第5話
食事の席はなんの問題もなく進んでいたが、来夢は時々かけられる質問に答えるのに忙しくて少々うんざりしていた。
来夢が油断したころにクリスは質問を投げてくるのだ。
たとえばケリーやアンナと逢う前はどうやって過ごしていたのだ、とか。
あのふたりとはどうやって出逢ったのだ、とか。
奴隷ではなかったらしいが、どうして奴隷のフリをしていたのか、とか。
指摘されたくないことばかり次々と問いかける。
それも来夢が油断しきっているときに。
たとえばそれまで来夢はろくな食事に当たっていなかった。
そのせいで王族の食事がこんなにおいしいとは思わなかった。
それまでが散々だったので、美味しい料理に当たる度に喜び、つい夢中で食べてしまうが、そんな頃合いを見計らってクリスは問いかけてくるのである。
熱いスープを飲んで舌を火傷しそうになり、それを第二王子アーノルドにからかわれて言い返したときなどに、フッと口を挟んでくるのだ。
来夢はすっかり油断しているものだから、うっかり答えそうになったりして、そのうちこの王子は油断ならないと思えるようになってきた。
客人扱いをするのも来夢を丁重に扱うのも、すべて来夢を油断させて真実を引き出すためにだと気づいた。
日本にいたころなら気づきもしなかった駆け引きに来夢はげっそりした。
たかが16の子供の自分が、どうしてそんな真似をしないといけないのか、本当はこの油断ならない王子に食ってかかりたかった。
そんなことをしたらどんな目に遭うかわからないということで、つい口を噤んでしまうけれども。
疲れるばかりの食事が終わり、来夢はやっと自室へ引き上げることが許された。
そのころには第二王子アーノルドも、第一王子ルヴィもクリスの意図に気づいていた。
クリスは来夢のことを詳しく知りたくて彼を油断させ、情報を引きだそうとしていたのだと。
来夢が疲れ切った足取りで自室へと引き上げて、クリスも食事の席を立とうとしたときに、フッとアーノルドが、アルトが問うた。
「兄上。彼は何者なのですか?」
「どういう意味だい、アルト?」
立ち上がったクリスが振り向いて弟に問い返す。
弟はそんな兄をまっすぐに見返した。
「兄上。ぼくをごまかそうとしても無駄ですよ。兄上は彼から情報を引き出したがっていた。だから、彼を油断させ何度も引っかけようとした。それは何故ですか?」
「クリス兄さまは今日、大神殿に行ったはずよね? それがどうして彼みたいな人を連れ帰ることになったの?」
幼い妹にまで首を傾げられ、クリスはふたりが揃っている傍へ行き、ふたりの目の前に布にくるまれた漆黒の髪を置いた。
「「これは?」」
「わたしが今日大神殿に行った理由は知っているだろう? そこで大神宮から手渡されたものだよ。大神殿に穴が空いた後に落ちていたものらしい」
ルヴィは人の髪ということで触りたがらなかったが、軍人であるアルトはなんの抵抗もなく細い髪を手にした。
目の前に翳す。
「漆黒の髪?」
「え?」
ルヴィが来夢が出て行った扉を振り返る。
彼の色彩をみたときはルヴィも驚いたものだが。
彼と同じ漆黒の髪が大神殿に空いた穴の傍に落ちていた?
それは不可解極まりなかった。
「すこし情報を集めてみたけれどね? 大神殿になにかが落ちてきたところを目撃した者はいない。真昼だというのに、だ。
そして穴が空いたその場所に直後落ちていたのがこれだったわけだ。どう考えても落ちてきたのは漆黒の髪の人間、ということになるんだよ、ふたりとも」
「お言葉を返すようですが、兄上。いくらなんでも人間が落ちてきたなら助かりませんよ。神殿に穴を空けるなんて人間には無理です」
「そうだね。わたしもそう思うよ」
もし万が一にも落ちてきたのが人間としよう。
どうやったら空から落ちるのか不明だが、その場合、 落ちてきた人間は神殿に激突するわけで、どう考えても潰れるのは神殿ではなく人間の方だ。
助かるわけがないのだ。
「しかし神殿にあの空いた穴はちょうど子供がひとり通り抜けられる程度の穴だった。そして彼が身を寄せていたのは神殿の工事の際に責任者をやっている奴隷の親子の元」
「それはたしかに疑ってくださいと言っているようなものね。でも、あの色を持っていたならもっと騒がれそうなものだけれど?」
首を傾げる妹にクリスはため息をつく。
「彼は決して姿をみられないように全身をマントで覆い顔もフードで隠していた。あの色を隠すためだろうが、後ろ暗いところがなければ別段隠す必要はないだろう? むしろ珍しい色を持っているということで、予想外の幸運な話だって舞い込んだかもしれない」
「それは確かに。あの外見ですしね。貴族に気に入られて……ということも考えられないではない」
「それにね? ふたりもさっきのやり取りで気づいたかもしれないけれど、どうも彼は出自を問い詰められたくないようだ」
「確かに出自に関することになると口を噤んでいたわね。これまでどうしていたのか、とか。出自を掴まれそうな問いには口を噤んでいたもの」
