【No. 103】贖罪の旅はふたりで【残酷描写あり】

 殺したはずだ。


 店先に飾られた白いワンピースを見て、幼い子供のように瞳を輝かせる彼女を。

 私はあの日、確かに殺したはずだ。


 柔らかなその胸にナイフを突き立てたのか、あるいは痩せて細くなった首を絞めたのかは忘れてしまった。ただひと思いに殺したことは間違いない。ゆっくりと消えていく命の炎、彼女の熱がなくなる感触は、今でも私の手のひらに残っているのだから。


 奪った命。それが事切れるまで、見届けた。だから彼女が存在しているはずがない。

 それなのに私を見つけた彼女は生前と同様の笑みを浮かべて、足取りも軽くこちらへ駆け寄ってきたのだ。


 なぜ?

 何が起きている?

 殺したはずの相手を前に、どうして彼女は笑っていられるんだ?


 混乱と恐怖に満たされた私の感情などお構いなしに、彼女は目の前まで駆け寄ると、まるでそうするのが当然であるかのように私の手を取った。柔らかな感触に、私の指先がびくりと跳ねる。やわい拘束だというのに、私はその手を振り払えない。


「ねぇ、見て! あのワンピース。今からの季節にぴったりだと思わない?」


 彼女が指差したのは、先程見ていた白いワンピースだ。マネキンの頭に乗せられたつばの大きな帽子が、シンプルなワンピースを更に上品な雰囲気に仕立て上げている。


「うふふ。でもあれを着るには、年齢的にもう勇気がないわ」


 そう言うわりには、彼女はまだ若い。長い黒髪も艶やかで、白い頬はうっすらと色付いている。清楚な彼女にあのワンピースは良く似合いそうだと思った瞬間、唐突に胸の奥が鋭く軋んだ。


「……泣いてるの?」


 枯れた瞼を押し上げてこぼれるのは、私に許されるはずのない涙だ。声を殺し、喉を鳴らして嗚咽を止めようとも、一度堰を切った涙はもう止まることを知らない。


 私は彼女を殺した。

 誰よりも愛していた彼女を、この手で殺した。

 押し寄せる後悔と悲しみに胸が潰されそうになっても、その事実が変わることはない。


 ――あぁ、けれども。

 あの時の私は。私たちは。終わりのない暗闇に、身も心も疲れ果ててしまったのだ。

 他に何か手があったかもしれないのに、他人を頼るという選択肢があの時の私たちには何ひとつ思い浮かばなかった。二人きりの家。二人きりしかいない家という閉鎖的な空間で、頼れるのはお互いだけ。その片方が機能しなければ、負担は当然重くのし掛かって。


『もう……私を、ころしてください』


 弱り切った彼女は、虫の鳴く声で囁いた。




「おじいさん。つらいことをさせてしまって、ごめんなさいね」


 手をぎゅっと強く握りしめられた感触に顔を上げれば、彼女は若い頃の姿のままで私を見つめていた。

 最期に見た彼女は病気で痩せ細り、自力でベッドから起き上がることさえできなかった。白髪はパサパサで、皺だらけの肌に残るのはいくつものシミだけ。若い頃の艶やかさはとうに失われていても、昔と変わらず彼女を愛おしく思っていたことに間違いはない。


 子供に恵まれず、夫婦二人の生活はやがて老いた者同士が身を寄せ合って生きていくのに必死で、気付けば私たちもニュースで取り上げられるような生活に陥ってしまっていた。


『もう……私を、ころしてください』


 妻を殺したあとの記憶はない。目の前に若い姿の妻がいるということは、私も既にこの世の者ではないのだろう。


「どうして、こんなところに?」

「おじいさんを待っていたんですよ」


 繋いだ手。いつの間にか私の手も、皺ひとつない滑らかなものに変わっている。


「あれは私がお願いしたもの。二人の罪です」

「でも……苦しかったろう。痛かっただろう。ごめんな。……ごめんなぁ」

「おじいさんを苦しめてしまって、私もごめんなさい」


 熱のない涙が、頬を濡らす。それでも縋るように抱き合ったふたりの体はあたたかいような気がして、私はもう二度と離すものかと両腕にぐっと力を込めた。


「一緒に行きましょう。おじいさんと一緒なら、どこへ行くのも怖くありませんよ」

「待っていてくれて、ありがとう。また会えて……本当に、うれしいよ」


 涙でぐしゃぐしゃの顔に、再会の喜びの笑みを乗せて。

 繋いだ手を握りしめたまま、歩いて行く。

 今度はふたりで、光の見える方へ。道を違わず、ただただ――まっすぐに歩いて行く。


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