【No. 133】龍神様への捧げ物

 美代みよの姉が龍神に喰われてから最初の春が来た。この日の為に織り上げてきた物語の束を携え、島の男衆の担ぐ輿こしに乗せられて美代は屋敷を出た。今宵は新月、寝静まった闇夜に男衆の鳴らす鈴のだけがと響く。否、島民は寝静まってなどおらぬ。どの家も息を殺してにえの行列を見送り、今宵の首尾を祈っている。

 くらき海よりきたる龍神が生娘の血肉を欲したのは遠き昔のこと。美代の祖母のそのまた祖母の代より昔、あま白禽しらとりの背に乗り島を訪れた言葉ことのは巫女みこの導きで、島の人々は龍神より不殺ころさずの契りを取り付けた。以来、龍神は人を喰らわずを喰らう。年に一度の新月の夜、生娘が語り聴かせる物語と引き換えに、龍神は島に恵みの雨をもたらす。

 美代の祖母も母も叔母も従姉いとこも、婿を取り子を産むまで繰り返し語女かたりめの役を果たしてきた。しかし姉だけが龍神に喰われた。物語が龍神の気に食わなかったためか、それとも儀式の場に何人なんぴとも居合わせぬ掟を島の者が破ったためか。

 一年前の新月の晩、姉はかつての母達と同じように物語の束を携えて入江に赴いた。男衆が輿こしを置いてその場を離れた後、海はにわかに荒れ始め、やがて嵐の海を割って巨大な龍神が姿を現した。大人達に隠れ岩陰から覗き見していた美代は、大蛇おろちの如き龍神が赤き眼を爛々らんらんと光らせて姉を丸呑みにするのを見た。その時、闇より飛び出し小太刀を抜いて龍神に斬り掛かる者があった。姉と密かに親しくしていた漁民の若者だった。龍神はその男をも呑み込み、吹き荒ぶ嵐の中を西の空へと飛び去った。翌朝、島の者達が騒ぎ始めるまで、美代は岩陰でひとり震え泣きじゃくっていた。

 姉が喰われたのは物語が龍神の気に食わなかったためか、それとも己が掟を破ったためか。深き慟哭どうこくに苛まれ己を責める美代に島の者達は口々に言った。来年こそは。来年こそはにお喜び頂くしかないのじゃと。島の大人達はおそれと親しみを込めて龍神をと呼ぶ。しかし姉が喰われた日から美代はその名を口にすることを拒んだ。恵みをもたらす神様などであるものか、あれはとがなき姉を喰らった悪しき魔物だ。そう己に言い聞かせ龍神を憎むことで、幼い美代は己を締め付ける自責の念から辛うじて逃れた。そうして今日まで磨き続けてきたのだ。あの龍神に文句の一つも付けさせぬ物語を。

 潮と共に時は満ちた。波の寄せる入江に輿を下ろし、去り際に男の一人が言う。

美言みことの後を追おうなどと考えるでないぞ。生きて帰れよ、美代」

「はい。龍神様のおゆるしのあらんことを」

 大人達の手前、しおらしい態度を装いつつも、美代は姉のかたきへの闘志を胸中に沸々とたぎらせていた。物語の束を胸元に抱き、荒れ狂う海を前に独り龍神の来臨を待つ。武者震いにふるえる手で白装束の襟元を握り、ねえさま、と小さく呟いたとき、雷鳴が一つ轟き、大波を押し分けて遂に巨龍が海面から鎌首をもたげた。戦慄おののき息を呑む美代の顔を、鬼灯ほおずきの如き真紅の眼がぎらりと見下ろす。

 物語ものがたれ、と声が聴こえた気がした。深く息を吐いて瞳を見開き、美代はそらんじる。姉の遺した言葉ことのはを元に練り上げた新たな物語を。それは弔いの物語だった。亡骸なきがらも戻らぬ肉親を想い、くらき海に夜毎よごと祈りを捧げる哀悼の物語だ。否、それは物語であって物語でなく、美代がこの一年欠かさず行ってきた真実まことの事蹟に他ならなかった。

 岩肌に染み込んだ涙の跡を手で示し、物語のおわりを美代が告げると、龍神は赤き眼を静かに細め、唸るような声と共に大きく口を開いた。喰われる、と身構えた瞬間、美代の体はふわりと宙空に持ち上げられていた。覚悟していた痛みはなく、龍神の口の中は不思議なほどに温かく穏やかだった。僅かに開いた牙の間から風雨の夜空が見えた。龍神の口腔に捕えられるがまま、美代は嵐の空を何処いずこかへ向かって飛んでいた。

 轟々と渦巻く風雨の中を半刻程も飛んだろうか、訳も分からぬままに美代が降ろされたのは見知らぬ浜辺だった。いつしか嵐は去り、穏やかに寄せる波音が夜の静寂しじまに溶けている。死出の旅路の幻かと思った矢先、暗がりから二つの人影が静かに姿を現した。美代、と忘れ得ぬ声が涙混じりに己を呼ぶ。驚きに目を見開けば、松明たいまつを手に歩み出る二つの影は、あの日龍神に喰われた筈の姉と漁民の男だった。見慣れぬ半島の装束に変わってはいたが、涙に濡れる姉の顔を美代が見紛う筈もなかった。何故、と問うより先に姉が口を開いた。

がここに連れてきて下さったの。もじら様は私達の願いを叶えて下さったのよ」

 その一言で美代も全てを悟った。島で生きる限り、身分違いのこの男と結ばれることは叶わぬ。ゆえに姉は龍神に願ったのだ。海を越えた何処いずこかへ二人を連れ去ってくれることを。見れば姉は腹に子を宿しているようだった。死を装い故郷を捨てても貫きたい想いがそこにはあったのだ。

 美代が咄嗟に振り仰ぐと、龍神の眼は心なしか優しく見えた。声ならぬ声が響いた気がした――美しき物語の礼だ、と。姉には既にその言葉は聴こえぬようだったが、夫と共に龍神を見上げるその瞳は畏敬と感謝の念に満ちて見えた。

「ごめんね、美代」

 姉には謝られたが、責める気は起こらなかった。二人と共に龍神の赤き瞳を見上げ、、と美代は呟いていた。先祖達がその呼び名に込めた想いを美代は改めて悟った。人語を解し物語を聴き分け、人の願いまでも聞き入れてくれる海の護り神。それと心を通わす語女かたりめの血筋に生まれた宿命さだめを、このとき初めて誇りに思えた。

 島に戻り、母や叔母と言葉を交わす中でもう一つ察したことがある――母達は姉の身に起きた真実に気付いているのではないか。母達もまたと長く付き合い、その気性を見知ってきたのだから。しかし、それより後、美代がそれを母達に尋ねることも、母達が姉の名を口に出すこともなかった。と自分達だけの秘事ひめごとを胸に抱き、美代は海に向かうたび、遠き空の下で生き直す姉夫婦の幸せを願った。

 婿を取り子を産むまでの間、美代が語女かたりめの役を他に譲ることはなかった。輿に乗り儀式へ向かう彼女の顔は友と交わるかのように楽しげだったという。これもまた、優しき龍に捧げられた、遠き昔の物語である。

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