第3話 にゃっこ「そうだよ。私はお前の成れの果てだよ」
私は隠している。
女の子が好きな女の子だということを。
昼下がりの廊下には、大きな窓から夏の日差しが差し込んでいた。明るくて強いその光に当たれば、たちまち体が溶けてしまいそうだ。ああ、そうだね。みんな溶けかかってる。7月の期末テストが終わると、だいたいそうなる。けだるい空気が流れて、夏休みになるまで、できれば溶けたまま生きていたい、という学生ばかりになる。
光を避けながら廊下を歩き、美術準備室にやってきた。ガラガラと白い引き戸を開けると、やったらぬるい風がケミカルな匂いとともに入ってきた。奥にひとつしかない窓がすっかり開き切って、冷房を邪魔している。そばにはジャージを羽織ったあっちょが、分厚い木のテーブルに突っ伏して溶けていた。
「だるー」
「なら、なんで窓開けてんの?」
「匂いがひどいんだよ。すぐ前に美術の時間だったし」
「ああ、そうか。油彩の匂いか、これ」
「1年のとき、いまぐらいだったじゃん、授業でやってたの」
「そういや、そうだな」
そう言いながら、あっちょの横にあるパイプ椅子に座った。興味なさそうにあっちょが私をちらっと見て、またテーブルに突っ伏す。
「ああー、アイス食べたい。にゃっこ、いますぐ出して」
「語尾に『す』が付く言葉でも出すか?」
「なんだよ、それ」
「おいっす」
「挨拶かよ」
「もういっちょだよ」
「にゃっこ、古いよ」
「イエス」
「バンドかよ」
「ナザレのせがれのほうだよ」
「誰だよ、それ」
「野外フェス」
「ああ、いいな。それ」
「フジ行きたいよな」
「あそこ、蚊に刺されるんだよ」
「蚊取り線香必須」
「また『す』かよ」
あっちょが突っ伏したまま、スカートのポケットに右手を入れる。ごそごそとしていたら、灰色のそら豆のようなワイヤレスイヤホンを取り出した。
「ほい、にゃっこ。片方どうぞ」
「どうも」
「なんか聴こうよ。フェスな気分で」
あっちょが体を起こす。左手に握ってたスマホをいじりだす。流れ出すメロディ。私たちはその流れに身を任す。少し目をつむる。曲が奏でるせつなさが、私たちの体を満たしていく。私はつい言葉を漏らしてしまう。
「アイアンメイデンの『Fear of the Dark』はやっぱりいいな」
「にゃっこもそう思う?」
「ああ。あ、曲切れた」
「次どうする?」
「おススメある?」
「Helloweenの『Sole Survivor』もいいけど、ここはやっぱりSKID ROW聞いとくか」
「『Into Another』か、いいな」
ギターのせつなげなソロが耳に入る。
――ひとつの未来が別の未来へ変わる。それで私たちの心が守られる。
そんな歌詞が流れてく。別の未来。別れてしまったお互いの未来。もう交じることのない未来……。
……いいな。気持ちが暗くなれる。本来の私になれる。そうだよ。私はそんなもんさ。あのとき、好きな人に何もできなかったバカな私。今もできない私。ああ。心から私を殺したくなる。
うっかりあっちょを見てしまう。大丈夫だった。目をつむってた。私の本当の顔は見られずに済んだ。
私は、あっちょに今までそうして来たように、自分の気持ちを隠して笑いかける。
「私の好きな曲は、すっかりあっちょが教えてくれたものばかりだな」
「にゃっこはこういう曲のほうがいいと思ってさ。好きだろ、メロディアスなほうが」
「まあな。でも、なんでそんなことがわかる?」
「わかるよ。ずっとそばにいるんだから」
なんだ、こいつ。私にきゅんとして欲しいのか。
「にゃっこさ、前に放送室ジャックしたとき、最後にリンキンの『Faint』かけてたじゃん」
「ああ、そういえばそうかな」
