②『わたし』
わたしの実家では猫を飼っていた。
名前は『みゃー子』。わたしがその子のことをみゃー子みゃー子って呼んでたからみんなもそう呼ぶようになったって、ママにはそう言われたけど正直あんまり記憶はない。
みゃー子はわたしがランドセルを背負ってる頃からウチにいて、姉妹のように一緒に育ってきた仲だけど、最初は全然懐いてくれなかったんだよね。
貴方を撫でようとしては手を噛まれて、何度泣かされたことか。
わたしはただ、身体の小さな貴方が愛おしくて、傍にいて仲良くしたいだけだったのに貴方は容赦なくわたしの手を引っ掻いた。
そんな貴方のことを怖いと思うこともあったけれど、年を重ねるにつれてわたしも貴方の気持ちを思うようになった。
きっと貴方は身体の大きなわたしは怖かったよね。
貴方の気持ちを考えるようになって、毎日一緒に時間を過ごしていくうちに、いつからか貴方もわたしの傍に来てくれるようになったのよね。
それからの日々は、わたしに数え切れないほどたくさんの思い出をくれた。
陽炎が立つような夏の日にひんやりした床の上で一日中ゴロゴロしたり、雪の降る冬の日にコタツから出れなくなったり。
ママと大喧嘩した夜も貴方はずっと傍にいてくれたよね。
今でもよく憶えてる。いつも何かとよく鳴く子だった貴方がその時ばかりは大人しくて、勝手にわたしの気持ちに寄り添ってくれてる気がしてた。
そういえば貴方は、わたしが座ってるといつも膝の上に上ってきて身体を丸めていたよね。少し重たかったけど、柔らかくて温かかった。
貴方はいつでもわたしがわたしでいることを許してくれたから。わたしはそうして貴方と一緒にいる時が他の何時よりも心が安らいでた。
けど、それからわたしが中学・高校と卒業して、少しずつ貴方と過ごす時間は減っていったよね。
そして、“その日”が来た。
わたしは大学で出会った彼と一緒に暮らすことになって、ついに20年以上暮らした実家を離れることになった。
パパとママにありがとうって伝えて、お世話になった近所の人にも一通り挨拶して。それで貴方の前にきたら急に寂しくなっちゃった。
何を言ったって貴方に言葉は通じていないはずなのに、貴方があまりにも悲しそうに鳴くからわたしまで涙が止まらなくなっちゃった。
だから最後は貴方から逃げるように家を飛び出しちゃった。
それから、わたしは新しい生活に慣れるのに必死で。彼とケンカしたり、仕事が忙しくなったり、気づけば長い間貴方の顔を見に行けてなかった。
それでも、少しずつ環境にも慣れ始めて、彼との関係もゆっくりと進み始めていたそんな矢先だった。
「────みゃー子がね……最近ずっと元気がないの。あの子ももういい歳だし、あんまり長くはないかもって」
突然、ママから電話が来た。
貴方がもう若くないことは知っていたけど、そんな日が来るとはつゆも思っていなかった。いや、考えないようにしてただけだ。
わたしは慌てて休みをもらって、彼と一緒に実家へ帰った。
「みゃー子! みゃー子は?」
帰ってきて、ろくにただいまも言わずに貴方の元へ飛んでいったよね。
久しぶりに会った貴方は随分と小さくなっていて、部屋の隅で丸まっていたのを憶えてる。
「みゃー子? みゃー子! ただいま! わたし帰ってきたよ? ねぇ、みゃー子?」
必死に呼びかけてみたが、貴方はこちらへちらりと一瞥をくれるだけで、前みたいにすっと立ち上がって近くへ寄ってきてはくれなかった。
「ごめん、ごめんみゃー子。仕事とか色々忙しくてなかなか帰ってこれなくて。本当はもっと早く帰ってくれば良かったのに……貴方を後回しにしちゃって本当にごめんね」
声をかけながらそっと近づいて、その背中を優しく撫でてやると否が応でもその変化に気づいてしまった。
肉や毛が細り、背中や脚からはゴツゴツとした骨が浮き出していた。温さもあまり感じられない。
「こんなに、痩せちゃって……」
あんなに柔らかくて温かかった貴方の面影はもうない。
貴方が今どこにいるのか、すぐに分かった。
「ねぇ、みゃー子。聞いて。今ね、わたしのお腹の中に赤ちゃんがいるの。彼とわたしの子供。わたし、彼と結婚するの。今度結婚式も挙げるんだよ。仕事で上手くいかないこととか、不安もたくさんあるけど、わたし今、とっても幸せなんだ」
痩せ細ったみゃー子の背中を撫でながら自分の近況を話していたら、ふと貴方の輪郭が歪んで見えた。
何度拭っても、涙は止まらなかった。
「だからさ、みゃー子。もう少しだけ頑張ってよ。これはわたしのワガママなんだけどさぁ、もう少しだけわたしの傍にいてよ。これからはもっとたくさん会いに来るから……だからさぁ」
いつかこんな日が来るって分かっていたはずだ。でも、わたしはただ想像したくなかったんだ。大切な貴方と一生離れ離れになってしまう日を。
現実を受け入れられず、子供のように泣きじゃくるわたしを見かねて、みゃー子は1度だけ声を上げてくれた。
「みゃーお……」
身に残っていた生命力を全て搾りきったかのような、弱々しい鳴き声だった。
けれど、聞き慣れたみゃー子の声だ。
「ごめん。そうだよね、みゃー子。お別れの時に泣いてばっかりじゃダメだよね」
最後の最後でみゃー子に叱られたみたいだった。
わたしは滲んだ目元を拭ってそっと貴方に顔を近づけた。
「ありがとう、みゃー子。わたしが伝えたいのは、本当にそれだけ」
翌朝、みゃー子は静かに息を引き取っていた。
人の目の届かないような部屋の隅で静かに動かなくなっていた。
獣医さんによると、みゃー子は1週間くらい前から老衰で弱っていて、いつ亡くなってもおかしくないような状態だったらしい。
みゃー子はきっと、わたしのことを待っていてくれたんだ。
最後にわたしにお別れをする時間をくれたんだ。そう思うとまた涙が溢れてきそうだった。
けど、後悔はなかった。
ちゃんと伝えたいことを言葉で伝えられたから、わずかでも温もりを残した貴方に触れることができたから。
ありがとう、みゃー子。
貴方がいた日々のこと、絶対に忘れないよ。ずっとずっと感謝してる。いつまでも貴方のことが大好きだよ。
だから、いつかどこかで巡り会えたら、また同じようにその小さな頭をわたしに撫でさせてね。
貴方がわたしにそうしてくれたように、今度はわたしが貴方に寄り添ってあげるからね。
『みゃー子』と『わたし』 水研 歩澄 @mizutogishiro
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