスタボ政府などの真意を探ろうとしているのですが、アスタボ政府と繋がりを持つローベルト様なら、何か知っているのではないかと、ここを伺いました。何かご存知ではないでしょうか?」


 ローベルトはアスタボで長く活動している。アスタボ政府や省庁とも交渉を続けてきたのだ。何か知っていてもおかしくはなかった。


「ふむ……やはりそういう話になりますか」


 やはりその問いかけは予想できていたのか、納得したように頷くローベルト。しばしの沈黙の後、ローベルトはその問いかけに答えた。


「正直なところ、我々もアスタボ政府の真意はわかりません。時折商業省とも話をすることもありますが、はっきりとした態度を見せてきません。どこか我々に対して、よそよそしい感じが見受けられます」


「よそよそしい、ですか?」


「はい。と言いますのも、それは政府だけでなく、アスタボにある企業も同じなのです。我々はアスタボにある数百の企業とも取引をしております。中には政府と太いつながりのある企業もあります。それら企業の態度を見ると、どうもはっきりとした態度を見せてこないのです」


 ローベルトの会社はアスタボの企業と膨大な取引をしている。アスタボの企業の中には政府筋と太いパイプを持つ企業もある。すなわち、そう言った企業の動向は、そのままアスタボ政府の動向とも言えるのだ。


「ローベルト様。何か心当たりはありますか?」


「恐らくですが、やはりアスタボ政府、特にハープサル大臣の意志が決定していないことが原因でしょう。もしアスタボがグラーセンの帝国統一事業に反対するようであれば、我が社との取引は厳しくなりますから。まだ政府の決定が下されない状況では、はっきりした態度は取れないのでしょう」


 その理屈はわからなくもない。アスタボ政府の考えがはっきりしない状態で、グラーセンとどのような関係を築くべきか、手をこまねいているに違いない。アスタボの商人たちはハラハラしながら見守っていることだろう。


「ローベルトさん。何か他に気になることはありませんか?」


 クラウスが問いかけに顔を向けるローベルト。


「気になる、とは?」


「どんなことでもいいんです。我々にはわからないことも、貴方になら見えるかもしれません」


 ローベルトは長く、このアスタボで商人として暮らしてきた。ある意味アスタボのことを一番知っている人間であり、ちょっとした変化も感じ取れる人間だ。


 何より彼は商人だ。クラウスたちには見えないものも、彼なら何か見えるかもしれない。


 クラウスの問いかけに黙考するローベルト。少しして彼は顔を上げた。


「気になると言えば、このパブロフスクの人口が増えたというのがありますね」


「……人口、ですか?」


 思わずオウム返しになるクラウス。その反応にローベルトがさらに話続ける。


「はい。というのも、パブロフスクへの人口流入が増えているのです。どうやら地方の労働者がこの街にやって来ているらしいのです。この街で仕事を探しに来ているようです」


 少し意外ではあったが、納得できる話でもあった。アスタボは近代化を進めており、特にこのハブロフスクはアスタボで最も近代化の進んだ都市だ。今も工場が立ち並び、企業は労働者を常に求めている。


 当たり前の話ではあるのだが、しかしローベルトの顔は暗かった。そのことに気付いたユリカが問いかけた。


「ローベルト様。何か懸念がおありですの?」


「ええ。パブロフスクに人が集まるのはいいのですが、ただやって来る人々の話を聞くと、あまりいい話ばかりではなさそうなのです」


 さらに暗い顔をするローベルト。何か不穏そうな雰囲気にクラウスも嫌なものを感じ取った。


「一体どんな話なのですか?」


「はい。さっきも言ったようにこの街に来るのは地方の労働者たちなのですが、どうも彼らは元居た故郷で仕事を失った人たちのようなのです。どんな生活をしていたのかは知りませんが、あまり豊かではないようでした」


 溜息を吐いて首を横に振るローベルト。その素振りからは、あまり気持ちの良い話ではなさそうだった。それを吐き出すようにローベルトは話し続けた。


「時々街に出ると、そうした労働者たちを目にするのですが、あまり元気そうな顔をしていませんでした。故郷で大変な目に遭ったのか、苦しそうな顔をしておりました」


 その時のことを思い出したのか、ローベルトも辛そうな顔を見せていた。その顔からは、あまりいい想像はできなかった。


「それに、何故かはわかりませんが、小麦の価格もこの数年で上がっているのも気になります」


「小麦の価格が?」


 経済というのは、社会の動向と密接に繋がっている。株価、貨幣価値、そしてモノの価格。一見無関係に見えるものも、経済的には大きな影響があるのだ。


 小麦の価格が上がっている。商人であるローベルトは、そこに違和感を覚えているという。


「ローベルト様。小麦の価格が上がっているというのが、どうして気になるのでしょう?」


「ええ。価格が上がること自体は不思議ではありません。パブロフスクをはじめ、アスタボは近代化を進めています。それだけ労働力が増えるので、価格が上がるのは当然と言えます。しかし、同時に小麦の生産量が下がっているのが気になります」


 しばしの沈黙。どう答えればいいのか考えている様子で、ローベルトは次の言葉を発した。


「価格の上昇の仕方が、少し急すぎる気がするのです」


 確かにおかしな話だ。小麦の価格が上がるのはまだわかるが、生産量が下がるというのは、本来ならあり得ない話だ。需要が高まっているのに、生産量が落ちるというのは、経済的にはおかしな話だった。


「実を言えば、我が社はアスタボで生産された小麦を仕入れて、グラーセンに送ったりもしています。アスタボは小麦の大生産地を持っており、小麦の輸出国でもあります。そんなアスタボで価格が高騰したり、生産量が落ちれば、我が社だけでなく本国にとっても問題になりかねません。小麦については常に目を光らせているのです」


 アスタボの小麦を輸入しているグラーセンにとっては、小麦一粒の価格でさえ、無視できない影響を持っている。ローベルトが過敏になるのも無理はなかった。


「しかし、それらのことを考えると、やはりアスタボ政府は国内のことで手一杯なのかもしれません」


 唐突にローベルトが呟く。その呟きの真意をクラウスが問いかけた。


「ローベルトさん。それはどういう意味です?」


「いえ、アスタボは先帝の時代から近代化を推し進めております。そうして今、このパブロフスクも大いに発展しました。しかしそうして発展した結果、少し社会に不穏な空気が漂い始めているのも確かです。ハープサル閣下をはじめ、政府はこれらの諸問題に頭を痛めているのかもしれません」


 先帝から続く改革の時代を、今のフォードル皇帝は引き継いだのだ。それにハープサルも先帝の時と同じように近代化を推し進めている。その近代化政策に、全く問題がないはずはないのだ。


 世界で最初に近代化を成し遂げたローグ王国でさえも、多くの問題を引き起こしている。労働力不足を補うための非道な児童労働。新たな産業による失業者の増加。それまで守られてきた社会の変質。


 ローグはそれらの問題を一つずつ乗り越え、世界の帝国の地位を手に入れたのだ。今、アスタボでは同じようなことが起きているのかもしれない。


「こう言っては何ですが、アスタボ政府は外交に力を注ぐ余裕がないのかもしれません。近代化を推し進めたい中で、グラーセンの帝国統一については、力を向ける余裕がないのかもしれませんね」


 実際その通りかもしれない。国内のことで手一杯なのに、他国の問題にまで顔を突っ込む余裕がないのかもしれない。


 考える頭は一つ。そんな頭を痛めている状況で、別の問題まで考える余裕など、あるはずがないのだ。クラウスが窓の外を見た。外を歩く人々は楽しそうで、見事に発展した街も素晴らしいものに見えた。しかし、その裏で問題が起きていると思うと、クラウスはそこに嫌なものを感じ取るのだった。