「だから、こういうのが好きだと思って」
「まあ好きだよ。お前もな」
あっちょの顔が赤くなる
勝った。きゅんとさせられてたまるか。異能力きゅん返しだ。
手で小さくガッツポーズを取ろうとしたら、耳からワイヤレスイヤホンが落ちてしまい、テーブルの上をぽてんぽてんと転がっていった。
「おっと」
ふたりでそれを取ろうと同時に身を乗り出す。
あっちょの顔がすぐめの前にやってきた。キスしようと思えばすぐ届くほどの。
それはあっという間に湧き上がった。言葉にするなら「むらむらとする」。
これのどこがむらなんだ。もっと衝撃的だろうに。
ぎゅっと内側から沸騰する感覚。顔が瞬時にほてる。体を欲しがってたまらなくなる。
女の体に欲情する女の私。
そんな自分を殺したくなる。何度も心の中で自分に向けて銃を撃つ。
死ね、自分。キモい変態野郎。なんであっちょに……。私と同じとわかったからか? 死んでしまえ、私。
「にゃっこ、顔近い」
「悪い」
はっとしたけれど遅かった。
「あ」
てちが白い扉の向こうで私達を見て短い声を出す。そのまま扉を閉めて消えてしまう。
「おい、てち、待て」
私は立ち上がる。追いかけようと、扉に手をかける。開かない。あれ? 力をかけてもびくともしない。
扉の向こうからてちの声がした。
「キスしないと出られない部屋」
「勘違いだって」
「好きって言っちゃえばいいのに」
「そんなんじゃないよ」
てちは鋭すぎていつか身を亡ぼすな……。
困っていたら、やっちんと王子の声がそこに混ざり合う。
「てち、何してるの?」
「どないしはったん?」
「いま、通行止め」
「なんやそれ。中にいるの、あっちょとにゃっこやろ。なんか、やましいことしてるんか」
「やましい。たぶん」
数秒立って、てちの笑い声が聞こえだした。
「にゃはははは! 王子、だめ、だめだって。わきの下は無理!」
くすぐられているらしい。すぐ静かになって、扉がガラガラと開いた。目の前の王子が私を見下ろす。
「どうかした?」
「いや、てちの勘違い」
「そっか」
王子の顔が安心したようにほころんでいく。
下を見れば、体を抱えて廊下で身もだえているてちがいた。
ああ、容赦ないな。王子は敵にしちゃダメだ……。
「だるー」
あっちょは何か隠すように机に突っ伏していた。
そばにやっちんがやってきて、面白そうにあっちょをのぞき込む。
「えらいだらけすぎやん」
「なんか面白いことなくてさ」
「テストは?」
「だいたい80点は取れたよ」
「英語は?」
「……58点」
「あかんなそれ。ギリギリ補習になるで」
「ええーっ。ほらー、面白くない」
「また、勉強教えてやったるさかい。にゃっこは……、聞かなくてもわかるか」
話を振られて私もごまかしついでに言う。
「だいたい100点だよ」
「嫌んなるわ。いつ勉強してんよ。こっちはひーひー言いながら頭つこうてるのに」
「勉強してればなれるよ」
「……あんなあ。私たちはそれでも追いつかんのよ。わかる?」
あっちょがやっちんのスカートの袖を引っ張る。
「やめて。私がみじめになる」
「そやかてな……」
王子が「ここ暑くない?」って奥の窓を閉めたときだった。
てちがぼそりと言った。
「あっちょ、ふられた?」
みんながいっせいに振り向く。
「おい、てち……」
私が「やめてさしあげろ」と言いかけたとき、あっちょが机に頭を預けたままこういった。
「うん、まあ……」
それを聞いたみんなが一斉にテーブルを囲んで着席する。
「あっちょ、こんな根性悪なメガネに恋することないで」
「え?」
「え?」
私はやっちんに意味がわからないままたずねた。
「メガネって? 私しかいないじゃんか」
