二の一

 もう四つを過ぎたころだろう、玄関のほうから音を忍ばせそっと戸が開け閉めされて、こそこそと家に入ってくるふとどき者の気配が、しじまのなかを這うようにして伝わってきた。

 ――やっと帰ってきおった。

 油がもったいないので行灯の火はとうに落としていたが、清九郎は暗闇のなか凝然と端座していた。

 きぬずれの音さえさせないように、苦心しながらこそこそと廊下を歩く息子の気配はどこかみじめったらしく、静寂のなかにただよう床板のきしむ音は、ともすると悲しげですらあった。

 清九郎はおもむろに立ちあがった。

 呼びつけるのももどかしい、こっちから出向いたほうがてっとりばやい。

 どたどたと床板を踏み鳴らし、真之介の部屋へと向かった。

 けたたましく部屋の障子を開けて、どっかと腰をおろして、清九郎は声高に云った。

「いったいどういう了見だ」

 ほろ酔いかげんで着流し姿で、怠惰に寝そべっていた真之介は、おっくうそうに身体を起こして、それでも一応は礼儀正しく正座して、父に面と向かい合って、

「どういうもなにも、つきあいというものですよ。父上もお城に勤めていたのですから、わかっていただけますでしょう」

 真之介は悪びれもせずにそう返答して、赤い顔に酒臭い息であくびをかみ殺している。その云いようには、人づきあいというものをさけて生きてきた清九郎にたいする皮肉が多分にふくまれていたが、かまわず清九郎は、話しはじめた。

「なにも毎晩呑み歩いていることを叱責しようというのではない」

「じゃあなんです」

「なんですではない。矢崎からきた縁談だ。お前、勝手に断ったそうじゃないか」

「ああ、矢崎さんですか」

 二十八にもなって妻をめとらぬなど……、とは清九郎には云えない。自分はどうなのだと切り返されればかえす言葉がない。自然、別な角度からちくちくといじめていくことになる。

「あそこの里緒という娘は、けっこうな器量よしで気立てもいいという評判だ。それを、わしの了解も得ずに断るとは、いったいどういう了見だ」

「私に来た縁談なんですから、私みずからことわるのが筋というものでしょう。口下手で押しに弱い父上に間に入っていただくと、かえってことが面倒になりかねません。だから私がじかに話をつけてきたのです。間違ってはいないと思いますが」

「だからと云って、わしにひことこあってもよいだろう……、夕方、中村さんに散歩帰りにばったり会って話をうかがって、顔から火が出る思いだったぞ。親に恥をかかせたのだぞ、お前は。間違っていないと云うが、了見ちがいもはなはだしい」

「そう了見了見とおっしゃられましても、私には私の了見がございますので」

「じゃあその了見とやらを聞かせてみよ」

「だいたい父上は」と真之介は面倒そうに口をひらいた。「結婚などというものにはご縁が……、ご興味がなかったでしょうからご存じでないかもしれませんが、縁談が来ました、じゃあ祝言をあげましょう、で済むような簡単なものではないのです。今後ずっとそいとげるわけですから、そりゃあ見た目の好みもありましょうし、ふたりの性格の相性や食べる物の好き嫌いもあります。器量がよくって気立てがいいというだけで、うまくやっていけるものではありません」

「そんなこと、お前に講釈してもらう必要はない」

「私の見るところ……」と真之介は聞き流して続けた。「というのは、独断で里緒どのの素行や人柄を知人に調べてもらったのですが、どうも私とは性格が不一致といいますか、うまくやっていけそうな気がしませんでした。ですから、先方には大変もうしわけないのですが、熟慮に熟慮をかさねた末、仲人の中村さんのところに先日おじゃましまして、お断りさせていただいたしだいです」

 ――この息子は……。

 赤い唇の隙間からみえる、油がゆき届いた歯車のようにくるくると回る舌をながめながら、清九郎は閉口してしまった。

 伯父、甥の間柄だったころから、こいつは生意気だ、口先ばかりの人間だ、と当然わかってはいたし、それでも可愛い甥なものだから、頭の回転がはやいとか目端がきくとかよいふうにとらえていたが、養子にしてからというもの見る目が厳しくなったのか、いたるところに顔をだす人間的な軽薄さばかりが目についてしかたがない。

 清九郎は、頭にのぼってくる血流に突きあげられるように立ちあがり、

「勝手にせいっ」

 投げ捨てるように云って、入ってきた時よりも数段高らかに床を踏み鳴らし部屋をでた。

 ――このままでは、自分の二の舞になるのではないか。

 二代続けて当主が独り身をとおしたとあっては、佐野の家名に傷がつきかねない。

 真之介を養子にした直後から、いくつかの縁談が佐野家に舞いこんだ。なかには今回のように美人と名高い娘との話もあったのだが、真之介はまるで気が向かないないようで、首をたてに振ることは一度もなかった。

 結婚にまったく興味のなかった清九郎とは違って、人並み以上に女に関心があるように見える息子であるのに、不思議というか、不審にさえ思える態度であった。

 ――いったい、なにを考えているのやら。

 そんな心配が清九郎の胸に、落ち葉がつもっていくようにつのっていき、二、三日もたつと、いてもたってもいられない気分になってきた。こんなとき、妻がいれば相談もできたかもしれないが……。

 子をもつということは、たえずこのような心配ごとを胸に抱えていなくてはならないということなのだろうか。子供が生まれて、しだいに成長していき、成長するごとに折節の心労があり、大人になっても憂悶にさいなまれ続けなければならないものなのだろうか。

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