【No. 004】金木犀と鱗雲

「ケイカ。ケイカだ、見つけた」


 そんな言葉と共に手をつかまれた。タイミングを見計らったかのように桜の花びらをはらんだ風が吹き抜けて、制服のプリーツスカートのすそがふわりと揺れた。

 高校二年の新学期。振り向けば、真新しい制服を着た男子がわたしの手首を掴んでいた。わたしは瞬きをしてから、できるだけ落ち着いた声を返す。


「あの、人違いだと思います」


 それでも、その男子はわたしの手を離さずにゆっくりと首を振った。


「間違いない、俺にはわかるんだ。君はケイカだ。ずっと……ずっと探していたんだ」


 その男子の視線はあまりに真剣で、妙な熱を持っている気がして、わたしは怖くなった。手を振りほどきたいのに、掴まれた手首が熱くて、逃げられない。


「俺の名前はリンだ。ケイカも早く思い出して」


 同じ学校の生徒が、興味深そうな視線をちらりと寄越してわたしたちの脇を通り過ぎる。わたしは落ち着きなく周囲を見回して、それからもう一度その男子を見た。


「ごめんなさい、やっぱり人違いだと思います。あの……遅刻するから」


 わたしの言葉に、その男子は悲しそうな顔をした。それから小さく


「また会いに行く。きっと、思い出せるから」


 と呟くように言って、わたしの手を離した。解放されて、わたしは早足で逃げ出した。

 それが、わたしと彼の「再会」だった。




 リンと名乗った彼は、放課後にまたわたしのところにきた。


「朝はすみません。突然だったから自分でも驚いて、とにかく何かしなくちゃって思って……その、強引だったって後から気付いて」


 そう言って頭を下げる彼は、確かに朝よりは落ち着いているみたいだった。そうやっていると、どうってことない普通の高校生だ。新品の高校の制服がまだ馴染んでいなくて、中学生にだって見える。


「話を聞いてください。大事なことなんです、すごく、俺にとっては」


 その時には、彼の姿があまりに普通に見えてしまったからだと思う。わたしは彼のその言葉に頷いてしまった。




 駅までの道を遠回りして、歩きながら彼は話してくれた。わたしを「ケイカ」と呼ぶ理由を。


「俺たち、ようやく再会できたんですよ。思い出せないですか」


 彼の寂しそうな言葉に、すがるような視線に、わたしは首を振る。


「小さい頃のことだと、覚えてないかも」

「そうじゃなくて。その……前世、というやつです」


 前世、と口の中でつぶやいた。わたしの戸惑とまどいはそのまま、彼の言葉は続く。


「前世で、俺は戦っていたんです。リンという名前でした。戦って、傷付いて、ぼろぼろになって、そんな時に助けてくれたのがケイカでした。ケイカは優しく俺の手を握ってくれて……その……」


 リンと名乗る彼は、そこで言葉を途切れさせて目を伏せた。うつむほほが染まっている。


「そのケイカというのが、わたしなの?」


 自覚も何もないままに聞いてみれば、彼は俯けていた顔を持ち上げて、大きく頷いた。


「そう。間違いない。やっと見つけたんだ」


 彼の視線がはらむ熱を受け止めるのは怖くて、わたしは拒絶のつもりで首を振る。


「わたしは全然、その、前世とか思い出せないし。やっぱり人違いだと思うけど」

「思い出せないから信じられないんだろうってのも、わかります。でも、確かにケイカなんだ。間違いじゃない」

「あの、ごめん」


 何がごめんなのかは、自分でもわからなかった。彼の言う「前世」には付き合えない。彼と話を合わせることはできない。これで話はおしまい。多分、そんな気持ちをやんわりと伝えたかったんだと思う。

 彼がわたしの手を握って足を止めた。それでわたしも足を止めることになる。わたしの左手が、彼の両手に包まれて、持ち上げられる。


「ケイカ、ずっと好きだ。助けられたあの時から、俺の手をこうやって握ってくれたあの時から、今もずっと。ケイカのことが好きなんだ」


 彼の言葉も視線も真っ直ぐだ。あまりに真っ直ぐ、わたしの心をじ開けてこようとする。それに、熱い。ずっとこんな風に触れられていたら、きっと溶けてしまう。

 でも、彼の熱が向かう先は「ケイカ」という人なのだ。彼を救ったのも「ケイカ」という人だ。それがわたしのことだとは、どうしても思えない。


「離して」


 わたしの声は、彼の顔をゆがませた。彼はまるで痛みをこらえるように眉を寄せる。


「ケイカが思い出すまで、諦めないから」


 そう言って、彼はわたしの手を離した。わたしはほとんど走って逃げ出した。




 夜の食卓で親が桂花陳酒けいかちんしゅを飲んでいた。ラベルに描かれた金木犀きんもくせいの絵を見て、ふと、その香りを思い出した。それから、金木犀の向こうの空に浮かぶ鱗雲うろこぐも

 誰かと手を繋いで歩いていた。親とか、大人の人じゃなくて、わたしよりも小さい誰か。その誰かと二人、鱗雲を指差した。


「自分も保育園行くのが嫌だったのに、自分より小さい子が泣いてるのを見て、優しく話しかけて手を繋いで『一緒に行こう』って。あの頃、保育園に馴染めないし行くのも嫌がるしで悩んでたんだけど、あれ見てこの子は優しいな、このままでも大丈夫だなって思ったんだよね」


 酔っ払った親が話す内容について、はっきりとした記憶はない。でもどうやらその優しさは、わたしの中にあるものらしい。

 わたしの中に優しさがあるとしたら、それはもしかしたら、ケイカという人がリンという人を救ったものと同じものかもしれない。




 リンと名乗る彼は、それから度々わたしのところにやってくるようになった。それで、放課後に時々二人で遠回りして散歩する。

 彼はいつも「思い出した?」って聞いてくるけど、わたしはやっぱり首を振るだけ。でも、それ以外の彼はどうってことない普通の高校生だった。とても優しいし、それに、笑ったときのちょっと気が抜けたような表情が可愛い。

 そうやって二人で過ごしているうちに、自分でも思いがけないことなのだけど、彼との時間を楽しみにするようになっていた。最近は手を繋がれることもあるけど、それも受け入れてしまっている。

 絡んだ指先が、熱い。こうして触れ合っていると、溶けそうだと思うくらいに。


 わたしはやっぱり彼の言う前世のことは、何も、思い出せないけど。わたしが「リン」の言葉を受け入れるように、彼は「ケイカ」じゃないわたしを受け入れてくれている。

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