「そやろ?」
「え?」
「え?」
今度は王子が不思議そうに聞いた。
「にゃっこにふられたんじゃないの?」
「え?」
「え?」
あっちょが突っ伏してた机からえいっと身を起こし、勢いで椅子をカタカタと揺らした。それが止まると静かに言う。
「違うよ。にゃっことは違う人。もうふっきれたから」
みんなが安堵の声を出す。「よかった」「一時はどうなるかと」「にゃっこだけは止めといたほうがいい」とか好き勝手言われる。
やっちんが嬉しそうにあっちょに話しかける。
「安心しとき。お姉ちゃんが、もっといい男紹介したるわ」
「やっちんは同い年だろうが」
「これでも先輩方とのツテもあるねん。あ、女の子のほうがええのんか?」
いたずらっぽく言うやっちんに、あっちょはすねたようにそっぽを向く。
「いや、いいよ。しばらく恋とかそういうのはいいかな」
「そうなん?」
「なんかもうわかんないし」
「重症やな……」
微妙な空気が流れる。
まずいな……。
放っておいたら、てちがまた変な爆弾を投げるかもしれない。
私は適当に言うことにして、話題をそらしていく。
「恋とか愛とか……。だいたいこの中で恋人ができた奴なんかいないだろ」
みんな顔を背ける。
「おい、どういうことだ? お前たち、そんなにおませさんだったのか?」
「おませさんって、なんだよ」
あっちょがむすっと言う。やっちんが返す刀で襲ってきた。
「にゃっここそ、どうなんよ」
「私は……」
みんなが興味津々という顔で見つめてくる。
……言っても仕方ないよな。これは私だけのたいせつな秘密だ。
私はため息をひとつだけつくと、こう言った。
「今はいない」
「今って昔はおったんか」
「……今も昔もいないよ。そんなんだったら、やっちんのほうがあるだろ」
「私には恋はよーわからんからなぁ」
「ごまかすなよ」
「そうねえ。京都いたとき、似たようなことはあったけど、それが恋とはわからんわ」
「しらを切るのか」
「そないたくさん切るで。1000枚ぐらいあるよって」
「それじゃ切り放題だな」
やっちんが王子の方を向く。
「王子は恋まみれちゃうん? 1年の頃、上から下まで告白されまくりやったやん。女子多めやったけど」
「そうだけど……」
「そなら誰かと付き合ってるんちゃう?」
「ああいう人たちは、興味本位なだけだから……」
「いてはるやろ? なあ?」
やっちんの押しが強い。
王子が言いよどむ。
「……うん」
おー。
みんながいっせいにどよめく。
「誰なん? 誰なん?」
「まだ、秘密……、かな」
「ええー。往生際悪いなあ。私たちが知ってる人ちゃうん?」
「あ、でも、違うんだよ。付き合ってるって言っても、一方通行みたいな感じで。相手に私の気持ちが通じているかどうかわからないから……」
「なんやそれ。苦しくあらへん? そないつきあってても片思いぽいの」
私は話題をそらす。
「そんな恋が王子の美の秘密だ」
「ひどいな」
やっちんがてちのほうを向く。
「てちはどうなん?」
「わかんないかな……。付き合ったことないから」
「そうなん?」
「でも、お母さん達は仲良い。ああなりたい」
私はうんうんとうなづく。
「そうだな、仲良いのが一番だな」
「そないやったら、この5人同士で恋すればいいんちゃう? 仲ええし」
「なんだそれ。ずいぶん乱れ切った高校生活になるな」
「「「あはは」」」
みんなは笑いあう。それがさもおかしいように。そうはならないと信じて。
心の中ではまったく笑えなかった。
私は隠している。
この中の友達と付き合ってることを。
お昼休みが終わり、あっちょと一緒に教室へ戻る。廊下の日差しはまだ暑く、触れたらじわりと焼けそう気がした。
