【No. 020】言祝ぎ

 里から野山に至るまで、すべてが新緑に淡く覆われていた。柔らかに晴れた空を高々とつばめが飛ぶ。

 豊彦とよひこは崖にせり出した樹の幹に手を置いて道を見下ろす。村から外に出る唯一の道だった。

 若い葉をまとった木々のかなたに、都から遣わされた宣瑞使せんずいしの行列が姿をあらわそうとしていた。白に萌黄もえぎに水色に。彼らが身につける色は土にまみれて働く者には縁遠い。行列のなかほどにあるだろう、輿こしの鮮やかな赤もまた。

 今日のための一張羅いっちょうらのすそをひるがえして豊彦は村の広場に駆け戻った。村人たちはすでに顔を揃え、地面に膝をついて座している。母は小声で豊彦をとがめ、衣についた土埃と落ち葉を手早く払った。十七にもなって、と誰かが苦言を呈す。ひそめた笑い声がさざ波になって広がった。

 それぞれが定められた場所に落ち着くと静けさがあたりを包む。風に乗って足音が、華やかな鈴の音が、管弦の調しらべが届きはじめる。いよいよ近づいているのだ。

香弥かやが帰ってくる……)

 決して口外を許されないこの言葉を、豊彦は幾度となく胸にめぐらせていた。記憶にあるのは幼いころのふくよかな頬に薄い唇。共に里山を走り回り、四季の実りを集め、田畑を手伝ってきた同年の娘は、数え十二の春に都へと連れてゆかれた。彼女はすでに村の人間でなく、さらに踏み込むならば彼女自身ですらない。瑞媛みずひめとして選ばれた瞬間に娘は神の世と人の世のあわいに立たされる。神と王とに仕え、さいわいをあまねく国土に届けるべく旅をする。故郷も親兄弟もないものとされ、うるわしいばかりの虚ろの器として扱われる。

 それでも、修行を終えて初めての訪問先がこの辺境の村となったのは、彼女のからだを生んだ土地だからだ。香弥の両親は村長むらおさについで良い席を与えられている。

 地に伏した村人たちの上を、しゃらん、と鈴が鳴る。随行士ずいこうしたちがしずしずと広場に展開し、丹塗にぬりの輿が中央に下ろされる。紫紺しこん毛氈もうせんが敷かれる。金銀の糸で結われた御簾みすが上がり、雲霞うんかのごとき薄布を被った女性が側仕そばつかえの女に手を引かれて降りる。

「瑞媛さまのご光臨こうりんであるぞ」

 随行士の言に、一同のこうべはなお深く垂れた。

「よい。おもてをあげよ」

 澄んだ声は香弥のものだ。豊彦はふさわしいほど長く耐えられずに視線を上げた。薄布は取り払われ、胡粉ごふんべにで装った顔が日に耀かがやいていた。真緋しんひ襞裳ひだも浄白じょうはくの上衣、衿には浅緋あさあけ色と若草色を挿している。闇夜の川を思わせる髪を、うなじのところで金の飾りが留めていた。


 春のき日の言祝ことほぎを――


 まずは定詩ていしじゅされ、つづいて村のさいわいが願われた。村長むらおさが進み出て、瑞媛のたずさえる、磨き抜かれた銀の鈴の音を浴びた。行列の訪れを知らせていた鈴とまるで異なる、この世のものとは思えない雑味のない音色だった。

 返礼の貢物みつぎものをおさめてもらい、定められた儀式は終わる。場の雰囲気もいくぶんゆるんだ。村人たちがめいめい瑞媛のもとにひざまずき、己の幸せをこいねがう。

 豊彦は胡粉に塗り固められた無表情のなかに、かつての幼馴染のおもかげを見る。勝ち気な娘だった。叱られているうちは神妙な顔をしておいて、大人がいなくなったら舌を出す。村を去ると決まっても香弥は泣かなかった。いちどとして涙をさらさなかった。まだやわい手のひらの熱を、湿りを、爪のなめらかさを、笑みの気丈さを、魚を掴むのがうまかったのを、蔦桃つたももの実が好きだったのを、豊彦は覚えている。豊彦の番がめぐってきた。もう顔を眺めているわけにはいかない。


「さいわいを」


 声が降る。お嫁さんにはなれなくなったね、とほほえんだときのわずかなかげりと同じものが、まろやかなことばの奥にあった。

(香弥、おれは)

 幼い時分の、あれは恋であったか、単なる親しみであったか。いずれにせよ香弥の體は祈りのための器であり国の所有物、心は永遠に封じられている。いかなる言葉も、香弥その人に向けてはならない。豊彦が口をひらくことは叶わない。


 御前を退いたとき、豊彦は香弥の瞳がまだ自分に注がれているのを知る。冷たい顔貌がんぼうに似合わぬ熱が目尻に灯っていた。

 側仕えの女が何事か耳打ちする。香弥は短く息を呑んだ。けれど、すぐに平静を取り戻して低く答える。

「わきまえております」

 笑みと取られない程度に上がった唇の端に、豊彦は思い出す。大人たちに叱られたとき、香弥はいつもあのような顔をしたのではなかったか。

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