第六章 かっこよくなったら

オデルン中央駅は静けさの中にあった。月明かりのない夜の闇。その中で汽車の鼓動だけが駅に鳴り響いていた。


 馬車を降りて駅に入るクラウスとユリカ。不法侵入もいいところだが、そこまで考える余裕がなかった。クラウスは誰もいない駅を走り抜けた。ユリカも彼を追いかける。


「あそこだ!」


 彼らが向かう先には、何両かの貨物列車が並んでいた。その中に今も煙を吐く汽車がいた。クラウスがその汽車に向かって走る。


 その汽車の前に立つ彼らを見つけて、クラウスが叫んだ。


「ジョルジュ!」


 名前を呼ばれたジョルジュがクラウスに振り向く。その顔はいつもの蠱惑的な笑顔が浮かんでいた。夜の闇の中にあって、変わらず彼女の微笑みだけがはっきりと見えた。


 そのジョルジュを守るように傍らに立つ男たち。おそらく彼女の部下だろう。男たちの鋭い視線がクラウスに向けられる。


 だが、クラウスはそんなことはどうでもよかった。彼はジョルジュたちの横にいる人間に目を向けた。クラウスは彼女の名を叫んだ。


「リタさん!」


 自分の名前を叫ばれて、リタがびくりと体を震わせた。リタは泣きそうな顔になって、クラウスを見た。


 ユリカも彼女を見た。そんなユリカの視線に耐えられなかったのか、リタは顔を背けた。


「リタさん、貴方がジョルジュの協力者だったのですね」


 クラウスの問いかけにリタは沈黙する。それは肯定を表す沈黙だった。


 その光景を眺めながら、ジョルジュがニヤニヤと笑っていた。


「おいおい、クラウスくん。お嬢さんが怖がっているじゃないか。そんな顔で睨むのはやめたまえよ。かわいそうじゃないか」


 なだめるように語るジョルジュ。その彼女の手にはカバンが握られていた。クラウスがそのカバンを指差した。


「そのカバンが今回の成果というわけか」


 ジョルジュはそのカバンを軽く掲げてみせる。


「故郷に良い土産ができたよ」


 その様がかっこいいものだから、悔しさよりも感心する気持ちの方が強かった。それくらいにジョルジュの手並みは素晴らしいものだったのだから。


「まさかリタさんが協力者だとは気付けませんでした。確かに彼女なら協力者としては適任ですからね」


 ジョルジュが参謀本部に潜ませた協力者。それはリタのことだったのだ。


 リタたち女給は参謀本部の中を自由に歩けた。参謀本部で働いているのだから、どこにいても誰も不思議には思わない。それに参謀本部の情報を最も集めやすい位置にいるのだ。協力者としてこれほど魅力的な人物はいなかった。


 それにリタはクラウスたちに食事を運ぶ仕事を引き受けていた。きっとリタはその時にクラウスたちの話を聞いて、二人の情報をジョルジュに連絡していたのだ。


 改めて考えると、クラウスたちはリタのいる横でモンデリーズに行くことなどを話していた。リタはそれをジョルジュに連絡し、連絡を受けたジョルジュはモンデリーズでクラウスたちを待ち受けていたのだろう。


 何故そのことに気付けなかったのか? それは彼女たちは当たり前のようにそこにいて、だけどそこにいることを感じさせなかったからだ。どこにでも当たり前にいるから、疑うことを忘れてしまったのだ。


 何より恐ろしいのは、そんなリタを協力者にしたことだ。ジョルジュの恐ろしさを改めて思い知らされた。


 そんなクラウスの言葉を聞いていたリタは、辛そうな顔をしていた。クラウスたちの顔を見るのが辛いようだった。


「リタ様……」


 ユリカが呟く。その言葉の先にいるリタは、今も俯いたままだった。そのリタにユリカが問いかける。


「どうして、ジョルジュに協力を……?」


 一瞬体が震えるリタ。答えるのが恐ろしいのか、彼女は黙り込んだ。代わりに答えるように、クラウスが口を開いた。


「リタさん。たぶんですけど、ジョルジュに言われたのではないですか? 病気のお母様を助けてやると」


 クラウスの言葉にリタが顔を上げる。クラウスを見つめる目は、今にも泣き出しそうだった。その横ではジョルジュが満足そうに笑っている。その微笑みが、クラウスの言葉が正解であると告げていた。


