第五章 たとえ嫌いになっても

 翌日。クラウスの目覚めは最悪なものだった。頭が重く、体を起こすのも辛かった。眠れたのかどうかさえ分からなかった。


 鏡を見る。いつも陰気な顔をしていたが、今は死人のようにひどい顔だった。クラウスの様子を見に来た憲兵でさえも、心配するようにクラウスを見るのだった。


 それ以外は特に何もない。自由に出られないことを除けば、部屋で自由に過ごすことができた。仕事をする必要もなく、出かける必要もない。なのでクラウスは本を読んだり、 考え事をしたりして過ごした。


 だが、それも長くは続かない。自分の今の状況、ジョルジュの罠、そしてユリカの寂しそうな顔。それらが頭の中でぐるぐる回って彼を苦しめる。


 途中で食事やお茶を飲んだりもするが、それも気休めにすらならない。味を感じることなく、食べ物を口に運ぶだけの作業にしかならなかった。


 とある芸術家は『心が死ぬと、何も感じなくなる』と語ったことがある。最初に聞いた時は理解できなかったが、今ならわかる。これが心が死ぬということなのだと。


 心が死ぬと、人は生きていることにすら何も感じなくなるのだ。それは、とても辛いことだった。


 いや、もしかしたら辛いということも感じていないかもしれない。


 初めて生きることが拷問だと思った。そんな時間をクラウスはずっと過ごしていた。

 

 


 夜になった。すでに太陽は沈み、外は暗くなっていた。曇っているのか、月明かりもない真っ暗な夜だった。


 だが、クラウスにはそんなこと関係なかった。彼はベッドの上で横たわっていた。夜になったことにすら気付いていないかもしれない。仮に気付いたとしても、彼は何も考えることはなかった。


 息もしているのかわからない。近寄らないと死んでいるようにも見えた。それくらいに今のクラウスは生気を感じなかった。


 その時、ドアの向こうから話声が聞こえた。少しするとノックする音が聞こえてきた。


「食事を持ってきましたよ」


 どこかで聞いたことのある声だった。クラウスが入るよう促すと、ドアからルシアナが入ってきた。


「こんばんわ。お元気ですか?」


 そう言いながら食事を運んでくるルシアナ。彼女はクラウスを見ると、あまりの姿に苦笑いを浮かべた。


「あらあら。せっかくの色男が台無しですよ」


「どうも。これはお恥ずかしい」


 クラウスも笑みを浮かべる。その笑みも力ないもので、それを見てルシアナも苦笑いを深めていた。


「ははあ。聞いてはいましたけど、だいぶやられてますね」


「見ての通りですよ。やはり噂になってますか」


「それはもう。女たちは噂が好きですから」


 きっといい笑い話になっているに違いない。そう思うとさらに情けなくなるクラウスだった。


「まあ、その分だと食事も楽しめていないようですね。今夜は私の料理を食べて、元気を出してください。自慢じゃないですけど、美味しくできたと思いますよ」


 机に並べられた食事を見る。確かに昼に出てきた料理よりも美味しそうに見えた。


「ありがとうございます。いただきますよ」


 正直食べられる自信がなかったが、せっかく作ってくれたのだ。ありがたくいただくことにした。


 すると、ルシアナは部屋を出ることなく、そのままクラウスの前に座った。


「……どうしました?」


「いえね。せっかくだからお話に付き合ってもらおうかなと」


 にこにこしながら笑うルシアナ。このまま部屋に残って一緒に食事するつもりらしい。


「いや、私は構わないですけど、いいんですか?」


「大丈夫ですよ。憲兵さんにも許可はもらってますから。食事の時間くらいは大丈夫ですよ」


 そんなことをにこにこしながら言ってくるルシアナ。さっき外で話していたのもそのことなのだろう。


 クラウスは首を傾げる。比較的自由に過ごせるとは言え、人と接見するのはさすがに厳しい立場のはずだ。それなのに食堂の女給が接見を許可されるというのは、あり得ないことだった。


 よくわからない状況だが、クラウスはそれ以上深くは考えなかった。それに誰かと話すという行為は、人には必要なものなのだ。この状況で誰かと会話できるというのは、クラウスにもありがたかった。


