【No. 019】あのカレーライスをもう一度

 水曜日と日曜日の晩飯は、カレーライスと決めている。

 水曜日は外食のカレー。日曜日は自炊のカレー。

 なんでも海上自衛隊では、毎週金曜日にカレーライスを食べると聞いたことがある。洋上で乗員が曜日の感覚を失わないようにするためらしい。あやかって私も最初は外食カレーの日を金曜日にしていた。だが、それでは日曜日の自炊カレーと日にちが近すぎると息子に嫌がられて、それで外食カレーの日を水曜日に変更した。


 週2回のカレーライスに付き合わされる息子には申し訳ないが、それもこれも妻のカレーライスをもう一度食べたいという思いからだ。息子にとっても母親のカレーライスをもう一度食べられるなら、と協力してくれている。


 妻のカレーライスが特別美味しかったというわけではない。どこの家庭でも作るような、ジャガイモと人参がゴロゴロと入った、市販の固形のカレールーを使った、ごく普通の家庭風のカレーライスだ。


 だが、それが再現できない。


 半年ほど前に、ようやく市販のカレールーの組み合わせが判明した。S社の「Gカレー」という商品の甘口と中辛を半分ずつ合わせたもの。それが妻のカレーライスのベースだった。


 私のカレーライスへこだわりに、黙々と付き合ってくれている息子も、その時ばかりは、

「あぁ。母さんのカレーライスっぽくなってきた」

 と喜んでくれた。


 何度も一緒に買い物に行ったというのに、妻の買うカレーのルーすら覚えていない。いったい自分は妻の傍に居ながら、何を見ていたのか。使っていたルーが分かった嬉しさよりも、つのる後悔の念の方が大きかった。


 元々病弱だった妻は息子を出産して以降、低血圧と重い片頭痛と胃痛と生理痛がさらに酷くなり、それらが交互に、あるいは重なって押し寄せては、起き上がれないことが多くなっていった。

 そうして少しずつ衰弱し、寝たきりの日々が続いた後、三年前に私と息子を残して去っていった。息子が小学校六年生の時だった。


 以来、ずっと妻の面影を探し続けている。洗濯に使う洗剤や柔軟剤は、妻が好んで使っていた物を使い続けている。妻はたたみ終わった洗濯物に顔を埋めて香りを嗅ぐのが好きだった。同じようにたたみ終わった洗濯物に顔を埋めると、妻の残り香を感じた。


 妻のカレーライスを再現しようという試みも、動機は同じだ。そうすることで、妻にもう一度会えるような、そんな気がするからだ。


 だが、妻がよく話していた「七つの隠し味」がわからない。レシピを書き留めたメモやノートのような物は残っていなかった。

 

 チョコレート、インスタントコーヒー、ブルーベリー、ドライフルーツまでは分かった。あと三つ。


 記憶をたぐり寄せ、インターネットで調べた。時に外食で食べたカレーのレシピを教えてもらった。たいていは企業秘密だと断られたが。


 そうして、何度も何度も試作を繰り返し、少しずつ、少しずつ、妻のあのカレーライスに近づいていく。時に、大きく遠ざかりながら。


 半年が経った。


 様々な食材を加えたり、差し引いたり。息子が違うと首を横に振るのを待つまでもなく、今回もまた、あのカレーではないと私にもわかった。


 さらに半年が経った。ある時、まだ試していなかったセージの葉を加えて煮込んでみた。ぐつぐつと煮立つ鍋の蓋を持ち上げた時、私は立ち上る香りにハッとした。


 ――この香りだ。


 さらに半年経ったある日。私は胡桃を加えることを思いつき試してみた。胡桃のしゃくしゃくとした食感に、私は思わずまぶたを閉じた。仔犬のようなつぶらな瞳を私に向けて笑う妻の顔が見えたような気がした。


 七つの隠し味の最後の一つは、ジャムだった。苺ジャム、ブルーベリージャム、オレンジマーマレード。様々なジャムを加えては、試行錯誤を繰り返した。


 そうしてさらに半年がかりで様々なジャムを試して、桃ジャムに行き着いた。舌の上に広がるカレーの味は……正に妻の、あのカレーライスの味だった。


 息子と二人で囲む食卓を静寂が支配する。壁時計のカチコチと時を刻む秒針の音がやけに大きく聞こえてくる。


「これだね」

「うん……これだ」


 息子に答えてそう言う私の声は、少し震えていた。私の中からあふれ出る感情が、どうにも抑えきれなくなる。


「父さん、泣いてる?」

「あぁ。そうかも……」


 五年かかった。生前の妻ときちんと向き合ってこなかった私の、贖罪の五年だった。


「これからどうするの?」

「続けるよ。次は何にしよう。おでんかな。ナポリタンかな」

「手伝うよ。父さんだけに任せて、また五年もかかったら嫌だし」


 今度の春には高校三年生になる息子が、照れくさそうに笑った。その笑顔の中には確かに彼女の面影があった。

 私は、一時の妻との再会を噛みしめながら、頷いた。

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