「お母様……?」


 話の流れが見えないユリカが呟く。それに応えるようにクラウスが話を続ける。


「ジョルジュ。君は参謀本部での協力者を探している時に、リタさんのことをどこかで知ったのではないか? そこで彼女のお母様が病気であることを知った。そこで君はリタさんに接触したんじゃないか? お母様の病気を治す代わりに、自分たちに寝返るようにと」


 数日前、クラウスはルシアナからリタのことを聞いていた。母親が病気であること。母親の病気を治せる医者を探していたこと。その医者も見つかって、母親がその医者の所へ行ったことも。


 きっとジョルジュは、リタの母親の病気を知り、彼女に医者を紹介する代わりに、自分たちの味方になることを要求したのだ。恐らく治療費や滞在費などもジョルジュは用意しているに違いない。デオン家の令嬢なのだ。それくらいは可能だろう。


 クラウスがそこまで言い終えたところで、パチパチと拍手の音が聞こえた。見ればジョルジュがお見事とばかりに拍手していた。


「いや、素晴らしい。見事な名推理だ。まるでオペラ座の舞台を見ているようだ。つい見惚れてしまったよ」


 もはや隠すこともしなかった。むしろクラウスに真相を突き止められたことを喜んでいるようでさえあった。ジョルジュは今、この状況を最も楽しんでいた。


「君の言うとおり、こちらのリタお嬢さんは私たちの協力者だ。こちらで協力者を探していたら、彼女のことを知ってね。調べてみると、彼女のお母様は重い病気になっているそうじゃないか。そのことを知った私は彼女に提案したんだ。私たちに協力してくれたら、お母様の病気を治してあげるってね」


 ジョルジュの言葉にピクリと震えるリタ。悪いことを責められる子供のように見えた。


「彼女も悩んでいたが、最後には決意してくれたよ。素晴らしい親子愛じゃないか。私も助け甲斐があるというものさ」


 両手を広げるジョルジュ。その様子をクラウスはじっと見ていた。


 ああそうだ。全くもって見事な手腕だった。リタという人材を見出したこと。そのリタが提案を断れない状況を作ること。さらに彼女にスパイの手引きをしたこと。その全てが素晴らしいものだったと、クラウスは思わず感心するくらいだった。


 悔しさではない。恐れでもない。ただ純粋な敬意しか湧いてこなかった。完璧なる敗北だった。


 敵に対してこんな感情を抱くことがあるだなんて、思ってもいなかった。ユリカの前でなかったら、ここで拍手していたかもしれなかった。


「……ごめんなさい。クラウスさん」


 その時、リタが呟いた。それだけ伝えるのがやっとだったみたいだ。その言葉を呟くだけでも彼女には辛そうだった。


 きっと彼女は罪悪感で押しつぶされそうになっているのだ。親しい人たちを騙していたという罪悪感に。


「まあ君が話した通りさ。彼女のお母さんは今、アンネルの病院で治療しているよ。私の知り合いに腕利きの医者がいるのでね。そこを紹介したのさ。しばらくすれば元気になるだろう。リタお嬢さんもお母さんのためによく働いてくれたよ」