「さて、お二人の役に立つお話ができたでしょうか?」


「はい。貴重なお話、ありがとうございます」


 微笑みを浮かべるユリカ。すると彼女はローベルトに声をかけた。


「ローベルト様。もしよろしければ他に何かお話を聞ける人物に心当たりはありませんか? できる限り情報を集めたいと思っておりますの」


「ふむ……情報ですか」


 顎に手を当てて考えるローベルト。


「それならちょうどいい相手がいます。きっと良い相談相手になってくれますよ」




 パブロフスクの中心街にその建物はあった。アスタボ最大の新聞社・コメルサント。アスタボで最も読まれている新聞社だった。クラウスたちはその前に立っていた。


 ローベルトがここを紹介してくれたのは、ローベルトたちの会社がコメルサントと繋がりがあったからだ。要するに、ローベルトはコメルサントから情報を受け取っているのだ。


 なるほど、と思う。確かに新聞社なら、アスタボの情報を全て握っていると言ってもおかしくはない。実際コメルサントは政治・経済についての記事も多いので、アスタボ政府の動向についても何かを知っているかもしれない。


「なんというか、意外な場所を紹介されたな」


「そうね。でも確かに貿易会社なら、新聞社とも繋がりがあってもおかしくはないわね」


 感心した様子で頷くユリカ。彼らのように諜報部員のような人間では、新聞社と接触することはあまりないことだった。盲点というべきか、自分たちでは得られない繋がりに、クラウスも感心していた。


「さ、行きましょう」


 ユリカがそう言って歩き出す。それに続いてクラウスもコメルサントに入った。


 中に入って受付に向かう。ローベルトからもらった紹介状を受付に渡すと、二人はそのまま客室へと案内された。


 しばらくすると、ノックの音が響いた。それからドアを開いて、一人の紳士が入ってきた。


「はじめまして。ローベルトさんから紹介されたというのは、貴方たちですか?」


 紳士は微笑みを浮かべて、クラウスたちに歩み寄った。クラウスたちも立ち上がり、笑みを返した。


「はじめまして。ローベルト様からこちらを紹介されてやってきました。ユリカ・フォン・ハルトブルクと言います。お見知りおきを」


「自分はクラウス・フォン・シャルンストと言います。はじめまして」


 二人の挨拶を受け取り、紳士は嬉しそうに笑った。


「ほう。あのハルトブルク家の。これは驚きましたな」


 ここでもハルトブルクの名は大きな影響力を持っているようだった。


「私はヤコブレフと言います。何か私に相談したいことがあるということですが、私で務まりますでしょうか?」


「もちろんですわ。こちらで無理なら、他に頼る方はいらっしゃらいないかと」


「なるほど。それなら、失望させることのないよう、務めさせてもらいましょう」


 そういって机を挟んで二人の対面に座るヤコブレフ。それに倣うようにクラウスたちも腰を下ろした。


「それで? 相談したいというのは、どのようなことでしょうか?」


「はい。実は私たちはアスタボ政府の内情について調べているのです。そのことについてお話を伺いたいと思っております」


「ほう? 政府の内情、ですか?」


 ユリカの一言を受け取り、少し黙り込むヤコブレフ。クラウスが怪訝に思っていると、黙っていたヤコブレフが顔を上げた。


「もしやお二人は、グラーセン政府から派遣された捜査員、でしょうか?」


 思わずドキリとするクラウス。やはり新聞社にいる人間だからか、クラウスたちの素性に何か感じ取るものがあったのだろう。


「どうして、そのようにお思いに?」


「グラーセンも最近は帝国統一で忙しいみたいですからね。政府の人間が来たとしても不思議ではありません」


 そんな風に語るヤコブレフ。コメルサント程の大きな新聞社なら、色々な人間が接触するのもおかしくはない。そんな世界に生きているのだ。ヤコブレフも磨かれてきた人間なのだ。


「それで、やはり何か密命を?」


 問いかけてくるヤコブレフ。するとユリカが悪戯な笑みを浮かべて見せた。


「そこは乙女の秘密、ということにしてくださいませ」


 その答えが気に入ったのか、ヤコブレフは面白そうに笑ってくれた。


「ふむ。政府か、もしくはグラーセン軍の関係者か。そんなところでしょうか。まあ、全ては問いますまい」


 色々と察してくれたのか、ヤコブレフはそれ以上何も言ってこなかった。これも新聞屋なりの交渉術なのかもしれない。


「それで、政府の動向を知りたいということですが、具体的にはどのようなお話をお望みですか?」


 ヤコブレフが慣れた様子で切り出す。それに応じるようにユリカが口を開いた。


「ヤコブレフ様。お察しの通り我々はグラーセンから派遣されております。詳しいことは言えませんがグラーセン大使館で働いております。目的は先ほど言われたとおり、帝国統一についてです。そのためにアスタボ政府がグラーセンに対して、どのような態度を持っているのかを知りたいのです」


「ほう……なるほど」


 ある程度予想できていたのか、ヤコブレフは不思議と納得した様子で頷いた。


「それは統一というよりも、アンネルとの戦争に関して、ということでしょうか?」


「想像にお任せしますわ」


「ふむ……」


 ヤコブレフは何も言わないが、大体のことは把握したのだろう。ヤコブレフは口を開いた。


「グラーセンでスタール宰相が帝国統一を公表した時、当然我が国も驚きが広がりました。我が社でも情報を集めるべく、政府筋を調べてきました」


 世界を変えるであろうスタールの演説。それはアスタボでも同じように波紋を広げていた。そのアスタボで何が起きるのか、新聞屋であるヤコブレフたちも色々と調べてきたはずだ。


「多くの記者が情報をかき集めてきました。そこから推測になりますが、政府はグラーセンの統一事業には無関係でいたいようです」


「それはつまり、中立を望んでいるということですか?」


 思わず訊き返すクラウス。もしグラーセンがアンネルと戦争になった時、その背後になるアスタボが中立であることは、グラーセンにとっても望ましいことだ。


 ただ、クラウスの問いかけにヤコブレフは困惑した顔を見せた。


「はい。しかしだからと言って、グラーセンの統一事業に賛同しているわけでもないようです」


 首を傾げるクラウス。グラーセンに対して中立でいたい。しかし統一事業に賛同はしていない。それはどういうことなのだろうか?


「政府はグラーセンの統一事業には反対なのですか?」


「決して反対というわけではありません。アスタボの利益になるのであれば問題はないようです。ただ、積極的に賛同することができない事情があるようなのです」


 ヤコブレフの話を聞いてクラウスが思い出す、確かナタリアも同じようなことを言っていたと思う。何かハープサルには、グラーセンを支持できない事情があるとか。


「その事情というのは、何かわかりますか?」


「申し訳ありません。そこまでは何とも……」


 ヤコブレフはそれだけしか答えなかった。彼らも色々と探って入るのだろうが、全てを知るに至ってないようだった。


 ならばとユリカは質問を変えた。


「ヤコブレフ様。私たちが調べたところでは、ハープサル閣下をはじめ、政府は別のことで頭を悩ませていると、話を聞きました。何かそう言った話に心当たりはありませんか?」