「わかりました。こんな顔の男でよければ」


「ええ。デートのお誘いは大歓迎ですよ」


 そうして食事を始めるクラウス。食べてみると、確かに美味しかった。久しぶりに美味しいという感情が沸き起こった。そんなクラウスをルシアナはにんまりと笑って見ていた。


「そういえば、外の様子はどうです? みんなは何をしていますか?」


「特に何も。みんないつも通りに過ごしていますよ」


「そうですか……」


 外は自分とは関係なく、同じ日々を過ごしている。安心する半面、自分がそこにいないということにクラウスは寂しさを覚えた。


「ユリカはどうしてます?」


 クラウスが質問する。するとその問いかけにルシアナがにやりと笑った。


「やっぱり気になります? 彼女のこと」


「……まあ、多少は」


 ルシアナがどう受け取ったかわからないが、いちいち言葉を返す気にもならないので、クラウスも適当に受け流しておいた。するとルシアナは楽しそうに話し始めた。


「お嬢様もいつも通りにしていますよ。でも、やっぱり貴方のことが気になっているみたいです」


「……そうなんですか?」


 意外そうに顔を上げるクラウス。昨日はあんなに責め立てたというのに、自分のことを気にしているというのが、彼には不思議だった。


「どうしました?」


 クラウスの反応が不思議だったのか、ルシアナが問いかける。


「いえ。ユリカには色々言われましたからね。もう私に愛想尽かしているんじゃないかって、そんな風に思っていましたから、ちょっと意外でした」


 自虐気味に笑うクラウス。昨日はあれほど責め立てられたのだ。もしかしたらコンビ解消もあり得ると思っていた。


 するとそんなクラウスの反応を、今度はルシアナが目を丸くしていた。それをクラウスが不思議そうに見た。


「えっと……何か?」


「いやあ、愛想尽かすってのはないと思いますよ。特に貴方たちは」


 ルシアナの言葉にクラウスが怪訝な顔を見せる。一体どういう意味なのか?


「えっと、それってどういう意味ですか?」


「いや、なんて言うのか、貴方たちは絶対に離れたり嫌い合ったりすることはないと思いますよ。私の経験上、貴方たちみたいなカップルは、絶対に信頼が崩れないタイプですから」


 ルシアナの話にますます首を傾げるクラウス。彼女は自分たちの何を見て、そんなことが言えるのだろうか? 


「それとも、何か愛想を尽かされるようなことをしてしまったんですか? 誕生日を忘れたとか?」


「あ、いえ。そういうのではないのですが……」


 ジョルジュとのことを言うべきか迷うクラウス。とりあえず全てを伝えるわけにもいかないので、簡単な説明だけすることにした。


「まあこれが原因かはわかりませんが、私が他の女性とお茶としていたというのはありますけど」


「へえ……そうですか」


 クラウスの話を聞いて考えるルシアナ。それからルシアナはクラウスに顔を向けた。


「ねえ、そのことでお嬢様から何か言われました?」


「え……ええまあ、昨日はそのことで色々言われました。怒ってはいる、と」


「ふーん……なるほど」


 その話を聞いて、ルシアナがニマニマと笑い出した。今の話に笑う要素などあったのだろうか?


「あの、何かおかしいですか?」


「ああ、すいません。やっぱり仲がいいなと思っただけですよ」


「……仲がいい?」


 やはり意味がわからない。今の話を聞いて、どうしてそんな言葉が出てくるのか。


「だってそうでしょう? 怒っているということは、愛想を尽かしていないってことですから。もし本当に見限っているなら、尽かすほどの愛想すら残っていないはずですよ」


 なるほど。クラウスは変に納得してしまった。怒っているということは、まだ自分を見ているということなのだ。


「それに、貴方は浮気するような人はないでしょうから」 


「はい? 何でそう思うんですか?」


「だって、ねえ」


 ルシアナは我慢できないという風に笑い出した。彼女はクラウスを見て、また面白そうに笑った。


「えっと、何です?」


「ごめんなさい。だって、貴方って浮気とかできなさそうですもん。女の子をお茶に誘うなんて、今まで一度もしたことないでしょう?」


「……あー、まあ、そのとおりです」


 なるほど。つまり自分は女を相手に遊ぶような人間には見られていないということなのだ。いい意味なのか悪い意味なのか、この場合はわからないが。


「すいません。でも、だから私は羨ましいですよ。貴方たちってお互いを信頼しているってわかりますから。お嬢様もお兄さんを信じているんだなって、顔を見たらわかりますもん。まあ私の少ない経験で語るのもおかしな話なんですけどね」


 そう言ってまた笑い出すルシアナ。だが彼女の語る話は説得力があったし、何より安心できるものだった。少なくとも彼女の話は信頼できた。


 何故なら、女の勘は鋭いのだから。


 ここまで話したところで、クラウスは一つの疑問が浮かぶ。それなら何故ユリカは自分に怒っているのだろうか?