 今ジョルジュの手には、重要機密の入っているカバンが握られている。それがリタの仕事の成果なのだ。


「実際彼女はよくやってくれたよ。これほど仕事がうまくいったのは初めてさ。彼女と出会ったのは幸運だったよ」


 ジョルジュはそう言うと、リタの肩に手を置いた。リタもそれを拒まなかった。


「彼女にはぜひアンネルに来てもらうつもりさ。彼女のような優秀な人材、ぜひ我が国で雇いた

くてね」


「……彼女をアンネルに連れて行く気か?」


「だってそうだろう? お母様がアンネルで彼女を待っているんだ。会わせてやらないと。それにこのままグラーセンにいられるのかな?」


 からかうようなジョルジュの言葉にリタが震えた。


 確かにリタは重要機密を持ち出した。間違いなく国家反逆罪だった。このままグラーセンにいればどうなるかわからなかった。


「それに、私はわがままだからね。かわいい女の子は自分の傍に置いておきたいのさ」


「……君は、本当に恐ろしい敵だ」


 その時、クラウスが言った。その言葉に振り向くジョルジュ。クラウスはジョルジュに言い放った。


「君は恐るべき敵だ。多くの人間を手玉に取り、国家さえも出し抜く。ありとあらゆるものを利用する。君は本当に恐ろしい」


 神すらも利用すると言っていたジョルジュ。まさにその言葉通りだ。彼女は目的のためにあらゆるものを利用した。


 そんなクラウスの言葉にジョルジュがニヤリと笑う。


「おや? それは誉め言葉なのかな?」


「ああそうだ。誉め言葉さ」


 思わず悔しそうに語るクラウス。それくらいにジョルジュのやり方は見事で、それにやられたことが悔しくて、しかしそれ以上にジョルジュを称賛したい気持ちの方が強かった。


「君は全てを利用して見せた。リタさんも、参謀本部も、そして私たちのことも」


 ジョルジュが黙って聞いている。クラウスの横ではユリカがじっと彼らを見ていた。


「君が私たちに接触したのも、私たちを利用するためだったのだろう? 私たちを利用できないかを見るために。私たちのことを知った君は、私たちを動揺させることにしたのではないか?」


 思えば最初からジョルジュに手玉を取られていた。ジョルジュから接触され、それから彼女にやられてばかりだった。それら全ては仕事を成功させるための布石だったに違いない。


