【No. 116】お嬢様の色霊(いろだま)

 本日はようこそおいで下さいました。貴女の本は何冊か読ませて頂きましたよ。失礼ですが平成のお生まれでしたか。そのお若さで、よくぞあのような……いや失敬、文才にお年は関係ありませんな。もそうでしたから。

 私はもと、この屋敷に仕えていた下男げなんの一人だったのですよ。戦後の動乱で本家の方々の血筋も絶えてしまわれましたが、なんとかこの屋敷だけは、他の者の手に渡る前に買い取ることができました。いや、財産を成したなんて大層な話ではないのです。私は運が良かっただけです。今は住む者もおりませんが、手入れは欠かしておりません。

 貴女にいらして頂いたのは、ここに住んでいた一人の女性の話を聞いてほしかったからなのです。貴女と似た方でしたよ。いえ、風貌がではありません。紡がれる物語の色とでも申しますかな。当節、貴女のような作家さんは珍しいのではないですか。学のない私はよく存じませんが、今の若い人は皆エンタメだのケイタイ小説だのでしょう。いやはや、歌は世につれ、ということかもしれませんが。

 昭和のはじめの頃です。この屋敷には一人の病弱なお嬢様が住んでおられました。お付きの者の助けなしには外にも出られないお体でしたが、物語を書くことはお得意で。美しく瑞々みずみずしい筆致で周囲を驚嘆させておられたのです。箱庭に閉じ込められたような身であればこそですかな、その発想は翼を得たかのように自由で、紡がれる言葉の彩りは山の花々のように豊かでした。

 もとい、知ったように申しましたが、その時分の私にはお嬢様の文章の美しさを理解できる教養などありません。ただ周りの人の言いぶりから、その凄さを感じ取っていた次第で。

 しかし、運命とは残酷ですな。お嬢様を蝕んでいた病は、彼女が世界と繋がるよすがとしていた「言葉」さえも、彼女から取り上げていったのですから。

 今の医学だと何と言うのでしたか。お体が弱っていくのにつれて、彼女は意味のある言葉を発することも、それを文字に綴ることも次第にできなくなっていったのです。耳は聴こえておられたし、喉にも異状はないと医者は言っておりましたが……強いて理屈を付けるなら、神様がその才を妬んで取り上げたのかもしれませんな。

 私は今で言う使用人に過ぎませんから、お嬢様と親しくなってにしようだなんて、そんな大それたことは夢にも思いません。ただ近くにはべらせて頂けるだけで満足でした。病の身のお嬢様ですから、むろん縁談もなく……それを喜んではなりませんが、少しばかり安堵はしておりました。歌謡曲にもあるでしょう。己の物にできぬなら、せめて他の誰の手にも渡ってほしくないと、そう願ってしまう気持ちは男でも女でも変わりますまいよ。

 しかし、言葉を失ってなお、お嬢様の感性は枯れることを知りませんでした。色霊いろだまというのをご存知ですか。文明を持ち文字を得る以前から、人は自然界のあらゆる色彩に意味を宿してきたそうです。情熱の赤だの、静寂の青だのと今でも言うでしょう。そうした色彩を何百何千にも細かく分け、一つ一つに意味を割り振れば、文字と同じかそれ以上に多くの物語を語ることができます。お嬢様が開眼されたのはそうした御業みわざでした。

 当時は画材など簡単には手に入りませんから、お嬢様が用いられたのは自然の色彩です。山の木々や花々、魚の皮や骨に至るまで、ありとあらゆる色に意味を当てはめ、お嬢様は物語を綴っていかれました。いや、当てはめるなんて表現は適切ではありませんな。あの方には本当に見えていたのです。自然界の無限の濃淡の向こうに美しい言葉たちが。そして、文字でなく色で物語を紡がれるようになってから、そこは他の誰にも理解できない、お嬢様と私だけの世界となったのですよ。

 今の人は何かにつけ愛だの恋だのと言いますが、あの方と私の関係はそうした類のものではありません。ただ一度だけ、お嬢様が色霊いろだまを通じて私に言われたことはあります。わたくしにも、まっとうな女の幸せが得られたら――と。いえ、むろん、その肌に指一本触れてなどおりません。私はこう言いましたよ。貴女様をけがさぬことこそが私めには幸せなのです、と。彼女は切ない目をしていたかもしれません。いやしかし、私も後に商売女を何度か抱きましたが、その行為の何たるかを知るにつけ、やはりあの日の選択は間違っていなかったと確信しましたよ。失礼、女性に聞かせる話ではありませんでしたか。

 その後、私は兵隊に取られ戦地に赴きました。お嬢様の下さったお守りを持ってね。餓島がとうと言って若い方には通じますか。立ち上がれる者は寿命三十日、座れる者は三週間、物言わなくなった者はあと二日、瞬きしなくなった者は明日までの命……などと言いましてね。そこは文字通り、草の根をかじり泥水をすする地獄でしたが、生きてお嬢様のもとに帰る日を夢に見れば、どんな飢えにも渇きにも耐えられましたよ。

 ええ、最後は病で亡くなられたと聞いております。私が戦地から戻る一年ほど前のことでした。あの時代、飢えでも空襲でもなく病で逝けるのは、ともすれば幸せな部類だったのかもしれませんな。

 私ももう長くはありませんから、誰かにお嬢様の話を聞いて頂きたかったのです。願わくば、お嬢様に負けず劣らず美しい言葉を紡がれる貴女のような方にね。

 ご覧下さい。ここは高台ですから、日暮れ時になると、この窓から夕焼けに染まる海が見えるんです。美しいでしょう。お嬢様の最も好きだった景色です。私も今はこんな体ですが、一月ひとつきに一度はこの夕焼けを見に来るんですよ。その時だけお嬢様と再会できるのです。どれほど時代が変わっても、海とお天道様だけは変わりませんからな。

 この夕焼けにお嬢様が宿された色霊いろだまは「生きてまた逢いましょう」です。生きて、という部分は叶いませんでしたが、それさえもあの方は分かっておられたのかもしれませんな。私一人が随分と長生きしてしまいましたが、もうじきやっとお嬢様のもとへ参じることができます。

 この景色を貴女に差し上げますよ。ええ、貴女なら美しい物語に仕立てて下さるでしょう。お嬢様の生きた証を誰かが語り継いで下されば、私も安心して逝けるというものです。

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