ふいにあっちょが私の袖を引いた。ふりむくと、私を見ずにあっちょは言う。
「なあ、私達……。つきあう?」
「つきあうって、ところてんでも食べ合うのかよ。むにゅっと」
「そうじゃなくてさ」
あっちょがゆっくりと私の袖から手を離す。
今度は私があっちょの袖を引っ張る。
「少し話そうか。中庭でいいか。暑いけど、今の時間なら人、来ないし」
「え、授業は?」
「いま私達に必要なのは勉学より話し合いだよ」
校舎に囲まれた狭い土地に大きな木が一本だけ生えているようなところがある。みんな中庭と呼ぶが、本当の名前はわからない。木のおかげで微妙な死角があり、校舎からのぞき込まれても人を隠してくれる。みんな、そのことを知っている。
私達は強い光と暗い影の狭間にいた。あっちょの体を半分だけの影が斜めに覆っている。
「どっから話そうか?」
そんなまぬけな私の質問に、あっちょは答えない。口をつぐみ、まっすぐ私を見つめている。
私は自分の手を握りしめる。
「あっちょ。お前はふられて頭がおかしくなっているだけなんだよ」
「なんだ、それ……」
あっちょの目が険しくなる。素早い動きで私の右手をつかみ、そのまま校舎の壁に私を押し付ける。
「じゃあ、なんで私にキスした? お前、私を抱きたくて仕方ないんだろ? 胸とか唇ばっかり見やがって」
「お前だって同じじゃないか」
その声で握られていた手の力が少し緩む。
私は諭すように話し始めた。
「あっちょ、好きな人にふられると呪いがかかるんだ。心に穴が開く。寂しさと後悔で真っ暗な深い穴だ。それを埋め合わせようと、なりふりかまわず誰かを求めだす。親友に手を出したり、いきずりの人に慰めてもらおうとしたり。ダメな人の餌食になることもある」
「……」
「そんなことをしても絶対に穴は埋まらない。それでもそうしてしまう。いくら人を食べても満たされなくて、辺りをさまようゾンビみたいなもんさ」
「私は食われたのか」
「そうだよ。お前もゾンビになるんだ」
あっちょが手を離す。私から一歩下がる。暗い影があっちょを覆う。
「ちょっと待て。そうだとしたら……。にゃっこも誰かにふられたのか?」
あっちょが私をひどい顔で見つめている。
私は声から寂しさが出るのを構わず、こう言うしかなかった。
「察しがいいな。そうだよ。私はお前の成れの果てだよ」
あっちょがうつむく。みんなそれは私が通った道だ。だからわかる。そうなってしまう気持ちも、これからどうなってしまうかも。
だから……。
「私みたいになるな。これはそういうお説教の類なんだよ。青春真っ只中の奴がいちばん嫌う話さ」
とたんにあっちょの血の気が引いていく。
私はしまったと思ったが、もう遅かった。
「待て、なんで涼子さんと同じセリフを言うんだよ」
「ああ、あの人、いま涼子って言うんだ」
「なんで、知ってる……」
「これは別れ際に言われた言葉だよ。ずっとたいせつにしてる」
「なんで、お前と涼子さんが……」
「私は彼女を知ってた。でも彼女はあの日、私を見てごまかした。それでみんなわかったんだよ」
「じゃあ、私にキスなんかするなよ……」
「感情の上書きをしてやりたかったんだ。泣いてばかりいたし。やさしくしてあげたかったんだ」
「は……?」
「なあ、あっちょ。せっかく『ふたりで』このことを隠したんだ。私達のこの気持ちはたいせつにしてほしいんだ」
「ああ、クソ。私は、バカか……」
「断っておくけど、この学校に入ってから、涼子さんとやらには会ってもないし、連絡もしていない。あの日、たまたま偶然出会っただけだ」
「それが本当かどうか私にはわからない」
「そうだな……」
「話せよ、みんな。それから考える」
