【No. 126】飛んで、わたぼうし

 突然、頭上に生い茂る葉っぱが掻き分けられたかと思うと、パッと空が開けました。


「うわあ、たんぽぽさん、こんにちはあ」


 明るい日差しに蒲公英たんぽぽは思わずきゅっと目を瞑りました。再び前を見たとき、蒲公英の目の前には小さな男の子がいました。まん丸なくりくりした目に、ぷっくり赤いほっぺの、それはそれは可愛らしい人間の男の子でした。


 ぷくぷくとした小さな手が、蒲公英の綿帽子を摘みます。男の子は柔らかい両の頬っぺたを破裂せんばかりに膨らませ、一息「ふうぅっ」と綿帽子を吹きました。すると、綿毛が一斉に空へと舞い上がりました。


「わあい、とんでけえ」


 男の子は大喜びで、小さくなっていく綿毛に手を振っています。


 蒲公英は、綿毛が風に乗って飛んでいく様子を誇らしげに眺めていました。来年の春には、自分と同じように、またどこかで子どもたちが芽吹くのでしょう。そう考えて、蒲公英はとても優しい気持ちになったのでした。


 蒲公英は次々と綿帽子になりました。男の子は毎日やって来ました。あるときはお母さんらしき人間と、またあるときはお父さんらしき人間と一緒に。そして必ず綿帽子を摘み、その小さな口で一生懸命に綿毛を飛ばしてゆくのでした。


 蒲公英は男の子に会えるのが楽しみでなりません。なにしろ、男の子は蒲公英のことを最初に見つけてくれた人間だったのですから。そして、蒲公英を見てそれはそれは嬉しそうな顔で「たんぽぽさん」と呼び掛けてくれるのですから。


 まだ綿毛だったころ、蒲公英はどこか遠いところから風に乗ってやって来たのでした。小さな公園の中にある、小さな花壇。そこにはたくさんの花たちが所狭しと咲き誇っていました。背の低い蒲公英は、そんな花たちの葉っぱの陰に隠れて、誰にも気づいてもらえずにいたのです。


 いよいよ最後の花が綿帽子になった頃、その公園では大変なことが起きていました。大勢の人間の足音、話し声、ひっきりなしに車が通り、轟音が鳴り響きました。花たちはただ震えるばかり。やがてバリバリッという大きな衝撃とともに、蒲公英の記憶はぷつりと途切れてしまいました。


 全てが過ぎ去ったあと、その公園にはもう、何も残ってはいませんでした。滑り台も、ブランコも、花壇も、もちろん蒲公英も。まっさらになった地面はシンとしていました。しかし、土の中にはまだ確かに残っていたのです。そう、蒲公英の根っこが。あの小さな男の子の背丈よりもずっとずっと長い、丈夫な根っこが。




 翌年、蒲公英たんぽぽが芽を覚ますと、そこは真っ暗でした。空がありません。身動きも取れません。蒲公英は光を探し続けました。そうこうするうちに、春は、何度も何度も過ぎてゆきました。変わりゆく土の感触で季節の移ろいを感じながら、蒲公英は少しずつ根っこを伸ばしておりました。

 

 それから更に、何度目かの春を迎えたある朝のこと。ついに薄っすらと光が見えたのです。嬉しくなった蒲公英は、ほんのりとした暖かさに導かれてぐんっと伸びをしました。待ち望んだ空が細く長く見えていました。


 そこは見たこともない平らな広い場所でした。車が何台も止まっています。あの小さな公園は、今では大きなショッピングセンターに代わっていたのでした。そして花壇のあったこの場所は、駐車場の片隅で、蒲公英が顔を出したのは細い細いアスファルトの割れ目だったのです。


 ここでもやはり蒲公英に気付くものは誰一人いませんでした。でも、他の花たちの陰になることもありません。少し寂しい気もしたけれど、蒲公英は太陽の光をいっぱいに浴びて、たくましく花を咲かせておりました。


 蒲公英に最初の綿帽子ができた、ある暖かな日のことでした。ぽかぽかの日差しにうとうとしていた蒲公英は、自分の上に影が落ちたのに気付いて、ふと目を開けました。目の前には小さな女の子がいました。まん丸なくりくりした目に、ぷっくり赤いほっぺの、それはそれは可愛らしい人間の女の子でした。遠い日の記憶が蘇ります。蒲公英は綿帽子をふるっと揺らしました。


「どうしたの?」


 後ろから優しい声が聞こえます。お父さんでしょうか。女の子は振り返りもせずに言いました。


「ここにねえ、たんぽぽさんがいるの。ふわふわなの」

「たんぽぽ?」


 女の子の後ろから覗き込んできた人間を見て、蒲公英は驚きました。蒲公英は気が付いたのです。

その人間が、かつて自分を見つけてくれた男の子であることを。男の子は今ではすっかり背も伸びて、りっぱな大人になっていました。でも、蒲公英を見つめるきらきらした瞳は、あの頃とちっとも変っていなかったのでした。


「ふうってしてごらん?」


 女の子はそこで初めてお父さんを振り返りました。


「いいの?」

「うん。飛んで行った綿毛はね、またどこかで芽を出して、綺麗なお花が咲くんだよ」


 お父さんの笑顔に、女の子もにっこりと笑いました。ぷくぷくとした小さな手が、蒲公英の綿帽子を摘みます。女の子は柔らかい両の頬っぺたを破裂せんばかりに膨らませ、一息「ふうぅっ」と綿帽子を吹きました。すると、綿毛が一斉に空へと舞い上がりました。


「わあい、とんでけえ」


 女の子は大喜びで、小さくなっていく綿毛に手を振っています。


 蒲公英は、綿毛が風に乗って飛んでいく様子を誇らしげに眺めていました。来年の春には、自分と同じように、またどこかで子どもたちが芽吹くのでしょう。そう考えて、蒲公英はとても優しい気持ちになったのでした。


 目の前では、お父さんになったかつての男の子が、女の子を抱いて空を見上げています。蒲公英は二人の笑顔を見つめながら、嬉しそうに花や葉を揺らすのでした。



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