【No. 121】蜘蛛の化け物に襲われたら神様が助けてくれたけど今度はその神様に求婚されています

 わたしの顎をその指先が、つ、と辿った。背中がぞわりとする。

 ぴくりとも動けないのは怖いからだけじゃない。わたしの体は糸のようなものに絡め取られている。逃げることはできない。もっとも、体が自由だったとしても、この状況で足が言うことをきいて動いてくれるか、自信はない。

 指先は顎を辿って喉元に辿り着いた。長い爪が滑ると、そのまま掻き切られるんじゃないかと想像してしまう。

 わたしの怯えを見てか、目の前の顔が笑みを浮かべた。その顔だけを見ればびっくりするほど美しい女の人だ。形の良い輪郭に黒目がちの瞳。縁取る艶やかな黒髪。鮮やかな黄色い着物。

 けれど、その下半身は蜘蛛だった。

「ああ、ようやく見付けた。オオミブチ様の血を持つ娘」

 美しい顔の蜘蛛の化け物は、動けないわたしの首を撫でながら、うっとりとそんな言葉を漏らした。意味がわからない。

「お前はオオミブチ様の嫁にはならぬと言ったな。であれば、私が代わりになってやろう。だから、その血をおくれ」

 ああ、そう、突然にこの蜘蛛の化け物に迫られたのだ。「お前がオオミブチ様の嫁か」と。わけがわからなかった。咄嗟に首を振って「知らない」と言うことしかできなかった。そしたらこの状況だ。

 わたしの首には、この化け物の指先が、尖った爪が這っている。恐ろしさに声も出せなかった。涙だけが滲む。


「まあ、待て」


 不意に、涼やかな男の人の声が降ってきた。わたしとその化け物との間に、小さな青い光がともった。

 いや、光ではなかった。それは、小さな水の塊。握りこぶしほどの水が、そこで渦を巻いていた。

「オオミブチ様」

 化け物はそう声を上げると、わたしの首から手を離して後ずさる。

 そうやってできた隙間で、水の塊がぐるりと渦を巻きながら大きくなった。そしてそれは人の形になって、わたしと化け物の間にすらりと立った。

 着物を着ていた。浴衣とかと違って、もっと古いイメージの着物。膨らんだ袖と裾がきゅっと絞られている。

 作り物めいた白い顔に、細いつり目。その目がわたしを見て、さらに細められた。

「これは俺の嫁だ。なぜお前が手を出している」

 着物の男の人は化け物の方を向くと、そう言った。化け物はわたしを睨む。

「その女はオオミブチ様の嫁にはならぬと言いました。約束を反故にしたも同じ。であれば、私がその血を得て、オオミブチ様に捧げようと」

「俺が何も言わぬうちにか」

 男の人の冷たい声に、化け物は一瞬たじろいだ。けれどすぐに、一歩──蜘蛛の脚ががさがさっと動いたので一歩ではなく数歩かもしれない──前に出た。その顔に、ふ、と嘲るような笑みが浮かぶ。

「けれどオオミブチ様は、消えかけではありませんか。そこまでお力を失って、ああ、おいたわしや。早く取り戻したいでしょうに」

「俺と小渕の者との取り決めは、俺の問題だ。お前ごとき出る幕ではないよ」

 男の人はそう言って、持っていた扇を開いて舞でもするようにはらりと振ってみせた。霧のようなものが現れて、化け物の姿が見えなくなる。

 そして男の人がわたしの方を向く。この人も、人に見えるけど、きっと蜘蛛の化け物の仲間だという気がした。怖いけれど、わたしの体はまだ蜘蛛の糸に囚われたままで、動くことができないでいる。

「本当はゆっくりと説明するつもりだったのだけれど、こんな事態になってしまった。残念ながら力を失っているのは本当でね、足止めもあまり長くは持たないのだ」

 そんなことを言って、けれどその人は焦るふうでもなく穏やかに微笑んだ。

「よく聞いてくれ。お前は俺の花嫁なのだ。ずっと昔に小渕の者とそう約束をした。その代わりに小渕の者に俺の力を預けてあるのだ。その力を返してくれないか。そうすればあいつなどすぐさま追い払える」

「か……返すって、どうやって?」

 ようやく絞り出したわたしの言葉に、その人はゆったりとした口調で答える。

「本来ならばお前が花嫁になることで成るのだが、今はそこまでの時間がないだろう。であれば、そうだなあ、口付け程度でも一時しのぎにはなるか」

 口付け……その言葉の意味を考えている間に、その人が顔を近付けてきた。キス、されてしまうのだろうかと、動かない体を固くして、目を閉じる。溜まっていた涙が頬を伝い落ちる。

 ふ、と鼻先で笑う息遣い。

「そう怯えられるとやりにくいな。今はその涙でなんとかしよう」

 その声とともに、頬に柔らかいものが押し当てられる。それはわたしの涙の跡を目尻まで逆に辿った。

「ああ、俺の力だ。わずかだが戻ってきたぞ」

 ふ、と体の力が抜けた。わたしの体を縛っていた糸が切れたのか、消えたのか。

 抱きとめられて目を開けると、化け物はもういなかった。その男の人がわたしの顔を覗き込んで、おっとりと微笑んでいた。


 その男の人は、オオミブチという水の神様なのだそうだ。

 わたしの家──小渕の何代か前のご先祖様が、水不足の時に神様にお願いをした。助けてください、と。

 それで神様と約束した。次に生まれた娘を神様に嫁にやる代わりに神様の力を分けてもらった。それで小渕の家とその集落は助かった。

 けれど、小渕の家になかなか娘が生まれなかった。息子の息子のそのまた息子の、と辿ってようやく生まれた娘がわたし、ということらしい。

「そんなの聞いてません」

 わたしの声に、オオミブチ様は微笑んだ。

「約束を果たしてもらわなければ。このところ、住処の川が開発だとかで形が変わってしまって、力が足りないのだ。このままでは祟り神になってしまう。そうなれば、俺の力を持ったお前とて、無事ではいられないぞ」

 穏やかな顔で脅されてしまった。

「お前が生まれたときに一度、顔を見にきた。それからずっと再会の時を待っていたのだ。お前はさぞ綺麗な花嫁になるだろうな、楽しみだよ」


 そして結局、オオミブチ様はわたしの部屋に住み着いて、わたしに結婚を迫っているのだった。

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