私を怒りとも軽蔑ともわからない目で、あっちょは私をにらみつける。
これは彼女との甘い秘密。私だけの物。それをさらすには……。
でも……。
私はあきらめた。
だって、友達を失うわけにはいかないから。
「言うよ」
私は影から光の中に出ると、ゆっくりと話す。
「母さんは看護師なんだけどさ、あの人は最初、患者さんだったんだ。それから母さんの友達になって、3年前ぐらいから家にも来るようになって。私から告って付き合いだした。もちろん、こっそりと。
でも、ある日、浮かれていた私の何気ない一言で、彼女が同性愛者って母さんにバレてね。怒りながら『あんた仲良かったけど何かされていない? 仕方ないから。ああいうのって直せないし』って私に言うんだ。私のほうから誘ったのにね。おかしくて笑い死にしそうになったよ。
次の日、彼女のほうから離れた。いろいろな理屈をつけて。あれだけのことをたくさんしたくせに。私はそれから壊れたんだ」
あっちょが顔を上げる。少し憐れむように私を見る。
「中学のときにもう……」
「あっちょは涼子さんに壊されなかった。それだけ愛されてたんだと思うぞ。それは信じてあげて欲しい」
「信じろ……だと? 本当のことを私に隠したのに?」
「あっちょ」
「なんだこれ。笑える。最高に笑える。私、何やってんだ……」
片手で自分の顔をあっちょが覆う。自分で自分を抱きしめる。それから苦しむように泣き出した。
「あっちょ、聞いて。私はただ普通に学校生活を楽しみたいんだ。親友とバカをやり、笑い合い、そして泣きながら卒業する。私の望みはそれだけだ。あと1年と半分。それだけでいい。親友をやってくれ。そのあとなら何をしてもいい。私を殺してもかまわない」
「なんで、そんなことを……」
「同じ音楽が好きで、お互いの考えがよくわかってて、つらくなってたら慰めあって、そんな親友だろ、私達。それをたいせつにしたいんだ」
「親友ってなんだ? そんなの隠してる親友がどこにいる!」
「なあ、あっちょ……」
私は卑怯者だな……。
使いたくはなかった切り札を使うことにした。
「家には居場所がないんだろ。ここにしかお前の居場所はない。お前もこの友達という関係をたいせつにしたいはずだよな」
私はあっちょのことを彼女から聞いてた。あっちょがどんな子で、どんなことに困ってて、どんなに愛されたがっていたか。
だから、この言葉は、本当に卑怯にしか思えなかった。
「ああ、そうだよ」
あっちょは苦り切った顔で私をにらみつける。でも、もう涙は出ていなかった。
「わかった、友達だ。でも、私はお前を許さない」
「いいよ、それで。よく言われる」
夏の明るい日差しの中で、私達は暗くうつむいた。
私は隠している。
あっちょにも話せない、いまの恋人のことを。
廊下にへたりこんでいた。だらしなく足を開いて座り込み、壁に寄りかかりながら、窓に広がる元気そうな夏空を見上げている。教室に戻る気がしなくて、ただずっとそうしていた。
……今日はちょっとおかしいな。
勉強して頭冷やすか。
きっと夏休み前の浮かれた気分に酔ってるんだ。
そう独り言をつぶやいて、自分を納得させる。
立ち上がるとスカートをぱんぱんと叩いて、美術準備室へと向かった。
王子が窓を閉めていてくれたせいで、美術準備室は少し冷気をため込んでひんやりとしていた。
スマホがあれば、だいたい勉強はできる。
入れておいた電子参考書から、東大理三の過去問を解いていく。数学IIIの教科書と突き合わせながら答えを埋めていく。
数学は気が楽だ。解法はいくつかあるが、答えはだいたいひとつだ。人の気持ちのように不定ではない。2,3問もこなせば、少しずつ気持ちが落ち着いていく。私はこんな感情を解決する方法をほかに知らなかった。
