第29話「取り戻した関係」

 しばらくすると涙は自然と流れなくなり、私は今の状況が少し恥ずかしくなって康太の腕をほどいた。こんなところ楓さんが見たらきっと殺される。そんなことを考えながら康太から少しだけ離れた。だけど康太とこうして触れ合ったのなんて果たして何年ぶりだろう。


「落ち着いた?」

「うん、大丈夫」


 私たちは再びベンチに腰掛けた。さっき泣いたせいか、心がすっきりしている。今まで抱えていたものが全部なくなったような気がする。まだ康太のことは好きだけど、だからといって一緒にいて心苦しくなったりはしなくなった。私も前に勧めたのかな。そう思うことにしておこう。


「さっきはごめん。いきなりあんなことしちゃって」

「まあ、な……」


 康太はどう返せばいいのかわからない様子で、たじたじとしていた。視線もいろんな方向を向いていて、それが少しだけおかしかった。だけどいきなりあんなことされたらさすがの康太もどうすればいいのかわからないだろう。本当に申し訳ないことをした、と心の底から反省している。


 でも康太の腕に包まれるのは……うん、悪くなかった。男らしいがっちりと鍛えられた太い腕で、締め付けるでもなく、ぎゅっと、温かく抱きしめてくれるあの感覚。きっと楓さんはこんな感覚を毎日味わっているんだろうな。そう思うと少しだけ嫉妬してきた。嫉妬と言っても、高校の時のようなドロドロしたものではなく、むう、と膨れっ面を浮かべる程度のものだけど。


「結婚して幸せ?」

「おう。もうめっちゃ幸せ」

「そりゃよかった」


 そう笑う康太の顔は本当に幸せそうで、私もその幸せをおすそ分けしてほしいと思った。こちとら恋人いない歴=年齢なんだから、少しくらい貰ったってバチは当たらないだろう。


「康太が恋人だったら、きっと毎日楽しかっただろうな」


 そう口走って私はㇵッと我に返る。そんなこと絶対言うものじゃない。康太の方を見ると、なんとも言えないような顔をしていた。また関係が壊れてしまう。それが、とても怖かった。


「いや、あの、その……」


 慌てて取り繕うと言葉を探したけど、思い浮かばなかった。だけど……康太との関係が壊れてしまうのは嫌だ。


「あ、あのさ、康太」


 気が付くと私は立ち上がっていた。康太は笑って「何?」と尋ねる。


「私……まだ康太のこと好きでいていいかな」


 なんでこんなこと言っちゃったんだろう。口にして後悔した。また地雷を踏んでしまったかもしれない。


 康太は最初こそ呆然と目を丸くしていたけれど、すぐにプッと吹き出した。


「好きにしなよ。お前の気が晴れるんならな」


 そんなこと既婚者が言っていいんだ。だったらもう何言っても大丈夫な気がする。


「あ、不倫とかしないから安心して」

「んなもんこっちからお断りだわ」


 言い過ぎたかな、なんて思ったけど杞憂だった。数秒沈黙ののち、私たちは笑った。こんな風に笑い合えたのなんて本当に何年ぶりだろう。今日、私はようやく前に進めたと思う。ここまで長い長い道のりだった。それも今日で終わりだ。


 永遠に叶わない片思いだろうと構わない。開き直りだけど、私はもうこれで満足だ。決して負け惜しみだとか、諦めるための言い訳だとかそんなものではなく、本心だ。


「結婚式、ちゃんと招待してね。幼馴染なのに行けませんでした、なんて嫌だもん」

「さっきまで会えるかどうかすらわかんなかった奴がよく言うよ」

「それもそうだ」


 私は笑うと、スマホの画面を見せた。もう二度と会うことはないだろうと登録先すら消去してしまったから、また登録してもらうためだ。康太も快く了承してくれて、私の連絡先にはまた康太の名前が復活した。


「じゃあ、俺もう帰るから」

「なら駅まで送るよ」


 こんな辺境の地まで康太はわざわざ電車で来たと言う。本当に最後まで迷惑をかけて申し訳ない。ここから駅までは歩いて10分ほどだ。その間は康太と一緒にいられる。でも裏を返せば、あと10分しかいられない。


 私たちは今までの空白を埋め合わせるようにいろんなことを話した。高校卒業後のこと、就職のこと、そして結婚……。康太は私が訊いてもいないのに楓さんの話ばかりをしてくる。ここが可愛い、とかこの前はこんなことがあった、とか惚気て、それを私の初恋相手が言うのだからタチが悪い。でも話を聞いていると、なんとなく康太が楓さんの尻に惹かれているような感じがあった。康太から放たれる幸せオーラがなんとなく腹立たしくて、私は康太の脇腹を何度もつついた。やめろ、と言われてもやめなかった。


 あっという間の10分だった。楽しかった。でもこんな時間も終わりだ。


「じゃあここまででいいよ」

「うん。気をつけてね」

「おう。お前もな」


 康太は改札を抜けるとそのままホームへと向かった。もう心が寂しい。だけど泣くもんか。


「康太!」


 周囲の人なんか気にもせず、後ろ姿がだんだん小さくなっていく康太に聞こえるくらいの大きな声で私は叫んだ。康太は振り返り、私の方を見るとこちらへ駆けてきた。


「何?」


 不満を漏らすことなく康太は尋ねる。私は、康太にいつぞや言ったあの言葉をそのまま言った。康太は「任せとけ」と返事し、右手の拳を上げる。私もそれに返すように握り拳をコツンと合わせた。ちょっと青春時代に戻った気がする。


 私は両手を振って康太の姿を笑顔で見送った。じゃあな、と康太は今度こそ駅のホームに向かった。




 幸せにしてあげなよ、康太。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る