「それなら、どうしてユリカは怒っているのでしょうか?」


 そんなクラウスの呟きを聞いて、ルシアナが呆れたように笑った。


「それはそうですよ。女の子ならみんな怒りますよ」


 首を傾げるクラウス。何のことかわからない彼にルシアナが答えを明かす。


「女の子は自分のことを大事にしてほしい生き物なんです。そういう時は『君が一番だ』と答えるのが正解なんですよ」


 意外な答えだった。意外すぎてクラウスは一瞬呆けるくらいだった。


「それがユリカの欲しかった言葉、ですか?」


 きょとんとするクラウス。ルシアナは何も答えず、ニヤニヤ笑って見ていた。


「そんなことが彼女の欲しい言葉なんですか?」


「そんなことじゃないです。貴方から欲しかった言葉です」


 仕方ないなと、苦笑いしながらルシアナがクラウスを見つめた。理解の悪い子供を諭すような微笑みだった。


「貴方から一番大事に想われているって、そう言ってほしいんだと思います。お嬢様は自分のことを第一に考えてほしかったんだと思いますよ」


 意外な答えにクラウスは理解が及ばなかった。あのユリカがそんな風に考えたりするのだろうか?


「どうしました?」


「あ、いや。ユリカがそんなことを考えるとは、少し考えにくくて」


 そう答えるクラウスにルシアナは笑みを深めた。


「それはたぶん、貴方に出会ったからですよ」


「私に? どういう意味です?」


「簡単ですよ」


 一呼吸おいて、ルシアナは語った。


「女の子は大切な人ができたら、変わるんですよ」


 女の子が語る女の子の気持ち。恋物語や昔話でしか聞かないような、女の子の複雑な気持ち。クラウスと出会ったことで変わったユリカの心。


 だけど、クラウスにそれがわかるはずがなかった。人の心の機微に鈍感なクラウス。そんな彼がユリカの心を理解できるはずもない。


 今まで生きてきて、読んできた本にも書いていなかったし、誰にも教えてもらえなかったのだから。


「よくわからないですけど、そういうものですか?」


「ええ、そうですよ。だってお兄さんだってそうでしょう?」


 いきなり自分のことを言われてクラウスが戸惑う。自分が彼女と同じだと。


「私が?」


「そうですよ。だってお嬢様に怒られて、すっごく落ち込んでるじゃないですか。大切な人じゃなければ、そこまで落ち込んだりはしませんよ」


 その言葉には変に納得することができた。確かに他の誰かに色々言われても、特に気にすることはなかった。こんなに人の言葉で落ち込んだのは、クラウスには初めてのことかもしれない。


 ユリカが自分にとって大切……なのかは正直わからなかった。


 だが、自分の中で大きな存在なのは間違いなかった。


 そこまで考えて、クラウスは心がムズムズし始めた。何故かわからないが、なんだか素直に認めたくない気持ちになった。


「私には、よくわかりません」


 クラウスはそれだけ答えた。素直になれない男の子みたいな答えに、ルシアナはクスクス笑った。


「貴方たちって、本当に見てて飽きないですね」


 とても楽しそうに笑うルシアナ。その顔が余計に悔しくて、クラウスは目を逸らすのだった。



 食事を食べ終えると、久しぶりに満腹感に襲われるクラウス。食事がこれほど素晴らしいと感じたのは、久しぶりだった。


「ごちそうさまです」


「満足いただけて何よりです」


 クラウスの顔を見て嬉しそうに笑うルシアナ。ご飯を食べてもらえるというのは、料理する人間にとって嬉しいことなのだろう。


「でも、よくここに入れましたね。断られなかったんですか?」


 普通なら憲兵が立ち入りを禁止しそうなものだが、何故かルシアナの入室を許可してくれた。一体どんな話をしたのだろうか? 