「君は私のことも利用したのだろう? 私にキスしたのも、口説いてきたのも、私たちを混乱させるため、仲違いさせるためだった。そうすることで君は仕事を完成させた」


 きっとユリカの前でキスしてきたのも、仕事のためだったのだ。きっとユリカが来るのを見計らって、その瞬間を狙ったのだ。


 全く、見事な手腕だとしか言えなかった。全てはジョルジュの手の内だったのだ。


 何もかも彼女にしてやられた。感心する他なかった。


 すると、そんなクラウスの言葉を聞いていたジョルジュが口を開いた。


「クラウスくん。今君が言ったことは半分正解で、半分は間違いだよ」


「……何だって?」


「確かに私は全てを利用した。リタお嬢さんのことも、君たちのことも。だけど、君は一つだけ私のことで間違っているよ」


 彼女はそう言うと、いつもの蠱惑的な笑みでクラウスに言った。


「私は好きでもない相手に、仕事でキスをしたりはしないよ」


「……は?」


 そんな間抜けな声がクラウスから漏れていた。彼の横ではユリカが目を丸くしてジョルジュを見ていた。


「言っただろう? アンネルの女の子は恋に一生懸命だと。私は仕事で嘘をつくことはあっても、色恋沙汰で嘘を言ったりはしないよ」


 そう言ってジョルジュはユリカを見た。挑発的な笑みを浮かべて、彼女は言い放った。


「恋にも戦争にも、私はいつも本気さ。だから、私は諦めないよ。君のことを」


 その言葉をどう受け取ったのか、クラウスは呆気に取られた様子で。ユリカが口をあんぐり開けてジョルジュを見つめた。


 その様子がとにかく面白いのか、ジョルジュは満足したように笑っていた。


 その時、汽車の汽笛が鳴り響いた。


「そろそろ時間だ。それでは、そろそろ行かせてもらうよ」


 ジョルジュはそう言って汽車に乗り込もうとする。それに続くようにリタも汽車に乗り込もうとした。


「待て! カバンを返せ!」


 クラウスがカバンを取り戻そうと一歩踏み出す。すると周りにいた男たちがクラウスたちに銃を向けた。さすがに銃を向けられては、クラウスも立ち止まるしかなかった。。


「やめたまえよ。さすがに愛する人を殺したくはないからね」


 そんな風に笑うジョルジュ。何もできない状況にクラウスは悔しさで歯ぎしりをした。


「それでは、私たちは行くよ。いつかまた会おう」


 そう言って背を向けるジョルジュ。その後ろをリタがついて行った。


「リタさん!」


 その時、クラウスが叫んだ。その声にリタがびくりとした。彼女は恐る恐る振り向いた。


「……ごめんなさい。クラウスさん。私……」


 今にも泣きそうな顔だった。怒られることを怖がっている子供みたいな、そんな顔だった。


 その顔を見て、クラウスは大声で叫んだ。


「どうか、お母さんとお元気で!」


 一瞬時が止まった気がした。誰もが固まっていた。クラウスの意外な言葉にリタはもちろん、ジョルジュもユリカも驚き、言葉を失っていた。


「……どうして?」


 そのクラウスの言葉にリタがまた泣き出しそうになっていた。


 ああ、くそ。そんな顔をしないでくれ。貴方にそんな顔をしてほしくないんだ。


 誰も貴方を責められない。お母さんの病気を治したい。その気持ちを否定なんてできやしない。


 悩んだに違いない。迷ったに違いない。夜も眠れなかったかもしれない。お母さんのために国を裏切る。そのことにリタが何も思わないはずがない。多くの眠れない夜を超えて、彼女はお母さんを守ることを選んだのだ。


