プロローグ下『エアフローのないお嫁』
「ですから、『妻』です。『嫁』です。『σύζυγος』です。今のはギリシャ語でワイフの意味です。どうしてお認めにならないのですか。貴方さまがお望みになったのに」
寝ても覚めても、とはこういうことを言うのか。
否、眠りにつくことすら叶わなかった。
遠からずノイローゼになりそうだ。
声音ばかりは澄んでいて、それなのに、ララバイにしては口数が多すぎる。
これではMCバトルじゃないか。
「最後のが聞き捨てならない。僕が望んだってどういう次第だ」
「言葉通りの意味です。曰く、可愛いお嫁さんがほしいと。たしかに心内で、そうお望みになられた筈です。ですから私は、不肖の身なれど、貴方さまのもとに参ったのです」
それあ思うだろう、盛りの男なら誰だって。
ふと何の気なしに零したって無理はない。
散歩の道すがら、立派な豪邸を前にして、いいなあ、僕もああいうところに住みたいなあ、そういう次元の話だろ、これは。
実際によこせと誰が頼んだ。
それに、ぼかあ「可愛い」お嫁が欲しかったんだ。
こんな近代ディストピアの土産みたいなのを注文するくらいなら、犬畜生だって娶ったほうがまだましだ。
そんなようなことを、早口で捲し立ててやった。
しかし奴は、露も動じる気配がない。
そればかりかむしろ、液晶にしたり顔らしき絵面を浮かべている。
「よろしいですか? 人の審美眼というのは、信用なりません。家庭環境、時代背景、あるいは年齢を経るにつれて、目まぐるしく変化してゆきます」
一方子供を諭す響きで、他方押し売り営業を凄むのに似た剣幕で、声は続けた。
「世には萌え画なる、理想を傾けた肖像があるそうですね。貴方さまは浮世絵をご覧になっても、それと同様の欲情を抱かれますか。人はすべからく老いていきますから、仮に言うことなしの美女と結ばれたとて、十年とせず美貌は衰えます。それを美と呼べますか」
そして声──否、「彼女」は締めくくる。
「すべての鍵は貴方さまの心にあります。つまり、想像力です。貴方さまが豊かな想像で、私の比類ないすがたを描いてくださったなら──私はそれ以外のすべてに尽くしましょう。かくして、貴方さまの可愛いお嫁は、永遠の可愛いお嫁となります。ハッピーエンドです。ちゃんちゃん」
僕は映像に殴りかかろうとしている僕に驚いた。
なにを言ってるんだこいつは。
とどのつまり、やつの主張を要約するとこうだ──空想の世界を愉しんで。
これほど皮肉的な結論を導かれると、かえって言葉が湧いてこない。
だいたい、それ以外のすべてってお前、ただの液晶じゃないか。
二次元世界に引きこもって「俺の嫁」を見繕うのと何が違うんだ。
憤りをあらわにしかかったが、それも無意味だと悟った。
彼女の表情に目をやれば、それすらどんとこいという風格だ。
いたずらにエネルギーを費やす必要はあるまい。こういうときは無視に限る。
「なるほど分かった、寝る」
「床でお休みになられたら、風邪を召されますよ。どうぞ私のほうへ。高度な知性を演算するため、機体に驚異的な処理負荷がもたらされています。身体を温めるに格好の熱加減かと。つまり、換言すれば添い寝です。さっそく同衾に及ぶのは少々、憚られるのですが……」
興味本位に触れると焼石のごとき温度で、あわや火傷の一歩手前だった。
なにが恰好だ。
彼女曰く、彼女は水冷式だそうで、静音の替わりに冷却効率で劣るらしい。
背景の水槽は貯水タンクだそうだ……。
いささか熱は籠もりますが、構造上差し支えありません──。
彼女は慌てた声音でそう釈明した。
彼女が熱暴走したのは、実にその三日後であった。
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