「心当たり、ですか……」


 ヤコブレフが黙り込む。少し考えた後で、彼は何かを思い出したように口を開いた。


「関係あるかはわかりませんが、最近政府に対する支持率が低下しつつあるようです」


「支持率、ですか?」


「はい。最近このパブロフスクに、地方出身者が流入しているのは御存じですか?」


 それはローベルトからも聞いた話だ。地方に住む人々が仕事を求めて、パブロフスクに集まっているということだ。


「はい。それが何か?」


「どうも政府に対して不支持を示しているのは、全てその地方出身者のようなのです」


 新聞社にとって、世論というのは最も重要な調査対象だ。ヤコブレフが言うのであれば、政府の支持率が低くなっているというのは、確実なことのようだ。


 問題は、何故支持が下がり続けているのか、ということだ。


「何故彼らは政府への反発を強めているのでしょうか?」


「まあ、彼らのほとんどは地方で農業に従事していた人たちのようで、先帝が推し進めてきた近代化政策によって仕事を失った人々のようです。彼らにとって近代化を推し進めた先帝や政府は、彼らの食べる糧を奪った相手に映っているのでしょう」


 無理もない話だ。近代化によって仕事を失う人はどうしても出てくる。仕事を失った彼らにとって、近代化を推し進めてきた政府は、憎むべき相手になってしまうのだ。


「おそらく彼らの存在は、政府にとっては頭を痛める存在だと思います。彼らのように政府とその政策に対する不支持は、近代化を進めたい政府にとっては邪魔な存在でしょうから」


 アスタボの近代化はまだ途上にある。ローグなどの先進国に追いつくには、まだまだ近代化を加速させる必要があった。そんな状況で近代化に負のイメージが付き纏うようでは、近代化は停滞してしまう可能性がある。アスタボ政府にとっては避けたい事態だろう。


「このまま近代化に反対する者が増えれば、政府の近代化政策は止まってしまうでしょう。そうなればローグやアンネル、それにグラーセンとの差は大きくなるばかり。それだけは避けたいことでしょう」


「なるほど。するとやはり政府は外交よりも国内の問題に注力したいということになりますでしょうか?」


「あくまで想像ではありますが、その可能性はあります。情けない話、アスタボの近代化は遅れております。仮にグラーセンやアンネルと戦争になった時、負けないまでも勝つのは難しいでしょう。ましてやローグ王国相手にもなれば、どれほどの損害が出るかわかりません。そうならないためにも、アスタボは強くならなければならないのです」


 ローグをはじめ、近代化に成功した国はまさに列強である。その工業力、経済力は言うまでもなく、軍事力も強大なものとなる。アスタボも大国とは言え、近代化は遅れている。近代化を成し遂げた西側諸国と戦争になったら、アスタボでもどうなるかわからない状況だ。


 強大な国力と軍事力。その両方を持つことで初めて列強となれる。アスタボが列強のままでいるには近代化を急がないといけないのだ。


「それでは、グラーセンとアンネルとの対立には介入しないと?」


「少なくとも、参戦することはまずあり得ないでしょう。そっとしておいてほしいというのが政府の本音かと思われます」


 ヤコブレフの話を聞いて、クラウスとユリカはお互いに頷き合う。これまで聞いてきた話から辻褄が合う内容だった。


 アスタボ政府がグラーセンとアンネルとの戦争に中立でいたいのは確実なことのようだ。おそらくハープサルも同じだろう。


 アスタボとの間に不可侵条約を結びたいグラーセンにとってはありがたい話だ。


 ただしかし、内心で首を傾げるクラウス。どうしても気になることがあった。


 それはユリカも同じようで、クラウスと同じような顔をしていた。


「私の話は、お役に立ちますでしょうか?」


 ヤコブレフが問いかける。新聞屋としての情報には確かに価値があった。ユリカはそれを素直に感謝した。


「もちろんです。我々のような人間では得られない情報です。お話していただけて、感謝申し上げますわ」


 そう言って右手を差し出すユリカ。その手をヤコブレフは優しく握り返した。


「もしまた何かあれば、また私を頼ってください。できることがあれば力になります」


「それはありがたいですが、よろしいのですか?」


 思わずクラウスが訊き返す。他国の人間にそこまで懇意にすることに、ヤコブレフに利益があるようには思えなかった。


 するとヤコブレフは不敵な笑みを零した。


「人脈というのは貴重な資産です。特にハルトブルク家と繋がりを持てば、我々もグラーセンでの足掛かりを得られます。むしろこの出会いは我々にとって幸運だと思っております」


 確かにハルトブルクとの人脈を得れば、ヤコブレフたちはグラーセンで大きな人脈を得られることになる。そんな考え方もあるのだと、クラウスは感心させられた。


「もし我々がグラーセンに支局を構えた時は、懇意にしていただきたく思います」


「あら? 我がハルトブルクがお役に立てるかはわかりませんわ」


「はは、それは大丈夫でしょう。女性は噂話や世間話がお好きでしょうから」


 そう言って、お互いに笑みを交わすユリカとヤコブレフ。その横でクラウスはじっと黙り込む。彼の中では、まだ解決できない問題が渦巻いていた。




 コメルサントを出て大使館へと向かうクラウスたち。パブロフスクは夕刻を迎えており、帰路に着く者や、食事に向かう者など、多くの者が街を歩いていた。


 そんな街を二人並んで歩くクラウスとユリカ。すると唐突にクラウスが口を開く。


「どう思う?」


 その問いにユリカは即座に答えた。


「アスタボ政府がグラーセンとアンネルの戦争に中立でいたいというのは、間違いないと思うわ」


 その言葉にクラウスも頷く。これまで聞いてきた話を考えれば、クラウスも同じ結論に至っていた。


「だけど、どうしてもわからないことがあるわ」


 すると今度はユリカが口を開いた。その真意がわかるクラウスは代わりに言葉にした。


「何故アスタボ政府は、グラーセンの帝国統一政策に賛同できないのか、だろう?」


 その一言にコクリと頷くユリカ。それは二人とも抱いていた疑問だった。


 ローベルトとヤコブレフ。彼らの話からわかるのは、アスタボはグラーセンとアンネルの対立に無関係でいたいと思っていることだ。それは間違いなさそうだった。


 だが、彼らは同じことを言っていた。アスタボ政府はグラーセンの帝国統一政策を支持できないというものだった。


 グラーセンに対しては中立でいたい。しかし帝国統一には賛成できない。何か矛盾しているような話だった。


 何かアスタボにはグラーセンを支持できない理由がある。そのせいではっきりと中立を表明できないでいるのかもしれない。


 そこまで考えたところで、クラウスは結論に至った。


「その支持できない理由とやらを解決できれば、アスタボとの間に不可侵条約が結べるかもしれない」


 統一政策に賛同できない理由。それさえ取り除ければ、アスタボもグラーセンの味方になってくれるかもしれない。


 ならば、次にすることは決まった。


「だったら、それを探らないといけないわね」


「そうだな」


 二人は街を歩く。パブロフスクはもうすぐ夜になろうとしていた。そんな街を歩きながら、ユリカが笑う。


「ねえ、少し遠回りして帰らない?」


「え? どうしてだ」


 思わず怪訝な顔を見せるクラウス。何故遠回りする理由があるのか、クラウスにはわからなかった。


「どこか寄るところでもあるのか?」


「そういうわけじゃないわ。ただせっかくこの街に来たのだから、遠回りしたいのよ」


 ユリカの言葉がよくわからないクラウス。するとそんな彼に苦笑いを浮かべながら、ユリカが言った。


「遠回りが目的の遠回り、やったことないのかしら?」


「遠回りが目的?」


 やはりよく意味がわからないクラウス。ユリカはそんな彼の手を取って歩き出した。


「行きましょう。遠回りする楽しさを、教えてあげるわ」


「お、おい」


 戸惑うクラウス。それに構わず歩き続けるユリカ。戸惑いつつも、これもいつものことかと苦笑いを浮かべるクラウス。彼は諦めて、そのまま遠回りに付き合うことにした。


 それから二人はたっぷり遠回りをしながら、パブロフスクを歩くのだった。




「なるほど。そんなことが……」


 翌朝、大使館の食堂に集まったクラウスたち。ユリカはアイゼンに昨日調べた内容を伝えた。ローベルトとヤコブレフの話は、アイゼンにとっても興味深い内容だったようだ。


「確かに最近は、地方からハブロフスクへの人口流入は止まらない様子でした。ただ、政府への支持率まで下がっているというのは、初めて聞きました」


「アイゼン大使。おそらくですが、ハープサル閣下がグラーセンを支持できない理由についても、そこに原因があるのではと考えているのですが、いかがでしょう?」


 ユリカの言葉を受けて、アイゼンも同意してくれた。


「その可能性は高いかと思います。今アスタボにとって近代化は最優先課題のはずです。もし政府の近代化政策が支持を得られないとなれば、近代化は遅々として進まないでしょう。アスタボ政府にとっては無視できない問題のはずです」