 そんな彼女のことを、クラウスは責めたりなんかしない。


「……ごめんなさい。クラウスさん」


 リタはそれしか言えなかった。だが、彼女は少しだけ救われていた。みんなを裏切っていたという罪悪感で死にそうだった彼女は、クラウスの言葉で少しだけ解放された。


 リタの顔からはそれが伝わってきた。それがわかったクラウスも、少しだけほっとしていた。


「はっはっは!」


 クラウスの言葉を聞いていたジョルジュは、大きく笑い出した。馬鹿にするような笑い方ではなく、気持ちのいい笑い方だった。


「やっぱり、君は素敵だ。君に出会えて、とても嬉しいよ」


 そう言ってジョルジュはクラウスとユリカを交互に見た。


「いつかまた会おう。その時はまたみんなでお茶でもしようじゃないか」


 別れるのが惜しい。そんな風に聞こえるジョルジュの挨拶。彼女は最後にクラウスに言った。


「その時には返事をくれ給えよ。愛しの君よ」


 それを最後にジョルジュとリタは汽車に乗り込む。男たちもそれに合わせて乗り込む。その瞬間、汽車が汽笛を鳴らしてすぐに走り出した。


 グラーセンの夜に汽笛が鳴り響く。まるで高笑いするかのような、大きな音だった。



 後に残されたのは夜の静寂と、闇に包まれた駅と、そして呆然と立ち尽くすクラウスとユリカの二人だった。


 汽車はすでに遠くまで走っている。今から追いつくことは出来ない。完全にジョルジュたちは逃げおおせたのだ。


 負けた。その一言に尽きた。完全にジョルジュに出し抜かれたのだ。


 クラウスは悔しさを滲ませた。これほどまで手玉に取られたことが、とにかく悔しかった。


「クラウス」


 そんな彼の背中にユリカが声をかける。その声がクラウスに響く。


「すまない。やられてしまった」


 クラウスはただ謝った。ジョルジュに手玉に取られ、見事に重要機密を持ち出されてしまった。彼女の手腕に手が出せなかった。まさに完敗だった。


「クラウス」


「少将にもなんて言えばいいのか……」


 これでグラーセンの作戦計画はアンネルに知られてしまった。情報戦で負けてしまったのだ。これで戦争計画は大きく後退するだろう。


「情けないが、私の負けだ。すまない。謝って済むことではないが」


「クラウス、聞いて」


 うなだれるクラウスにユリカが声をかける。その声に顔を上げるクラウス。


「聞いてクラウス。私たち、負けてないわ」


「……負けてない?」


 ユリカを見る。その顔に敗北の悔しさは微塵もなかった。この場にそぐわない、いつもの笑みだった。


「負けてないって、何のことだ?」


「ジョルジュには勝てなかった。だけど負けてもいないわ」


 自信たっぷりに笑うユリカ。ますます訳がわからないクラウス。するとユリカが真相を明かし始めた。



 アンネルに向かって走る汽車。その中で書類を読むジョルジュ。傍らには部下の男たちと、リタがいた。


「……やられた」


 その時、ジョルジュが声を上げた。その言葉に周りの男たちが怪訝な顔を見せた。


「大尉、どういうことです?」


「騙されたということさ。ここにある書類はよくできた偽物さ。」


 やれやれという風にジョルジュが書類を置いた。彼女の言葉に男たちは驚愕し、リタは唖然としていた。


「これが、偽物?」


「どうやらクラビッツ少将にしてやられたようだ。彼は私たちにわざと偽物を盗ませたのだろう。本物を守るために」


 やられたとジョルジュが苦笑いをする。まさかこんな方法を考えるとは、彼女は清々しさすら感じていた。


 話を聞いていた男たちが天を仰いだ。


「なんて、ことだ。偽物を掴まされるなんて」


「見事に出し抜いたと思ったんだがな。まあ、あのクラビッツ少将が相手だからね。こっちも詰めが甘かったというべきだろう」


「……そんな」


 その時、リタの声が聞こえた。彼女は顔を青ざめさせて、目の前のことが信じられない様子でよろけていた。


「私、そんなこと知らなかった……偽物だなんて、知らなかったんです」


 リタの声が震えていた。そんな彼女をジョルジュと男たちが見ていた。


「……大尉、彼女はどうします?」


 男の一人が問いかける。その一言にリタがビクリとする。もしかしたら罰を受けるかもしれない。きっとそう思ったに違いない。


 ただ、ジョルジュは手をフルフルと横に振って見せた。


「別にどうするもないよ。彼女はよくやってくれた。約束通り、アンネルで保護するさ」


 するとジョルジュはリタに近寄った。ジョルジュは彼女を安心させるように、優しく語り掛けた。


「安心してほしい。お嬢さん。約束通り、貴方は私が守る。デオン家の名誉にかけて」


