君と終わりを幾千夜。

夕野草路

relive_the_end_of_world_1.txt

青い匂い。

朝露に濡れた草原の中に、そのバス停はポツンと有った。

降れば雨漏るボロボロの屋根と、傾いたベンチ。

電動バスが走っていたのも、俺が生まれるずっと昔。

錆びた赤い看板も、今は意味なく立ち尽くすばかり。


今朝はこのバス停で、来ないバスを待ってみようと思った。


腰かけるとベンチが不安げに軋む。

その感覚も心地良い。


視線を上げる。

まるで壁のようにそびえる急峻な山々。

朝もやに包まれた山様は、確かに、そこに神を見出したとしても不思議ではない。

長野県は日本アルプス。ここはその外縁。遠く、八ヶ岳が見えた。


ポケットから文庫本を取り出す。

古い紙の匂い。

ひんやりと湿った朝の空気が心地よい。

透明な大気も、あと一時間もすれば、セミの声で塗り潰されるだろう。

夏の一日で、一番、静かな時間。


「コーヒーちょうだい」


という一言で去ってしまった。


詩姉うたねえ

「んー、おはよー。……ふぁ」


欠伸を一つ。まなじりの涙を指先で掬う。

隣に腰を掛けると、ベンチが軋む。


「コーヒー、ちょうだいよ」

「あー、はいはい」


持参したボトルを取り出す。

蓋を外せばそれがコップになる。

黒曜石色の液体が注がる。

漂う湯気と、ふわりと立ち昇る香り。


「お砂糖とミルクは?」

「無い」

「えー。苦いじゃん……」

「じゃあ飲むなよ」

「でも、えんが飲んでたからさぁ」


しぶしぶと言った様子で、カップの端に口をつける。

そして、開口一番


「うわぁ、まずい……」


と一言。


「仕方ないだろ。コーヒーなんだから苦いよ」

「そういうんじゃなくて、普通にまずいよ。なんか、酸っぱい……」

「あー、そう言えば、親父、新作だって言ってた」

「失敗だったんだね」

「また、な」

「料理は美味しいのにねぇ」

「言ってやるなよ」


ぐい、と彼女がカップを突き出す。

覗き込めば、まだなみなみと黒い液体が残っていた。


「あげる」

「要らねえよ。まずいんだろ?」

「じゃあ、誕生日プレゼントてことで」

「なっ……」


自分で作ったわけでもなく、しかもまずいコーヒーを、彼女は誕生日の贈り物だと宣う。


「控えめに言って最悪じゃないですか?」

「良かったじゃん。ボクの間接キス」

「嬉しくない」

「本当は?」

「嬉しくない」

「でも美人じゃん。ボク」


いけしゃあしゃあと、そんな事を言ってのける。


ちらり、と横目に見る。


確かに。


白い肌。

しなやかな黒い髪は、結べば自然に解けるくらい。

すっと通った鼻筋に、切れ長の涼し気な目元。

形の良い唇は、ほんのりと桜の色。


確かに、美人と呼んで差し支え無いのかもしれない。



掛け違えたボタンのパジャマを着て、

おそらくトイレの物と思わしきサンダルをつっかけていなければ。


「詩姉。単に造形が整ってることを、美人とは言わないんだ」

「うん。知ってる」

「あ、そう」


目の前の液体を呑み込む。

確かに、酸っぱい。


「誕生日プレゼントは冗談だけどね」

「え?」


美人云々は冗談じゃないの?


「はい。これ」


そっぽを向きながら、ぶっきらぼうに彼女が差し出すそれを受け取る。

紙の束、ではなく本。


「だけど、これ、紙が新しい……」


紙の書籍など無くなって久しい昨今。

手に入る本は年代物だ。

しかし、この文庫本、紙が新しい。


「もしかして、詩姉が自分で?」

「一応、ね」


表紙のタイトル彼女の手書きだろう。


『人間失格』


素直に伸びる線。

達筆とは言えないけれど、嫌いではない。


「あー、だけど、この本もう持って――右わき腹に鈍い痛み!?」

「……タイトルが、あんたへのメッセージってことで」

「誕生日にこれ以上無いくらい相応しい言葉だよ」


手作りの本の背表紙を撫でる。

太宰は人気が有る上、その代表作ということで発行部数も多い。

『人間失格』は手に入りやすいのだ。

実際、既に四冊持っている。

しかし、この一冊はなかなか。


「詩姉」

「何よ?」


丸めた膝に頬杖を突きながら、彼女は言う。唇を尖らせて。


「ありがとうな」

「……ま、おめでとう、ってことで。十六歳」

「十六歳か」

「十六歳だね」


十六回目の誕生日は少しだけ特別な意味が有る。

それは、新しい世界に旅立てる年齢。


「やっぱり、楽しみだった?」

「少しはね」


詩がいたずらっぽく笑う。


「こんなところまで来たのに?」

「外で本が読みたい気分だったからな」

「あ、来たよ」


詩が巨大な入道雲を指差す。

別に、あの中に浮かぶ城を見つけた、とかではなくて。


「……どこだよ?」

「ほら。あそこ」


目を凝らす。

しばらくして、白い入道雲の中に一点、黒い粒が見つかる。


詩には、ずっと前からアレが見えていたのか。

どういう視力してるのか。


それは荷物搬送用のドローンだった。

近づいてくる。


ほどなく、頭上を通り過ぎた。


プロペラの巻き起こす風が樹々を揺らす。


「来たね。本命の誕生日プレゼント」

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