 そんなクラウスの疑問を受けて、ルシアナが苦笑いをした。


「あ~……実は、私が入室できたのも、お嬢様のおかげなんですよ」


「ユリカの?」


 言っていいかどうか迷いながら、ルシアナは真相を明かした。


「実はお嬢様から、お兄さんの様子を見て来てほしいって言われてここに来たんですよ。憲兵さんにもそのことを教えたら、入れてもらえたんですよ」


「え? そうなんですか?」


 驚きではあったが、確かにそれなら納得だった。しかしそれなら、どうして彼女がここに来ないのだろうか? 


「いえね。どうもお嬢様、お兄さんに色々言ったから行きづらくて、代わりに見に行ってほしいって言われたんですよ。私なら大丈夫だろうってことで」


「ああ……そういうことですか」


 まああれほど言い合ったのなら、確かに会いに来れないかもしれない。


「それにほら、私たち女給は色んな所に入れますから。私が一番頼みやすかったんだと思いますよ」


「ああ、なるほど。確かにそうですね」


 確かに彼女たちは参謀本部を自由に出歩けるのだ。どこにでも入っていける彼女たちなら、確かに頼みやすいかもしれない。


「……え?」


 その時、クラウスの中で何かが音を立てた。それまでの頭の重さは消え、脳に一気に血が流れるような、刺激的な感覚。


「お兄さん?」


 クラウスの様子を不思議そうに見るルシアナ。そんな彼女に気付かず、クラウスは思考の渦に沈み込む。


 思えばどうしてジョルジュは自分たちの行動を把握していたのか? それは間違いなく参謀本部に協力者がいるからだ。そして、その協力者は自分たちに気付かれずにクラウスたちの周りにいるのだ。


 それはまるで影みたいに、そこにいるのが当たり前で、しかしいることが気付かれない相手。


 そんな人間、いるのか? クラウスがそこまで考えたところで、彼の頭脳が一気に覚醒した。


 いるのだ。そんな人間が。自分たちの近くに確かにいたのだ。


「どうしました? お兄さん」


「ルシアナさん。ちょっと聞きたいことが……」


 クラウスが口を開きかけた時だった。外から騒ぎが聞こえてきた。


 

「何だ?」


 クラウスが呟く。何か大きな音が外で響いていた。しばらくすると、異常を知らせる鐘の音がけたたましく鳴り響いた。


 何かが起きている。それもかなり危険な何かが。クラウスは本能で感じていた。それはルシアナも同じなのか、不安そうな顔をしていた。


 すると、部屋の外で話声が聞こえてきた。怒鳴り声にも似た会話だった。そうすると、ドアを開いて二人の憲兵が入ってきた。


「クラウスさん。今参謀本部で火災が発生したそうです。一緒に避難してください。そちらの婦人も一緒に来てください」


 憲兵の言葉に緊張が走る。憲兵の様子からも、危険な状態であることが読み取れた。


「そんなに危険なのですか?」


「こちらは大丈夫ですが、火の回りが早く、どうなるかわかりません。消火隊を行かせていますが、念のために外に出ます」


 どうやら相当危険なようだった。これ以上の問答は必要なかった。


「わかりました。すぐに行きます。ルシアナさんも」


「う、うん」


 ルシアナも不安そうにしている。さすがにこういうのは慣れていないのだろう。無理もなかった。


 その時、クラウスはユリカのことが気になった。彼女は無事なのか?


「すいません。ユリカは大丈夫なのですか? 彼女は避難しているのですか?」


 クラウスの問いかけを受けて、憲兵が顔を見合わせる。だが、報告に来た方は申し訳なさそうな顔をするだけだった。


「申し訳ありません。自分は大尉を確認しておりません。避難誘導は始めているはずですが……」


 煮え切らない答えだった。しかし彼を責めることは出来ない。彼にもやるべきことがあるのだから。


 だがクラウスは焦った。本当にユリカが無事なのか。もしかしたら今も部屋にいるのではないか?


