第五章 母を見上げて
まだ夜の静けさが残る時間。遠くでは太陽の気配が強くなる頃。クラウスたちを乗せた馬車が目的地に停まった。すぐにドアが開き、クラウスたちは勢いそのままに走り出す。
「待って、クラウス」
走りながらユリカが語り掛けてきた。
「何かわかったの?」
「確信はない。でも、材料は揃っている」
今まで多くの情報を得た。そこからクラウスは一つの推測を得た。彼はそれを言葉にして伝えた。
「ここに来た時、人を集めているって話、覚えていないか?」
「えっと……確か人を集めて陛下に直接陳情に行こうって考えているって」
「その集団を集めている人物のこと、覚えているか?」
あの日、配給に訪れていた男から、人を集めて回っている人物について話を聞いていた。その時の話をユリカは思い出した。
「ええ、確か若い男で、貴族のようだったって言っていたけど」
「それはたぶん、シチョフさんのところにやって来たという若者のことだ」
シチョフの所で武器を買いに来たという若者。それはこの教会で人を集めていたという貴族のことだと、クラウスはそう推測していた。
「それにあの時、スメタナというスープがあっただろう? あれはドネプルの伝統料理だ」
あの配給でクラウスたちもいただいたスメタナ。ドネプルの伝統料理であり、それを配っていたというのは、彼らがドネプル出身であることを示していた。
「それじゃあ、その男たちが反逆者だということ?」
「言っただろう。確信はない。だが、その可能性は高い」
まだ状況証拠だけだ。実際に彼らが犯人かどうかはわからない。推測の域を出ない話だ。
だが、その高い可能性が、クラウスに確信に近い直感を与えていた。
そして、そのクラウスを見てユリカは感じていた。クラウスの言葉は真実であると。
「急ごう。嫌な予感がする」
何かが起きようとしている。クラウスの直感が告げていた。
教会までやって来た。朝日は姿を見せていたが、まだ人の気配はなかった。クラウスは周りを見回した。
「誰かいないのか?」
ユリカも周りを見てみる。その時、彼らに声をかける者がいた。
「ん? お前さんたち、あの時の」
クラウスたちが振り向くと、あの日クラウスたちに話しかけてきた男がいた。彼はクラウスたちの姿を見て驚いていた。
「その格好。やっぱり貴族だったのかい? やっぱりあいつらの知り合いだったのか?」
あの日と違って、着飾った服装のクラウスたちの姿に戸惑う男。そんな彼にクラウスは勢いよく詰め寄った。
「すいません! この前貴方が言っていた男たちはどこにいますか!? 彼らを探しているんです!」
クラウスの勢いに驚きつつ、男はクラウスの問いかけに答えた。
「なんだ。やっぱり仲間だったのか? あいつらならもう出発したよ」
「出発って、どこに?」
「どこかは知らないけど、さっきここで集めていた仲間と一緒に出て行ったよ。みんなすごい顔していたから、これから皇帝陛下に陳情に行くんじゃないのか?」
クラウスの中で、嫌な予感がさらに強くなった。もしかしたら彼らは、今度こそ皇帝を亡き者にしようとしているのではないか?