 その点はユリカとクラウスも同じ意見だった。近代化を推し進めたいアスタボにとって、支持率の低下は近代化を遅らせる原因となってしまう。


 そして、その問題のせいでアスタボ政府、そしてハープサルはグラーセン支持を表明できないのだとユリカたちは考えていた。


 ならば、次にやることは決まっていた。ユリカはニンマリと笑った。


「では、その原因を探ることができればいいわけですわね?」


「そのようですね」


 アイゼンもニヤリと笑う。光が見え始めたことで、二人は愉快そうに笑った。その横から、クラウスが問いかける。


「しかし、どのように調べるのです? 他に話を聞けそうなところなど、あるでしょうか?」


 新聞社にまで話を聞きに行ったのだ。他に調べられそうな場所をクラウスは心当たりがなかった。


 すると、そんな彼をニマニマしながらユリカが見つめていた。


「なんだ? 何か変なことを言ったか?」


「そうね。まだまだあなたはおりこうさんだなって思っただけよ。そんなところも素敵だけど」


 いきなりそんなことを言われて首を傾げるクラウス。一体どういう意味なのだろうか?


 戸惑うクラウスだが、ユリカはそれ以上何も言わず、アイゼンに顔を向けた。


「アイゼン大使。それでは準備をしていただけますか? 特別オシャレなものをお願いしますわ」


「かしこまりました。クラウス様も同じように?」


「はい。お願いしますわ」


 二人だけで話を進めているが、クラウスには何のことかわからなかった。ただ、ユリカがどこか楽しげにしているのだけはわかった。




 クラウスとユリカ。二人は並んで街を歩いていた。ただ、昨日と違いパブロフスクの中心街ではなく、そこは下町の市民街であった。


「なるほど。話を聞くのなら、直接相手に話を聞きに行くってことか」


 クラウスの言葉にユリカがニッコリ笑う。


「いつもやっていることでしょう? 話を聞くなら直接聞きに行くって」


 そう言ってまた歩き出すユリカ。その後ろをクラウスも続いて歩く。


 二人が向かっているのは、地方出身者が集まっている市民街だった。アスタボ政府を支持しないというのであれば、その理由を直接相手に聞きに行こうというのだ。


 確かに任務ではいつもやっていることだ。そのことを忘れていたことを、クラウスは恥ずかしく思った。


 しかし、それ以上に彼は変な気分になっていた。それは目の前を歩くユリカの姿にあった。


「しかし、捜査に行くとは言え、市民の格好を真似るとはな……」


 今彼らはいつもの服ではなく、市民が着る衣服に身を包んでいた。


 ユリカがアイゼンに頼んでいたのは、市民の衣服を用意することだった。クラウスたちがいつも着る服だと、市民街では目立ってしまう。なるべく目立たないような服を着て行くことで、市民街に紛れ込もうとしたのだ。


 理屈はわからなくもないのだが、市民が着るような、それこそ農民が着るような服をユリカが来ているので、クラウスは不思議な感覚を覚えていた。


 クラウスが見つめる。そのことに気付いたユリカが笑みを向けてきた。


「どう? 似合ってる?」


 踊り子みたいにその場でターンして見せるユリカ。下町でよく見る素朴な衣服で、いつもユリカが着る服とは、とても違っていた。


 しかし、そんな衣服を身に纏っていても、何故かユリカに似合っているのだから、クラウスには不思議に思えた。


「どうしたの? 見惚れるくらい、可愛かったかしら?」


 そして、そんな服を着るのが嬉しいのか、ユリカもいつも以上に楽しそうに笑っていた。


「……そうだな。こんな服を着るのは初めてだから、正直戸惑っている。君は慣れているのだな」


「ふふ、そうね。こういう服も悪くないわ。そういうあなたも似合っているわよ」


 そんなことを言いながら微笑みかけるユリカ。クラウスも同じような服を着ていた。どこかおかしなところはないか、正直不安ではあった。


「そ、そうか? どこもおかしくはないか?」


「ええ。安心して。いつも通りの色男よ」


 安心していいのかわからないが、少なくともおかしなところはないのだろう。それなら良しとしておこうと思った。


「さ、行きましょう。せっかくだから楽しみましょう」


 そう言ってクラウスの手を引くユリカ。これもいつも通りと、クラウスは苦笑いを浮かべていた。




 人間というのは安心できる場所に住みたいというもので、特に同胞意識が強い生き物だ。大都市では移民は移民同士で集まって生活することが多い。それはパブロフスクでも同じだった。


 地方出身者の集まる市民街にクラウスたちは来ていた。その光景を見て思ったのは、くたびれているという印象だった。


 街には色々な人が集まっていた。彼らはみんな、疲れている顔をしていた。


 何と言うのか、活気がないのだ。まるで気力がなく、活力がない。街全体が疲れているように見えたのだ。


「なんだか、みんな疲れているわね」


「そうだな」


 無理もない。仕事を求めてこの街に来たという話だ。今までに大変な苦労をしてきたのだろう。疲れても仕方のない事だ。


「とりあえずどこに向かう?」


 問いかけるクラウス。すると答えは決まっているようで、ユリカはニッコリ笑った。


「こういう時はね、美味しいものがあるところに行けばいいのよ」


 要するに、酒場かレストランに行こうということだ。今までもそうして情報を集めてきたのだ。


 ただ、ユリカは美味しい食べ物があるかどうか。そのことが楽しみで仕方ないようだった。


 苦笑いを浮かべつつも、クラウスも最後には彼女の提案に同意した。


「ああ、わかった」




 彼らが向かったのは市民街にある酒場だった。昼間からやっているのか、すでに客が集まっていた。ただ、その雰囲気からは楽しんでいるというより、愚痴っぽい空気が漂っていた。


 クラウスたちが店内に入る。客たちは一瞬二人を見るが、すぐに興味を失くしたのか、また酒に手を伸ばした。


 クラウスたちがそのままカウンターに向かうと、店主と思しき男が近寄ってきた。


「いらっしゃい。何か飲むかい?」


「それでは、ビールを二人分」


「あいよ。初めて見る顔だな? 最近引っ越してきたのかい?」


 店主が話しかけてくる。クラウスたちを周りと同じ移民と思ってくれているようだ。好都合なので、話を合わせることにした。


「ええ、最近ツルゲフから引っ越してきました。はじめまして」


「ほう。ツルゲフか。グラーセン人に似ていると思っていたが、なるほどな」


 ツルゲフはグラーセンに近く、グラーセン人とよく似ていた。なのでツルゲフ出身ということにすればグラーセン人であることは疑われないと思ったのだ。店主も納得してくれたようで、変に思われてはいないようだった。


