【No. 020】言祝ぎ
里から野山に至るまで、すべてが新緑に淡く覆われていた。柔らかに晴れた空を高々と
若い葉をまとった木々のかなたに、都から遣わされた
今日のための
それぞれが定められた場所に落ち着くと静けさがあたりを包む。風に乗って足音が、華やかな鈴の音が、管弦の
(
決して口外を許されないこの言葉を、豊彦は幾度となく胸にめぐらせていた。記憶にあるのは幼いころのふくよかな頬に薄い唇。共に里山を走り回り、四季の実りを集め、田畑を手伝ってきた同年の娘は、数え十二の春に都へと連れてゆかれた。彼女はすでに村の人間でなく、さらに踏み込むならば彼女自身ですらない。
それでも、修行を終えて初めての訪問先がこの辺境の村となったのは、彼女の
地に伏した村人たちの上を、しゃらん、と鈴が鳴る。
「瑞媛さまのご
随行士の言に、一同の
「よい。おもてをあげよ」
澄んだ声は香弥のものだ。豊彦はふさわしいほど長く耐えられずに視線を上げた。薄布は取り払われ、
春の
まずは
返礼の
豊彦は胡粉に塗り固められた無表情のなかに、かつての幼馴染のおもかげを見る。勝ち気な娘だった。叱られているうちは神妙な顔をしておいて、大人がいなくなったら舌を出す。村を去ると決まっても香弥は泣かなかった。いちどとして涙をさらさなかった。まだやわい手のひらの熱を、湿りを、爪のなめらかさを、笑みの気丈さを、魚を掴むのがうまかったのを、
「さいわいを」
声が降る。お嫁さんにはなれなくなったね、とほほえんだときのわずかな
(香弥、おれは)
幼い時分の、あれは恋であったか、単なる親しみであったか。いずれにせよ香弥の體は祈りのための器であり国の所有物、心は永遠に封じられている。いかなる言葉も、香弥その人に向けてはならない。豊彦が口をひらくことは叶わない。
御前を退いたとき、豊彦は香弥の瞳がまだ自分に注がれているのを知る。冷たい
側仕えの女が何事か耳打ちする。香弥は短く息を呑んだ。けれど、すぐに平静を取り戻して低く答える。
「わきまえております」
笑みと取られない程度に上がった唇の端に、豊彦は思い出す。大人たちに叱られたとき、香弥はいつもあのような顔をしたのではなかったか。
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