ガラガラガラ。
私は思わず音を立てた扉を見る。
まだ授業中のはず……。
顔を出したのは、王子だった。
「あ、いた」
「うん、ああ。ちょっと勉強したくてさ」
「え? 授業は? 授業わかる? 勉強するところだよ?」
「あんなのつまらないし」
「はぁ……。にゃっこはもう。私も付き合うよ」
「いいのか。不良になるぞ?」
「不良って。いいよ、もう」
「そうか」
王子は私が問題を解いてるのをずっと眺めていた。
なんとなく、くすぐったい気持ちになる。
それをごまかすように、王子にたずねてみた。
「王子は、夏休みどうするんだ?」
「何にも決めてないかな……。あ、そうだ。みんなで海行く? あっちょが行きたがってたけど」
「いいな。でも、予備校行きたくてさ」
「学年トップなのに? まだ勉強するの?」
「ああ。不安だし。最低でも旧帝に行きたくて」
「なんで? そんな家だっけ?」
「そうじゃないけど、私みたいなのはさ。世間と戦う武器がいるんだよ。誰にも負けない武器がさ。学歴も必要な武器のひとつだし」
「……私みたいなの、とか言わないでよ」
「ああ、そうだな。悪かった」
空気が流れていく。
こういうの嫌だな、もう……。
王子には、そういう顔をして欲しくない。
「はああああああーっ!!」
「え? 何? にゃっこどうした?」
「カラオケ行かないか?」
「いいけど……。勉強いいの?」
「いま、気分じゃないから」
「ほんと、にゃっこは猫だね」
「そうか?」
「みんなが猫っぽい行動しているから、にゃっこって呼び出したの、ほんとよくわかる」
「そうかい」
猫だって、いろいろ考えて、ああしてるんだよ。
学校を抜け出した私達をこらしめるように、強めの夕立ちが降りだした。
あんだけ晴れていたのに、天候が崩れるときはあっという間だった。
私たちは、こっそり教室から取ってきたかばんを頭の上に置いて、街の中を走っていた。
だいたい濡れるけど、仕方がない。
ふと、王子が立ち止まる。
かばんを下に降ろす。
顔をゆっくり上にあげ、夏の雨を浴びる。
「なんだかちょっと楽しい」
王子はそのまま雨の中でくるくるとまわりだした。
踊ってるように、楽しんでいるように。
「王子、転ぶぞー」
「ぷふ、そうだね」
濡れたままの笑顔を、王子が私だけに向けてくれる。
いいな、と私は思った。
うれしい、愛おしい、抱きしめたくなる、そんな感情で心がごちゃまぜになる。
私はこのきれいでたいせつな光景を思い出しながら、いつか死ぬんだろうな。
そんなことをふと思った。
駅前のちょっと外れにあるカラオケ屋さんは、安くて狭くて学生御用達なところだった。制服のままでも、何も言われない。適当に1時間ぐらい使うことにして、サイゼと同じぐらいのお金をフロントで払う。
少しタバコくさい小さな部屋。モニターに流れる適当な画面が、薄暗い部屋を照らしていた。
ふたりでごわごわとするソファーに座ったところで、かばんをごそごそと探す。
「タオルあった。ほら」
「ありがとう、にゃっこ」
「汗臭かったらごめん」
「いいよ。にゃっこも髪拭いて。体も冷やさないようにしないと」
「そうだな。どうやって温めようか」
王子が黙ってしまう。
あれ、私、そんなふうには言ってないぞ。
「なんか歌うか」
適当にはぐらかす。いつものことだ。
カラオケリモコンの画面をいじりながら、だらだらと曲名を探す。
あっちょとだったら、ハードロックとかメタル系歌うけどな……。
いろいろ悩んでたら、王子がマイクを取って歌い出した。
夕立ちの 過ぎたあと
この街は輝いて
夕立ちの 過ぎたあと
真っ白なTシャツ
きみがいる
本当の 夏が来た
生きている まぶしさ