「すいません! 彼らがどこに行ったかわかりませんか!? 何か手掛かりだけでも」
彼らを止めないといけない。彼らがどこで何をしようとしているのか。手掛かりだけでも掴まないと、このままでは手遅れになってしまう。
クラウスの必死の問いかけに男は困った顔になった。
「さあ、どこに行ったかまでは……ああでも、確か劇場とか言っていたな」
「劇場……?」
このパブロフスクにどれだけ劇場があるというのか? その一つ一つをしらみつぶしに探すわけにもいかない。一瞬途方に暮れるクラウス。
その時、男がさらに続けた。
「ああ、確か今日は新しい劇場が完成するらしい。そこに皇帝陛下も来るらしいから、そこに行くつもりなんじゃないかな」
「新しい劇場?」
言葉を繰り返す。その時、ユリカが声を上げた。
「クラウス。それってハリストス劇場のことよ」
ユリカの言葉にクラウスの脳が覚醒した。確かに数日前の新聞で、ハリストス劇場が完成すると書いてあったのを思い出した。その完成式典にフォードル皇帝が臨席することも。
「それだ!」
「急ぎましょう」
クラウスたちは男に礼を言ってその場から走り出した。戸惑いつつも男は手を振って彼らを見送るのだった。
とはいえ、走り出したところで劇場まではかなりの距離がある。間に合うとは思えない。どこかで馬車を手に入れられないかクラウスは考え始めていた。
「クラウス様」
そんな彼らの前に、シチョフに仕えている仮面のメイドが現れた。横には彼らが乗っていた馬車もあった。
「こちらのお乗りください。お送りします」
いきなりのことに驚くクラウスたち。もう帰ったとばかり思っていたので、メイドの姿に思わず立ち止まった。
「えっと……」
「お急ぎなのでしょう? 早くお乗りください」
乗車を促すメイド。ありがたい話だが、どうしてそのようなことをしてくれるのか、クラウスにはわからなかった。
「あの、ありがたいですが、よろしいので? ご迷惑では?」
戸惑いつつもクラウスが問いかける。するとメイドは静かに語り掛けてきた。
「私は主様より、お二人を目的地までお届けするよう、仰せつかっております。これも命令の内ですので、お気になさらず」
確かにシチョフはそんな風に言っていたが、ここまでしてくれるというのは素直に驚きだった。しかしそれ以上にありがたいのも事実だった。
クラウスは馬車に乗り込んだ。
「ハリストス劇場までお願いします!」
「かしこまりました」
三人を乗せた馬車が走り出した。
しばらく走ると、馬車の走りが遅くなった。街の中心部に来たことで、人通りが多くなり、馬車が走りづらくなっていた。特に劇場が近くなったというのもあり、人の波が通りを埋め尽くしていた。
「どうやら、ここまでのようですわね」
ユリカはそう言うと、対面に座るメイドに告げた。
「停めてください。あとは足で走りますわ」
その言葉にクラウスも同意した。あとは走って劇場まで行く方がいいと判断した。
「わかりました。最後までお運びすることができず、申し訳ございませんでした」
「いえ、ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」
頭を下げるメイド。その時、ユリカがメイドに詰め寄った。
「失礼、よろしければお名前を伺っても?」
最後にメイドの名前を質問するユリカ。自分たちを助けてくれた恩人の名を知りたい。ただそれだけのことで、しかしとても大事なことだった。
その問いかけにメイドは一瞬沈黙するが、すぐに顔を上げてくれた。
「サンドラ。サンドラと申します。ユリカ様」
サンドラ。ユリカはその名を大切なもののように心の奥底で反響させた。
「サンドラ様。いつかまたお会いしましょう。その時は、その仮面の下の可愛い顔を見せてくださいませ」
まるで友達と会話するような気軽な言葉。本来ならそんな会話すらできないはずの二人。だが、ユリカには関係ない。彼女はただ、新しい友達と再会を約束しているだけなのだ。
ユリカの言葉をメイドがどう受け取ったのかはわからない。だが、メイドが小さく微笑むのがわかった。
「ありがとうございます。いつかまた、お会いしましょう。ユリカ様」
その言葉にユリカも笑みを零す。そこに別れの寂しさはない。友と交わした再会の約束という喜びがそこにあった。
そんな二人を見つめながら、クラウスも静かに笑うのだった。
馬車を下りた二人。その二人に馬車からサンドラが声をかけてきた。
「それでは、お気をつけて」
サンドラがそう言うと、馬車はそのまま走り去っていった。あとはクラウスとユリカの二人だけ。
「さあ、急ごう」
「ええ」
二人は走り出した。劇場まで、あと少しだった。
劇場へ向かう大通りを一台の馬車が走っていた。皇帝フォードルが乗る御召馬車だ。その周りを護衛として数人の騎兵が付き従っていた。
