【No. 006】追想のローズガーデン

 町外れにあるお洒落な洋館。外壁代わりの柵向こう、艶やかな薔薇に彩られた庭に佇む彼女を見たのがはじまりだった。

 ちょうど私はこの町へ引っ越してきたばかりで、友達もうまく作れずにいた頃だ。ひとりは慣れていたけれど、それでも夕日に照らされて伸びる影をほんの少しだけさみしいと思ったことは覚えている。


 ある晴れた日の午後、私は仮病を使って学校を早退した。

 特に虐められているというわけではなかったが、ただ何となく、ここに自分の居場所がないような感じがしたのだ。

 いま思えばただの気のせいで済ませられる感覚は、多感な十代が理解するにはまだほんの少しだけ早い。私は言いようのない寂寞せきばく感と、わずかな疎外感を胸にくすぶらせたまま、不思議そうにこちらを見る町の人たちから逃げるように坂道を駆け上がっていった。


 あまり早く家に着かないように、ちょっとだけ遠回りをした。その道の先に、美しい薔薇が咲き誇る大きな洋館が現れたのだ。


「こんにちは」


 一瞬、本気で薔薇の妖精に声をかけられたのかと思った。

 日に焼けていない白い肌。亜麻色のふわりとした柔らかな髪。フォレストグリーンの瞳に、薔薇色のくちびる。彼女は、まるで人形のように美しいひとだった。


 最初は挨拶だけの一言が、日を追うごとに会話へと変わっていく。学校帰りの、ほんのひととき。柵越しの短い時間だったけれど、それでも憂鬱だった私の毎日は薔薇の庭のように鮮やかに彩られていったのだ。


「大切な人を、ずっとここで待っているのよ」


 ある日、彼女はそう言った。うっとりとした表情で、私の肩越し……柵の外を眺めて。


 大切な人。おそらく「彼」の話をする時、彼女はとても幸せそうな顔をする。そして、ほんの少しだけさみしそうに目を伏せるのだ。

 彼女はもう随分と長いこと、ここで「彼」を待っていると言った。こんなにも美しいひとを待たせ、悲しませている「彼」に対して憤りを覚えたけれど、その思いの半分はたぶん嫉妬も混ざっていたと思う。


 誰とも仲良くなれなかったこの町で、私にできた唯一の友人。美しい彼女と友達になれたことを自慢したくもあったけれど、それよりも彼女との時間を邪魔されることの方が嫌だった。

 学校のみんなにも、両親にも、彼女のことは話していない。

 これは私だけの秘密だ。彼女のことを内緒にすることで、私は密かに浅ましい独占欲を満たしていたのかもしれない。だから彼女が「彼」のことを語る時には胸が痛んだし、またこんなにも彼女に思われているのに会いに来ない「彼」を憎みもした。


 もういっそのこと、「彼」なんて来なければいい。


 そんな愚かな願いを胸に秘めたまま――彼女と出会ってふた月が過ぎようとする頃。

 いつものように彼女と別れ、帰路につく途中で、見知らぬ老紳士とすれ違った。この辺りでは見かけない上品な服を着た白髪の紳士は、彼女の住む洋館の方へまっすぐ坂を上っていく。杖をついてはいたが、その足取りは年齢を感じさせないほどに力強い。年齢的に彼女の祖父だろうか。そう思った瞬間、私は彼女の家族を今まで一度も目にしていないことに気が付いたのだ。


 戻って彼女に確かめてみようか。それともただの来客だろうか。

 けれどなぜだか分からないが、その時の私の足はどうやっても屋敷の方へ進むことができなかった。まるで地面に足がくっついてしまったかのように、私は老紳士が屋敷の中へ消えていくのをただ見ているだけしかできなかったのだ。



 彼女が屋敷から消えたのは、そのあとだった。



 何となく嫌な予感がして、学校が終わるとすぐに洋館へと走った。落日に照らされる私の影はどこまでも黒く伸びていて、不安な心を浮き彫りにするかのようだ。


 毎日かよった坂の上。田舎町には不似合いな、立派な洋館。美しい薔薇にあふれた庭は黄昏時の寂しさを表すように、すべてが生気を失い、土色に枯れ果てていた。

 彼女が座ってお茶を飲んでいたテーブルには苔が生え、洋館の壁には枯れた蔓草がびっしりとこびり付いている。白くくすんだ窓ガラスは罅割れていて、今にも砕け散ってしまいそうだ。

 私が見た、美しい景色はどこにもなかった。あるのは色を失い、風化していくだけの朽ちかけた洋館だけだ。薔薇の一輪さえ、咲いていない。


 彼女の名を呼んでも、応えるのは風に擦れる枯れた薔薇の乾いた音だけ。その音に紛れて、かすかに彼女の声がしたような気がしたが、もしかするとそれは私の願望だったのかもしれない。


 ――彼が会いに来てくれたのよ。


 熱くなる目頭に鼻を啜れば、かすかに薔薇の香りがした。




 あの洋館がお化け屋敷と呼ばれていることを知ったのは、それからしばらく経ってからだった。道ならぬ恋に身を焦がした娘が、病死したあとも相手の男をずっと待っているのだという。


『約束したの。ここでまた会おうって』


 そう言って幸せそうに笑った彼女の顔が、数年経った今も私の脳裏に鮮やかに焼き付いている。

 再会の形がどうであれ、「彼」は約束を果たしにこの町へ来て、彼女は思いを遂げて消えてしまった。私だけが取り残された現実に涙はしばらく止まらなかったけれど、彼女の願いが叶ったのだから私はそれを一緒に喜んであげなくてはいけないと思った。




 次の休みには、花を買っていこう。

 祝福と、弔いの――美しい薔薇の花束を。


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