【No. 013】立場

「またミスをしやがって!」

「すいませんっ!」

 広いオフィスに部長の出村の声が響き渡る。

 その男の前に部下の新入社員の女性、高住が項垂れている。

「この間も発注ミス、取引先の名前間違える、配送先を企業の競合会社の名前を出す。どんだけミスをすればいいんだ。まだ大学生、バイト気分抜けてないんじゃ無いのか?」

「すいません」

「何度も謝られてもダメだ。反省しろ、いやこれも何度も言ってる。反省してもいない……」

 すると高住は泣き出した。




 喫煙ルーム。


「はぁ」

 ため息と共に煙が出る。同僚の藤懸も入ってきてこう言った。


「そんなに怒らなくていいじゃ無いか。ただでさえ新人がほとんどやめてってるのに怒ったらダメだよ、頭ごなしに」

「そんなことはない。あれくらい」

「先日も家のことで悩んでたって時も私情持ち込むなと叱ったりもしたが」

「鬼だなぁ」


 すると藤懸は煙を吐き出して笑った。

「やっぱ出村、好きなんだろう……あの新入社員」

「な訳ないだろ! な訳!!」

 出村は顔を真っ赤にする。


「……ちょっと、いつも以上にからかっただけだ」

「ほらやっぱり。タイプそうな子ですから」

「まぁな」


 だが次の週から高住はこなかった。

 一身上の都合により、だった。出村は根性なしめ、と思ってはいたが悲しかった。






 十数年後、出村は五十過ぎて仕事も落ち着いた。結婚していたが仕事が忙しいことにかまけて家庭をおざなりにしていたら妻が子供を連れて離婚届を置いて出て行ってしまったのだ。


 独り身、趣味が何もない。友達も各々の趣味に勤しんでおり、じゃあ自分は? と考えていた。ふと、昔やっていたピアノをやりたくて教室を探したがなかなかいい教室が見つからない。


 ふと見つかった小さな一軒家のピアノ教室。ドキドキしながらドアを開けると1人の女性が立っていた。


「高住……さん」

「出村部長! あ、今は鈴木です」

「そうか。て、ピアノをやっていたのか」

「はい、ピアノが子供の頃から特技で。仕事を辞めてから本格的にピアノの勉強を再開して音楽教室をしてたんですよ」

「そうだったのか、それは知らなかった」

「はい、では初めていきましょう。経験者ということで……このレベルからやりましょうか」


 こうして週に二回のピアノレッスンが始まった。


 経験者とは言えかなりのブランクがあった出村は苦戦した。年齢もあってか何度もミスをするが、高住はにこやかに指導をしていく。

 あの時は上司と部下、今では立場が変わって生徒と先生。


 半年が経ち、未だにうまくいかない。いいところまでいくが指がもつれる。

 もうだめだ、と出村は項垂れる。だが高住は怒ることもなく優しく微笑む。

 出村はその優しさに、あの当時高住に対して何度も何度も怒ったことを恥じた。


「何でこうもダメなのに高住先生は怒らないのですか」

 んっ? と顔をした高住だが

「ふふふ、そうね」

 と笑う。あの当時は新人の二十代中盤だった彼女だがもう40手前だそうだ。


「よく出村さんには怒られていました。それはそれはうなされるほど、寝る時まで」

「それはすまんかった」

「だが、私は生徒さんにもそんな思いをさせたくないから怒らないんです」

 との言葉にさらに出村は首を項垂れる。


「本当に申し訳ない、反面教師ってやつだな」

 高住は首を横に振る。

「いえいえ。でも何度も怒られているうちに私はこの仕事向いてないんだなぁって一年目でわかったから思い切って子供の頃からの夢、ピアノの先生を目指したんですよ」

「そうだったのか」

「気づかさせてくれてありがとうございました」

「いやいや……まぁ確かに一回だけつけた考査は低かったけどな」


 ふふふ、と高住が笑う。

「ねぇ、出村さんは気づいてないようだけど。私は結婚して鈴木になったのですが主人は一年前に亡くなりました」

 出村はハッとした。全く夫がいる気配がしなかったのだ。

 日曜日のレッスンもあったのにも関わらず。


「事故でした。あっけなかったわ。娘は2人。ここはピアノ教室のみの家、借家ですけど防音もされてるんです」

 そうか、と出村は確かに小さい家だ、とは思っていた。


「私はすぐそこの一軒家に住んでおります、そちらは防音されてないし、家庭と仕事を一緒にしたくないんです」

「そうなのか」

「出村部長の『仕事に家庭の事情を持ち込まない』ってのを覚えてて……住まいの方には娘と両親がいるのよ」


 年を重ねてさらに美しくなった彼女を見つめる出村。

 自分のしてきたことが彼女に影響しているなんてつゆ知らず。


「さて、出村さん。練習再開しましょう」


 彼は今度、ケーキでも買ってこよう。これから時間も余裕が出る。今からでも遅くない……と思いながら鍵盤に指を置いた。



 終

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