5月24日 公開分

【No. 122】月明かりのもとの邂逅を証するのは、瞬く星々だけ

 漆黒の地に銀粉を散らしたような星々の力強い煌めきは、深い蒼穹の中にあってまるで手が届くと錯覚するほどだ。

 星辰に見下ろされた地上にもまた、宝石の如き光の粒が夜闇を照らし出すところがあった。貴族の館は眠らない。燭台の飾り水晶に乱反射した蝋燭の光は、開け放たれた窓から漏れて街路を玉虫色に彩る。

 室内では誰もが談笑し、絶えぬざわめきは漣のよう。しかしその中で控えめに動く影があった。するすると人波を縫い、ひと知れず灯火の光及ばぬ露台へ抜け出る。


「困ったものだ。美しい方はダンスの誘いが絶えなくて」

「ご冗談を。そちらこそ次から次へと令嬢のお相手をしていらしたのに」

 娘はわざとらしく肩を竦めて男性に背を向けた。すると悪戯な初夏の夜風が娘の肩掛けをはためかせ、淡い紅の絽が空に靡く。

 手を伸ばした娘よりも早く、男はその帯を優しく絡め取り、そのまま娘の細い体に腕を回し、自分の方へ引き寄せた。

「やっと捕らえたのです。この手に、貴女を」

 抱き止められた驚きも見せず、娘は挑発めいた笑みを浮かべる。

「それは、私の望みを叶えてくださると?」

 吐息混じりに呟いて、男の頬にそっと触れる。

 人の作った明かりから隠れ、星々だけが見守る中、二人は見つめ合い、互いの唇を重ねた。





 だがその直後、何者かに襲われ、朝には娘の姿が忽然と消えていたと言う。


   ☆


「彼女は、まだ見つからないのか……っ」

 部下の報告に、男は羽根ペンの先を書見台に押し付けた。

「恐れながら。しかし方々手を尽くして探索しましたが、もはやこの地には」

 淡々と続く説明に男の表情は曇り、まなこは苦痛に歪む。紙の上にインクが滲み、男の署名を無様に汚していく——心に広がる闇のように。

「この地では、会えないというのか」

 あの口づけが男の頭から一時も離れない。想いは募るばかりで日夜男を苦しめる。

 彼女がいない街の夜など、月明かりすら皮肉に笑う。


   ☆


 小都市の一郭は、夕方になると客を呼び込む料理屋の声でにわかに騒がしくなる。混み合う大通りの石畳に、長編み上げの靴底を元気よく打ち当てながら走る娘がいた。立ち話をする町人や荷車を器用によけて一目散に駆けていく。

「ただいま帰りました!」

 娘はとある料理屋に飛び込んだ。元気な挨拶に初老の婦人がお帰り、と振り返る。

「いつも悪いね。あんたさん、本当はいいとこの娘さんだろう。なのにぼろで雑用に走らせて」

 すると娘はつぎはぎだらけのスカートの裾を持ち上げ頭を下げた。

「楽しくやっております。それにあの日、おじさまが拾って下さらなければ野垂れ死していたかもしれませんもの」

 首を傾げると長い髪が揺れて光沢を放つ。若者たちの目を引く美しい娘だ。婦人は目を細めて愛らしい笑顔を眺め、細く息を吐いてから切り出した。

「できたらうちの子になってもらいたいけれど」

 婦人が窺い見ると、娘の瞳から笑いが消える。

「ごめんなさい。でも私には」

「わかってるよ。会いたい人がいるんだろう? それで実は、今日のお客からね」

 娘の切望は夫婦も承知である。そしてそれを果たすには、下賤の身では不可能だということも。

「ある貴族が若い娘を探しているっていうんだよ。令嬢の付き人に雇いたいってさ」

 勤め口を聞き、娘は見る間に頬を紅潮させた。大きな目は潤み、長い睫毛に珠が光る。

「そこにお勤めしたら、もしかしてあの人に」

 胸が脈打つのは、体が熱いのは、走ってきたばかりが理由ではない。


  ☆


 男は故郷を離れ、街から街へ止まることなく移っていった。財力に頼り夜会という夜会を渡り歩き、あの娘を探し続ける。生気なく移り歩く様はまるで幽鬼だと人は噂したが、男にはどうでも良い。胸の内に鉛を抱えるような感覚はあの娘に触れられれば消える。増すばかりの渇望に、瞳だけは常に灯火の如く。

 故郷を出ていくつめの街か。縁の家へ身を寄せはや三日。岸辺で波が砕けるのを眺めながら、サロンで客人の話を聞き流していた男の耳に、今宵開かれる夜会の話が飛び込んだ。

「私も訪問は可能か」

 男は咄嗟に問うていた。男の夜会通いは有名だ。平気だろうよと返事には揶揄からかいさえ滲む。しかし男にはもう彼らの笑いも届いていない。

「もしかして今夜こそ……」

 止めようもなく高まる音は、打ち寄せる波か、我が心か。


  ☆


 漆黒の空を星々の輝きが飾り立てる頃、地上にもまた艶やかな灯火に彩られる館があった。

 雅な楽の音は人々の耳を楽しませ、初対面の者も旧知の者も美酒に酔いしれ話に興じる。

 歓談に華を咲かせる面々を男は一人一人確かめていった。あの顔も、こちらも違う。また空振りか。落胆に臓腑が潰れそうになる——その時だった。

 広間の片隅に佇む姿が、男の視線を引きつけ、束縛した。

 見紛うはずがない。着飾った客人たちの間を掻き分ける。向こうも気づいたようだ。しなやかな挙措で壁から離れた。逃げるのか、誘っているのか、人の影に隠れては現れ、それを繰り返しながらこちらを振り返る。

 男はいつしか小走りになっていた。あと少しでドレスの裾に、もう僅か手を伸ばせば——



「やっと捕まえました」

 華奢な手首を男の指が捕らえたとき、二人は露台に出ていた。ざわめきは硝子戸を挟んだ向こうの遠い世界のものだ。二人の邂逅を知るのはもう星々しかない。

「どれだけ探したか。あの夜以来、ずっと」

 娘は星屑のごとき粒が踊るドレスに身を包み、手首を払うでもなく、されるままに男の方へ引き寄せられる。

「私もです。貴方にもう一度会いたいと。あの夜のように」

 男の吐息を首元に感じながら、娘は恍惚と呟いた。









「一族を殺し私を婢妾にしようとした、貴方に報いるために」







 硬質な音が静寂を破る。

 夜闇の中で閃いた短刀を別の刀が受けた。


「毒薬はやめたか」

「失策を繰り返すほど馬鹿ではありません」

「口移しで毒とはな。部下からも逃げおおせるとは大した狐だ。口を割る前に捕えねばと焦ったが」

 娘の視線が険を帯びた。

「小娘が貴方の罪を訴えても権力で潰されるだけ——この手でしか仇は返せません」

「夜会を渡り歩いた私の読みも悪くないな。そういう娘だからこそ手に入れたいと」



 髪を結う細帯が夜風に遊ばれる。踏み込んだ娘の動きは舞のように軽く、切っ先が月明かりを映して光を放った。

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