【No. 170】サービスエリア

 父が倒れた、と連絡があった。

 脳梗塞だった。

 朝起きて、立ちあがろうとしてもバランスが取れずに右側に倒れてそのまま動けなくなったらしい。

 母が異変に気づき救急車を呼んで即座にICUに担ぎ込まれた。処置が早かったことで父は命に別状もなく、いまのところ後遺症もほとんどみられないとのことだった。

『もう大丈夫やから、また気ぃ向いたときに顔見せに来てあげて』

 今日は夜勤明けだと伝えると、母は電話越しにそう言った。

 高齢者施設での夜勤を終えた俺は、逡巡することなくハンドルを握り、西方面へと向かった。

 勤務地である灘区から、父の入院している西神戸医療センターまではさほど遠くはなかったし、寝不足で運転するのはいつものことだった。それに、図らずも右奥の親知らずが痛むせいで眠気が緩和されて丁度よかった。

 阪急電車の線路沿いを走り、生田インターから高速道路に乗る。別段下道でも構わないのだが、こんなところでケチるのも何となく違う気がして俺は愛車の赤いミニクーパーを乗り口へと滑り込ませた。

 平日の朝ということもあり比較的空いているようだった。いつもなら柳原インターでできる地味な渋滞も今日は見られない。

 久しぶりに走る高速道路からの景色は、幼い頃の記憶と連動して郷愁を想い出させてくれる。

 当時、ハンドルを握っていたのはもちろん父だ。

 多弁でお節介な母とは対照的に、父は寡黙な人だった。静かに酒を飲み、野球中継を見て、終わった頃には寝てしまう。

 ただ、車の運転は好きだったようで、休みの日にはドライブに出かける事が多かった。尼崎や千里中央にある親戚の家に行くのも車。夏に墓参りのために父の実家の豊岡に帰省するのも車。ジェームス山のイオンモール、和田岬のニトリとヤマダ電機。西区にあるやまがきという肉の直売所といった買い物にも決まって車で出掛けていた。幼少の俺は後部座席で流れてゆくその景色を飽きることなく眺めていた。

 柳原を超え、もうすぐ京橋サービスエリアに差し掛かる。

 京橋サービスエリア。

 ここの記憶も俺の中に色濃く残っている。

 ジュースをねだって買ってもらって、駐車場脇のベンチで飲んだ。当時の推しはなっちゃんオレンジで……。

 ん?

 そんな追憶の中、俺はちょっとした引っかかりを感じた。

 その小さな引っかかりがノスタルのジックな回顧を中断させる。

 京橋サービスエリアは、月見山インターから乗って一番最初、つまり家からサービスエリアである。

 そもそもサービスエリアというのは運転時間が長くなり、休憩を取るための場所である。京橋サービスエリアは家から二〇分程度で着いてしまうし、帰路であっても条件は同じで、あと少しで家に到着するのにわざわざ寄る必要がない。

 なのにどうして……懐かしいんだ?

 俺は当時の運転手である父のことを考える。

 どちらかといえば運転好きで、長時間ハンドルを握ることに苦情を聞いたことはない。別にトイレが近いという印象もない。どう考えても京橋サービスエリアに車を停める理由はない。

 なら、どうして?

 自分の記憶違いなのか?

 実際に何らかの理由があって京橋サービスエリアを利用していたのか?

 突然沸いたサービスエリアの謎。いくら考えても答えが出でこない。

 思わず舌打ちをする。ぴりっと親知らずが痛む。

 現状、病院に向かってはいるものの父が無事であることは確かで、これといって時間的に切迫しているわけではない。そしてあと五分程で件の京橋サービスエリアに差し掛かる。

 ――よし、寄ってみるか。

 俺はハンドルを握りながら決断し、ミニクーパーの車線を左へ変更した。


  * * *

 

 辿り着いた京橋サービスエリアに俺はミニクーパーを滑り込ませた。

 二十台ほどの駐車スペース。その上階には灰色に塗られた建物がある。改装され綺麗になってはいるものの、小学生の頃とさほど印象は変わらない。記憶の通りであれば、上階にはトイレとデッキと売店があるだけのはずだ。

 当時は無かった増設されたエレベーターで上階にあがると、そこはちょっとしたイートインスペースとお土産売り場に変わっていた。南側の殺風景だったデッキはお洒落なテラスになっていた。

 当時と違うそんな風景をながめながら、俺は通路脇の自販機でブラックのホットコーヒーを買った。

 こうして実際に足を運んでみたものの、俺の疑問を解決してくれるようなものは何も見当たらなかった。

 ため息ひとつ。俺はエレベーターで再び駐車スペースに降り立った。

 そして車に戻ろうとしたその足元、地面に穿たれていたボルトの跡を見つけて俺は立ち止まった。

 ――あ、ここだ。

 この場所に自販機があったんだ。

 規格が古くなって移動でもしたのだろう。ボルトの跡だけが残されたままになっていた。

 そのトマソンが当時の記憶をたぐり寄せる。

 京橋サービスエリアに立ち寄って、ここの自販機でジュースを買ってもらって、横にあった象のレリーフのついたコンクリートのベンチに座ったんだ。

 自分自身の記憶と再会した俺は、その連想に身を任せる。

 ベンチに座っている小学生の俺。

 けれど何だかぐったりとしていて、せっかく買ってもらったジュースを飲めずにいる。

 その横に父が座っている。

 父は、温かいブラックコーヒーの缶を俺のうなじに当てている。

「人体にはツボというのがあってな、この首の裏側は風門と言って温めると血流が良くなるんだ」

 そうか……そうだった。

 俺、車酔いするタチだったんだ。

 十八歳で免許を取って運転歴はもう七年になる。大人になり、自分で運転するようになったせいで、車酔いの事なんて今の今まですっかりと忘れてしまっていた。

 父は……俺を休ませるたびに何度もサービスエリアに寄っていたんだ。

 無口で愛情表現の下手な人だけど、優しかったんだな。

 印象の薄い父親との思い出が、何だか少しだけ色づいたような気分だった。

 答えをくれたボルトの後を眺めながら、俺は手にしていたブラックコーヒーのプルタブを開けて飲んだ。

 温かな褐色の液体が、大事なこと忘れるなと叱咤するかのように親知らずにキリリと沁みた。

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