【No. 086】木蘭を返せ【残酷描写あり】
「無礼ですよ、下賤の者たち」
俺たち
「寵姫の
「卑しい声で名を呼ばないで」
ああ、再会できたというのに、俺の顔も声も忘れてしまったのか。
なら名乗るまで。
「赤巾軍隊長、
女は唇の端を大きく引き上げた。厚い
「泥臭い農民風情に知り合いなどおりません」
女は、これ見よがしに手中の扇をひらめかせた。端に垂れた金糸の房飾りと、
「田舎者は牛馬の糞にでもまみれていなさい。それが似合いよ」
頭の芯がかっと燃えた。手が勝手に動いた。
気付けば女の胸に、剣が深く刺さっていた。血の臭いに歓声が上がる。
濃い眉墨の下、丸い目が俺を見た。紅の唇が激しく動く。
何も言わず、何も聞かず、俺は剣を抜き、今度は腹を貫いた。
呉木蘭は美しかった。心根の善良さが顔の造作に現れた、優しい娘だった。
小さな商家に生まれた彼女は、父母にも客にもよく尽くした。上客には細やかに用を聞き、俺のような貧乏人も
だが婚儀の前月、彼女は皇帝の寵姫として召し上げられた。
皇帝は広大な後宮に千人の美女を集め、日々享楽に耽っているとの噂だった。千人の妻がいて、なぜ千一人目が必要なのだ。
出立の前夜、俺は木蘭に木の簪を渡した。梅の花が彫られた、俺が買える精一杯の品だった。
「私ひとりが行けば、父も母もいい暮らしができるんです。志毅さんも、誰かいい人を見つけてくださいね」
俺は嘆いた。木蘭に背をさすられつつ、獣じみたうなり声で、ただ泣いた。
翌朝、輿入れの馬車を見送りつつ、俺は心で叫んだ。
木蘭を返せ、俺の婚約者を返せ、と。
翌年、国を飢饉が襲った。
麦も稲も枯れ川底はひび割れ、路傍に干からびた遺体が転がる中、皇帝はなおも
どうせ飢えて死ぬなら、逆賊として討たれても元々だ――と多くの者が考えた。隣村の地主が旗を揚げれば、俺も含めた自暴自棄の飢民がすぐ集まった。赤い頭巾を被り「赤巾軍」を名乗った俺たちは、都を包囲する頃には十万まで膨れ上がっていた。
寄せ集めの軍勢の心は、皆同じではない。腹一杯食いたい者、財貨を奪いたい者、一軍の長になりたい者――だが俺の心は常に不変だった。
木蘭を後宮から救い出す。他は何もいらなかった。
守城戦の最中でさえ、皇帝は美食と美女に現を抜かしているようだった。近郊での噂は、いやに仔細だった。
曰く、寵姫呉木蘭が、日に二度も砂糖菓子を作らせている。
曰く、呉木蘭が、絨毯の柄が嫌いと言ってすべて織り直させた。
曰く、皇帝を諌めた
皇帝と後宮の悪評は、常に呉木蘭の名前を伴っていた。
信じられなかった。何者かが彼女の名を騙り、悪名を流しているのではないか。
部下、同僚、果ては飯炊き女までが語る噂を、俺は聞いた端から忘れた。忘れようとした。
再会できた呉木蘭は、噂通りの女になりはてていた。
虚飾の末、いま俺の足元で、錦繍に包まれた血まみれの肉塊と化した。
珊瑚や
木の簪は、ない。
宮殿の奥で火の手が上がる。各部屋では赤巾の同志たちが、高価そうな調度品や陶器を持ち出していた。
俺は侍女を剣で脅し、木蘭の自室に案内させた。
すべて開けた。木の簪は見当たらない。
遺体から抜いた簪だけを懐に、後宮を去る。背後では朱の柱と白い壁が、煙と炎に呑まれようとしていた。
俺はいちど郷里に戻り、木蘭の生家を訪れた。宝石の簪は少なからぬ金にもできる。すべてを話し、遺物は父母に託すつもりだった。
「志毅さん。ご活躍は聞いていますよ」
客間で茶を振る舞われた。
器を出す袖の生地が、いやに厚く滑らかだ。茶も、渋味がまろやかで香気が強い。
「木蘭が送ってくれた茶葉なんです」
母親が笑う。見れば調度品も、都からの手当だけでは賄えない豪華な物が増えている。
「その服もですか」
「ええ、肌触りがよくて重宝しています。私たちが豊かに暮らせるのも、あの子のおかげです」
心配していた。木蘭亡き後、家族は困窮しないかと。
だがあの女は、一族の益のために動いていたのだ。吸い上げた富を縁者で独占しようとしたのだ。
頭の芯が、かっと燃えた。
気付けば、手中に血まみれの剣があった。初老の男女が足元で事切れている。
金目の物をかき集め、家に火を放った。あの可憐な娘が生きた家は、瞬く間に炎に包まれた。
戦後の喧騒の中、都の臨時政庁に戻った俺は、ひとりの
渡された小箱に、手紙が入っていた。
「張志毅様
赤巾軍に貴方がおられると聞きました。天を衝く民の怒り、私も知っております。
大恩ある皇帝陛下も、我が子のように可愛がってくださった皇太后様も、後宮の姫たちも、このままでは皆、殺されるでしょう。
私は考えました。どうすれば皆様を救えるか。
そして決めました。私は皆様に代わり、すべての罪と憎しみを被ります。
志毅様。
私を前にしたなら、迷わず殺してくださいませ。
醜き女ひとりの汚名で、皆様の名は守られます。
私は何も求めません。ただ、両親が末永く豊かに暮らせさえすれば。
これから老いる父母を、どうかお守りください。
呉木蘭」
手紙の下に木の簪がある。見覚えある、素朴な梅の花が彫られていた。
木蘭を返せ。木蘭の魂を返せ。木蘭が守ったものを返せ。
行き場をなくした言葉が、声をなさない。俺は獣じみたうなり声で、ただ、泣いた。
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