【No. 046】淡色のひと
昨日の雨もなんとやら。
春の欠片がちらちらと、陽の光に踊らされる季節。
天気が良かったとか、週末の予定が空いていたとか、そんな理由は後付けだ。今すぐ外へ、行きたい。
また、予感があったのだ。
毎年、ふとした切欠に沸いてきて、その度、胸騒ぎに突き動かされてマンションを飛び出す。
桜の幹の下でレジャーシートを広げて、ラッピングしたサンドイッチを片手の酔いどれ企業人に、家族や親戚の集まり。明るみに生きている人々をかき分けながら、そういったものに縁の薄い僕は、桜色に埋め尽くされそうになっている、若干湿った土の道を歩いた。
飯田橋から四谷にかけ、満開を越して散り際に差し掛かってきた桜の花を、視界の端に捉えつつ。
僕は多紀さんを探していた。
はっきり言おう。会えるわけがない。
既に辞めてしまった、あの会社でしか顔を合わせることがなかったのだ。それに僕は一度、やんわり断られているじゃあないか。望みはない。
いつも通り、胸騒ぎを抑え込んで、諦めがついた所で、引き返そうとした。適当に買い物でもしよう。
焼き鳥屋で串を買って、缶のちょっとしたワインでも……それなのに。
お濠に沿って並ぶ、川沿いの桜の幹に。
彼女が。
白い服の似合う、ソメイヨシノみたいな、多紀さんが。
やめておこう、と思った。
しかし、川を見つめていた彼女は振り向き、不意に僕と目が合った。嫌な顔をされるのを恐れていたが、こちらに一礼を返してきたのだ。それだけでも十分だったが、僕は近くに寄って、声をかけることにした。欲張りめ。
「小山くん、お久しぶり、元気してた?」
綺麗な人だ。
でも、僕はその人の顔が見られなかった。
何年も経っているのに、容姿は変わったように見えない。
年齢を勘違いしていた初対面の時以来、僕にはくん付けのままだ。一応こっちが年上なんだけど、なんか誤解されやすいから仕方ない。
「小山くんはちょっと変わったねえ。見た目が」
そうですね。二歩三歩と、おじさんに近づきましたよ。
「今はどこに勤めてるの?」
ああ、うん、皇居のすぐ傍の……ね。
多紀さんは矢継ぎ早に質問を飛ばしてきて、僕はそれに答えていった。
「ふんふん、そぉー」
頷いてくる。
「多紀さんは……」
ふと風が吹いて、桜の花びらを浴びた。
彼女はそれを遮る様子もなく、また聞いた。
「それで、社内行事ばっかりで、忙しいのね?」
遠慮は無い。
繰り返すけど、一応こっちが年上なんだけどな……。
僕はあの時、衣服掛けの細長いロッカーを叩いて、彼女に告白した。壁ドンならぬ、ロッカー、ドン!
そして、今治タオルみたいに柔らかく包まれて、断られた。
砕け散った僕が、負け犬が、ロッカールームからとぼとぼ出て行く時。
あの時。ずっと、見間違いだと思っていたけれど、その記憶は年数を経て確信に変わっていった。部屋に残った多紀さんが、ロッカーに手をついて、膝から崩れ落ちるように見えたのだ。
僕は唾を飲み込んで、切り出した。
「多紀さん、あのさ。あの時……!」
「小山くん」
「はい」
「私、結婚してるの」
「はあ、え」
ええっ、結婚?
奥さんなのですか?
「知らなかっただろうけど。もう何年も経ってるんだよ」
指輪は着けない主義なんですね。
なんかもう、繕っていたものが一気に崩れた。
「その、あの、幸せな……なのかぁ」
はぁぁ、おしあわせにね……。
「小山くん。まだ気持ちが残っているのは分かるけど。だめだよ。諦めなきゃ。幸せになるのは小山くんなんだよ」
「ああ……」
頭が回らない。ここから消え去りたい。
「それじゃあね。会えてよかった」
彼女は短く手を振ってバッグを肩にかけ直し、歩いて行ってしまった。
もう振り向きもしない。高めのヒールも似合ってる。
ああ……。
多紀さんが、飲んだくれ・物見遊山・観光客共の雑踏に消えてしまってから、僕の頭はぐるぐる回り、むなしく当時の記憶が思い出された。
あの頃の彼女の襟に付いていた、鮮やかなリボンのバッジ。僕に何か伝えようと、ロッカールームでずっと待っていた……ように思えた……、こともある。週末の帰り際にいつも浮かべていた、思い詰めたような、この世の終わりみたいな表情。帰宅前に仕事を押し付けられないようにするためと、当時は思っていた。
さっき桜の花びらを浴びたとき、彼女は避けなかった。
髪は揺れなかったし、花びらは……。
彼女を通り抜けて、吹き転がっていった?
そういえば、昨日の雨で柔らかい土の上だったのに、多紀さんの足跡が無い。バランスも崩さず、水たまりの残ったこんな所を、ヒールの高い靴で、精一杯の見栄を張って。
あの頃でも想像できた。
多紀さんは、言葉にできないような重い病気を抱えていて。週末はいつも病院で検査を受けていたのだ。
胸のバッジはその病気に関わる人であることを示すもの。
ロッカーで崩れ落ちたのも。
僕の告白を断ったのも。
一緒に歩んでゆける確証が、無かったからだ。
僕は、輪郭も朧気な、もはや見られない笑顔を思う。そうだ、笑顔が綺麗ということだけ、覚えている。どこか少女みたいな所のある、頑張って生きてきた大人の女性の微笑みだ。
わざわざ、会いに来てくれるなんて……。
そういう所も、好きだったよ。
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