【No. 041】桃の花

 お茶でもどうぞ、と彼女は言った。

 美しい女性であった。近づくとほんのり甘い香りのする、不思議な女性でもあった。

 彼女は桃子と名乗り、「お会いできて嬉しい」と話した。

 しかしながら耕作はその時、彼女の美しさに対する正当な評価ができるような精神状態にはなく、ほとんど泣きべそをかきながら彼女にすがりつくような有様であった。


「立花養助氏の遺したものを、ちりいっぺんでもお持ちであるなら見せてほしい」

 耕作は彼女にそう頼んだ。


 数年ほど前に海の向こうで流行り始めた病が、この国で発見されたのはまだここ一年の話であった。それでもバタバタと人々は倒れていき、そして死んでいった。国中の科学者が病を研究し、対策をひねり出そうとしていた。耕作も若輩ながらその一人だ。

 そして立花養助という男は、数か月前まではその第一人者と言われた若き天才科学者であった。彼がこの世を去るまでは。


「僕は鈴木耕作と申します。立花氏の研究を支持する若輩の研究者です」

「あら……私に研究なんて難しい話をしても無駄よ。あの人にどんなに説明されてもわからなかったもの」

「それでもあの方がどれほど素晴らしい研究者であったかはご存知でしょう。僕は件の病の特効薬をお作りになるのは絶対にあの方だと思っていました」


 熱いお茶を出しながら、桃子は「ごめんなさい。本当にあの人のお仕事のことはわかりませんの」と謝った。

「構いません。ただ、僕はそう思っていたのです。立花氏が亡くなったことは悲劇でしたが、あの方が示していた方向へ進めばきっと打開策があると信じていました。しかし今では、多くの権威ある科学者たちは『立花養助の提示していた方向性は捨てろ』と言っています」

「あらまあ。なぜ?」

「それは、彼が自ら命を絶ったと言われているからです」

 桃子は顔を上げる。それから瞬きをして、「お茶をどうぞ。冷めてしまうわ」と促した。


 立花養助は車に乗ったまま海に落っこちて死んだ。事故として処理されたものの、ブレーキを踏んだ跡もなく、ぐんぐんスピードを出して突っ込んでいたため、自殺であるとまことしやかに噂されていた。

 研究が上手くいっていなかった、方向性を間違えていることに気付き絶望して自死に至った。事態は急を要しており、一人の優秀な科学者が“ダメだ”と悟った道に割くほどの時間も人員も金もない。

 それが、立花氏の研究に後継ができなかった主な理由である。

「しかし僕は、彼の示した道が間違っているとは思えないのです。何より、自分の研究が間違っていたからと言って命を絶つなんて科学者のやることじゃない。間違っていたなら間違っていたと公表するのが科学者の責務だ。あの方はそんな無責任をやるようなひとではない」

 桃子はずっと黙っている。「あ、あなたはどのようにお思いになりますか」と尋ねた。立花養助の恋人であった彼女だから、そう尋ねてみたかったのだ。


 彼女は背筋のぴんとした美しい姿勢でお茶を一口飲んで、「さあ……」と言った。

「あの人の研究が上手くいっていたかどうか、私にはわかりません。あの人は結果が出るまでは物事が良いか悪いか判断しない人でしたから。だけど、」

 ほんの少し視線を彷徨わせる。微かに笑い、「自ら命を絶ったなんて、そんなことはありえないでしょうね」と吐息交じりの声で話した。

「いつも手紙に『またお会いしましょう』と書いて寄越していましたから。私はそれが嘘だとは思いません」

「それだけですか?」

「だってあの人、死んでしまったのですもの。信じたいものを信じて生きていくだけですよ、人間は」


 湯呑みを置き、桃子はゆっくり瞬きをした。

「残念ですけど、私はあの人の研究のことを何も知りませんし、彼のものといったら私に書いて寄越していた手紙くらいしかないのです」

「……失礼を承知で申し上げますが、そのお手紙を見せてはいただけないでしょうか」

「いいですよ。恥ずかしいのはあの人ですからね」

 そう言って彼女は書斎から紙の束を持ってきた。


「……ここに書いてある、『ぼくの荷物を君の家に置いておくことを許してほしい』とは」

「ああ。どうもそんな暇はなく亡くなってしまったようです。あの人が私の家に荷物を持ってくることはありませんでした」

「そうですか……」


 執念深く全ての手紙を読み込んだが、研究に関することは一文も書かれていなかった。耕作はがっくりと肩を落としながら、お暇することにした。

 家の外まで出てふと、庭にある大層立派な桃の木が気にかかった。来るときには気づかなかったが、満開である。

「立派ですね」

「ああ。私の名付け親のようなものですよ。先祖代々あの木を大切にしていてね」

 なぜだか目が離せなくて、じっとそれを見つめた。


「桃子さん、決して気が狂ったわけではないのですが、土を掘ってもよろしいですか?」


 桃の木の麓、一心不乱に掘り進め――――やがてスコップの先に、カツンと何か金属のようなものが当たった。






 鈴木耕作から手紙が届いた。桃子はお茶の葉を蒸らしながら、封を開ける。内容は、簡潔にまとめればこうだ。

『立花養助氏の遺した論文は完成こそしてはいなかったが、しかし素晴らしいものであった。やはり彼の研究の方向性は間違えていなかった。生きてさえいれば、彼はこの病に対する特効薬を作るに至っただろう。そしてそれは自分たちが引き継ぐ。

 そして彼が自ら命を絶ったというのも、大いなる勘違いであろうと思う。論文とともにあるものを見つけたので、これは貴女にお返しする。恐らくは貴女が持っているべきものだろう。

 どうぞ、体に気を付けてください』


 桃子は手紙と一緒に封筒に入っていた指輪を、何も言わず左手の薬指につけて日の光に透かした。キラキラと輝く銀色の指輪には、二人のイニシャルが入っている。

 そっと指輪にキスをした。

「お久しぶりね、養助さん。ずっとお会いしたかったわ」

 微笑んで、頬に涙が流れた。

「またいつか、お会いしたいわ」

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