「確かにあそこからも移民が多くなってきてるからな。そっちも苦労しているようだな」


 そんな風に心配そうに見つめてくる店主。彼はクラウスを見ていた。


「そんな風に暗い顔になって。大変だったみたいだな。こっちまで暗くなりそうだ」


「……」


 クラウスは何も答えられず、無言になった。別に意識しているわけではなく、いつもと同じ顔をしているだけだった。要はいつもと同じ『暗い顔』をしているだけなのだ。


 横を見ると、ユリカが俯いていた。よく見ると体が震えていた。もちろん悲しんでいる、というわけではなく、笑いをこらえているだけだった。


 クラウスも自分が無表情で不愛想なのは自覚していたが、さすがに暗い顔と言われると、複雑な気持ちになった。


 そんなクラウスに店主がビールを差し出した。


「まあ、まずは飲むといい。口に合えばいいがな」


「……え、ええ。ありがとうございます。しかし話には聞いていましたが、こちらもみなさん苦労しているみたいですね」


「そうだな。昼間からヤケ酒してしまうくらいにな。まあ、それすらもなくなったら、何も残らないがね。こういう仕事をしている身としては複雑だがね」


 酒が売れるのはいいとしても、美味しい酒にならないのは酒場としては本意ではないということだろう。


「こちらのみなさんはどちらの出身ですか? 見たところ色々な人が集まっているようですが?」


 クラウスの言うとおり、その見た目からは同じ地域の出身ばかりではないようだった。


「文字通り色んな所から集まってきているのさ。それぞれ自分たちの故郷で仕事を失くして、こうしてパブロフスクにやってきたのさ。まあ、見ての通りここでも苦労はしているがね」


「そうですか……それではみなさんも政府の政策で仕事を?」


「ああ。政府の近代化のあおりを受けて仕事を失くしているのさ。ここにくれば仕事があると思ってきたんだろうが、あまりいい知らせはないらしい」


「やはりみなさん、政府に不満を?」


 すかさず問いかけるクラウス。店主は特に戸惑うことなく話続けてくれた。


「そりゃそうさ。政府も救済してくれるとは言っているが、信じる奴はいないよ。実際、政府は民草よりも、近代化の方が大事なんじゃないか? 石炭と一緒に自分たちの死体も燃やされるんじゃないかって、みんな言ってるぜ」


 あまりの言葉にユリカが眉をひそめる。そこまで言われるほどに彼らの間で政府への反発が生まれているようだった。


「やはりみなさんは、近代化政策には反対ですか?」


「まあそうだろうね。必要なことだってのは理解できるが、そのせいで仕事を失くして、苦労しているわけだからな」


 クラウスがビールを口に運ぶ。やはりこういう時に飲むビールは、美味しくなかった。ユリカも同じようで、あまりいい気分ではない様子だった。


 その時、店の外が少し騒がしくなるのが聞こえてきた。


「ああ、もうそんな時間か」


「何かありましたか?」


「近くにある広場で食事を配っているんだ。よかったらついて行くといいよ」


 慈善事業というものだろう。その日の食事にありつけない者に施しがあるようだ。


 クラウスがお金を置いて立ち上がる。それに続いてユリカも同じように立ち上がる。


「ありがとうございます。ビール、ごちそうさまでした」


「ああ、そっちもがんばれよ」


 外に出ると、大勢の人間が歩いていた。クラウスたちはそんな彼らについて行くことにした。


 見れば疲れた顔の者が多く、やはり苦しい生活を送っているようだった。だがそれでも彼らは笑いながら言葉を交わしていた。それだけでもまだ救いがあった。


 肉体だけでなく、心まで空腹になってしまえば、人間は笑う力すら失くしてしまう。まだここにいる人たちは、心までは死んではいないようだった。そのことにクラウスは安心した。


 そんなことを考えていると、横から笑い声が聞こえてきた。クラウスの横を歩くユリカが、面白そうに笑っていた。


「なんだ? 何がおかしいんだ?」


「ふふ、だっておかしいんだもの」


 一体何のことかと思っていると、ユリカがいつもの笑みを向けてきた。


「初めて会う人に『暗い顔』なんて言われるなんて、さすが私の色男だわ」


「……ああ」


 どうやら先ほど酒場の店主に言われたことを思い出していたようだ。きっと今まで笑うのを我慢していたのだろう。思いっきり笑っていた。


「そうだな。君が楽しそうで何よりだ」


「ふふ、ごめんなさい。そんなにいじけないでちょうだい。せっかくの色男が台無しよ」


 まだまだ楽しそうに笑うユリカ。まあクラウスも自分の顔が暗く見えるのは自覚していた。父親にもよく注意されていたことだ。仕方のない事だと思っている。


「まあ、確かにこんな顔では、暗いと言われても仕方ないか」


「そうね。まあでも、私はそれでもよかったと思うわ」


「ん? なんでだ?」


 何気なく問いかけるクラウス。ユリカはそんな彼にニンマリと笑いかける。


「あなたが色男だと知っているのは、私だけでいいでしょう?」


 いきなりそんなことを言ってくるユリカ。思わず口ごもるクラウスに、ユリカがさらに続けた。


「女の子は欲張りなの。大切なものは独り占めしたくなるのよ」


 大切なもの。という言葉を強調するユリカ。さすがにその言葉に戸惑うクラウスは、ただ一言だけ返した。


「君が私に飽きないことを祈るよ」


 そんな言葉にもユリカはニッコリ笑うのだった。


 そういえばジョルジュも似たようなことを言っていたが、やはり女性というのはみんな欲張りなのだろうかと、そんなことを考えるクラウスだった。




 広場には多くの人が集まっていた。すでに配給も始まっているようで、パンとスープを手にした人々が、ホッとしたように食事を始めていた。


 クラウスたちもパンとスープをを受け取る。スメタニと呼ばれるスープが独特な香りを漂わせていた。


 クラウスたち近くで食事をしている男たちに目をつけ、彼らに近寄った。


「こちら、よろしいですか?」


「ん、ああ、いいよ。ここに座んなよ」


 ここでもクラウスの顔が効いたのか、男は特に疑いもせずに受け入れてくれた。クラウスたちはそのまま男の隣に座った。


「初めて見る顔だね。新入りかい?」


「はい。最近二人で引っ越してきました。ここでパンを配っていると聞いてやって来ました。」


「そうか。お互い苦労するな。」


「みなさんも苦労されているようですね」


「ああ。俺たちは元々故郷で職人をやっていたんだがね。近代化政策のあおりを受けたのさ。俺たちがやっていた仕事を、巨大な機械が奪いやがったのさ。こうしてパブロフスクにやって来たが、今じゃこの有様。情けない話さ」


 そう言って自嘲気味に笑う男。そうでもしなければ笑えないというのもあるかもしれない。


「そうですか……やはり政府には不満がおありで?」


「そりゃあな。不満がないと言えば嘘になる。近代化で国が豊かになるってのは理解できる。だがそれで生きる糧を奪われるってのは、納得できないものがある。俺だけじゃない。ここにいる奴らは政府に不満を持つ奴ばかりさ」


 やはりそういうものなのだろう。無理もない事だ。さすがにクラウスも同情心が芽生えていた。


「そうですか。しかしそれなら政府に陳情したりはしないのですか?」


「そんなことを考える奴もいるな。最近はここにいる奴らを集めて、何かしようとするのがいるがね」


「へえ。そんな人たちがいるのですか? 誰です?」


「さあな。どこの誰かまではわからないな。確か若い貴族がいたのを覚えているな」


「貴族、ですか?」


 思わず訊き返すクラウス。


 クラウスは何故か気になった。人を集めているという話に、何かありそうな気がした。


「失礼、その人たちはどこにいますか?」


「さあ、わからないな。人を集めてどこかに連れて行っているらしいが、どこに行ったかまでは知らないんだ。色々な人に声をかけて、限られた奴だけ連れて行っているらしい。もしかしたら、皇帝陛下に直接陳情しに行くんじゃないか?」