 そう思った瞬間、彼は憲兵に向かって言った。


「すいません。彼女の部屋まで行かせてください。彼女のことが気になります」


 クラウスの言葉に憲兵たちも困った顔を見せた。本当なら急いで避難させるべきなのだ。それはわかっているのだが、どうしてもクラウスは彼女の下へ行きたかった。


「すいません。無理を言っているのは承知しています。でも、どうしても行きたいのです」


「……わかりました」


 クラウスの顔を見て、憲兵も諦めたように頷いた。


「ただし、私も同行します。もし危険だと思ったら、そこで引き返します。それが最大限の譲歩です」


「わかりました」


 彼に同行させるのは心苦しかったが、一緒にいてくれるのはありがたかった。


「お前はそちらの婦人を連れて行ってくれ」


「……わかりました。ですが、くれぐれも気を付けて」


 そう言って、ルシアナを連れて行こうとする憲兵。その時、ルシアナがクラウスに行った。


「お兄さん、気をつけてね」


「ありがとうございます。そちらも気を付けて」


そう言って、クラウスたちはユリカの部屋へ向かって走り出した。



 外からは火災を知らせる鐘の音が鳴り響いていた。脳に直接響くような音は、自然とクラウスたちに緊張感を持たせた。


 建物の中を走るクラウスたち。すでにみんな避難しているのか、周りに人はいなかった。だがその静けさが逆にクラウスを不安にさせた。


「待ってください。クラウスさん」


 角を曲がろうとすると、憲兵が呼び止めた。


「火災はこの近くで起きているそうです。気を付けて」


 クラウスが立ち止まる。確かに周りから焦げるような臭いが感じられた。


「わかりました。行きましょう」


 そう言って、もう一度走り出すクラウスたち。今は時間が惜しかった。


 外では消火活動が始まっているのか、時々怒号みたいなものが聞こえる。きっと誰かが炎に向かって戦っているのだろう。


 急がないといけない。この様子だと火の手は大きくなっているようだ。


 クラウスの中に嫌なものが流れる。もしその炎の中で、ユリカが一人残されているのだとしたら。


 無意識にクラウスの速度が上がる。憲兵もそれに合わせてクラウスに続く。まるで昔からの仲間のように。


 そうして走り抜けたところで、彼らはユリカの部屋に辿り着いた。まだここは燃えておらず、大丈夫のようだった。


「ユリカ! いるのか!」


 部屋をノックするが、中から返事はない。クラウスはそのままドアを勢いよく開いた。


「ユリカ!」


 中に入ると、そこには誰もいなかった。静寂だけが彼らを迎え入れた。


「……やはり、避難しているのでしょう」


 憲兵が呟く。だが、そこに確信はない。まだ建物に取り残されている可能性だってあった。


 だが、ここにいないのであれば、もう探すアテもなかった。正直まだ不安はあったが、これ以上建物に残るのは危険だった。


「行きましょうクラウスさん。我々も避難しませんと」


「……わかりました。ここまで来てくれて、ありがとうございます」


 後ろ髪を引かれる思いだった。本当にユリカは無事なのか? 彼女は避難しているのか? クラウスは不安でいっぱいだった。


 そんな不安を抱いたまま、クラウスたちは走り出した。外にユリカがいることを信じて。

 

 

