5月26日 公開分

【No. 131】あなたの名前が知りたいの

 マリエラは何もかもを諦めて生きてきた。両親からの愛も、友人を得ることも、何もかも。父によって全てを管理され、逃げる意志すら持つことを許されなかった。

 しかし、マリエラに縁談の話が持ち出された日、マリエラは初めて嫌だと思った。父に歯向かうことはできなかったが、せめてこの家にいる最後の夜だけ。ほんの一瞬だけでも、自由を得たいと望んだのだった。


 マリエラは今年十六になった。これが夫になる男だと見せられた写真はどこからどう見ても父より歳上で。聞けば六十を越える隣国の富豪ということだった。何人もの愛人を囲っていて、しかし多くの国と太い繋がりを持っているためにマリエラを差し出すのだと。


 ずっとずっと耐え続けてきたマリエラを支える糸が、切れた瞬間だった。


「お気をつけて」

「ありがとうベル。少しだけ散歩をして、すぐに帰るわ」


 幼少期からマリエラを心配し、逃げた方がいいと言い続けてくれた侍女のベル。彼女に手伝ってもらい、マリエラは屋敷を抜け出した。

 屋敷を囲む塀を抜け、初めて目にする街の灯り。色とりどりに光る街灯や店の灯りは、何よりも美しく見えた。


 まるで吸い寄せられるように、マリエラの足は一際輝く灯りの元へと向かう。オレンジ色のライトが綺麗なバーだった。料理の提供もしているらしく、店内からは食欲をそそる香りが漂っている。


 チリンチリンとドアにぶら下がる鈴を鳴らし、マリエラは店内に入った。少しだけお金も持っている。何か一品、自分で買った食べ物を食べてみたいと思った。

 どの席に座っていいか分からずに立っていると、近くのテーブルで酒を飲んでいた男たちに囲まれてしまった。


「一人〜?」

「俺たちと飲もうぜ〜」

「酒よりもいい気分にさせてあげちゃうよ」

「ギャハハハハ!」


 彼らの言葉と共に吐き出される息が気持ち悪い。アルコールを多分に含んだ呼気から逃れるように顔を背け、恐怖に震える身体を何とか支えた。


「やめろ、お前ら。客に絡むんじゃねぇよ」


 しっしっと手で男たちを払うように割り込んできたのは、ひょろりと背の高い男性だった。しわのないシャツにベスト、長いエプロンを付けた男性がそう言うなり、男たちはそそくさと元いたテーブルに戻って行った。


「悪かったな、大丈夫か?」

「は、はい」

「それにしても、お嬢さん。一人でこんな店に入るたぁ感心しないね」

「すみません……明るくて、美味しそうな匂いがしたので……」


 マリエラがそういうと、目の前の男性はクスリと笑った。切長の瞳が細められ、見つめられたマリエラの頬が熱くなる。

 撫で付けられた髪は黒々としていて、綺麗に剃られた口元にはヒゲの気配も感じない。清潔で整った男性を前に、マリエラはどうしていいか分からなくなった。


「おいで」


 彼はマリエラをバックヤードに案内した。店員が休憩に使うのだと説明された小部屋で、テーブルの上にフルーツの乗った皿が置かれた。


「ちょっと待ってな、なんか作ってきてやる」

「え、あ、ありがとうございます……!」


 普通、客をこんなところには通さないだろう。それくらいはマリエラにも理解できた。彼は他の客からマリエラを守るため、ここに連れてきてくれたのだと。

 しばらくして戻ってきた彼の手にはパスタの乗った皿。この店の名物だという、街の特産品であるキノコをふんだんに使ったペペロンチーノで、ツヤツヤと輝きマリエラを魅了した。


「召し上がれ」

「いただきます」


 口に含んだ瞬間、にんにくの風味が一気に広がった。こんなに豪快ににんにくを使った料理など今まで食べたことがない。マリエラは夢中になってパスタを口に運んだ。


「食後はこれな」


 そう言って彼が差し出したのは、ジョッキに入った白い飲み物だった。匂いはあまりせず、ジョッキを傾けるとトロリとしているのが分かる。


「これは?」

「コリエントの搾り汁と牛乳で作ったジュース。これ飲むと、にんにくの匂いが後に残らないんだよ」

「そんな飲み物があるのですね」

「無理に全部飲む必要はないからな。たくさん飲んだ方が効きがいいってのはあるが」

「はい」


 両手でジョッキを持って一口飲むと、濃厚でいて爽やかな味にマリエラは驚いた。舌触りは濃厚なのに、ごくごくと飲めてしまうほどにさっぱりしている。さすがに三分の二ほど飲んだところでお腹がいっぱいになってしまったが、確かに先ほどまで感じていたにんにくの気配が消えたような気がした。


「口、付いてる」


 男性はクスリと笑い、ナプキンでマリエラの口を拭ってくれた。布越しに彼の指先を感じ、マリエラの顔が熱くなる。固まってしまったマリエラを見て、彼はすぐにテーブルの向こうへと下がった。


「腹いっぱいになったか?」

「は、はい!」

「じゃあ、裏口から帰りな。本当は送ってやりたいとこだけど……」

「いえ! 一人で帰れます!」


 というより、一人で帰らなくてはならないのだ。マリエラは必死で首を横に振り、裏口まで案内してもらった。

 男性が開けてくれた木製の扉から外に出ると、少しひんやりとした風がマリエラの肌を撫でる。ふわ、とマリエラの肩に薄手のジャケットが掛けられ、驚いて振り返ったマリエラの目にひらひらと手を振る彼の笑顔が映った。


「またな」

「あ、ありがとうございます!」


 次会う時に返してくれればいいといった風に聞こえた。もう会えないと知りながら、突き返すことはできなかった。心の中で名も知らぬ男性に謝りながら、ジャケットをぎゅうと抱きしめた。


 男物のジャケットを羽織って帰ってきたマリエラに驚いたベルだったが、すぐにそれをマリエラの荷物に紛れ込ませてくれた。最後の別れを惜しむように手を取り合っていた二人は、屋敷の中がにわかに騒がしくなったのを感じて目を見合わせた。


「お嬢様、私の後ろに。お嬢様は必ずお守りします」


 カチャリと鍵の開く音がして、扉が開かれる。身構えたベル越しに見えたのは、先ほど別れを告げたばかりの男性だった。


「どうして」

「強欲な領主の宝物を奪いに来た、って言ったらどうする?」


 彼の手には、ここ最近街を騒がせているらしい義賊のマークが書かれたカードがあった。


「盗んで、いってほしい」

「喜んで」


 伸ばしたマリエラの手を、彼が強く、握った。

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