「あと名前も本名かどうか怪しい」
「どうしてですか?」
不思議そうに問う弟に兄は名を問いかけたときのことを打ち明けた。
「わたしが名を問いかけたとき、彼は確かにクライムと言ったんだ」
「クライム? でも、兄上は確かライムと彼を呼んでいませんでしたか?」
「クライム? と問いかけたときにライムだと否定されたんだよ。それで気づいたけれど彼がクライムと名乗ったように聞こえたとき、彼は最初の一文字のクを口走ったあとで、すこしの間を空けてライムと付け足したんだ。だから、わたしは繋げてクライムだと思ったんだが、どうやら彼はライムと言いたかったらしい」
「つまり? ライムという名が本名だとしても、正式名ではない可能性があるってことね? クという名のつく正式名を彼は持っているかもしれない、と」
「そういうことになるね。ライムと呼べば普通に反応するから偽名ではないんだろう。だが、正式名ではないはずだ。彼にはきっと違う正式名がある」
「もしかしたら姓を隠している?」
アルトの問いにクリスは困ったように笑う。
「しかし正式名を名乗るときに姓から名乗ろうとする者がいるかい? わたしたちだって名前から名乗るだろう?」
「しかし他国には名前から姓へと繋がる名付けではなく、姓から名前に繋がる名付けもあるとぼくは聞いていますよ」
「そうなんだけれどね。まだライムというのが名前なのか姓なのか、その判断を下すのは早計だろう。どうして彼は奴隷のフリをしていたのか、これまでどこにいてどうやってこの国にきたのか、知りたいこと知らなければならないことは数多い。先入観は禁物だ」
「アルト兄さま」
「なんだ、ルヴィ?」
「わたくしが聞いたかぎりでは姓から名前に繋がる名付けの場合、ライムなんて名前を名付けられることはないと教授たちは言っていたわ。
例えばアキラとかイチロウとかスズとか、そういう名付けだって。姓だとしてもおかしいわ。姓の場合もっとライムという名付けはありえないから。
それはどちらかといえば、わたくしたちと同じ名付けの法則でしょう?」
ライムという名付け自体すこし変わっている。
こちらでもほとんど聞かない名前だ。
本当に彼は何者なんだろう?
答えの出ない問いを胸に3人は黙り込んでしまった。
そのころ、当の本人の来夢は食事時の疲労が祟って寝台に寝そべっていた。
今になってつくづく思う。
「俺…来夢って名前で助かったかも」
日本では栗栖という名字も珍しければ来夢という名も珍しかった。
栗栖に関してはクリスと呼べば、そういう名付けは普通にあった。
珍しい名付けには違いなかったが。
だが、来夢が生まれた頃には来夢というような名付けは、正直なところ珍しすぎて目立ってばかりだったのだ。
おかげで来夢は昔、特に小さい頃は自分の名前が好きではなかった。
栗栖と名乗れば外人みたいだとからかわれ、来夢と名乗れば変な名前だとイジメられる。
その繰り返しだったからだ。
クルスライム。
続けて名乗ればまるで外国名である。
そのせいで来夢は自分の名前が好きではなかったのだが、こちらにきて来夢でよかったとつくづくと感じた。
来夢と名乗って不思議がられることがほとんどないからだ。
変わった名前だと思われても偽名だと思われることはない。
こちらでそういう名前が普通だからだ。
クリストファーやアーノルドみたいに。
万が一圭介とか大地とか、そういう日本名だったら、おそらくこちらでは浮いてしまっていただろう。
正志とか勇気とかそういう名前もダメだ。
海外で名乗っても通用する名前。
そうでなければもっと早くこうして連行されていただろう。
「あー。でも、勇気ならユーキとか、ユウキとか発音すれば通用するか」
でも、来夢でよかったと感じたのは生まれて初めてだ。
父や母は心配しているだろうか。
なんとかして元の世界に戻りたい。
もしかしてペガサスを操ってみせたあの王子なら、この世界の者に本当のことを打ち明けたら、元の世界に戻る方法も考えてくれるかもしれない。
けれど、それはひとつの賭だ。
最悪の事態を招く恐れだってある。
よく考えて動かなければならないだろう。
「なんで齢16でこんな苦労を背負わないといけないんだ、俺?」
つくづくツイてないと感じる。
まあ学校で倒れたあのときから来夢がツイてないのは明らかだったけれど。
「とにかく今日は寝よう」
呟いて布団にもぐり込んだ。
久しぶりのフカフカの布団。
気持ち良くて深く考えることもできないままに、来夢は夢の世界へと落ちていった。
来夢はどことも知れない世界の中にいた。
夢だなとすぐにわかる。
だって足元が雲だ。
感触のない雲の上を歩けば、すこし先に女性らしき影があった。
顔も姿も見えない。
でも、シルエットで女性だとわかる。
その女性は雲の隙間から下を覗き込んでいる。
『なにしてるんだ?』
来夢が問いかけるとその女性は微笑んだようだった。
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