 さきほどより鐘の音が激しくなっていた。人々の怒号も大きくなっているようだ。


 クラウスたちが角を曲がる。その先に、三人の兵士たちがいた。


「お前たち、何をしている? 避難はどうした?」


 憲兵が問い詰める。それに対し兵士の一人が答える。


「自分たちはクラビッツ少将より荷物を運び出すよう言われております。これで最後ですので、自分たちもこのまま行きます」


「そうか。わかった。気を付けるように」


「はい。それでは」


 そう言って男たちも走り出した。きっと作戦課の人間だろう。カバンを持って彼らも避難を始めた。


「さあ、自分たちも行きましょう」


「はい」


 クラウスたちは再び走り出す。彼らはそのまま階段を降りようとした。


 きっと運がなかったのだろう。一段目を降りようとした瞬間だった。クラウスは自分の体が重力を失った気がした。


 後は一瞬だった。彼は階段を踏み外し、一気に下まで転げ落ちた。


「クラウスさん!」


 憲兵が叫ぶ。さすがにそれに答えることができず、クラウスはその場で倒れこんだ。


「大丈夫ですか!?」


「……大丈夫です。申し訳ない」


 打ち所が悪かったのか、呻くように答えるクラウス。頭を打ってしまったのか、少し意識が朦朧としていた。


 ああ、全く情けない。この数日は情けない事ばかりだ。こんな姿、ユリカには見せたくないものだ。


「……クラウス…………」


 そんな風に思っているのに、気のせいか彼女の声が聞こえる。きっと彼女のことを考えたからだ。


 やはり自分は情けない。そう思いつつも、だけどクラウスは不思議と嫌な気分にはならなかった。


 そのまま眠りに就きそうだった。だが、彼女の声を聞きながら眠れるのなら、それも悪くない。そんなことを思っていた。


「クラウス!」


 そんな、鋭い叫びがクラウスを現実に引き戻した。彼が目を開くと、目の前にユリカがいた。


「……ユリカ?」


 そんな間抜けな声を上げるクラウス。そんな彼にユリカが心配そうに手を伸ばした。


「大丈夫!? どこか怪我をしたの!?」


 ユリカが心配そうに顔を覗き込む。まるで泣き出しそうでさえあった。その彼女の後ろでは、ルシアナを外に連れて行ったはずの憲兵がいた。


「どうしたの? やっぱりどこか痛むの?」


「……あ、いや。大丈夫だ。階段で転んだだけだ」


 そう言ってクラウスが立ち上がる。足は痛くない。これなら走れるだろう。


「……このおバカ!」


「は、はあ?」


 いきなりのことでクラウスは驚いた。憲兵二人も彼らを驚いて見ていた。


「バカって、一体何のことだ?」


「何で私を探しに行くのよ! 早く避難しないと危ないって思わなかったの!?」


 どうやら彼女は、クラウスがすぐに避難しなかったことを怒っているようだった。しかしクラウスにも言い分はあった。


「いや、確かにそうなんだが、君が避難しているかどうか知らなかったんだ。心配だったから、どうしても行きたくて」


「ええ、それは聞いたわ。そちらの方が教えてくれたわ」


 後ろの憲兵を見るユリカ。どうやらルシアナと一緒に出てきた彼に、クラウスのことを聞いたのだろう。


「火事が起きて危険なのに、わざわざ私を探しに行くなんて。しかもそちらの方まで巻き込んで。迷惑だと思わなかったのかしら!?」


「あ、いや。ユリカ大尉。自分は構わないので、お気になさらず」


 憲兵が思わず彼女をなだめる。だがそれで彼女の怒りが収まるはずはなかった。


「何かあったらどうするの!? もっと自分を大事にしなさい!」


 そこまで言ったところで少し落ち着いたのか、ユリカは肩を撫で下ろす。そうして、最後にクラウスに向けて言った。


「こういう時は私のことは放っておいて、自分を守って。お願いだから」


 子供を諭すような顔だった。大切な人に向けられる顔とは、こういうものなのだろう。


 とても優しい声だった。とても温かい顔だった。とても心地よい言葉だった。


「……そんなこと、できるわけないだろう」


 そんな彼女の言葉を受けて、今度はクラウスが口を開いた。その呟きには怒りが混じっていた。


「クラウス?」 


「君を放っておくなんて、できるわけないだろう!」


 思わず怒鳴るクラウス。ユリカも憲兵たちも驚いて彼を見た。クラウスはさらに怒鳴り続けた。


「自分を放っておけとか、君こそ自分のことを大事にしたらどうなんだ! 前から思っていたが、君は自分のことを少し大事にしないところがあるぞ! 心配する身にもなってくれ!」