 そう言って、にっこりと笑うジョルジュ。その笑顔に安堵したのか、リタは何も言わなかった。


「……ありがとう、ございます」


 頭を下げるリタ。それを見てもう一度笑うジョルジュだった。


「さ、夜は長いよ。少し揺れるけど、寝てくるといい」


 ジョルジュにそう言われて、リタがその場を後にした。


 後に残されたジョルジュたち。すると男の一人が溜息を吐いた。


「どうするんです? 国に帰って何と報告するつもりですか?」


「いやあ、仕方ないんじゃないかな? 素直に平謝りするさ」


 手をひらひらさせるジョルジュ。その様子に苦笑いを見せる男たち。


「はあ、別にいいですが。どんな小言を言われるか、考えたくありませんな」


「まあ言い訳の準備くらいはしておこうか。それに、いい手土産もあるから、これでご機嫌を取ろうと思うよ」


 そう言ってジョルジュは手元に置いてある書類を手に取った。そこには何かの絵が描かれていた。それを見て男たちもにやりと笑うのだった。




「えっと……それじゃ、ジョルジュが持って行ったのは、偽の計画書なのですか?」


 呆気に取られたクラウスはそれだけ呟いた。間抜けにも見えるその顔を隣でユリカが笑って見ていた。そんな二人の前で、クラビッツが淡々と説明を始めた。


「ああ、彼女が持ち出したのは偽物だ。部下に作らせて、奴に本物だと思わせた代物だ。本物の計画書は別の場所で保管してある。安心したまえ」


 まるで当たり前のことのように話すクラビッツ。対してクラウスは理解が及ばなかった。一体どういうことなのか混乱していた。そんな彼にクラビッツがさらに続けた。


「実はこの作戦を提案したのは、ユリカ大尉なのだ」 


「ユリカが?」


「ジョルジュが君たちに寝返りを提案してきた日があっただろう? その日、大尉から提案されたのだよ。参謀本部にいる裏切り者を見つけるために、偽物を掴ませようとな」


 ユリカが頷く。そういえば時々、クラビッツと話をしていた時があったが、きっとこの作戦について話をしていたに違いなかった。


「なるほど……しかし何故私には知らされなかったのですか?」


「この作戦は知っている人間が少ない方が成功するからな。君には知らせない方がいいと思ったのだ。作戦課でも知っている人間は極少数だ。よく言うだろう? 敵を騙すなら、まず味方からと」


 なるほど。確かにその通りだ。実際そのおかげで見事にジョルジュたちを騙せたのだ。


 ユリカの言うとおり、勝ちはしなかったが負けもしなかったのだ。そのことにクラウスは安堵の溜息を吐くのだった。


「しかし、何と言えばいいのか……てっきり少将は私を裏切り者だと疑っているのではないかと、そんな風に思っていました」


「前にも言っただろう? 私は誰も疑わないが、信用もしない。君に利用価値があるから、利用しただけだよ」


 そんな風に語るクラビッツだが、本当にそうだろうか? クラウスにはそれだけではないように思えてならなかった。


「……私が若手士官だった頃、同じ連隊の同期にアウグストという奴がいてな」


 その時、クラビッツが唐突に昔話を始める。まだ新調されたばかりの軍服を着ていた若者だった頃の話。


「同じ連隊での同期だ。競い合いもしたし、同じ釜の飯を食べた。競争相手でもあり、戦友でもあった。若い頃は二人で色々やったものだ。そいつはシャルンスト家という名門の生まれだったが、そんなことは関係なく、私と仲良くしてくれたよ」


 シャルンストという名にクラウスが目を見張る。アウグスト・フォン・シャルンスト。それはクラウスがよく知っている人間の名前だった。


「……少将。それって」


「奴は退役して家に戻ったが、とてもいい奴だった。年を取って、今度はそいつの息子と仕事をすることになった。あの男の息子なのだ。よく働くだろうと思ったよ」


 クラウスの父、アウグストはかつて軍にいた。きっと当時は多くの仲間と肩を並べ、同じ食事を食べていたに違いない。


 こんなところで繋がりが生まれているということに、クラウスは神の配剤というものを感じた。こうして意外なところで縁が生まれているのだ。人間、何があるかわからなかった。


「奴にしてはいい息子を持ったものだな。その点だけは誉めてやる」


「……アウグストに伝えたらきっと喜ぶと思います。少将が会いたがっていたと」


 微笑みながら伝えるクラウス。それに対してクラビッツは何も言わない。だが、色々と思うところがあるのだろう。彼は小さく頷いて見せた。


「秘蔵のボトルを出すと伝えてやってくれ」


 そう言って、クラビッツは背を向けた。その背中を見るクラウスたち。その背中からは人間らしい香りがした。


 父と飲む時、クラビッツはどんな顔をするのだろう? そんなことを考えるクラウスだった。



 