本当の 夏が来た
もう友達じゃない
きみがいる
やたらうまいな王子。低めの声がよく伸びる。
それにしても歌詞が意味深すぎやしないか……。
「なんか、いまの雰囲気にぴったりだね」
「あ、ああ……。そうだな」
「私の歌、どう?」
「うまいぞ。いい歌手になれる」
「えへへ、ありがとう。お母さんの持ち歌でさ、渡辺美里。よく家族でカラオケ行くんだ。だから、聞いてたら覚えちゃった」
「へえ」
「私、少し声が低くて。気にしてたけど、こういうのもいいなって、最近は思えてきたよ」
「王子はちゃんと女の子だよ。声が低くても背が高くても、ちゃんと女の子さ。ずっと言ってるだろ」
王子がさっきよりもうれしそうに微笑む。
「もう一曲歌っていい?」
「いいよ」
「たぶん、これ、にゃっこが好きな曲だと思う」
ぼくのなかのRock'n Roll
口づさむMelody
帰り道はいつも華やいで
とがったココロいやしてくれる
きみに出会うため
生まれたきたんだと想うのさ
……なんだこのわしづかみにされる感覚は。
確かに私は王子で癒されてる。私があの人と別れてから死ぬ方法ばかり考えていた。
まだ死んでいないのは、高校に入って王子に出会ったからだ。
王子に出会うために生まれてきたと思うほど、つけあがりたくはない。でも……。
曲間で、王子が私に聞いてくる。
「ヒットした?」
「うん、かなり好み」
「良かった。私は、あっちょよりもにゃっこのこと、わかってるつもりだから。その証明」
「なんだよ、それ」
「最後まで歌っちゃうね」
いくつものBroken heart
いくつものSay good bye
いつか重ねてゆくたびに
ひとりを見つめ続けた
風にゆらめく炎のようにうたう
きみの激しさどこにいても
感じている
Lovin' you
音楽ってすごいな……。
こんなに汚い私でも感動させてくれる。
頭がわーってなる。何かでいっぱいに満たしてくれる。
「あ、にゃっこ泣いてる」
王子に指で頬に伝わる涙をすくわれた。
そのまま王子はそれを口に含む。
「しょっぱいや」
にこやかにさわやかに純粋に笑う王子。
それを見て脳裏にチラつく最初の人。
死にたくなる。
王子を見ようとしても、あの人に愛された日のことを思い出してしまう。
どうしたらいいんだ、私……。
私は救いを求めるように王子に手を伸ばす。
「王子……」
「ほら、おいで」
体を重ねたとき、少し冷えてるなと思った。
いつもそうしているように、ゆっくり唇を重ねる。唇の柔らかい感触をお互いに確かめ合う。王子の小さな口が少し開いて、私の舌を迎え入れてくれる。舌がこすれていくたびに、吐息がもれていく。近すぎて王子の長いまつげが当たる。少しくすぐったい。
慣れた感じで王子が私のタイを外し、胸のボタンを片手で外していく。
私達は去年の夏からこうしている。ずっとこんなことを繰り返してる。それをみんなに隠している。
「ねえ、にゃっこ。私のことだけ考えてよ」
「ごめんよ」
私が王子の胸をはだけさせる。白くて刺繍が多めの女の子らしいブラジャーがちらりと見える。
「また誰かのこと考えてる」
「許して」
王子が抱きつき、私を感じさせようとする。弱いところだと知ってて、私の首筋に舌を這わしていく。
「許さない。私をこんなにして」
「許してくれよ。どうすればいいんだよ」
私はたいせつそうに愛おしく王子のすべすべとしたほほを指先で撫でる。
「もっと愛して」
「なんだよ、それ」
「そうしてくれたら許すよ」
その言葉に震えだす。
本当に私は王子を愛してるのか?
むせて吐くような、この情動に身を任しているだけじゃないのか?
あの人の代わりをさせてるだけじゃないのか?
