【Ex- 176】生きる

「♪涙を映した、空の青さも――」


 まだ冷たい春の風が薄手の病衣越しに肌を刺す。小さな屋上の手すりに腕を乗せ、わたしは好きだったアイドルの歌を口ずさんでいた。

 町外れの高台に建つ地域診療所。ここからは自然豊かなこの町の景色が一望できるけど、わたしが味わえるのは風に乗って響く鳥の声だけ。


「♪爽やかな希望に、塗り替えて――」


 この目がまだ見えていた頃は、古いVRでアイドルの動画をずっと観ていた。友達からは時代遅れと言われたけど、自分と同じ名前というのもあって、その歌声が無性に好きだった。

 ただいのちと書いて唯命ユイというのがわたしの名前。読めないとよく言われるけど、改正戸籍法がなかった令和の初め頃まではもっと自由キラキラな名付けが横行していたそうだから、それと比べたらわたし達の世代は健全だと思う。

 でも、その唯一ただひとつの命も、あとどれだけ――。


「♪虹の向こうの、キミの街まで――」


 人生で三度目の脳の手術。幼稚園と小学生の頃に都会の病院で受けたのと違って、今回はこの田舎に居ながらにして、東京の先生にロボットアームで脳をいじくられる。五割の確率で視力が戻り、二割の確率でもう手術を受けなくてよくなる、と言うけど。

 全身麻酔で眠ったが最後、今度はもう戻ってこられないかもしれない。

 そんな不安を吹き飛ばすようにわたしが歌い続けていると、ふいに、後ろから誰かの歌声が重ねられた。


「♪この声を届けたい――」


 かつて見た青空のように澄み渡った女の人の声。隣に立たれる気配を感じながら、わたしはその人と一緒に最後のフレーズを歌い上げる。


「♪笑顔にしてあげたい――」


 まるでの歌声に包み込まれるような、不思議な暖かさがあった。


「こんな歌、よく知ってたね。ユイちゃん」


 名前を呼ばれた小さな驚きに続いて、弾むような声と甘い匂いで思い出した。わたしが入院してきた時、ここの先生のそばにいた女の人だ。看護師さんって感じでもないし、先生の身内だろうか。

 でも、この人の声。もっと前に、どこかで聴いたような気がする。


「手術が怖いの?」


 優しく尋ねられ、わたしは導かれるように口を開いていた。


「手術がっていうか、将来が漠然と、かな。病気が治っても、周りの子から何周も遅れてるし。普通の人並みの人生送れるのかな、とか……」

「大丈夫だよ。ユイちゃんはきっと元気になれる。……って、わたしも昔、先生に言われたの」

「先生って、ここの先生?」

「うん」


 ここの先生は変わり者で知られているらしい。まだ若いのに、何かの事情で東京の大学病院をやめて、陸の孤島と言われるこの町のドクターになった。空気の澄んだ夜には奥さんと天体観測するのが趣味らしく、星空先生なんてあだ名で呼ばれている。

 星空だけは綺麗な町。それも見えないわたしにとっては、本当に何もない町でしかないけど。


「わたしも昔、重い病気で入院してたの。東京の大きな病院にね。その頃は遠隔医療も今ほど発達してなかったから、生きるためにはそういう病院に移るしかなかったの」


 鈴を転がすようなその声には、そんな過去を思わせない明るさがあった。


「初めて出会ったとき、あの人はまだ研修医でね。病室から出られなくて駄々こねてたわたしに、色んな人が書いた短い物語を聴かせてくれたの」

「色んな人って、だれ?」

「わかんない。SNSのお友達とかだと思う」

「SNSって。お姉さん、平成の人?」

「悪かったわね、平成の人で」


 こんな人は、きっと苦笑いした顔も綺麗なんだろうな。


「どんなお話があったの?」

「色々だよ。憧れのお姉さんから使命を受け継いで魔法少女になる話とか。それを演じてる女優さんの話とか。復讐のために転生してきた女の子が、現代に馴染んで前向きに生きてく話とか。好きな幼馴染の後を追って宇宙飛行士になった女の人の話とか。お姉さんのかたきの龍神様に、想いを込めた物語で一矢報いる話とか。アイドルに憧れる女の子が、戦争時代のアイドルの逸話に勇気をもらう話とか」

「女の子の話ばっかり」

「男の人の話もあったよ。病で亡くなったお嬢様の愛した景色を、時代を越えて受け継がせる話とか。……どの物語も、辛さや切なさの中に前向きな希望があった。兄弟星に攻め込まれて滅びに向かう世界の話にさえ、誇りを失わない人達の命のきらめきがあった……。きっと、そういうお話を選んで語ってくれてたのね」


 わたしが聴き入っていると、彼女は「そうそう、あとは」と、少しおどけた声で続けた。


「物語の世界から抜け出すために、謎のイケメンと一緒にズルする話とか。決まった文字しか使えなくなった世界で、無理な会話を繰り広げる先輩後輩の話とか」

「ふふっ。何それ」

「やっと笑った。笑顔のほうが可愛いよ、ユイちゃん」


 頬をツンとつついてくる指を通じて、彼女の笑顔も伝わってくるようだった。


「あの内のいくつかは、先生の考えたお話だったのかもしれないな。聞いても恥ずかしがって教えてくれないけどね」

「……先生は、お姉さんに生きてほしかったんだね」

「うん、きっとそう。わたしも元気になれたから、ユイちゃんも頑張って」


 自然に頷きを返したとき、屋上の扉の開く音がした。


「ここに居たんだね。さあ、そろそろ時間だよ」


 穏やかな人柄を映したような先生の声。はい、とわたしが返事するのに続いて、


「ユイ君はオペ室の準備を」

「はぁい」


 ……あれ。今、このお姉さんのことをユイって呼んだ?

 わたしが再び顔を向けると、彼女はくすりと笑って。


「バレちゃった? わたしもユイって言うの。手術が終わったら、またお話しようね」


 ふわっと甘い匂いを残して立ち去る優しい足音に、幼い日に見た動画の中の声が重なる。


「あの、先生、今の人……」

「僕の奥さんだよ?」

「ですよね。じゃなくて、あのユイさんって、もしかして前にアイドルをやってた……?」


 かすかに声を震わせるわたしに、先生はその時、きっと悪戯っぽく笑ったのだと思う。


「どうかな。確かめてごらん」


 瞬間、この胸に、ひとつの感情が強く湧き上がってきた。もっと生きたい――と。


「わたしも、あの人みたいに元気になれますか?」

「なれるさ。必ず」


 その希望に手を引かれ、わたしは手術室への一歩を踏み出した。

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