 少将との話を終えた二人は、ユリカの部屋に戻った。部屋に入るなり、クラウスはどっかりと椅子に座り込んだ。


 そこでクラウスが大きく溜息を吐く。座り込むというより、沈み込むという方が正しかった。それくらいに今夜の出来事は彼を疲弊させていた。


「だいぶお疲れみたいね」


 そんなクラウスを見て、からかうようにユリカが笑う。


「ああ、この一晩で五年くらい年を取った気がするよ」


「あら、大変。それなら五年分の誕生日プレゼントをあげましょうか?」


 そんな風に笑ってくれるユリカ。こんな風に軽口を言い合うのも、本当に久しぶりな気がした。


 思えば数日前からぎくしゃくした空気が流れていた。以前と同じように軽口を言い合えるのは、不思議と心地よかった。


「しかし、ひどい話だ。君も少将も私に何も知らせず、君たちだけで作戦を始めていたんだから」


「あら? 仲間外れにされたのが、そんなに嫌だったのかしら?」


 ニヤニヤしながらこちらを見てくるユリカ。とても楽しそうに笑うのだから、クラウスも余計に悔しかった。


「ふふ、ごめんなさいね」


「まあ、それでジョルジュを騙せたわけだからな。さすが少将だな」


 結局はジョルジュを含めて、クラウスも少将の掌で踊らされていたことになる。全てはクラビッツの意のままだったわけだ。改めて、敵に回したくない人だと思った。


「まあ、とりあえずこれで終わったということかな」


 クラウスが大きく息を吐いた。ジョルジュを出し抜くことができたし、情報も守ることができた。クラウスはこの結果に胸を撫で下ろしていた。


 その時、クラウスは気になることを思い出した。


「そういえば、君に色々言われたけど、あれもジョルジュを騙すための君の演技だったのか?」


 それはユリカから言われた言葉。ジョルジュに口説かれていたクラウスは、そのことをユリカに責められていた。


 ユリカに責め立てられたクラウスは、それでしばらく気分が落ち込んでいた。今思えばあれもジョルジュを騙すためにやったことかもしれなかった。それならクラウスも納得できた。


「いえ? 演技じゃないわよ」


 すると、そんなクラウスの淡い期待をばっさりと断ち切るユリカの言葉。あまりの鋭さに思わずクラウスも呆然とした。


「あ……えっと?」


 間の抜けた声を上げるクラウス。その様子を見て、ニッコリと笑うユリカ。どこか迫力のある笑みを浮かべたまま、彼女はもう一度口を開いた。


「あれは演技じゃないわ。私の心の底からの言葉よ」


「えっと……どういうことだ?」


 訳がわからないといった様子のクラウス。対して凄みのある笑みを浮かべたまま、彼女はクラウスに近寄る。


「確かにジョルジュを騙すという意味もあったわ。ああすることで仲間割れが起きているって彼女に思わせる意図があったわ。だけどね、それはついでの理由なのよ」


 ジョルジュのことはついでと語るユリカ。ではその真意はどこにあるのか? 考えても答えの出ない難問にクラウスは混乱するしかなかった。


 そんなクラウスに、今度は不満そうな顔を浮かべてユリカが顔を寄せてくる。


「私ね、あなたが許せなかったの」


「……えっと、許せないって、何が?」


 何か自分に落ち度があったのだろうか? 考えても心当たりのないクラウス。そのことが余計に腹立たしいのか、ユリカの不満は強くなる一方だった。


「私ね、あなたがジョルジュに口説かれた時、それを跳ね除けなかったのが許せなかったのよ」


 それはモンデリーズでの出来事のことだった。ジョルジュは二人に寝返りを提案した時、クラウスを恋仲にならないかと口説いていた。ユリカが言っているのはその時のことだった。