その御召馬車に、フォードルとハープサルが乗っていた。
「もうすぐ、劇場に着きます」
「そうか」
車内でフォードルとハープサルが言葉を交わす。フォードルが外を眺めていると、馬車に気付いた何人かの市民が礼を示すのが見えた。
「陛下。よろしいのですか?」
「何がだ?」
心配そうな顔をするハープサル。何を言いたいのかわかってはいるが、それでもフォードルは問い返した。
「まだ陛下を狙う反逆者共がどこに潜んでいるかわかりません。今日の式典に出るのはお止めになるべきかと」
最近ハープサルはこのことばかりだった。皇帝を狙う暗殺者がいつ襲ってくるか、気が気ではないのだ。
自分を心配しくれるのはありがたいが、それでもフォードルの心は変わらなかった。
「今日は帝室が支援した劇場の記念式典だ。そこに皇帝が出ないというのも不義理であろう。こればっかりは私自身が行くべきだろう」
「しかし、陛下御自身が行かれずとも、他に名代を送ってもよろしかったのでは……」
「言いたいことはわかる。だがこの劇場は私の父、それに母上も生前願っていた劇場だ。その劇場の完成にはどうしても立ち会いたいのだ。それにだ」
フォードルがハープサルに向き直る。その顔は皇帝としての君主の顔だった。
「自分の国も自由に歩けない君主など、どこにいるのだ」
彼にとっては自らが統治する帝国。その帝国を歩くことができないなど、皇帝として恥ずべきことだった。暗殺におびえて安全な宮殿で震える生活など、彼自身が許さなかった。
フォードルの鋭い視線を受けて、ハープサルはそれ以上何も言わなかった。
「わかりました。これ以上は何も言いますまい。申し訳ございませんでした」
その言葉にフォードルも頷いた。ハープサルの懸念もフォードルはわかっているのだ。自分を心配してくれるのも。それでも彼は皇帝としての在り方を貫かなければならなかった。
今までもそうであったし、これからもそうでないといけないのだ。
たとえいつ死ぬことになっても、最後まで君主としてあり続けるために。
御召馬車が劇場に到着した。周囲は大勢の人間が集まっており、式典前の不思議な昂揚感に包まれていた。
フォードルが外を見ると、完成した劇場がそこにあった。川沿いに建てられた劇場は、パブロフスクの街に溶け込むようにその壮麗な姿を見せつけていた。その劇場の上部には、神とその家族の像が建てられており、人々を見守るようにこちらを見下ろしていた。
その時、御召馬車が動きを止めるのがわかった。同時に外で何か騒ぎが起きていた。
何事かと顔が強張るハープサル。その時、外からフォードルたちに呼びかける叫びが聞こえてきた。
「陛下! お下がりください!」
それは護衛を任されていた騎兵隊の一人だった。フォードルが窓から顔を出した。
「何があった?」
「群衆の一部が馬車の前に出て道を塞いでおります! 皇帝覚悟と叫んでおります!」
フォードルが前を見る。何人かの人間が馬車に向かってくるのが見えた。殺気立つ彼らの姿を見て、ハープサルの顔が青くなった。
「陛下! このまま引き返してください! 自分が護衛を務めます!」
騎兵が声を上げる。その声の鋭さが、事態の深刻さを告げていた。
「陛下!」
ハープサルも叫ぶ。彼もフォードルに退避するよう促した。
「……わかった。安全なところまで誘導を頼む」
「は!」
そう言って数人の騎兵が護衛に回り、御召馬車が来た道を引き返していった。暴徒は今も馬車に詰め寄ろうと騎兵と衝突しており、そこから離れようと御召馬車は進路を変える。
馬車の中で顔を青ざめるハープサル。その彼の前ではフォードルが動じることなく、堂々と座っていた。
馬車はそのまま、その場から走り出そうとしていた。
「皇帝覚悟!」
そんな叫びを上げながら、群衆の中から男が一人、馬車に向かって走ってきた。
騎兵が男に気付くも遅かった。彼は馬車のすぐ近くまで走ってきた。その彼を見て騎兵が驚愕する。男の手には爆弾が握られていた。
もう遅かった。馬車に向かって男は走ってくる。皇帝を狙っていることは明白だった。だって、彼の瞳が憎しみで燃えていたのだから。その瞳だけで人を焼き殺すことができそうだった。。
その時、フォードルが窓から外を見た。フォードルの視線が彼に向けられた。その一瞬、フォードルと男の視線が合った。彼はそのまま、皇帝の乗る御召馬車に向かって爆弾を投げようとした。
「やめろ!」
だが、それはならなかった。彼の体に誰かが体当たりした。男は悲鳴を上げながら倒れこむ。
「クラウス!」
ぶつかって来たのはクラウスだった。彼は爆弾を持っていた男を見つけ、とっさに体当たりしてきたのだ。
クラウスは男との格闘の末、男から爆弾を奪い取った。
「どいてくれ!」
クラウスは奪い取った爆弾を、そのまま近くの川に投げ捨てた。爆弾はポチャンと音を立てながら、爆発することもなく、そのまま沈んでいった。