「それはまた……大それた話ですね」


 皇帝に直接陳情するなど、恐ろしい話だ。下手をすれば収監されてもおかしくなかった。


「しかし、それだとみなさんは陳情はなさらないのですか?」


 そんなクラウスの問いかけに男はくだらないと笑った。


「そんなことで腹が満たされるなら毎日行くがね。だがそうじゃないだろう? そんなことしなくても、こうしてパンにありつける。それだけでもまだ救いがあるからな」


 決していいことではないだろうが、少なくとも彼らはそれで生きていける。正しくはないが、間違いではないのだろう。


「あとはまあ、もう少しだけ生きやすい世の中になってくれるのを待つだけさ。そうなれば、俺たちも生活しやすくなるんだがね」


 本当にそんな世の中になるかなんて、男も疑っている。それでもそういう風に思わずにはいられないのだろう。男はそれだけ答えるのだった。




「そうですか……市民の間で、政府に対する不満が高まっていると」


 翌朝、大使館で報告を受けたアイゼンが頷く。大使館にいるだけではわからない情報にアイゼンも感心するように頷いていた。


「はい。色々と情報を集めることは出来ました。ただ……」


 ユリカがアイゼンと話していると、唐突に彼女の顔が曇った。


「わかったのはそれだけです。何故アスタボ政府がグラーセンを支持できないのかまではわかりませんでした」


 クラウスたちの目的は、アスタボ政府がグラーセンを支持できない理由を探ることだ。これまでの調査では、その核心にまでは至ることは出来なかった。


「なるほど。もしかしたら、もっと複雑な事情があるのかもしれませんね。こちらからも探ってみることにしましょう」


 大使館も一種の情報機関であり、独自の情報の入手ルートを持っている。大使館で探れば、何かわかるのかもしれない。


「わかりました。お願いします。アイゼン大使」


「お任せください。あ、そうだ」


 その時、アイゼンが机から何かを取り出した。小さな紙切れ二枚が彼の手に握られていた。


「お嬢様。約束のチケットが手に入りました。どうぞお受け取り下さい」


 アイゼンの言葉にユリカの顔がぱあっと笑顔になった。


「まあ! 本当ですか! ありがとうございます」


 嬉しそうにはしゃぐユリカ。何のことかわからないクラウスは怪訝そうな顔をしていた。


「えっと、チケットって、何のことですか?」


「ええ。実はミハイロ美術館のチケットが手に入ったのですよ」


「私がアイゼン大使にお願いしたの。せっかくだから行ってみたくて。すごく人気だから、まさか手に入るとは思ってなかったわ」


 チケットを嬉しそうに握るユリカ。確かにミハイロ美術館のチケットと言えば、入手困難なことで知られている。


「お二人は最近歩き回ってばかりでしょう? 今日くらいは久しぶりに遊びに出てはいかがです?」


「え? 二人?」


 クラウスが声を上げる。一体何のことかと思っていると、アイゼンがニヤリと笑った。


「チケットは二人分、ありますでしょう?」


 クラウスがユリカを見る。確かに彼女の手には、二枚のチケットがあった。


「安心しなさい。ちゃんとあなたの分もお願いしといたから」


 そう言ってニンマリと笑うユリカ。こうして、この日の予定が決まったのだった。





「わあ! やっぱりすごいわね!」


 そう言ってはしゃぐユリカ。彼女はミハイロ美術館の、その入り口の前に立っていた。入り口は荘厳な作りになっており、それ自体が一つの芸術作品のように思えた。


「遠くから見ても素敵だったけど、近くに来るとやっぱり見応えがあるわね」


 まだ入ってもいないのに楽しそうなユリカ。そんな彼女を戸惑い気味にクラウスが見ていた。


「ん? どうしたの? 何か気になるのかしら?」


「いや、そういうわけではないのだが……」


 いつものことではあるのだが、やはり仕事をせずにこうして観光するというのは、クラウスにとっては戸惑うことでしかなかった。仕事もせずに遊びに出るというのは、彼の中で罪悪感が渦巻くのだった。


 そんな彼の心情を察したのか、ユリカが微笑みながら近寄ってくる。


「いいじゃない。素敵な街に来たんだもの。一緒に楽しみましょう。それにせっかくアイゼン大使がチケットを取ってくれたのだから。好意に甘えましょう」


 そんなことを言うユリカ。まあ確かに、アイゼンは入手困難なチケットを二人のために用意してくれたのだ。その行為に甘えないというのも、失礼な話だ。


「……そうだな。せっかくだから楽しむとしよう」


 彼の言葉にユリカが嬉しそうに笑った。


「ほら、行きましょう! 私、ずっと行きたかったの! 今から楽しみだわ」


 小さな子供がせがむようにユリカがはしゃいでいた。その様子を見て、クラウスもはしゃぎたい気持ちをぐっとこらえていた。


 本音を言えば、彼もこの美術館に来たかったのだ。彼の中の知識欲が、この美術館に来たいとずっと訴えていたのだ。


 こうして望みを叶えることができたのだ。今日一日くらいは楽しむことにした。


「ああ。わかったから待ってくれ。今行くから」


 この時だけ、クラウスも楽しそうに笑うのだった。






 ミハイロ美術館は元々はアスタボ皇帝の宮殿だった。初代皇帝ミハイロが建てた宮殿で、ここには歴代の皇帝が収集した美術品が収蔵されていた。国内外問わず集められた美術品は数万に及び、いつしか皇帝の宮殿は、市民に開放された美術館となった。


 それがこのミハイロ美術館であり、世界でも最大規模の美術館だった。


 かつて宮殿だったこともあり、その作りは壮麗であり、美術館そのものが文化財としての価値を持っていた。そんな美術館の中には、数多くの美術品が展示されていた。


 そんな美術品を眺めながら歩くユリカたち。ユリカはもちろん、クラウスも興味深そうに眺めていた。


「すごいわね……聞いてはいたけど、よくこんなに集めたわね」


 通路には各国から集められた絵画が展示されていた。宗教画や風景画。もしくは肖像画などがユリカの目を楽しませていた。


「確かにすごいな。こんなによく集めたものだ」


 クラウスも目を見張っていた。あまり美術については詳しくはないのだが、そんなクラウスでも聞いたことのある偉大な画家の作品がいくつかあった。こういう所にでも来ない限り、目にすることのできない作品ばかりだった。クラウスも知的好奇心が大いに刺激され、静かに楽しんでいた。


「そういえば君は絵画に詳しいのか? ここに来るのが楽しみだったみたいだが」


 ふとクラウスは前を歩くユリカに問いかけた。アイゼンにチケットをお願いする程なのだ。相当来たがっていたのだろうとクラウスは思った。


 その問いかけにユリカは微笑みを返した。


「んー……そうね。絵を見るのは好きよ。だけど、今日はそれだけじゃないの」


 ユリカの答えに首を傾げるクラウス。その時、ユリカが嬉しそうに声を上げた。


「あれよ。あれを見たかったの」


 ユリカが指差す方向には、特別な展示室があった。見ればこの時期に特別に作られた展示スペースのようで、多くの人が入っていくのが見えた。


「ほら、早く行きましょう」


「ああ、わかったから待ってくれ」


 急かしてくるユリカを追いかけるように歩くクラウス。二人はそのまま展示室にはいると、彼らはその世界に釘付けになった。


「これは……」


 思わずクラウスは声を失った。感動でも呆気に取られたわけでもない。ただただ目の前の光景に圧倒されたのだ。


 そこにあったのは、展示室を埋め尽くすように並べられた宝飾品だった。ネックレスや指輪。他にはペンダントもあった。それらは全て貴金属で作られており、色鮮やかな宝石が埋め込まれていた。


