【No. 169】蒼天【残酷描写あり】
光の届かない地下を、手許の松明の
適当な石を敷いただけの道は、歩き辛く、足の先で確かめるようにして進むものだから、急いている気持ちと裏腹に歩みは遅い。
地下へと降りてきてから、半刻と経ってはいないはずだが、もう丸一日とこうして歩いているような気がする。
三歩後ろには衛兵が、獣のような獰猛な瞳で、貼り付く様について来る。
ジリジリと木を舐める炎の音と、息遣い、衣擦れや足音以外に音はない。
眼から得る情報は少なく、一寸先すら怪しい。四方には
肌寒い。壁や床の積み上げられた石から冷気が放出されているかのようだ。
ただ、感覚を奪う暗闇の中であっても、鼻だけは妙に利く。降りてきたばかりのときは、埃と黴の臭いだけだったが、進むほどに糞尿の混じった饐えた臭いが強くなり、目眩を覚えた。
昨日からなにも口にしていないというのに、胃の腑がせり上がってくる。
立ち止まって全て空になるまで吐けば楽になるだろう。だが同時に決心まで揺らいでしまうのではないかと心配になる。
そんな危惧に背を押されて、己は先を急いだ。
三年前に王都を離れ、西の街に赴任することが決まった。
梅がこぼれる、まだ綿入れの上着が手放せない春の先だった。
師が亡くなってからは人が寄らなくなり、屋敷の庭は草花が雪の重みに負けじと枯葉の間から新たな葉を伸ばしている。
師はあまり花に興味を示さなかったが、梅だけは見事な物があり、殺風景だった庭でその赤い花を綻ばせていた。
今も雪の白さに負けるまいと、その命を燃やしている。
「西はどうであろうな」
犀明は赤く染まり始めた西の空を仰ぎ、目を細めた。
何をしても絵になる男だ。白い肌は夕陽を浴びて輝き、黒髪が風に弄ばれて流れる。
その天女のような容貌も然ることながら、勉学も楽器にも秀で、剣術も同門の中で彼に勝る者はいなかった。
故に、彼は孤独だった。
当時最年少で科挙を通り、官僚へ召抱えられ、羨望と嫉妬の眼差しを浴びながら、犀明は宰相補佐の座へと伸し上がってきた。
「
己がそう呟くと、犀明は喉の奥で笑った。
表情が変わらないせいで、何を考えているのか読めない。
「
「軽口を。子供の
「本当にそう思っているのか」
振り返ると、犀明の澄んでいて力強い瞳に心を奪われた。
この男がこの眼をしている時は、譲らないほどの強い意志がある時だ。
「己は飛ばされるんだ。暫く中央の政には関われん」
「……そうだなぁ。だが、晶慶よ。己は今もまだ夢を諦めてはいない。
いつかこの国に朝が来るまで、己は――」
風に煽られて雪片が舞う。
この頃にはもう、犀明は心に決めていたのかもしれない。
松明の爆ぜる炎と、あの日の夕陽と梅の赤が重なる。煙は流れて、誘うように己の先を進む。
空の牢を三つ過ぎ、最奥の牢へ辿り着いた。
鼻を突く臭いに俯きそうになりながらも、己は闇に目を凝らし――惨状に声を失った。
「よう、晶慶。老けたなぁ」
乾き、ひび割れた唇から漏れ出た嗄れた声。
左の眼は奪われ、眼窩が曝されている。夕陽を受けて輝いていた頬には
それでも、誰かと間違えようもない。
「犀明」と呼びかけると、犀明は口の端を上げて小さく笑った。
座る力も無いのだろう。壁に骨の浮き出た身体を預け、片方の目を眩しそうに細めている。
翳した手の指の先は幾度爪が剥がされたのか、乾ききった血がこびりついている。
彼の目を焼かないように、己は松明を遠ざけた。
己が今にも零れそうな涙を堪えていると、あの日のように犀明が喉の奥で笑った。
「最期に御前に逢いたかった」
言いたいことは山程あった。
恐らく犀明もそうであったと思う。
だが言ってしまえば、後ろで控える衛兵がいとも簡単に己の頸を
三年前であれば、きっと命よりも先に犀明に事の次第を問い質していただろう。
何故こんな無茶をした。
何故酷い仕打ちをされながらも、逃げようとしなかった。
言葉にしようとして――西の街に置いてきた妻子の顔が浮かび、己は顔を上げた。
――西はどうであろうな。
晶慶の澄んだ瞳の奥に、彼の画いた事のすべてが映って視えた。
「晶慶、師はクソだったが、己はあの門下生になったことで御前と出逢えたのだからよかったよ。
御前だけはいつも己の話を
それから犀明は、表情すら朧気な暗闇の中であっても、かつてのように楽しげに志を語り、そしてこの国の未来を語った。己は朋友の声に最後まで耳を傾けた。
彼の声を、ひとつ残らず、耳に遺したかった。
翌日は雲ひとつ無い
それから一年の後。皇が崩御すると、国は上や下やの大騒ぎに陥り、己は中央へ呼び戻された。かつての犀明と同じように宰相補佐に就き、国の先を憂う。
未熟な現皇は、政に興味を示さず、甘い蜜にばかり手を伸ばしている。
あの日、犀明はどこまで見据えていたのだろうか。
この未来を予測していたのだろうか。
己は太刀を佩き、犀明の遺した志を継ぐ者達と聳える王宮を仰いだ。
犀明が喚んだ、あの日の蒼天が続いている。
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