一の二

 隠居御殿、と清九郎が呼ぶ、くたびれた百姓家まで、もう半里ほどである。

 少ない役高の生活のなかで、爪に火をともすようにちまちまと金を貯めて、三十年もかけてどうにか老後のたくわえができた。酒も飲まなかったし、博打や女に金を使うこともなかった。妻もいなかったし、先年まで子供もいなかったから、どうにかつくれた貯蓄であった。

 それで、息子に嫁をもらえば狭い家には居づらくなるだろうし、近所づきあいもわずらわしかったし、屋敷を出て田舎に引っ込もうと考えた。

 ――だいたいわしには侍という身分が不似合いだ。

 清九郎はつねづねそう思っていた。

 武士だ侍だと、偉そうにふんぞり返っていても、内実は同僚の瑕疵をみつけては引きずりおろすことばかり考えている連中ばかりだし、同役連が集まれば、そこにいない人間の悪口で話が盛り上がる。市塵にまみれて生きている町人たちとなんらかわらない低俗な者たちばかりだった。いや、素直に生きているだけ町人たちのほうがずっと人として善良なくらいだ。

 ――もううんざりだ。すべてを投げ出して、のんびりと、静穏な生活を送りたい。

 と、考えていたところへ、八カ月ほど前のことだったけれども、下男の辰平が、坂井村に空いた百姓家があるという話をもってきた。なんでも、商家の隠居が長い間住んでいたそうだが、何年か前に亡くなってからは、ずっと空き家になって放っておかれている、ということだった。地主も、空いたままにしておくよりは、誰かに貸りてもらいたいと考えていたところであったらしい。

 安く貸すかわりに、傷んだところの修繕はそちらでしてもらいたい、という条件が付いたが、清九郎は、あまりに希望の条件にぴったりな話だったものだから、その物件を見もせずに契約をしてしまった。おまけに、なにか気が大きくなっていたのか、一年分の家賃をまとめて先払いしてしまった。

 そうして春ごろに初めてこの家にきたときは愕然とし目を疑ったものだ。

 ――これではまるで、狐狸の棲み処ではないか。

 ペテンにかけられたとしか思えなかった。

 萱葺きの屋根は全体が傷んでところどころぺんぺん草がはえていたし、戸板は割れているし、壁にも大きな穴がいくつも空いていて、ほんとうに狐や狸が住んでいても不思議ではないありさまであった。

 庭も広いだけで、雑草がいちめんはえ放題にはえていて地面が見えないほどであったし、片隅に植えられた躑躅つつじも枝が伸びたままで、咲いている野花たちも眼を癒やす趣きなど皆無で見苦しさに拍車をかけているようなものであった。

 家の軒下まで枝の広がった柿の木においては、もはや魔物が両手を広げて家屋に抱きついているような気味悪さすら感じられた。

 気をとりなおして大工をたのめば、片手間仕事くらいにしか考えていないようで、金の催促ばかりで修繕作業は遅々として進捗をみせない。

 それでこの何カ月かの間、天気さえよければチビとの散歩がてら、修築のようすをうかがいに足を運んでいるのであった。


 川を渡ると町並みは途切れて、まだ稲の刈り取りを終えていない田が所々にみえ、冷たい風の吹き渡る田畑の間を進んだ。ほどなく将来の住まいへと到着したが、いささか落胆した。

 ――さほど作業が進んでいないではないか。

 あの棟梁め、と清九郎は歯噛みした。あの大工の棟梁、なんだかんだと理由をこねて、まったく身を入れて仕事をする気がないようだ。怠け者め。

 それでも、壁の穴はいくつかふさがっていたし、雨戸もとりかえられていた。当初よりはずいぶんましになったほうである。

 愛想だけはよい棟梁の顔を思い浮かべつつ、まだ木の香もかおる雨戸を二枚ほど繰ってなかをのぞけば、囲炉裏のきってある八畳間の床板には埃がうず高くつもったままで、舞いあがった無数の塵が西日に照らされてきらきらと輝くのであった。

「辰平も辰平だ。あの爺さん、わしと一緒にここに住むつもりなら、暇をみつけてたまには掃除にくればよいものを。そうは思わんか」

 とチビに同意をもとめるように見たが、まるで関心などしめしてはくれず、はあはあ云いながらまだ三分の一ほども雑草ののこる庭の景色を眺めている。

 さて、と縁側に腰をおろして清九郎は思案した。

 来るたびに柿の実がちょっとずつ育っていた。

 どこでみわけるのか、辰平に云わせれば渋柿だそうで、もう少し経って実が大きくなったら、干し柿を作れそうだ。

 ――あの川原の娘は干し柿は好きだろうか。

 寂しげな後ろ姿の心象といっしょに、そんな思いがふと心によぎった。

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