【No. 092】Café Voir
パンプスが石畳の上で、止まった。
爪先が向いた先に、道はない。
エナメルの靴に、黒茶の影が映る。
足元から上へ色を濃くしていく扉。その木目が流れる筋を、一枚のプレートが遮断する。
『Café Voir』
古びた板に彫られた金字は、不自然なほど鮮明だ。
「いらっしゃい」
扉が軋みを立て、かたり、という音の後、静けさが戻る。
「お待ちしておりました」
店内は奥行きが知れぬほど薄暗い。カウンター上のランプの光が、色付きガラスを通して声の主を照らす。
「ああ、貴女の席はあちらです」
扉から一番近い椅子を引いた手が止まる。迷いも抵抗もなく、部屋の中央の丸テーブルの方へ踏み出した。
薄いクッションを置いただけの木椅子に腰掛ける。
卓を挟んだ向かいには、先客がいた。
「お邪魔、します」
上目遣いに見上げた彼女は、目が合ったと思えばすぐに視線を落とす。そのはずみに、二つ結びの髪が肩のところで波打った。
「どうぞ」
マグカップの底が机にぶつかり、ココアの甘い香りが立つ。
主人の顔を窺うと、貴女のだ、と頷く。
丸みのあるピンクのマグには、クレパスのような筆致で兎が描かれている。アンティーク調のこの部屋には不似合いな、どこかで見たような安っぽさ。
目の前の彼女も、同じマグを手にしていた。
「娘さんですか」
ふるふる首を動かしたのは、彼女の方である。
「ご親戚か、お知り合い?」
また小さく、首を振る。
「帰らなくて、いいの?」
俯いたまま、表情は分からない。
結ばれていた唇が動くのだけが見えた。
「帰れないの」
迷子だろうか。
答えは否、だった。
「会わなきゃいけない人が、いるの」
睫毛が湯気で湿る。マグの中で赤茶と乳白色が緩い渦を描いて混ざる。
♩
パンプスが石畳の上で、止まった。
靴先に黒茶の扉が映る。
「いらっしゃい」
薄暗い店内。色付きガラス越しに広がるランプの光。丸テーブルの前に座る彼女。
「会いに、いけた?」
マグに手を添えたまま、ちらと見上げ、首を振る。
どうしてだろう。
「逆上がり、できなかったの」
淡い光の中を真っ直ぐ上っていた湯気が、呟きと共に揺らめいた。
♪
靴先は、黒茶の扉を映して止まった。
凍えた指先をマグに温められながら、ココアの香りの中で、彼女と向かい合う。
「もう、会えた?」
瞼が閉じられ、小さな頭が左右に振れる。
「満点、取れなかったの」
「忘れもの、しちゃったの」
日々溢されるのは、誰にでもある他愛もない失敗。
どうしてそれで、会えないのか。
消え入りそうな声は、「……嫌われちゃうから」と。
胸の奥で、しこりが生まれる。
♩
ぽつり、ぽつりと漏らされる失敗は、次第に少しずつ、性格を変えていく。
「ご飯がうまく作れなかったの」
「プレゼント、喜んでもらえなかったの」
悪いのは誰だろうか。彼女なのだろうか。
ほんの少しのずれ。思いがぴたりとはまらなかった、それだけ。
それだけ、のはず。
異物が動いて、体の中を掻き回す。
♪
何度目か。店の前で、足が止まる。
吐露された失敗は、いくつあったのか。
「第一志望に落ちちゃったの」
「綺麗なメイクができないの」
「企画、通らなかったの」
聞くたび、鉛を飲み込んだように体は重く、内臓に針が刺すような痛みが走る。
「だから、置いてかれちゃうの」
彼女の瞳の輪郭が、どこか滲んで。
どうして。
「……期待通りにできない、から」
いつしか横に座るようになった幼い横顔は、必死で。小さな体は縮こまって、小刻みに震えて。
紙が張り付いたような喉を、無理に鳴らす。
「精一杯やったんでしょう……?」
マグを見つめていた目が、瞬時に見開いた。
陶器に当てた指の先が、白くなる。
「やっ……た……」
呻きにも似た掠れ声。
極限まで怯えた瞳がこちらを向いた。
透明な雫が頬を伝う。
細い叫びが耳をつんざく。
「……怖いの……っ……」
耳に聞こえるのは、彼女の声か。
堰き止めた何かが、壊れた。
準備した。
確認した。
緊張した。
考えた——けど——
怒られたら?
間違っていたら?
拒まれたら?
否定されたら?
——頑張って、悩んで、努力して、考えて、考えて、考えて。
それでも完璧でないといけないなんて。
そんなの。
伸ばした腕の中に、小さな体を抱き締める。
体の中の異物が膨れて、弾ける。
恐れ、迷い、躊躇い、怯えが。
嗚咽とともに全身を支配する。
聴覚を麻痺させる泣き声は、外からなのか、内からなのか。
放りだして逃げ出したくなる。
でも、抱き締めた。
ぬくもりは熱くて、壊れそうで、優しくて、狂おしいほどに、
————愛しい。
店内を仄かに照らす、色ガラス越しの光。
甘い香りを孕んで身を包む、温かな空気。
「会えましたか」
「——はい」
カウンター越しに、主人が微笑む。
その穏やかな瞳の中に、私が映る。
「そうです。皆どこか足りなくて、不完全です。精一杯で、理想に届かなくて、怖いんです」
腕の中に、あの子はいない。代わりに私の中にあった虚ろな空間を、よく知る感覚が埋める。
それはずっしりと、抱えるのをやめたくなるほどの荷重を体にかける。
だが確かな質量と温度を持って、そこに在る。
「子供だけじゃない。大人も未熟で、不安です。だから大丈夫だと、休ませる時がなくては」
兎が遊ぶピンクのマグ。マーブルの線を描くココア。
泣きべそをかいたあの日、淹れてもらったのと同じ。
「貴女を、認めてあげてください。貴女がなくならないように。不完全だからこそ真剣に生きる貴女は、そのままで素敵です」
頬に温かいものが伝う。それを拭いもせず、息が詰まりそうな喉の痛みを覚えながら、ゆっくり、しかししっかりと、私は初めて、首を縦に振った。
♬
消毒液の臭いが充満した病室。規則的な拍を刻みながら線グラフを描くモニター。手首に包帯が巻かれたまま横たわる女性。
モニターの線が一瞬歪み、大きな弧を描き始める。
女性の睫毛が小さく振れ、瞼がふわりと開いた。
色を取り戻した唇が、微かに笑みの形を作る。
「ああ、帰れましたね」
色ガラス越しの光が、カウンターの木目を照らす。主人は洗ったマグを片付け、棚から藍色のコーヒーカップを取り出した。
深煎りの豆が軽い音を立てて落ち、ミルを満たす。
その時、入り口の方で蝶番が鳴いた。
「いらっしゃい」
今日も何かを失くした誰かが、このカフェにやってくる。
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