 想いをぶつけるクラウス。飾り気のない真っ直ぐな本心。それを受け止めるユリカは呆然としていた。そんな彼女にクラウスは言い放った。


「たとえ君が私を嫌いになっても、絶対に君の所に行くからな! 私がそうしたいから!」


 その言葉をどう受け止めたのか。ユリカはじっとクラウスを見つめた。今まで見たことのない、初めて見せる顔だった。


「もう少し、私を頼ってくれ。こんな情けない私でも、君の隣に立つくらいはできるから」


 そこまで言って気が済んだのか、クラウスはそこで言葉を切った。後には沈黙が漂った。


 すると、怒られたというのにユリカがにっこりと笑った。


「……うん、ありがとう。クラウス」


「……? 何がおかしいんだ?」


「いいえ、何でもないわ」


 訳がわからないクラウス。そんな彼を嬉しそうに見つめるユリカ。


 そんな二人に憲兵が気まずそうに声をかけてきた。


「失礼。そろそろ外に行きましょう」


「あ、はい。そうですね」


 クラウスはそう言って走り出す。少し体は痛いが、走れないほどではない。それに続くようにユリカたちも走り出した。


 その間、ユリカは顔がにやけていることに、クラウスは気付かなかった。




 外ではすでに避難していた人が集まっていた。クラウスが建物を振り向くと、建物の一部から火が上がるのが見えた。それに向けて消火隊が水をかけていた。


「おお。来たか、クラウスくん」


 そのクラウスに声がかかる。振り向くとクラビッツがいた。


「無事だったようだな。ユリカ大尉を探しに戻ったと聞いていたが、何事もなくて何よりだ」


「すいません。勝手なことをして」


「いや、無事ならそれでいい」


 クラビッツはそれだけ言った。彼は今も燃えている炎を見た。


「全員の無事も確認できた。火事の方もある程度落ち着きつつある。特に大きな被害も出ることはないだろう」


「そうですか……それはよかった」


 胸を撫で下ろすクラウス。そんな彼らの下にユリカもやって来た。


「少将。情報部も全員の無事を確認しました。異常はありません」


「よろしい。あとは火が収まるのを待つとしよう」


 クラビッツは落ち着き払った様子で言った。やはり多くの修羅場を潜り抜けてきたのだろう。これくらいのことでは動じないようだった。クラウスも感服した。


 そうしてクラウスは周りを見た。何人かの士官たちが話をしていた。


「そう言えば少将。彼らはどうしました? まだ建物に三人ほどいたのですが?」


「ん? 三人? いや、ここにいるので全員のはずだが?」


「え? ですが少将の命令を受けて三人ほど荷物の運び出しをしていましたが」


 クラウスの言葉にクラビッツが怪訝な顔を見せた。


「いや? 私はそんな命令を出していないぞ。全員迅速に避難するように言っておいたのだが」


 首を傾げるクラビッツ。その様子にクラウスは嫌なものを感じた。


 不安と言ってもよかった。彼の本能が危険なものを感じ取っていた。


「……やられた」


 クラウスの呟きが流れる。その呟きを聞いていたユリカが声をかける。


「どうしたの? クラウス」


 ユリカがの問いかけにもクラウスは何も答えない。代わりに彼は少将に問いかけた。


「少将! 何か参謀本部で何かおかしなことはありませんでしたか!? 見慣れない馬車がいたとか、誰かが歩いていたとか!?」


 そう問いかけるが、クラビッツは首を傾げるだけだった。


「はて? 特に何もおかしなことはないと思うが?」


「何でもいいんです! いつもと違うことがあったとか、そういうことでも!」


「……あの、よろしいですか?」


 するとすぐ近くの兵士から声がかけられた。


「自分は外の見回りをしていたのですが、汽車が走るのが見えました。いつもならこの時間に汽車が走ることはないので、少し気になりました。貨物列車だったようで、中央駅に行くのが見えましたが……」


「それだ!」


 クラウスは叫ぶと、クラビッツに言った。


「少将! 自分はアンネルのスパイを追いかけます! 奴らは機密情報を盗み出したようです!」


 いきなりの話にクラビッツもユリカも、周りの兵士たちも目を丸くした。いきなりの話に誰もが動揺していた。


「おい。それはどういう意味かね?」


「すいません! 話はあとで! 自分は奴らを追いかけます!」


 そう言って走り出すクラウス。そんな彼の後をユリカも追いかけた。


「待って! クラウス」

 



 オデルンの街を走るクラウスたち。途中馬車を呼び止めて中に飛び乗った。


「中央駅まで急いでくれ! 早く!」


 馬車に乗り込む二人。中で息を切らせながら駅に向かう。


「クラウス。説明して」


 馬車の中でユリカが問いかける。


「盗まれたって、本当なの?」


「確証はない。でも、その可能性がある。君に会う前に三人の男たちを見た。恐らく奴らがアンネルのスパイだ」


 クラビッツに命令を受けたという男たち。だがその男たちのことは身に覚えがないとクラビッツは言っていた。


「恐らく火事も奴らが起こしたものだ。騒ぎを起こして機密情報を盗み出したんだ」


 今思えば彼等の話す言葉には、アンネル特有の発音があった。上手く話せてはいたが、完全には消すことは出来なかったようだ。


「たぶん今夜やってきたという貨物列車に乗って逃げる計画だ。取り戻さないと」


 馬車が駅に向かって走る。馬車の振動が痛いが、そんなことは気にしていられなかった。


「でも、その三人はどうやって参謀本部に侵入できたのかしら? 簡単に入ることは出来ないはずよ」


「簡単だ。参謀本部にいた協力者が手引きしたのだろう」


「協力者って、そういえば誰かわかったの?」


 ユリカが問いかける。クラウスは彼女にその協力者の名を告げた。


 その名を告げられたユリカは、あまりの衝撃に絶句するのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る