「くそ!」
爆弾を失った男は懐から拳銃を取り出した。しかしすでに遅かった。銃を構える前に騎兵隊が男を取り押さえたのだ。
「くそ! 放せ!」
「やめろ! 動くな!」
騎兵隊の力に男が制圧される。見れば馬車の行く道を塞いでいた数人も騎兵隊によって捕縛されていた。おそらく彼らが男の仲間なのだろう。彼らが皇帝の動きを止めて、男が暗殺を実行する手はずになっていたのだ。
クラウスは大きく息を吐いた。男が馬車に駆け寄るのを見て、そのままの勢いで男を取り押さえることに成功した。爆弾は起爆せず、今は川の底に沈んでいった。暗殺が失敗に終わったことに、安堵の溜息を吐くのだった。
「何とか、間に合ったわね」
ユリカが声をかけてくる。息を切らせながらクラウスに近寄ってきた。
「怪我はしてない?」
「ああ、大丈夫だ。それより陛下は?」
「陛下は無事よ。馬車には傷一つついていないわ」
今も周囲は騒ぎに満ちていたが、皇帝の乗っている御召馬車は無事だった。そのことにクラウスもほっとした。
「放せ! 放してくれ!」
その時、男の叫びが聞こえてきた。周りにいた警官たちも集まり、犯人たちを連行しようとしていた。それでも男たちは止まらない。男を突き動かす憎しみの業火は、今も熱く燃え上がっていた。
「待て」
そんな言葉が、周囲に響いた。この騒ぎの中にあって、一際透き通る声だった。
クラウスもユリカも、男も顔を上げた。彼らの視線の先には、馬車を降りるフォードル皇帝がいた。
「待ってくれ。その男と話がしたい」
そう言いながら、フォードルが暗殺犯に近寄ろうとした。そのフォードルの後ろから、ハープサルが慌てて飛び出してきた。
「陛下! 危険です! お下がりください!」
身を案じるハープサルをフォードルが片手で制する。フォードルはそのまま、取り押さえられている男の前まで歩み寄った。
「君が私を狙った暗殺犯で、間違いないか?」
問いかけてくるフォードルを男が睨む。憎悪という言葉を形にするなら、今の男の瞳がそれになるのではないか? そう思わせるほどに、男の視線は殺意に満ちていた。
「そうだ。私は貴方を殺しにここまで来た」
男が答える。憎しみと殺意を言葉に乗せて、男はフォードルに想いをぶつける。
「これは復讐だ」
ひたすら燃える憎しみの炎。それを受け止めてなお、フォードルはたじろぐことなく、男と対峙した。
「私の母は、南部の大飢饉で亡くなったんだ。貴方と貴方の父が引き起こした飢饉によって」
男の一言にクラウスの顔が引きつる。横で聞いていたユリカも、ハープサルも同じような顔になった。それでもフォードルだけは動かず、男と顔を合わせていた。
「私の故郷はドネプルの小さな町だ。父は早くから亡くなっていて、母と二人で暮らしていた。決して豊かとはいえないが、しかし貧しくもない、穏やかな日々を過ごしていた。だけど、それも飢饉で失われたんだ」
フォードルの父が行った農奴解放。それにより引き起こされた混乱。男は自らに降りかかった悲劇を語った。
「貴方の父が行った政策で、多くの農民が土地を失い、仕事を失った。そして、彼らがいなくなったことで今度は私たちの食べるパンがなくなった。そうして、私の街をはじめ、南部では飢饉による飢えが蔓延したんだ」
先帝が行った農奴解放。それは農民に自由を与えたが、同時に農民が土地を失う結果を生んでしまった。そうして、生産力を失った南部では飢饉が起きるようになった。
「食べるものもなくなり、飢えに苦しむようになると、母の体は少しずつやせ細っていった。さらに動けなくなって、ベッドに横たわることしかできなくなった。医者に何度も見せたが、彼らにもどうしようもなかった。ただ困り果てるだけだったんだ」
医者は病気や怪我を治すことは出来る。だが、飢えを癒すことは出来ない。飢饉は治すことのできない社会の病気であり、多くのものを失う大病なのだ。
「そうして、私の母は飢えで病気が進行して亡くなったんだ。元々母は身体弱かった。飢えのせいで病気が進行したんだ。貴方たちが引き起こした飢饉によって」
男の悲痛な言葉が辺りに響く。それは大切な人を失った者にしか出せない言葉。やるせない、癒えることのない悲しみ。それまで話を聞いていたクラウスは、ただただ悲しみに打ちのめされていた。ユリカも口元を抑え、悲しそうな顔になっていた。
「だから、私は貴方を殺そうと思った」
それまで悲しみを語っていた男は、今度は憎しみを言葉にした。
「私は貴方が憎かった。貴方の父が引き起こした飢饉。それが母を殺したんだ。そう思うと、私は貴方たちが憎かった。貴方たちが母を殺した。そう思った時、貴方たちを殺そうと決めたんだ。あそこにいる仲間も同じだ。あの飢饉で私と同じように家族を失った人たちだ」
