第12話



「ふう。危なかった」


 冷や汗を拭うように冥府に戻ってきたハデスは、その足で地獄に向かった。


 地獄と冥府は隣り合わせというか、表裏一体で存在していて、冥府の役割と地獄の役割はほぼ一緒だった。


 どうしてそんな無駄なことをしたのか、ハデスは知らない。


 クルスライムは「だって大勢いる方が楽しいじゃない?」なんて言っていたが、そのクルスライムですら現状を忘れているようだ。


 そもそもハデスの妻はベルセフォネーということになっているが、それはあくまでも地球での話。


 こちらに召喚された際、ハデスは最初ひとりだったし、ベルセフォネーに至っては、召喚されたのがずっと後ということもあって、ふたりの夫婦生活はほぼ終わっている。


 それに……ハデスはこちらに召喚されてすぐに心変わりしていた。


 クルスライムに一目惚れしたのだ。


 当のクルスライムからは色好い返事はもらえなかったが、それはそれで満足している。


 ハデスは元々飽き性だったし、手に入ってしまえば飽きることを熟知している。


 だから、手に入らない方がいいという価値観のもとにクルスライムと接していたからだ。


 しかし実際のところ、クルスライムがこちらを去ってからというもの、心変わりするだろうと思っていたハデスの愛情は、彼女に独占されたままである。


 不思議なのだが彼女だけが特別なようだった。


 だから、彼女の帰還を感じ取ったとき、即座に助けようと思ったのだ。


 もちろん彼女が本来の力を得ているなら、そんな助力など不要。


 それもわかっていた。


 だが、彼女から感じる力は弱く昔と状況が一変している今、彼女にひとりで相対させるのは気が咎めた。


 だから、迎えに行ったのだが、当のクルスライムには「別人だ」と言われた上に「男だ」と拒絶される始末。


 つくづく素っ気ないと感じているが、そんなところもいいとも思う。


 しかしハデスは冥府の王なので、個人で動くには限界がある。


 ケルベロスが代理をできるなら、別に任せてもよかったのだが、そもそもケルベロスでは冥府は治められない。


 だから、地獄へ向かっているのだ。


 同じ王という立場にありながら配下に恵まれ、孤高を保っているもうひとりの地獄の王、閻魔に逢いに。


 閻魔には牛魔王という配下がいて、王座を巡って争えるほどに力が拮抗している。


 といっても実際のところ、閻魔の方が力が上だとハデスは見ている。


 牛魔王は力がすべてで、その部分で閻魔に負けているのだ。


 それにハデスも閻魔が相手だと互角だろうなとは思うのだが、牛魔王が相手だと負ける気がしない。


 つまりはそれが格の差なのだろう。


「あやつにクルスライムを任せるのは非常に気が重いが仕方ない。他に適した者がいないのだから」


 そんなことを呟きながら、ハデスは閻魔の居城に立ち入った。


 冥府の王ハデスだと知って、閻魔の配下たちが恐れるようにその場を離れる。


 そういった面もハデスと閻魔は似ていた。


 どちらも自分のことには無頓着だが配下には恐れられ、また敬われているという面で。





 王の間に行くと閻魔は牛魔王を相手に遊んでいたようだった。


 ハデスにはよくわからない遊びだが、閻魔が元々いた世界ではよく知られた遊びだとかで、閻魔はよく牛魔王を相手に遊ぶようだ。


 唸っている牛魔王を放置して閻魔がふっとこちらに顔を向ける。


 黒髪はハデスと同じだが、ハデスは漆黒の瞳だが閻魔の瞳は赤い。


 血のようなその色が閻魔の特徴だ。


「これはこれは。冥府の王ハデス。珍しいところで逢うものだ。そなたがここを訪れるなど幾年振りか」


「閻魔王はまた牛魔王をからかって遊んでいるのか? 牛魔王は不服そうだが」


「いや。中々楽しいぞ? 牛魔王以外ではダメだな。わたしに怯えて話し相手にすらなってくれない。ハデスも牛魔で遊ばないか?」


「悪いが遠慮する。牛魔王は席を外してくれないか?」


 ハデスの率直な物言いに牛魔王は不機嫌そうだったが、閻魔に目だけで指図され仕方なく退室していった。


 こういうところに本来の力関係が出ているとハデスは思うのだが、牛魔王は認めようとしない。


 一人勝ちしているこの男に彼が勝つつもりがないのだという現実に。


 近付いていくと最近地獄でも流行っているというワインを手渡され、ハデスは先程まで牛魔王が座っていた席に腰を下ろした。


「それで? 何用だ?」


 閻魔が口を開く。


 彼が飲んでいるのはジュースだ。


 こちらはハデスが彼に教えた物である。


 こうして互いの文化を教え合うことが、ハデスと閻魔のあいだではよくある。


 それだけ親しく交流しているということなのだが。


「惚けなくていい。わたしが、俺がどこに行っていたかなど閻魔なら知っているはずだ」


