【No. 164】ヤツは死なない。何度でも蘇る。

 ヒトが技術的特異点シンギュラリティを恐れたのは、西暦何年ぐらいまでだったろうか。

 少なくともこの2035年に、そんな21世紀初頭の戯言を真に受ける奴はいない。


 技術的特異点、すなわちAIが人の知性を凌駕するポイント。

 そんなものがあったとすれば、とっくに通り過ぎている。

 いまや自動車も飛行機も、運転席に人間なんていやしない。AIが勝手に目的地まで運んでくれる。PCパソコンや携帯端末に流れる広告も、見ている人間に合うものをAIが個別に選んでくれる。「合いそうな」じゃなく「合う」ものだ。

 俺の若い頃のように、対象が二十代男だというだけで、イケメンにしか似合わないメンズファッションやら、「意識高い」系自己啓発セミナーやらを勧めてくるような真似はしない。いま目に入る広告は、俺の関心にきちんと合わせた、1990年代アニメの配信情報やら加齢臭消しサプリメントの特価情報やらばかりだ。

 判断は人間の仕事ではなくなった。思考力も判断力も、AIがはるかに上回っている。データというエサさえ十分与えておけば、正確な選択結果という金の卵は勝手に生まれてくれるのだ。


 なくなった職業も多い。十年前の高給取りで、いま路頭に迷っている奴はごまんといる。

 俺もそうなると思っていた。だが、気付けばなぜか「勝ち組」にいた。

「君の仕事は十年後にはなくなる」とご高説垂れていた連中が、次々首を切られていくのを何人見送ったことか。

 まあ俺の職業も、AI様のご機嫌次第で明日には不要になるかもしれない。だが今は、時代との蜜月をもう少し楽しんでいたい。俺ももう五十七歳だ。できれば定年までの間は生き残らせてくれよ、AI様。




 ◇




 総勢二十五人のオフィスに出社し、デスクトップPCの電源を入れる。ぶぅんという起動音と共に、見慣れた壁紙が浮かび上がった。さっそく表計算ソフトを立ち上げ、仕事を始める。

 俺は事務屋だ。

 若い頃は、表計算ソフトやワープロソフトを駆使し、地味な入力作業や修正作業をひたすらこなすのが仕事だった。だが今は違う。

 AIの判断にはデータが必要だ。事務屋のパソコンには大量のデータが集まる。こいつらの「正しい」扱い方をAIに教えるのが、いまの事務屋の仕事だ。

 思えば遠くへ来たものだ。

 俺の新卒当時、オペレーティングシステム――Widowsウィドウズはまだ95だった。殺風景なマス目にひたすら文字や数値を打ち込み、合計や平均を計算させる。それだけのことも新人の俺には難しく、何度も怒鳴られながら(今の基準じゃパワハラだな間違いなく)関数やらマクロの使い方を覚えたものだ。

 以来三十年以上。関数もグラフ機能も自分の指同然だ。面倒な計算処理は今じゃAIがやってくれるが、結果が意図通りかどうかを確かめるのは俺の仕事。AIは、過去の事例からの類推はできても、正解と不正解は導き出せない……そこだけは、まだ人間の領分だ。

 その分、正解も不正解もない「判断」が仕事だった連中は、軒並みAIに仕事を奪われたがな。高い給料で偉そうにふんぞり返ってたコンサル共が、いま路頭に迷ってんのは正直面白え。


「河野さ~ん」


 隣の席の新入社員、宮下真希みやしたまきが話しかけてきた。


Officerオフィサー2035の新機能、もう試されました?」

「してねえよ。どんな機能かも覚えてねえ。だいたいMacrosoftマクロソフトの新機能はいつだって、バグ付きか異様に使いづらいかのどっちかだ……リリース後すぐに飛びつくもんじゃあねえよ」

「でも面白いんですよ〜。今度のアシスタントAI!」


 俺の方に身を乗り出し、宮下は熱っぽく語る。


「見た目や声を、その人の経歴に合わせてカスタマイズしてくれるんです。私がやってみたら、小学六年のときの担任の先生が出てきました!」

「……ほう。よっぽどその先生が好きだったのか?」

「はい! とってもカッコいい若い男の先生で、宿題忘れても怒るどころか――」


 宮下の頬が染まっている。

 学校、なあ。いじめられてた覚えしかねえぜ。学校に良い思い出があるやつはいいよなあ。


「で、Officerの新機能がどうしたって?」

「あっ、その話でしたね。山根さんは、新入社員当時の先輩が出てきたそうですよ」


 あー、あいつね。

 総務部一のイケメンで知られてた奴。人事部のお局との不倫がバレて退職したが、当時新卒だった山根はずいぶん懐いてた。マウスを一回クリックするたびに、質問やら相談やら、しに行ってたんじゃねえかってくらい。

 あー、新人時代に良い思い出がある奴はいいねえ。


「河野さんも、ちょっとやってみたらいかがですか? 誰が出るか見てみましょうよ〜」


 宮下が無邪気にけしかけてくる。

 まあ、興味がなくはねえ。どうやら件の新機能、昔に世話になった人間と再会させてくれるようだな……だが俺は誰と? 学校にも新人時代にも、良い思い出なんてひとつもねえ。ひたすら表計算ソフトのマス目と、ワープロソフトのテンプレートとだけ格闘してきた。ただそれだけが、師で友だ。

 Macrosoftさんよ。より正確には、謹製のAIさんよ。俺はいったい、誰と再会すべきだというのかね。


「で、どうやったら試せる」

「あ、やってみられるんですね! オプションのページから、新規アドインを選択してください」


 言われた通りの場所に「アシスタントAI」のチェックボックスがあった。ONにし、再起動をかけた。

 いつもの起動画面に重なるように……ぼんやりと、何かが形をとり始める。


「……こいつは……」


 俺はぽかんと口を開けた。

 目の前に、一匹のイルカがいた。青い流線形の胴をいくぶん丸め、黒くて丸いつぶらな目でこちらを見ている。


「お久しぶりです! イルカのルイカです」


 言ってイルカは微笑んだ。俺が一番好きな、1990年代の女性声優の声で。


「ずっと、メーカーのDBデータベースの中にいたんです。昔のユーザーさんに再会できるなんて、嬉しいなあ」


 そういえばいたなあ、こんな奴。

 俺が新卒だった頃、いつも表計算ソフトの右下あたりをうろちょろしてた。そういえば、いつのまにかいなくなってたが。


「何について調べますか?」


 イルカが、尾を振りつつ答えを待っている。

 いやあ、お前にする質問はひとつしかねえだろ。

 俺は、一瞬の迷いもなく答えた。


「お前を消す方法」

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