「いや、別に彼女の提案に乗ったりはしていないだろう」


「ええ、そうね。だけど、はっきりと断らなかったわよね?」


 確かにあの時はクラウスも戸惑うばかりで、はっきりと断ってはいなかった。しどろもどろになったりで、強く言い返したりはしていなかった。


「えっと……君が怒っているのは、私がちゃんと拒否しなかったことなのか?」


 そんなことなのかと首を傾げるクラウス。その様子にますます怒ったのか、頬を膨らませるユリカ。


「ええ、そうよ。あの時、あなたがきちんと断っていたなら、こんなに怒っていないわ。それなのにあなたったら彼女に言い寄られて、ただ情けなくオタオタしているんだから」


「いや、でも彼女の提案には乗っていないだろう?」


 そう反論するクラウスだが、ユリカは呆れて溜息を吐いた。


「当り前よ。あなたが私たちを裏切ることなんて、あるわけないわ。そんなこと、私が一番知っているわ」


 やれやれと肩をすくめるユリカ。彼女はそのままクラウスに詰め寄った。理解の悪い子供に言い聞かせるような勢いだった。


「あなたがジョルジュにかっこ悪いところを見せたのが嫌だといっているのよ。あそこでカッコよく断っていたなら、こんなに怒っていないわ」


 ユリカの瞳がクラウスを捉える。彼を逃がさないよう真っ直ぐに見つめ、彼女は心の言葉を言い放った。


「女の子はヤキモチ妬きなの。自分の相棒が他の女の子にやられている姿なんて、見たくないのよ」


 わかった? と態度で問いかけるユリカ。そんなユリカの言葉を真っ直ぐにぶつけられ、何も言い返せないクラウス。


 ああ、なるほど。確かに情けないと思った。ユリカにここまで言わせてしまうとは、我ながら情けなかった。


「これに懲りたら、もう少しカッコよくなってちょうだい」


 そう言って微笑むユリカ。まったく、今回は女の子に振り回されてばかりだ。女難の相でも出ているのかもしれない。


 改めて、自分は女性が苦手なのだとクラウスは自覚するのだった。


「あ、そうだ」


 その時、ユリカが何かを思い出したように声を上げた。


「どうした? 何かあったのか?」


「訊いておきたいことがあるのだけど」


 そう言って、ユリカはクラウスの右の頬を見た。


「なんだ? 私の顔に何かついているのか?」


「ねえ。あなたがジョルジュにキスされたのって、右の頬だけ?」


 いきなりの質問にクラウスは戸惑う。それはユリカの目の前で、ジョルジュにキスされた時のことだった。あの時は不意打ちで、クラウスは右の頬にキスされていた。


「あー……そうだな。右の頬だけだ」


「ふーん……」


 答えにくそうにそっぽを向くクラウス。それをじっと見つめるユリカ。


「えっと、それがどうしたんだ?」


 そう言いかけた時、クラウスは自分の手が握られるのを感じた。そして次の瞬間だった。


 まるでおとぎ話のようだった。ユリカがクラウスの手を取って、彼の手の甲にキスをしていた。


 騎士道物語では、騎士が貴婦人に対し、敬意を示すものとして手の甲にキスをすることがあった。今でも絵画や絵物語の中で、騎士たちは女性の手の甲にキスをしている姿が見られた。


 唯一違うのは、そこには騎士はいなかった。キスをしているのは女性で、されているのは男だった。


 クラウスは呆気に取られた。逆にユリカは慣れた様子でキスしていた。その光景が不思議と様になっているのだから、それが当たり前のように思えるほどだった。


「い、いきなり何を?」


 やっとのことで声を上げるクラウス。思わず手を引くクラウスに、ユリカはニンマリと笑っていた。


「あら? 手の甲は初めてだったかしら?」


「いや、初めてというか……」


「それとも、左の頬にしてほしかったのかしら?」


 悪戯っぽく笑うユリカ。戸惑うクラウスが面白いのか、ユリカはニヤニヤ笑うのだった。


「貴方がもう少しカッコよくなったら、ほっぺにもしてあげるわ」


 そんなことを言うユリカに、やられっぱなしのクラウス。


 まったく、自分が情けないと思うクラウス。ジョルジュにやられて、ユリカにもやられて、他にも色々な女性にからかわれて。本当に情けないと思った。


 だけど、ユリカにからかわれるのは、何故か嫌な気分ではなかった。この感覚は本当に久しぶりで、とても心地の良いものだった。


 だけど、このまま負けたままというのも、クラウスには悔しかった。なのでせめてもの抵抗を見せておくことにした。


「わかった。いつかカッコよくなってみせるよ」


 そう答えるクラウス。その答えに合格を与えたのか、ユリカはにっこりと微笑んでくれた。


「楽しみにしてるわ」


 全く、カッコよく笑う少女だ。やはり彼女はお姫様より、女帝の方が似合う。クラウスはぼんやりと考えていた。

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