【No. 040】2,500文字後に食べられるカニ

 ――とあるホテルに併設されたレストランにて――


 あら、見たことがある顔がいるわね。

 わたしには視力が無いだろうって? 失礼しちゃうわね。ちゃーんと2つの黒い目で、人間の姿を確認することはできるのよ。それに記憶だってちゃんとあるわ。いま、レストランの椅子に座った男の子。彼が小さいとき、わたしは一度あの子に捕まったことがあるのよ。


 ほら、わたしたちって身体が小さいうちは海の浅いところ、海と陸の境目に隠れて暮らしているじゃない? でもそういうところって、大きい魚は追ってこられないけれど、人間たちは簡単に入ってこられるのよね。だから、わたしも一度、そんな浅瀬で遊んでいる人間たちに捕らえられたの。

 人間の男の子は無邪気なものね。いろいろな海の生き物――わたしの仲間もいれば、敵もいたわ――を素手で捕まえては、透明な容器に水ごと入れて、じーっと観察しているの。もちろん、わたしも彼らを見つめ返したわ。捕まったこと自体はどうにもならなくても、彼らがわたしをどうするつもりなのか、見極める必要があるのでね。


 しばらくわたしを見つめていた男の子は、見知らぬ機械――人間たちの会話によると、かめらというらしいわ――をわたしに向けて、何回かカシャ、カシャと音を立ててからわたしをそっと海に放してくれた。わたしが元々いた場所からは少し離れていたけれど、浅瀬はわたしの庭みたいなもの。元居た場所に戻るのは簡単なことだったわ。

 なんであのとき、わたしをすぐに逃がしてくれたのかはわからない。でも、わたしはちょっと捕まっただけで、海の中に居たら見られなかったはずの景色を見ることができた。短い間だったけれど、楽しい時間だったわ。


 いま、椅子に座っている男の子は、間違いない。あのとき、わたしを捕まえ、また逃がしてくれた男の子だわ。あの日からだいぶ時間は経っていると思うのだけれど、人間もわたしたちと同じで、面影が残っているものね。種族が違うわたしが見てもすぐに分かったわ。まさか、こんな形で再会することになるなんて、あの子も考えていなかったでしょうけれど。



 え? わたしは誰なのかって? そうね、ここの建物にいる人間たち――主に白い服を着た人たち――からは、ズワイガニと呼ばれているわ。なんでも、わたしのことは傷つけたくないらしくて、海で捕まってからここに来るまで、とても丁寧に運ばれてきたのよ。だから、今でもこんなに喋れるくらい元気なの。わたしが暗い箱から出された瞬間目が合った人間は、わたしが10本の足で身じろぎをしたとたんに「活きがいいなぁ」と言って喜んでいたわ。だからわたしが元気で、ケガ無くここまで来ることが人間たちの目的だったようね。


 ええ、もちろん、それ以上のことも察してはいるわ。白い服を着た人間たちは、わたしを調理する存在。そう、これからわたしは人間たちに加工されて、食べられる運命にあるっていうことをね。

 元々、二回目に人間に捕まった時――あれは手でつかみ取りなんて生易しいものじゃなくて、網に絡めとられて身動きができなくなったところをすくい上げられたのだけれど――から、人間に食べられることは覚悟していたわ。海のなかは弱肉強食。その字の通り、弱いモノは強いモノに食べられる肉となるのが決まりごと。

 わたしはたまたま、捕まった相手が陸に生きる人間だったというだけで、海の巨大な魚たちに狙われ、食べられる同類たちをたくさん見てきたわ。きっとわたしもいつか、ああなるのだろうと予想していたもの。人間たちに食べられることは全然怖くないわ。


 そもそも、海のなかだったら、捕まった瞬間に食べられてしまうもの。人間たちの扱いは、それに比べて丁寧すぎるくらいだわ。網からわたしとその仲間たちを取り出して、狭い水の中に押し込める。陸に着いたら氷と一緒に詰められて、わたしが今いる建物まで連れてくる。

 人間たちは陸で暮らす生き物だから、海で暮らすわたしたちを食べるのにも一苦労のようね。わたしがまだ小さい頃、男の子に捕まったことはあるけれど、逃がされた理由が今ならわかる。人間たちにとって、当時のわたしは食べるのには小さすぎたのね。だって、いま男の子は大きくなったわたしを食べようとしている。大きくなったら食べるつもりで、小さいわたしを逃がしたのでしょう。


 わたしはこうして色々考えることができるけれど、それをあの男の子に伝えるすべは残念ながらないわ。もし可能なら、どうしてあのときわたしを逃がしたのか、本当の理由を聞いてみたかったのだけれど。次にわたしがあの子の目の前に行くときは、もうわたしの意識は無くなっている。

 先ほどから、すぐ脇にある銀色の大きな鍋で、水がぐつぐつ熱せられている。鍋の大きさは、ちょうど足を縮めたわたしがすっぽり入る大きさ。だからわかる。きっとわたしはあの中で茹でられて、そして台の上に並んだ光る刃物で何かの加工をされて、それから男の子の前に出されるんだって。


 わたしは熱い水に入ったことが無いから、あの中に入ってしまったらどれくらいまで意識を保てるのかわからないわ。だから今のうちに、あの男の子の姿を目に焼き付けておくの。

 一度は逃がしたカニを、大きくなってから食べに来た男の子。そもそもあの子は、わたしを逃がした日のことを覚えているのかしら。わたしだって、いつ何をしたのか正確に覚えているわけじゃないわ。だから、もしかしたら覚えていないのかもしれない。でも、いざわたしが目の前に現れたら、思い出すかもしれないわね。逃がしたのがわたし本人かどうかはわからなかったとしても、以前そんなことがあったのだと、隣にいる親御さんに話すかもしれない。


 ああ、白い服の人間に身体を掴まれたわ。わたしはまもなく熱い水の中に入る。ぶくぶく、ここからでもわかるくらいに泡立っているからかなり熱いのでしょうね。それにあの中に入ったら、視界は銀の鍋でいっぱいになって、人間たちの姿は見えなくなってしまう。意識があるうちに、あの男の子を見ることはもう叶わない。残されたわたしにできるのは祈ることだけね。


 あの男の子たちが、わたしのことを美味しく食べてくれますように。

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