「ね? すごいでしょう? ここに来るのが楽しみだったのよ」


 はしゃぐように話すユリカ。どうやらこの特別展示があるのを知って、どうしても来たかったようだ。


 クラウスが周りを見る。その一角に特別展示の説明書きがあった。そこに集められたのは歴代の皇帝や、その家族が身に着けていた宝飾品らしく、皇帝一族の輝かしい歴史の一部として飾られていた。


「確かにすごいな。ここで見ているだけでも、とても綺麗なものばかりだな」


 見ればとても細密な細工が施されており、どれ一つとっても美術品として貴重な価値があるものだとわかった。恐らく使用されている宝石以上の価値があるだろう。それくらいに素晴らしい作品ばかりだった。


「ね? 綺麗でしょう?」


 ニッコリと笑うユリカ。なるほど、ここに来たがっていたこと理由がよく分かった。ユリカもやはり女の子なのだ。綺麗な宝飾品を見たかったのだろう。


「ほらほら。早く行きましょう」


「ああ、わかった」


 そう言ってクラウスの手を引くユリカ。こんなに楽しそうにしているのだ。そんな彼女を見られるだけでも、ここに来た価値がある。そんなことを思うクラウスだった。




 歴代の皇帝やその一族が身に着けていただけあって、そこにある作品はどれも一級、いや特級の価値があった。


 皇帝が愛する皇后に贈ったネックレス。皇帝の子供が使っていた髪留めのバレッタ。宮殿で開かれたパーティーで輝いた皇女のティアラなど、皇帝たちと共に輝いた宝石たちだった。


「綺麗ね……」


 それらアクセサリーをうっとりと眺めるユリカ。女の子らしいユリカの顔にクラウスもつい見惚れてしまった。


「あら?」


 その時、ユリカがあるものを見つけた。そこには家族がいて、その娘が王冠を被っているのが見えた。女の子はとても楽しそうにしていた。


「はて、なんだろう?」


「行ってみましょう」


 二人が行ってみると、美術館の職員が二人を迎えた。


「ようこそ、ミハイロ美術館へ」


「こんにちは。こちらは何をしていますの?」


「はい。こちらはかつての女帝が身に着けていた王冠のレプリカでして、記念に被ることができます。よろしければ、被ってみますか?」


 よほど腕のいい細工師が手掛けたのか、とても精巧な王冠のレプリカだった。本物に似せているだけあって、とても美しいものだった。


「よろしいですの?」


 ユリカが目を輝かせる。レプリカといってもその美しさに嘘はない。やはり彼女も被ってみたいのだろう。


「もちろんです。どうぞ」


 職員が王冠を掲げる。ユリカは膝をついて、頭を下げる。その小さな頭に王冠が捧げられた。


 立ち上がるユリカ。彼女の頭上で王冠が輝く。まるで最初から彼女のものだったかのように、当たり前のように王冠は輝いていた。


「よくお似合いですよ」


「ふふ、ありがとうございます」


 ユリカが嬉しそうに笑う。その様子をクラウスはじっと見つめていた。


 そのクラウスにユリカが振り向いた。


「どう? 似合っているかしら?」


 いつものように自信たっぷりに笑うユリカ。ああ、やはり彼女には王冠がよく似合うとクラウスは感じた。


「ああ、よく似合っているよ」


 その言葉を受けて、ユリカはニッコリと笑うのだった。


 やはり彼女にはお姫様よりも、女王や女帝の方がよく似合う。そんなことを考えるクラウスだった。





 さらに館内を進むと、そこには歴代の皇帝やその一族が使っていたという調度品や家具などが並んでいた。宝石がはめ込まれた置時計や狩猟の時に使われた猟銃などがあった。


「あ、見て見て」


 その時、ユリカが声を上げる。彼女の指差すところを見ると、光り輝く食器類が並んでいた。


 お皿はもちろん、銀色に輝くナイフやフォーク。それらが宝石に劣らぬ輝きを見せていた。


「綺麗ね……」


 それら食器を眺め、うっとりとするユリカ。クラウスも感心して食器を眺めていた。かつての皇帝やその家族は、ここにある食器を使って食事をしていたのだ。ある意味この国の歴史をこの食器類は見てきたのだ。そのことにクラウスも感慨深く感じ入るのだった。


 ユリカもじっと眺める。彼女も色々と思うところがあるのだろう。彼女は黙って目の前の美術品たちをじっと眺めていた。


「ねえ、クラウス」


 その時、ユリカが顔を上げた。どこか不思議な笑みを浮かべていた。


「どうした?」


 何事かと訊き返すクラウス。するとユリカはニンマリと笑った。


「そろそろ食事にしましょう」


 その言葉にクラウスは沈黙した。光り輝く食器を眺めていたことで、ユリカの食欲が刺激されてしまったようだ。


 クラウスは呆れつつも、そんな彼女に笑みを浮かべるのだった。






 ミハイロ美術館にあるレストランはテラス席があり、テラスからはパブロフスクを流れるラドガ川を一望できた。クラウスたちはそのテラス席に座って、その光景を眺めていた。


「お待たせしました」


 二人の席に女給がやって来て、注文した料理が運ばれてきた。温かそうなボルシチ。茹でたパスタにかかったビーフストロガノフ。美味しさの詰まっていそうな黒パンなどがテーブルに並んだ。


「あら、このビーフストロガノフ、美味しいわ」


 ビーフストロガノフはアスタボ伝統の肉料理で、今みたいにパスタにかけたり、ライスにかけたりして食べることもある。


 肉の旨味が滲み出たビーフストロガノフを、茹で上げたパスタと絡めて食べる。ここでしか食べられない料理にユリカが美味しそうな声を上げていた。


「ねえ。美味しいと思わない?」


 ユリカが嬉しそうに問いかける。そんな彼女の笑みを見るだけで、その美味しさが伝わってくるのだから、不思議なものだとクラウスは思った。


「ああ、美味しいな」


「ふふ、よかった」


 二人はそれからゆっくりと料理を楽しんだ。目の前にはラドガ川とパブロフスクの壮麗な街並み。最高のロケーションで、贅沢な食事を楽しんだ。


「綺麗な宝石だったわね」


 その時、ユリカが呟く。先ほどまで見ていた宝石を思い出しているのだろう。ほうっと満足そうな溜息を吐いていた。


「ここにあるのは今までの皇帝が集めてきた物なのよね? どれも素敵だったわ」


「……そうだな。確かに素晴らしものばかりだった」


 クラウスも同意した。彼らが見てきたのは、この国の繁栄の象徴とも言えるものだった。


 かつてアスタボは帝国ではなく、大陸の辺境王国という存在だった。そのアスタボを変えたのが、アスタボの国王で、この美術館の名前の由来ともなったミハイロ国王だった。


 ミハイロはアスタボを強くするため、留学生や使節団をローグ王国やアンネル。それにクロイツやグラーセンに派遣した。大きく発展した西側から技術や学術を学ばせるためだった。


 時にはミハイロ自ら身分を隠して留学した。彼はアスタボにも海軍を作りたいと考えており、ローグ王国では海軍の知識や造船技術を学び、自ら工具を持って船造りに参加していたらしい。


 それら活動を行うことで、アスタボは確実に発展していった。ミハイロが望んだ海軍の創設も実現した。自ら工具を持って船を造ったミハイロ。そんな皇帝の活動から、アスタボではこう言われている。