警察に捕縛されている人々。彼らの視線が皇帝に向けられる。それは男と同じ炎で燃えていた。憎悪という炎が彼らの瞳に映っていた。彼らも同じように、飢饉で家族を失ったのだ。男と同じように憎しみを共有する仲間なのだ。
「私は貴方を許すことはない。貴方だけじゃない。皇帝一族も、この国も許さない! 私の母を殺した全てを、私は壊してやる!」
男の叫びが辺りに響く。男の悲痛な叫びが、人々の耳を貫く。その男の悲しみは、誰にも癒すことは出来ない。
クラウスは苦しそうな顔で男を見つめた。その横ではユリカが悲しそうに俯くだけだった。家族を失った悲しみ。それを癒すことなど、誰にもできない。その悲しみにかける言葉もない。誰もが男の悲しみを前に、立ち尽くすしかなかった。
「貴方のような人に、私たちの悲しみは理解できないだろう! あんな綺麗な食器で食事をしたり、美しい髪飾りを着けるような人たちに、私たちの悲しみなど、わかるはずがないでしょう!」
「……食器?」
男の言葉にフォードルが呟く。一体何のことかと、フォードルが首を傾げた。
「美術館で見せてもらいましたよ。貴方たちの自慢の宝石を」
それは美術館で展示されている皇帝一族の宝石や調度品のことだった。宝石のように輝く食器。彼らを美しく彩った髪飾り。皇帝一族の栄華の象徴を目の当たりにし、男は憎しみを募らせていた。
「貴方にわかるはずがない! 貴方が見ているのは光り輝く宝石だけで、私たちのことなんか見ていないんだ! そんな貴方を殺してやりたかった!」
男の怒りが激しく燃え上がる。その炎を吐き出すように男は叫び続けた。
「私を処刑するか? それもいいでしょう。だが、たとえ殺されても、私は死神に生まれ変わって貴方を殺しに来てやる! 絶対に!」
男の叫びが響き渡る。そんな男の叫びを一身に受け止めて、フォードルが男に近寄る。フォードルは静かに口を開いた。
「そうか……私を許さないか」
その言葉にどんな意味があったのだろうか? フォードルの静かな言葉が響く。フォードルが男に語り掛ける。
「すまない」
ただ一言。しかし、全てを込めた一言だった。その一言には悲しみや悔やみ。苦しみや絶望が込められていた。
「許せとは言わない。許されたいとも思わない。だが、私は心から謝りたい。すまなかったと」
その言葉に偽りはない。皇帝は心の奥から謝罪の言葉を口にしている。彼の父が引き起こした悲劇。そのことに痛めていた心を、皇帝はさらけ出していた。
だが、それで男の心が晴れるはずもなかった。男の憎しみはなお皇帝に向けられた。
「そんな言葉で、何が変わると言うんだ! 私たちを見てくれなかったくせに、今さらそんな言葉では何も変わらないんだ!」
男の心は変わらない。彼の憎しみは変わることなく、今なお燃え上がっていた。
「よろしいですか?」
その時、ハープサルが一歩前に出た。彼は男に向かって問いかけた。
「貴方はあの日、陛下が何故美術館にいたか、ご存知ですか?」
クラウスたちが美術館に行った日。あの日フォードルはお忍びで美術館に来ていた。その時も皇帝を狙った暗殺が実行されている。
何故あの日、皇帝が美術館に来ていたのか。ハープサルが真相を話し始めた。
「あの日、陛下は美術館の人間と相談していたんです。展示してある帝室の財宝を、売却することは出来ないかと」
「……なん、だって?」
ハープサルの言葉に男が驚愕した。それはクラウスたちも同じで、帝室の財宝を売り払うなど、あり得ないことだった。
「売却って、それは本当ですか? 閣下」
「本当です。陛下は展示してある財宝がどれほどの価値があるのか。売ればどれほどの資産となるのか、美術館で相談していたのです」
皇帝一族の財宝など、あまりに価値が高すぎて、値段が付けられるようなものではなかった。だがフォードルはそれらを売却することを考えていた。その事実は、クラウスたちを驚かせるのに十分だった。
「どうして、そんなことを」
「……貴方たちのためです」
そう言ってハープサルの視線が男と、その仲間たちに向けられた。
「陛下は財宝を売却し、そうして得た資金をドネプルの復興に充てようと考えていたのです」
「ドネプルの、復興?」
その答えに男が信じられないといった顔になっていた。それはクラウスも同じで、初めて知らされる真実に驚愕していた。
「あの日、美術館を訪れた陛下は、帝室の財宝の売却について相談をされておりました。美術館からはすぐに値段はわからないが、復興には十分な額が集まるだろうと言われました」
「お。お待ちください。閣下」
思わずクラウスが口を開く。帝室の財宝、それは即ち歴代アスタボ皇帝の歴史そのものであり、それを売り払うというのは、その繁栄の歴史を自ら手放すようなものだ。それに、その中にはフォードルの父や母の遺産もあるはずで、それは家族との思い出の品のはずだ。それすらも手放すつもりだったのか?
