【No. 166】あの電車に乗れていたら


「あ……」


 思わず口からこぼれ出た声は、誰の耳にも届かずに消えた。



 ーーー

 平日の昼間、田舎の駅のホームの人影はまばらだった。

 春の日差しは柔らかく、時折あたたかい風が髪を撫でていく。


 久しぶりに地元にいる友達の家で朝まで飲んで、眠ったんだか眠ってないんだかよく分からないまま昼までだらだらと過ごし、さっきやっと解散してふらふらと駅のホームに辿り着いたところだった。


 設置されている5人掛けのベンチが無人なのをいいことに、崩れるように倒れこむ。ひんやりとした座面が気持ち良かった。


 そうやってぼんやりしていると頭の片隅に残る正気の部分が騒ぎ始めた。こんな田舎の知り合いばかりの地元で、こんな行儀の悪い格好をして、誰かに見られたら。あっという間に顔見知り程度の地元民の話のタネにされてしまう。元カレにも伝わるかもしれない。そして数日たった頃に母親から電話がかかってきて叱られるのだ。「あんた何やってるの?」と。それは少々面倒臭い。今すぐ起き上がって居住まいを正さないと。


 ベンチの座面がぬくもってきた。ふうーっと息を吐く。息がかかった部分だけが白くなり、また元の水色に戻っていく。ちょっと楽しい。


 起き上がらないといけないのは分かっているけど、やっぱりもう少しこうしてよう。あとで母親に怒られるより、今の心地よさを堪能したい。


 ふうー。もう一度息を吐く。


 子供の頃にこうやって座面が白くなるのを楽しんでいたら、母親に怒られたっけ。汚いって。楽しいのに。


 ふうー。今度は少し長めに息を吐く。


 白い靄が今までで一番大きくなった。それはあっという間に元の色に戻っていった。少しの満足感と引きかえに、訪れるバカバカしさ。


 起き上がって周りを見回す。ホームには誰もいない。それは当然と言えば当然だった。ホームへの階段を下りている途中で電車のドアが閉まった。ホームに着いた時には、乗りたかった電車は彼方に走り去っていた。


 駆け込めば間に合ったかもしれない。でも、それをしなかったのは、ただただ寝不足とアルコールで走る気にならなかったから。今日は一日休みだし、時間はいくらでもある。次の電車を待てばいい。


 そう思っていたけれど、次の電車が来るのは三十分後。

 田舎なだけあって、平日の昼間に来るのは一時間に二本。

 そりゃ、ベンチに崩れ落ちたくもなるよね。


 ベンチの座面のぬくもりが不快になってきたところで体を起こして座り直す。


 隣のホームに電車が入ってきた。

 線路を挟んだホームには電車を待つ人達の背中があった。

 こっちを気にしている人は誰もいない。

 知り合いは居ないみたいだと、軽く息を吐いた。


 大きなブレーキ音を立てる電車に近づいていく背中達は、各ドアからぱらぱらと降りる人々を避けた後、電車に乗り込んでいった。

 降りてきた人々は一様に階段に吸い込まれていく。


「あ……」


 ぞわりと鳥肌が立つ。

 降車した人の中に見知った横顔を見つけた。元カレだ。


 遠距離で続ける自信がなくて別れを切り出した。

 でも、忘れられなくて。人づてに彼女が出来たと聞いたときは暫く立ち直れなかった。まだ立ち直れてなかったのかもしれない。


 気付かないで。でも気付いてほしい。……やっぱり気付かないで。

 両方の気持ちでぐちゃぐちゃになりながら、階段を上る姿を目で追う。

 いや、久しぶりの再会が飲み明かしてぼろぼろだなんて絶対に嫌だ。


 ……こっちを見た様子はなかったもの、きっと気付かれてない。

 座った姿勢のまま、顔を隠すように俯く。


 大丈夫、きっと大丈夫。このままやり過ごせる。

 ああ、でも少しは顔見たかったな。

 俯いたままもやもやと考えていたら懐かしくて切ない声がした。


「なにしてんの?」


 電車が来るまであと二十分。

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