『アスタボで作られた船は、全てミハイロの工具から始まった』のだと。


 そうしてアスタボは辺境国家から東方の大国へと生まれ変わり、いつしかアスタボは帝国と呼ばれるようになり、ミハイロもアスタボの初代皇帝として、歴史に名を刻むことになった。


 このパブロフスクも、ミハイロの大改革の時代に作られた都であり、ここからアスタボの繁栄が始まったのである。


 ミハイロはいつか海に出ることを夢見ていた。彼の望み通り、アスタボは大国となり、立派な海軍を持つほどになっていた。


 パブロフスクを流れるラドガ川は、そのままドッガー海に流れ、西側の海へと繋がっている。この街、この場所で、ミハイロ皇帝は西への憧れを強くしていたに違いない。


 この美術館も、皇帝の憧れから生まれたものなのだろう。遠い時間を超えて、皇帝の意志を見ることができて、ユリカも満足そうに微笑んだ。


 そんな彼女の笑みを見て、クラウスも自然と微笑むのだった。





 二人はそれから、ゆっくりと美術館を歩いて回った。どれを見ても素晴らしい作品ばかり。それら全てを相手にするには、時間がどれだけあっても足りないくらいだった。


 それら美術品を楽しんだところで、時刻は夕刻となった。二人は美術館の出口に向かっていた。


「あ、ごめんなさい。ちょっと寄っていい?」


 ユリカがそう言うと、彼女は土産物屋を指差していた。


「グラーセンのおじい様たちにお土産を買いたいわ」


「ああ、わかった。私も行こう」


 そう言って二人は土産物屋に向かった。


 店内は観光客でにぎわっていた。美術館に来た記念に何を買おうか、品定めをしていた。やはり美術館だけあって、美術品をテーマにした雑貨が並んでいた。


 ユリカが店内を楽しそうに回る。そんなユリカから離れて、クラウスも店内を回る。彼も家族へのお土産でも買おうと思っていた。


 その時、彼の目にあるものが映った。それは食器だった。


 それら食器は展示されている皇帝一族が使っていた食器のレプリカらしく、流石に本物ではないが、美しい宝石をあしらった作品となっていた。


 それを見て思い出す。確か展示されていた食器を、ユリカが目を輝かせていたのを。


「ふむ……」


 クラウスはそこに置いてあるスプーンを二人分手に取った。


「失礼。こちらを買いたいのだが」


「はい。かしこまりました。このままお持ち帰りしますか?」


「できれば宅配できるだろうか?」


「かしこまりました。それではこちらに宛先を書いてください」


 言われてクラウスは、大使館の住所を書き込んで店員に渡した。彼は他にも、いくつか家族へのお土産を買っていった。


「お待たせ。あなたも何か買ったの?」


「ああ、家族へのお土産をな。せっかく来たからな」


「そう。良い物は買えたかしら?」


「どうかな。気に入ってもらえたらいいのだがな」


 クラウスはそんなことを言いながらユリカを見る。するとユリカはにっこりと笑った。


「大丈夫よ。きっと喜んでくれるわよ」


 そんな風に言ってくれるユリカ。本当に喜んでくれたらと、クラウスはそんな風に考えていた。



 その時だった。彼らの歓談を遮るように、爆発が起きたのは。



「きゃあ!」


 ユリカが悲鳴を上げる。しかしその悲鳴ですら掻き消すほどの轟音だった。あまりの爆発音にクラウスは耳鳴りを感じていた。


「……何が起きたんだ?」


 爆発は外から聞こえてきた。クラウスはそのまま外へ向かって走り出した。


 美術館の外に出た。クラウスがあたりを見渡すと、その光景に絶句した。美術館の一角から火の手が上がり、そこから嫌な黒煙が立ち昇っていた。


「クラウス」


 ユリカもやって来た。彼女も目の前の光景に呆然としていた。何か事故でも起きたのだろうか?


 その時、クラウスは嫌なものが聞こえてきた。爆発のしたところから、人々の悲鳴や怒号がかすかに聞こえてきた。


 それが聞こえたのか。ユリカが喧騒の中心に向かって走り出した。クラウスも彼女を止めることなく、彼女に続いて走り出した。


 爆発の起きたところでは瓦礫が散乱していた。そして、その瓦礫に紛れて多くの人が倒れていた。うめき声が聞こえてくる。それがまだ彼らが生きていることを教えてくれる。


 クラウスたちが彼らに駆け寄る。額から血を流していたり、腕を抑えて嗚咽する者もいた。


「大丈夫か!」


 クラウスが男を抱き起す。男は怪我をしていたが、比較的軽い怪我で、意識もはっきりとしていた。そんな男がクラウスに声をかけた。


「……ああ、私は大丈夫だ。それより、あの御方を……」


「あの御方? 誰のことだ?」


 貴族か要人でもいるのだろうか? よく見れば周りの男たちは警備員なのか、制服を着ているのがわかった。


 しかし、あの御方とは何者なのか? この爆発もその人物と関係があるのだろうか?


「失礼。大丈夫かね?」


 考え込むクラウスに誰かの声がかけられる。クラウスが振り返ると、その人物がクラウスを見つめていた。


 一目で貴人だとわかった。少し汚れているが、身に着けている衣服は高貴なものであり、その立ち居振る舞いも威厳に満ちたものだった。


 何より、クラウスはその人物の瞳に釘付けになった。射抜くような鋭さがあり、しかし同時に何物も受け入れる聡明さも見え隠れしていた。


 立派な口髭も相まって、その威容に思わず見惚れてしまった。きっと彼が、男の言っていた『あの御方』なのだろう。


「どうした? どこか怪我をしたのかね?」


「あ、失礼。ちょうど近くにいたので助けに来ました。そちらは大丈夫ですか?」


「ああ、大丈夫だ」


 この爆発を前に堂々とした振る舞いだった。本当に何者かと思っていると、後ろで物音がした。クラウスが振り返るとユリカがいた。彼女は口を開けて呆けていた。


「どうしたユリカ。そっちは大丈夫か?」


「え、ええ。大丈夫だけど……」


「どうした?」


 ユリカの様子を怪訝に思うクラウス。彼女はクラウスの傍にいる『あの御方』を見ていた。


 その時、外から警備員たちがやって来た。彼らはクラウスたちを見つけると、すぐに駆け寄って来た。



「ご無事ですか! 陛下!」



 警備員たちの叫びに今度はクラウスが固まった。『陛下』と呼ばれたその男は、毅然とした態度で警備員たちに声をかけた。


「私は大丈夫だ。それより負傷者がいる。彼らの救助を優先せよ。それと他にも被害が出ないよう周囲を警戒するのだ」


 指示を受けた警備員たちは迅速に動いた。そんな彼らを見ながら呆けるクラウス。すると男がクラウスに向き直った。


「君も早く避難しなさい。ここも危険だぞ」


「あ、はい。えーと……」


 クラウスは混乱していた。男は陛下と呼ばれていた。つまりどういうことなのか? 


 いや、答えはわかっているのだ。だがあまりの答えにそれをクラウスの脳が理解するのを拒んでいた。まさか本当に? と。


「クラウス」


 クラウスを現実に引き戻すようにユリカが声をかけてくる。いつもと違い、どこか緊張感のある声色だった。


「あなた、そちらの方が誰なのか、わかってる?」


「えっと……」


 まだ混乱が続くクラウスに、ユリカが答えた。


「そちらはアスタボ帝国皇帝・フォードル陛下よ」


 クラウスがもう一度向き直る。


 アスタボ皇帝・フォードルの瞳が、真っ直ぐにクラウスを見つめていた。

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