「その、帝室の財宝というのは陛下のご両親の品物もあるはずです。そんな大事なものまで手放すおつもりなのですか?」
クラウスの問いかけに一瞬の沈黙が漂う。
「……母上との約束なのだ」
その沈黙を破るようにフォードルが口を開いた。
「まだ母上が生きていた頃、母上が私に言われたのだ。もし帝国や国民に危機が訪れたなら、帝室の財宝を売り払い、その資金を使うようにと」
「陛下のお母上が、そのようなことを?」
「そうだ。さすがに私の一存で帝室の貴重な品々を売り払うなどできないとお伝えした。だが、母上は構わないと言ってくれた」
今は亡きフォードルの母親。その母親との思い出を思い出しているのだろうか? フォードルは大事なことのように答えた。
「この帝国と、帝国に住まう幾万の国民こそ、私に残してくれる財産だからと」
その言葉に男の目が見開いた。それは驚愕なのか、それとも衝撃なのか。初めて明かされる話に男は何も言えずにいた。
「宝石は価値のある宝石でしかない。父と母が私に残してくれたのは、この帝国と国民なのだ。その国民を守るためなら、母は自らのティアラも売ってしまっても構わないと仰っていた」
フォードルの視線が男に向けられる。フォードルが男に言った。
「この国に住む全ての民は、私の大切な財産だ。その財産を守り、次の時代に残すことが私に託された使命だ。多くの民を苦しめてしまって、私の言葉に意味はないのかもしれない。だが、お前が母を想うように、私も母上との約束を守りたいのだ」
一人の国民と一人の皇帝。身分も生まれも、立場も違う二人。だが、彼らは同じ人間であり、同じように母を大切に想う人間なのだ。男は初めて、皇帝が自分に近い人間に感じた。そして、その真意も知ることができた。その事実にもう憎しみも薄れていた。
その時、太陽が差し掛かった。空から彼らを照らすように光が降り注いだ。
誰もが空を見上げた。クラウスとユリカ、それに皇帝と男も同じように眩しそうに見上げた。
「……あ」
その時、男が声を上げた。彼が見上げる先には、完成した劇場が建っていた。
「母さん……」
いきなり男はそんな風に呟いた。一体何のことかとクラウスが建物を見た。そこには神の母、聖母像があった。聖母像はそこにいる人間全てを慈しむように彼らを見下ろしていた。
「母さん……」
もう一度呟いた。そこには憎しみもない。だけど悲しみもない。愛する人を思い出した男の、心の叫びだった。
「母さん……母さん……」
男の目にその聖母像がどう映ったのかはわからない。だが、彼はその一瞬に母親の姿を思い起こしたに違いない。
彼はその場で泣き出した。何度も母さんと叫びながら。
その様子をクラウスたち、そしてフォードルがじっと見つめていた。
後に皇帝暗殺未遂事件として記録される出来事。歴史書には『皇帝の暗殺に失敗』とだけ書かれているだけで、それ以上のことは書かれていない。歴史書とは、個人の感情や想いなどを書くようなところではない。
だが、そこには多くの悲哀と、流された涙があった。歴史書には残らない真実が、確かにそこにあったのだ。
こうしてクラウスたちは、皇帝を守ることに成功したのである。
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