……王子を壊すのか、私は。
私と同じように。
私はなんてことを……。
吐き気がする。自分死ねばいいのに。
手を止めた私を心配して王子が声をかける。
「どうしたの?」
「……私は王子を愛していいのかな」
「私がそうして欲しいんだ」
王子が私の右手をつかむと、自分のはだけた胸に触れさせる。
「私はにゃっこが思うよりずっと愛してるんだ。何度でも確かめていいよ。その手で何度でも」
私たちは見つめ合った。
触れている右手から王子の暖かさを感じる。自分の邪なものが、そこから王子に吸われていく感じがした。
もう言葉とか考えとか、そうしたものは何もいらなかった。
ただ、抱きしめたかった。
「ほら、来て。ぎゅってしてあげるから」
ぴろぴろぴろりーん。
部屋の電話が鳴った。たぶんもう時間切れなんだろう。
私たちのなんとも言えないがっかりとした表情に、お互いがくすりと笑った。
帰り道。私たちはちょっと外れた道を手を握って歩いていた。
雨はすっかり上がっていて、澄んだ空気のなか、濡れた路面には夕焼けの橙色が映っていた。
ふと王子がすまなさそうに言う。
「付き合ってる人がいるって、みんなに言ってごめん。あんだけみんなには黙っとけって言われたのに」
「いいよ。少しはらはらしたけど」
「いつか、ちゃんと言えるといいね」
「そうだな。そうなればいいな」
そんな日は来ない。
それを言えばまた離れ離れになる。
知られたら、あの人と同じになる。
知られたら、あのときの私と同じ気持ちを王子にさせてしまう。
この手をこうして外で握るだけでも、私は震えている。
「DーAーTーEー。
恋したっていいじゃない。
アップトゥデートな恋をー、うーうー」
王子が握った私の手をぶんぶんと振る。
「私たち、恋していいんだよ」
王子が私に安心させるように笑ってくれた。
「うん……。まあそうだな」
私は、まだあいまいに笑うしかできなかった。
そのとき、私達を呼ぶ声がした。
「にゃっこ」「王子」とはっきり言われた。
振り向くと、制服姿のてちがいた。
私は何でもないように装いながら声をかける。
「どうした、てち?」
「夕飯の買い物してる。今日はお母さん、修羅場だから」
「そうなんだ」
私は王子の手を離すことをしなかった。
そのことに自分で驚いた。
「あれ、にゃっこ……。昼間はあんなに恋人いないって言ってたのに」
「ふたりでカラオケに行っただけだよ」
「じゃ、なんで手を握ってるの? それもう雰囲気が恋人だよね」
王子が一歩前に出る。
「ねえ、てち。私は……」
ぎゅっと手を握る。
ダメだ、それを言っちゃ。
てちが笑う。
「ごまかさなくていいよ。隠したくなる気持ちはわかるから」
王子が少し寂し気に言う。
「じゃ、みんなには内緒でお願い」
「うん。わかった」
私達に手を振るてちが、こんなことは何でもないように言う。
「また明日ね。お昼はちょっとおかず多く持ってくるから」
「うん、楽しみにしているよ」
「じゃあね」
歩いていくてちを、私達は手を小さく振って見送る。
「ほら、大丈夫」
「王子、てちはああだからいいけど、お前が思うほど、世の中は……」
「世の中なんてないよ。それって幻想だから。私たちがいる、ただ狭い水槽のことをそう言うんだよ」
「案外居心地のいい水槽だから、私はこのままでいたいんだよ」
「1年半したら、そこから追い出されるのに?」
「そうだけどさ。それでもだよ」
「ひどいな、にゃっこ。……でも。愛してる」
「はいはい」
「えー。何それ」
「私もだよ、王子。愛してる」
私達は手を握っている。
まだ少し濡れたままの体で。
手はずっと温かだった。
もう震えはしなかった。
見上げた夕陽には虹がかかっていた。その向こうにはやさしさが見えていた。
私は隠している。
誰かに知られたら愛する人と別れることになる、その日におびえていることを。
自分を絞め殺したくなる感情を、あの日から持ち続けていることを。
壊れてしまった自分を。
でも、私の恋人は、そんなことを蹴散らしてくれる、強くてやさしい王子様だった。
--------
次話は王子の番。王子はなんでこんなにやさしいんでしょうか? 前話をふりかえれば王子はずっとにゃっこを見守ってました。こんなにゃっことは、どうやって付き合い始めたのでしょうか……。
お楽しみに!
推奨BGM:
SKID ROW『Into Another』
渡辺美里『夏が来た』
渡辺美里『Lovin' you』
渡辺美里『恋したっていいじゃない』
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