5月3日 公開分

【No. 047】あなたのためにうまれてきたの【残酷描写あり/暴力描写あり/ホラー要素あり】

 一番最初に命を奪う経験を与えてくれたのは、蟻だった。

 それは、さほど珍しい事ではないだろう。恐らく殆どの子供が辿る道筋であるし、事故にせよ故意にせよ、一度も蟻を踏み潰した事のない人間の方が少ないのではないだろうか。

 そこから更に進み、蟻の身体を摘み上げ、そこから伸びる六本の細い脚を千切ってみたことのある人間はどれほどいるだろう。

 それもきっと、珍しい事ではないはずだ。幼少期特有の残虐性は蟻をバラバラにし、蟻の巣を水没させる。

 大抵の場合、そういった行動は歳を重ねるごとに自然となくなっていく。善と悪、生と死、そういった概念を学習し、生き物を殺す事はいけない事なのだと理解する。

 だけれど私は理解して尚、踏み込んだ。悪い事なのだと自覚はしていた為、誰にも見付からぬよう慎重に。

 蟻からミミズに、ミミズからヤモリに、ヤモリから、猫に。初めて野良猫を殺した時など、溢れ出る血液の熱さに涙した程だった。生命力に満ち溢れ、内臓をさらけ出しながらも必死に浅い呼吸を繰り返す生きもの。


 あぁ、これが人間であったなら、どれほどの感動をもたらしてくれる事か。そう夢想せど、一人の人間を殺すなど軽々しく行える事ではない。私は時が来るまで待つ事を決めた。成長し、思い決めた人間をこの手で殺められる瞬間を。それを実行に移すだけの力を得るまでの間を。


 幸いにして美しい母に似て中性的な私の外見は、男子にとっても女子にとっても親しみやすいものであったようだ。彼らの求める事は手に取るように分かったから、日常生活を送るのは随分と楽だった。小中高、そして大学と私の周りには男女問わず常に数人がいたし、その事は両親の目から私を綺麗に隠してくれた。誰にでも分け隔てなく接する私を、誰も疑いはしなかった。


 そうして信用と信頼を得た私は、大学三年の夏、ついに悲願を達成する事となる。


 彼女は勤勉な大学生であった。講義のレポートの為に図書館を訪れた私と、同じ本に手を伸ばしたのだった。すぐに引っ込められた手に、本棚から抜いた目当ての本を乗せてやると、彼女は驚いたように私を見て、それから恥ずかしそうに顔を伏せた。

 あの当時の私の周囲にいた女子たちとはかなり毛色が違っていて、初めは珍しさから観察を始めたように記憶している。その内、よく目が合うようになり、連絡先を交換した。隠しきれない好意が滲み出る彼女は、どんどん生命力に満ち溢れていくようだった。私の為に輝いてくれる彼女は、誰よりも私の心を揺さぶってくれるだろう。


 八月の半ば、私は彼女と連れ立って森へと出掛けた。通っている大学からは電車で二時間程度、無人駅から目の前に続く舗装されていない道を歩く。朝早くに家を出た事もあり、しゃわしゃわとクマゼミの鳴き声が降り注いでいる。直射日光は生い茂る木々によって遮られ、僅かに吹く風が汗ばんだ肌を撫でた。

 道を外れ、小さな川が流れているのを見付けた彼女は、その近くへ行くと平らな岩の上にハンカチを敷く。「お弁当を作ってきたからここで食べない?」と振り返って微笑んだ彼女の喉元を、一晩かけて研ぎ澄ませた銀色が通り過ぎ、そして温かな血飛沫が私を満たした。

 パクパクと口を動かし、喉を押さえていない方の手を私に伸ばす彼女の顔は、美しかった。何故?どうして?一体何が起きているのか分からないといった顔をしながら、どうにか助かりはしないかと懸命に傷口を縫い止めようとする。真っ赤に染まった彼女の手は、勢いよく噴き出す血こそ止められても、じわじわと流れ出る命の欠片を拾い集めることは出来ない。

 荒く、声にならない声と共に必死で喘ぐ彼女を見下ろしながら、私はこれ以上ない程に満たされていた。彼女は息絶えるその瞬間まで私から目を離さなかったし、私もその少し茶色い両の目を最期まで見つめていた。


 彼女の死体は森に埋めた。彼女の服も、鞄も、お弁当も、何もかもを土の下に。下見をした際に置き去りにしていたスコップで穴を掘っている最中、何匹もの虫が彼女を迎え入れる準備をしていた。これは彼女だけの墓ではない。一人きりで眠らずに済むのは幸せな事だ。私は彼女の上に被せた土を、にこやかに踏み締めた。


 その日から今まで、私は自らの意思で何かを殺した事はない。彼女の輝きを見て以来、世界が色褪せて見えるようだった。それでも私は私を演じ続けていた為、社会人になって二年ほどして、交際していた女性と結婚した。

 彼女はどこか欠けてしまった私の事を随分と気にかけてくれていて、そんな必要はないのだと笑いながらも気遣いを受け入れていた。彼女の腹が大きくなった時、私は私の中に、またあの時の感情が蘇ってくるのを感じていた。母胎という、生命の神秘を目の当たりにしたせいなのだろうか。そんな私の疑問は、彼女の股を割って赤子が産まれた瞬間に氷解した。


 泣き叫ぶ我が子の声は、彼女の声だった。あの日私が殺した、彼女の声だった。抱いてあげてくださいと差し出された我が子を胸に抱き、その四肢をもがないようにするのに必死で微笑んだ。

 泣き叫ぶ我が子の声が、少し茶色い両の目が、どうして殺してくれないのと、私に、言っている。

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