【No. 123】黒猫のクロがわたしを守るために戻ってきた話

 真っ黒い猫だからクロ。瞳は青灰色。

 クロはわたしが小学校の頃にいつの間にか我が家の庭に住み着くようになった野良猫だ。本当は飼いたかったのだけれど、最後まで飼わせてくれなかった。クロは自由な猫だったのだ。


 そして、中学を卒業したすぐ後のこと、クロはまたいつの間にかいなくなった。近所を探し回ったりしてみたけど、それらしい姿は見付からなかった。それどころか、ご近所さんはそんな黒い野良猫の姿を見たことがなかった。

 クロは我が家にしか現れていなかったのだ。


 手がかりもなく、姿は見えず、落ち込むわたしにお母さんが言った。もう何年も生きているみたいだったから、きっと寿命だったんだ、と。猫は自分が死ぬところを見られるのを嫌うから、と。

 お父さんには、新しく猫を飼おうか、と提案されたけど、わたしは首を振った。もしかしたら、お父さんもクロがいなくなったことが寂しくて、それを埋めようと思ってのことだったのかもしれない。


 でも、わたしはクロが好きだったのだ。




 高校へは入学したばかりで、校舎にはまだ慣れてない。そんなに複雑な構造じゃないけど、どこになんの教室があるかなんて、まだちゃんと把握できていない。


 もつれそうになる足をなんとか動かして、人のいない廊下を走る。せめて、誰かいてくれたら、と思うのに、校舎内には不自然なほど人の姿がない。

 その中をわたしは、何かに追いかけられている。


 最初それは、紫と黒と赤が入り混じった水溜りのような姿をしていた。

 誰かが廊下に何かをぶちまけてしまったのだろうか、と思って足を止めた。そうしたら、その水溜りが立ち上がったのだ。

 立ち上がった、としか言えない。ずるり、と音を立てて。

 粘性のある液体のようなそれは、今度は足になった。べちゃり、と廊下にその足音が響いた。気味の悪さに後ずさる。その時にはもう、周囲に誰もいなくなっていた。わたしが走って逃げ出せば、それは追いかけてくる。誰もいない。

 ここは、学校の校舎と同じ姿をしているけど、もしかしたら全然違う場所なのかもしれない。


 とにかく足を止めたら追い付かれる、追い付かれてはいけない、その気持ちだけで走って逃げた。階段を登って、渡り廊下を駆け抜けて、また階段を登って、でもわたしは確実に追い詰められていた。

 息が上がって足が重たくなってくる。足を止めちゃいけないと思うのに、体が言うことをきかなくなってくる。気持ちばかり焦って前のめりになって、でも足がついてこなくて、わたしはそのまま廊下に倒れ込んでしまった。


 べちゃりべちゃりと足音が迫ってくる。振り向けば、あの気持ち悪い塊は二本の足を生やしていた。長さの違う二本の足で、バランス悪くこちらに迫ってくる。

 足はもう言うことをきいてくれなかった。少しでも逃げたくて、両手で体を引きずって、階段の下まで這っていく。そんなものじゃ全然逃げられやしない。

 階段の一番下に手を置いて、振り返って見てしまう。


 その塊が、わたしの目の前に立っていた。その塊から急に、枝でも生えるみたいに腕が生えてきた。その二本の腕も、太さも長さも違う、バランスの悪い腕だった。形だけ人間を真似たようで、それが一層怖い。


 浅い呼吸を繰り返す喉からは、もう声も出ない。掴まったらどうなってしまうのか。

 その二本の手がこちらに伸ばされ──。


 その時だった。


 真っ黒い影のように見えた。

 その影が階段の上から、手すりを辿ってきた。ほとんど落ちてくるように。そして、わたしの体を飛び越えて、その塊から生えた腕にぶつかってゆく。

 気持ちの悪い塊は、その衝撃に、よたよたと何歩か後ろに下がった。


 真っ黒い影は、わたしの前に真っ直ぐ立ち上がった。真っ黒いのは男子の制服だった。それに、髪も真っ黒い。その髪の隙間から、猫のような耳がぴんと立ち上がっている。


「間に合って良かった!」


 そう言って、その男子が振り向いた。青灰色の目は、わたしの姿を見るとほっとしたように細まった。つり上がった目は猫を思わせた。


 その背後から、塊が腕を伸ばしてくる。危ない、という声は出てこなかった。

 でもその男子は、耳をぴくぴくっと動かすと、まるで後ろが見えているみたいにその腕を避けた。そのついでとでもいうように、くるりと飛び跳ねてその腕を蹴り上げる。


 めちゃくちゃに振り回される二本の腕をかいくぐって、時には蹴ったり腕で弾いたりしながら、その男子は気味の悪い塊の目の前に立った。そこで初めてその塊は、逃げる素振りを見せた。


 けれど、その男子が右腕を塊の中に突き入れる方が早かった。

 腕を突き入れた男子が、何事かをぶつぶつ言いながら、その腕を引き抜く。塊になっていた粘性の液体が流れ落ちてゆく。そして、床にぶちまけられた水溜りのようになって、それからすぐに消えていった。




 残ったのは、その塊から取り出したらしい野球のボールを右手に持った、その男子だけ。わたしは何がなんだかわからなくて、ただぽかんとその男子を見上げていた。

 男子はわたしを振り返ると、野球のボールを放り出して──。


「会いたかった! また会えて嬉しい!」


 わたしに飛び付いてきた。わたしはそのまま抱き締められる。さっきからよくわからないことばっかり起こっていて、わたしはもう反応も何もできずにぼんやりとしてしまっていた。


「あのね、俺だよ、クロだよ! どうやったら君を守れるかなってずっと考えてたんだ! 一緒に学校に行けば良いんだって気付いて! ほら! これなら一緒にいられるでしょ?」


 そんな言葉とともに、顔を覗き込まれる。その頭にはもう猫のような耳はなくて、人間と同じ耳が顔の横についていた。でも、わたしの顔を見下ろす青灰色の瞳は確かに、クロのものによく似ていた。


「これからはずっと俺が守るからね、大丈夫だよ!」


 もう一度抱き締められたわたしは、その時になってようやく、周囲に人の気配が戻っていることに気付いた。

 つまり今の状況は、公衆の面前で男子と抱き合っているということで──。


「は、離して!」


 せっかくの再会だったけど、思わず突き飛ばしてしまったのは、仕方ないと思う。

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