「まあ、な。手酷くフラれたようだな、ハデス」


「……フン。そのつれないところがあの人の良さだ」


「いや。そこまで素っ気なくされていて諦めないのはある種の奇跡だな。感心する」


「そんなに褒めなくても」


 本気で照れているハデスに嫌味を言った閻魔は通じていないと知って苦笑する。


 この男はこれだから憎めない。


 こんな気性でなければゼウスに全知全能の神という座を奪われはしなかっただろうに。


 実際のところ、力ではハデスの方が上なのだし。


 しかしその優れた力と相反するように、ハデスはお人好しだ。


 冥府の王というのが似つかわしくないほどに。


 だが、それでも冥府の王。


 苛烈な気性も持ち合わせていた。


 でなければ閻魔とは親しくなれない。


 どちらの要素が欠けていても、今の自分たちの関係はなかっただろう。


「それで? フラれた愚痴でも言いにきたのか?」


「いや。閻魔に頼みがある」


「わたしに頼み? そなたが?」


「俺と違って閻魔には優秀な配下がいる。だから、頼めると思った」


「……なんの話だ?」


「あの人を……護ってほしい」


 そげなく袖にされていても、まだ案じているハデスに閻魔は呆れる。


 ここまでくると一種のバカだ。


 そもそもクルスライムが去るとき、ハデスが全身全霊で引き止めていれば、もしかしたら引き止めることに成功したかもしれないのに。


 クルスライムはこの世界を愛していた。


 だから、去りたくなかった。


 だれかに引き止めてほしかった。


 だが、だれも引き止めはしなかった。


 1番に引き止めてほしいと瞳で請われたのがハデス。


 そしてハデスはそれに気付かなかった。


 引き止めてもらえないと知った彼女に泣きつかれたのが閻魔。


 けれど閻魔は2番目だということが許せなくて、結局のところ彼女を引き止めたりしなかった。


 ……後悔しなかったと言えば嘘になる。


 特に彼女の最期を知ったときは、2番目でもいい。


 引き止めればよかったと激しく悔やんだ。


 そんな閻魔にハデスは彼女を護れという。


 他でもない。


 1番彼女に愛されていた身でありながら、その現実にその価値に気付かず受け流しているハデスが。


「そなた……わかっているか? そんな真似をすれば必ず後悔するぞ。あのときのように」


 引き止めなかったことで後悔したのはハデスも同じだった。


 あの後何度も愚痴られたからだ。


 後悔するぐらいなら引き止めろと何度喉から出かかったことか。


 ハデスが自分の気持ちの真剣さを自覚していれば、あの悲劇は避けられたのだ。


 なのにハデスは今頃になってそんなことを言う。


 閻魔には愚かなことにしか思えない。


 人の心は移ろうものだ。


 身近にいる人に心は動かされていく。


 それは彼女でも例外はないのだ。


 あの頃1番身近にいたハデスに心を寄せたように。


 なのに……。


「後悔なんて失ったときほどひどく感じることはないだろう。例え俺が愛されなかったとしても、だ」


「そなたはバカだ。どうして気付かない? 彼女が見ていたのは」


「閻魔だろう?」


 究極の勘違いに閻魔は開いた口が塞がらなかった。


 呆気に取られてバカげたことを口にするハデスを凝視する。


「彼女の瞳に映っていたのは、いつも閻魔だった。だから、閻魔なら彼女を引き止めるだろうと思っていたんだ」


「そなた……もしかして本物のバカか?」


「その言い方はひどい」


「いや。今の話を聞いてどうしてハデスが行動に出なかったのかよくわかった。ここまでいくと救いようがないな。本物のバカだ」


「いくら閻魔でもひどいぞ、それは」


 見えるはずのものを見ずに無闇に手探りしていて、なにを言っていると閻魔は言いたい。


 ハデスがここまでバカだとは。


 そもそも彼女に1番に召喚されたのが自分であるという時点で気付けと思う。


 閻魔が召喚されたのはハデスより後だ。


 正確には2番目。


 だから、自分たちは似たり寄ったりの立場も相まって親しい反面、反目もした。


 だが……。


「それとも二郎真君が好きなんだろうか? 閻魔に対してよく当て付けのように二郎真君の名を出していたが」


「いや。あれはただな好奇心だと思うが……そなた本当にバカだな」


「バカバカとひどいぞ、閻魔」


「いや。本気でそう思ったから。天然記念物ものの鈍感さだ」


「じゃあ釈迦如来? 彼女は俺たちの神話より、そちらの方に関心があるようだったが」


 どんどん話がズレていくハデスに閻魔は面白そうに彼を眺める。

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