【No. 086】木蘭を返せ【残酷描写あり】

 錦繍きんしゅうに埋もれた女は、黒檀こくたんの大椅子に深く掛けたまま笑った。


「無礼ですよ、下賤の者たち」


 俺たち赤巾せききん軍――政府が言う「反乱兵」――が色めき立つ。奸婦かんぷ討つべし、の怒声を手を挙げて抑え、俺は先頭に進み出た。


「寵姫の呉木蘭ごもくらん、で間違いないな?」

「卑しい声で名を呼ばないで」


 ああ、再会できたというのに、俺の顔も声も忘れてしまったのか。

 なら名乗るまで。


「赤巾軍隊長、張志毅ちょうしき。迎えに来たぞ木蘭」


 女は唇の端を大きく引き上げた。厚い白粉おしろいがわずかに割れ、ぎらつく紅が毒々しい弓を形作った。


「泥臭い農民風情に知り合いなどおりません」


 女は、これ見よがしに手中の扇をひらめかせた。端に垂れた金糸の房飾りと、かんざし翡翠ひすい玉が共に揺れる。


「田舎者は牛馬の糞にでもまみれていなさい。それが似合いよ」


 頭の芯がかっと燃えた。手が勝手に動いた。

 気付けば女の胸に、剣が深く刺さっていた。血の臭いに歓声が上がる。

 濃い眉墨の下、丸い目が俺を見た。紅の唇が激しく動く。

 何も言わず、何も聞かず、俺は剣を抜き、今度は腹を貫いた。






 呉木蘭は美しかった。心根の善良さが顔の造作に現れた、優しい娘だった。

 小さな商家に生まれた彼女は、父母にも客にもよく尽くした。上客には細やかに用を聞き、俺のような貧乏人もおろそかにせず、いつもやわらかく笑っていた。多くの男が求婚したが、なぜか彼女は俺を選んでくれた。

 だが婚儀の前月、彼女は皇帝の寵姫として召し上げられた。

 皇帝は広大な後宮に千人の美女を集め、日々享楽に耽っているとの噂だった。千人の妻がいて、なぜ千一人目が必要なのだ。

 出立の前夜、俺は木蘭に木の簪を渡した。梅の花が彫られた、俺が買える精一杯の品だった。


「私ひとりが行けば、父も母もいい暮らしができるんです。志毅さんも、誰かいい人を見つけてくださいね」


 俺は嘆いた。木蘭に背をさすられつつ、獣じみたうなり声で、ただ泣いた。

 翌朝、輿入れの馬車を見送りつつ、俺は心で叫んだ。

 木蘭を返せ、俺の婚約者を返せ、と。






 翌年、国を飢饉が襲った。

 麦も稲も枯れ川底はひび割れ、路傍に干からびた遺体が転がる中、皇帝はなおも奢侈しゃしに興じているとの噂だった。後宮には白い米が溢れ、寵姫たちの食べ残しを肥った犬猫が漁っている、などと言う者もいた。

 どうせ飢えて死ぬなら、逆賊として討たれても元々だ――と多くの者が考えた。隣村の地主が旗を揚げれば、俺も含めた自暴自棄の飢民がすぐ集まった。赤い頭巾を被り「赤巾軍」を名乗った俺たちは、都を包囲する頃には十万まで膨れ上がっていた。

 寄せ集めの軍勢の心は、皆同じではない。腹一杯食いたい者、財貨を奪いたい者、一軍の長になりたい者――だが俺の心は常に不変だった。

 木蘭を後宮から救い出す。他は何もいらなかった。






 守城戦の最中でさえ、皇帝は美食と美女に現を抜かしているようだった。近郊での噂は、いやに仔細だった。

 曰く、寵姫呉木蘭が、日に二度も砂糖菓子を作らせている。

 曰く、呉木蘭が、絨毯の柄が嫌いと言ってすべて織り直させた。

 曰く、皇帝を諌めた尚書官しょうしょかんを、呉木蘭が讒言ざんげんし処刑させた。

 皇帝と後宮の悪評は、常に呉木蘭の名前を伴っていた。

 信じられなかった。何者かが彼女の名を騙り、悪名を流しているのではないか。

 部下、同僚、果ては飯炊き女までが語る噂を、俺は聞いた端から忘れた。忘れようとした。






 再会できた呉木蘭は、噂通りの女になりはてていた。

 虚飾の末、いま俺の足元で、錦繍に包まれた血まみれの肉塊と化した。

 珊瑚や鼈甲べっこうを翡翠玉で彩った簪が、巻かれた黒髪に何本も刺さっている。飛び散った血を拭いながら、一本一本抜いていく。すべて抜くと髪はばらばらになった。

 木の簪は、ない。

 宮殿の奥で火の手が上がる。各部屋では赤巾の同志たちが、高価そうな調度品や陶器を持ち出していた。

 俺は侍女を剣で脅し、木蘭の自室に案内させた。箪笥たんすと寝台だけの、飾り気ない白木の部屋だった。箪笥を探れば、一番上の抽斗ひきだしには下着しかない。二段目も三段目も無地の服だけだ。

 すべて開けた。木の簪は見当たらない。

 遺体から抜いた簪だけを懐に、後宮を去る。背後では朱の柱と白い壁が、煙と炎に呑まれようとしていた。






 俺はいちど郷里に戻り、木蘭の生家を訪れた。宝石の簪は少なからぬ金にもできる。すべてを話し、遺物は父母に託すつもりだった。


「志毅さん。ご活躍は聞いていますよ」


 客間で茶を振る舞われた。

 器を出す袖の生地が、いやに厚く滑らかだ。茶も、渋味がまろやかで香気が強い。


「木蘭が送ってくれた茶葉なんです」


 母親が笑う。見れば調度品も、都からの手当だけでは賄えない豪華な物が増えている。


「その服もですか」

「ええ、肌触りがよくて重宝しています。私たちが豊かに暮らせるのも、あの子のおかげです」


 心配していた。木蘭亡き後、家族は困窮しないかと。

 だがあの女は、一族の益のために動いていたのだ。吸い上げた富を縁者で独占しようとしたのだ。

 頭の芯が、かっと燃えた。


 気付けば、手中に血まみれの剣があった。初老の男女が足元で事切れている。

 金目の物をかき集め、家に火を放った。あの可憐な娘が生きた家は、瞬く間に炎に包まれた。






 戦後の喧騒の中、都の臨時政庁に戻った俺は、ひとりの宦官かんがんの訪問を受けた。後宮で雑用をしていた者だという。

 渡された小箱に、手紙が入っていた。


「張志毅様


 赤巾軍に貴方がおられると聞きました。天を衝く民の怒り、私も知っております。

 大恩ある皇帝陛下も、我が子のように可愛がってくださった皇太后様も、後宮の姫たちも、このままでは皆、殺されるでしょう。


 私は考えました。どうすれば皆様を救えるか。

 そして決めました。私は皆様に代わり、すべての罪と憎しみを被ります。


 志毅様。

 私を前にしたなら、迷わず殺してくださいませ。

 醜き女ひとりの汚名で、皆様の名は守られます。

 私は何も求めません。ただ、両親が末永く豊かに暮らせさえすれば。

 これから老いる父母を、どうかお守りください。


 呉木蘭」


 手紙の下に木の簪がある。見覚えある、素朴な梅の花が彫られていた。

 木蘭を返せ。木蘭の魂を返せ。木蘭が守ったものを返せ。

 行き場をなくした言葉が、声をなさない。俺は獣じみたうなり声で、ただ、泣いた。

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