【No. 078】私信
親愛なるアーニャへ
拝啓
ずっと手紙を出さないでいてごめんなさい。あなたから綺麗なキリル文字の筆記体で手紙がきた時は、それはそれは嬉しかったのだけれど、読むのが難しくて母に手伝ってもらい、書いた返信を翻訳してもらおうと思っているうちに引越しが決まって、バタバタしているうちにあなたの住所も分からなくなってしまいました。
あれからもう随分経ちます。もう舞台で踊っているの? もしかしてもうソロを任されていたりするのかしら。そちらではバレエダンサーは公務員ですから、世界最高と称されるバレエ団で踊るために数々の厳しい試験を課されますけど、あなたならクリアできたことと思います。私達のクラスで一番バレエが上手なアーニャなら。
私はバレエの道には進みませんでしたが、公務員を目指しています。なんと教員です! 実習で高校生の授業を担当することになり、泣きそうになりながら計画を練っています。私は勉強が得意な方ではないのに。
勉強が得意ではないのに教員を目指しているの? あなたは驚かれるかもしれません。なんと資本主義の染み渡ったここ日本では、お金さえ払えばいつまでも夢を追いかけることができるのですよ。そちらでは馴染みがないでしょうが、アマチュアバレエなるものも浸透していて、お世辞にも上手とは言えないダンサーがパドゥドゥを踊っています。要はプロレベルではなくとも、趣味として続けて良いのです。教員を名乗るには試験に受かるか、私立学校に採用される必要がありますがね。それでも、予科に入るのにさえ体型審査があるバレエ学校とは、えらい違いです!
日本の学校では今、『個性の尊重』がスローガンとして掲げられています。その
「私だけ可愛くない」
そう言って母を心配させたことがありますが、それは卑下ではなく、白い肌に細長い手足のあなた達のなかに、黄色い肌に胴長の私が混じっている、その異物感を、幼い私はうまく表現できなかっただけなのです。
異物であることは、疎外を意味しませんでした。嫌な思いをしたことは一度もありません。私の稚拙な表現を先生は惜しみなく誉めてくれたし、発表を見にきたあなたのお母さんが目に涙を浮かべて、やっぱり惜しみなく誉めてくれたこともありました。
"
と尋ねてきたおじさんも、子どもへの親切心と愛情に溢れていて、おじさんの言葉をろくに理解もしていない私となんとかコミュニケーションをとろうとしてくれた。
私が見たものは、中世における宮廷の生活よろしく氷山の一角にすぎず、異邦人の子どもが
あなたと一緒に夢中になって見た舞台で踊っていたプリマ、隣のクラスのあの小柄な女の子、そして何より私によくしてくれた
私が見たものは嘘だったのでしょうか? ある意味ではそうなのかもしれません。専門家やら研究家やらの方がよっぽど体系的に、網羅的に、実態を把握しているのでしょう。
ネットの過激な言葉に傷つくなんてバカのやることです。好き勝手な書き込みは私が負う傷に責任をとってくれない。だから尻尾巻いて逃げ出しました。もう見ないことにしたのです。国名を二つ、ミュートワードに設定しました。尻尾巻いて逃げながら、傷つかないよううずくまって、あんまりな言葉には心の中で中指を立て、人道支援にささやかな寄付をする。私にはそれしかできません。
政府に逆らう芸術家を英雄と呼ぶ人がいます。そうなのかもしれません。でもあなたがその列に加わらないからといって、それは責められることではない。だってあなたはまだ若く、その国で生きていかなくちゃいけないんだから。プリマや小柄な女の子や、私のニャーニャさんや、他にも大勢の人達と一緒に、そこで生きているんだから。あえてこう書きたい。命が一番大切です。
仮にも教員を目指しているので、こういうことを表に出したことはありません。私は政治の話ではなく、私の友人アーニャの話をしているのですけど、どう捉えられるかわからないものを表明する気にはなりません。私とあなたの思い出は二人だけのもの。他の人に説明するものではありません。
あなたとの再会を思い描くことがあります。あなたがプリマドンナとして来日するのです。私と観客はあなたに惜しみない拍手を送ることでしょう。体重制限のために大好きなおやつを我慢した幼い日のあなたへ、厳しい学校生活を乗り越えたあなたへ、困難な時代に芸術を
眩いライトに照らされた舞台、もうすっかり大人になった私とあなた、劇場の熱気、リノリウムの床の臭い、チュールの衣装に、ドーランと付け睫。花を手渡す小さな子ども。過去に見たもの、夢見た世界、それ以上のもの。
"
そう叫ばせてください。明けない夜がないというのなら、きっとそんな日もくるはずだから。これが私の祈り。届くことのない私信。いつか、そう遠くないいつか、再会できることを夢見ています。
敬具
いつまでも、あなたの友達
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