5月17日 公開分

【No. 091】アヤカシ

 雨の中、一匹の黒猫が弱っていた。このまま放っておいても構わなかったが、ひとまずオレがねぐらにしている神社へ連れて行くことにした。

 ちっぽけなほこらの戸を開け、猫を中に入れる。猫は終始辺りを見回していたが、敵がいないことを確認し、安堵したようだ。


「腹を空かしているのか? と言っても、生憎こんなもんしかない」


 境内に生えている木からすももの実をひとつもぎ取り、猫の前に置く。猫は匂いを嗅いでから恐る恐る食べ始めたが、すぐに表情を歪ませ、実を吐き出した。


「何をやっているんだい?」


 背後から聞こえる女の声。気配は感じていたが、振り向くのが面倒臭い。


みつ、少しの間コイツを雨宿りさせてやってくれ」

「あらまあ、ずぶ濡れじゃないかい。しっかし、アンタが珍しいねぇ。客人を連れてくるなんて」

「単に目覚めが悪いと思っただけだ。雨が上がれば、元いた場所に戻してくる」


 その言葉通り、雨上がりの午後、猫を元の場所に放してきた。猫を放してすぐ、コイツより一回りも二回りも大きい猫が現れた。そいつはオレの顔を見るなり威嚇の声を上げたかと思うと、さっきの猫をくわえて走り去る。


……やっぱ」


 神社へ戻る途中、川の近くを散歩していた。煙管キセルをくわえ、白い煙を吐き出す。川を眺めながら刻みたばこを楽しむのがオレにとっての日課だ。

 もう一服しようとしたところで、川に飛び込む音と悲鳴やら怒声が響き渡る。はじめは入水じゅすいでもはかろうとしたアホがいたかと思ったが、そうではなかった。

 飛び込んだのは女。行く先に見えたのはさっきの猫どもだ。


「もう大丈夫だからね」


 女は細い腕で猫を抱きかかえていた。

 だが、川の流れは思いのほか速かった。昼前に降った大雨で増水したのだろう。女は猫を抱えたまま岸を目指そうとするが、進むことが出来ないようだった。


「……誰か、誰か来て!」


 途方に暮れた女の声を聞いても、手を差し伸べる者はいない。


「警察と救急車を!」


 と、何やら小さな箱のような物に向かって叫ぶ奴はいたが、それ以外は茫然と女がくたばっていくさまを見ているばかり。


「日課をぶち壊しやがって……」


 オレの体は自然と川へ向かっていた。しぶきが上がり、藍色に染められた着物の袖がひらひらと水面みなもに浮かぶ。川の流れに逆らいながら、まっすぐ女のもとへ。オレは無言で女の脇に腕を通し、岸へと上げた。

 女はぐったりとした様子だったが、命に別状はないだろう。二匹の猫は濡れた体をぶるぶるさせ、その場を後にした。


「人騒がせな猫どもが……」


 そう口にし、立ち去ろうとしたところで、


「ありがとうございました」


 女がか細い声でそう言った。

 オレは瞠目どうもくした。


「……見えるのか?」


 女は唖然とした表情でオレの顔を見る。


「見えるも何も……綺麗きれいな着物ですね。ちょっぴり古風だけど。でも、折角の着物が濡れてしまって、その……クリーニング代なら出しますから、ごめんなさい!」


 女は華奢な体を小さく折り曲げるようにして、こうべを下げた。烏の濡れ羽色のような髪から水がしたたり落ちる。髪はひどく乱れているが、雰囲気がどこかに似ている。いや、気のせいか。何百年も前の記憶を呼び起こしたところで、特段得る物はない。


「いらぬ心配だ。もう会うことはない」


 オレは女を置いて、神社へ戻った。

 その夜、とんでもない忘れ物をしたことに気が付く。


「煙管がない」


 袖の中を探るも何も出やしない。


「川か」


 横で満が呆れた声を出す。


「あんなもん、いつまで吸っているんだい? いい機会じゃないか、そのまま止めちまいな」


 満は月の満ち欠けに応じてその姿を変える。さくの日には幼子おさなごに、望月もちづきには老婆となる。今夜は上弦の月。満の見た目は二十代後半といったところか。

 人間だった頃はそれなりに稼いだ芸鼓だったらしい。


「あの煙管はな、当時の遊郭で一世風靡していた太夫からもらったもんだ。もう手に入ることはあるめぇよ。今じゃ、そいつもオレたちと同類。ちまたじゃ、死神と恐れられているがな」

こうのことかい? 人間だった頃は確か、おゆきって呼ばれていたと思うけど」

「知っているのか?」

「これでも芸鼓の端くれだからね。名前ぐらいは知っているよ。最近は人間に生まれ変わったとか。噂ではね」






 翌朝。神社の賽銭箱に響くぜにの音。鈴緒すずのおについた鈴ががらがらと音を立てていた。


「見つかりますように」


 願掛けをする女。間違いない、昨日の奴だ。オレの後をつけて来たのか、偶然ここへ辿り着いたのかは定かじゃないが、昨日の出来事を満に話したら、大目玉を食らった。


「人間に自分から姿を見せるなんて。ほとんどの輩には見えちゃいない。けど、あの子にはお前さんの姿、見えていたんだろう?」

「そうらしいな」

「だったら、何で?」

「まあ、あんな小娘ごときにやれることなんざ、たかがしれているさ。なんせ、他の人間には見えちゃいない。言っても気味悪がられるのがオチだ。おまけに、迷信に怪談……全部人間が作り出した空想の産物だが、オレたちと距離を置くには都合がいい。皮肉なもんだ」


 女はかばんの中から何かを取り出した。白い布っ切れを取っ払い、出て来たのは……。


「オレの煙管……」


 オレは思わず身を乗り出した。満の制止を振り切り、女の前に立つ。


「あなたは昨日の……すごい、もう叶っちゃった!」

「……わざわざ返しに来たのか?」

「あなたにとって大事な物のような気がして。お礼も言いたかったんです。昨日はありがとうございました」


 オレは煙管を受け取り、青空にかざした。羅宇らうに描かれた金魚が泳ぎ始める。


李下李の木の下には近寄らないことだ」

「李⁉」


 女は見上げ、目を見開く。


「取らないですよ! というか、どうして神社に……」


 李下りかに冠を正さず――


 人ならざる者――オレたちアヤカシにとっては別の意味がある。

 中でも人間の魂を食らおうとする下等な輩どもは、李を食べることでおのれを保ち、その欲を抑制している。つまり、李下はそいつらの巣窟というわけだ。


 女があたふたしている間に、オレは神社の奥へと姿をくらませた。あの女が、アイツの生まれ変わりなのか、今のオレには知る由もない。

 だが、自分の道を歩いているなら、どこかで幸せに生きているのなら――それでいい。


(了)

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