第一章 知らない場所
ぼんやりと滲む世界で一番最初に目についたのは、ビリビリと電気が走り点滅を繰り返す電灯と、見覚えのない白い天井だった。
「白……」
何かが引っ掛かるのに僕の頭はそれ以上動くことはなかった。
「お、目が覚めたのか!」
電気の走る音だけが響いていた世界に男らしく、でもどこか甘いその声はよく響いた。
途端に視界に入るのは黒い髪と赤い瞳。
僕の知っているようで知らないそれは、嬉しそうにこちらを覗くと僕の手を引いた。
「目が覚めて安心したぞ!」
起こされた体に浮遊するような感覚の残る頭。
「目が覚めたばかりで混乱しているだろう?落ち着くまでそうしているといい」
声の主はそう言い残すと部屋を出ていった。
ゆっくりと辺りを見回す。
その部屋は一面白で覆われていた。
部屋には僕が使っている白いベッドと同じ物がもう1つ。あと、教室で見かけるような教師の使う鉄の机と椅子だけが静かに置かれ生活感はない。
ここは何処だろう……
僕は確か……
思い返そうにも突然走る頭痛に考えることをやめた。
ただ何もせず呆然と辺りを見回すことを繰り返す。
「腹は減っていないか?」
どれ程時間が過ぎたのか分からないまま、気が付けばその声の主は再び戻ってきていた。
「とは、言ってもすぐに用意出来る物はこんな物しかなかったが……」
見せられたのは固形の栄養補助食品で……
そんな物でも目につけば、不思議なもので僕のお腹は大きく鳴った。
「ありがとうございます……」
ようやく口することが出来た言葉は酷く枯れた声で、上手く伝わったのか分からないまま僕はその固形物を手にした。
「ん、食べ物の前に水だったか。気が付かなくてすまん」
そう言いながらペットボトルの容器の蓋を開けるとそっと差し出す。
何でこんなに良くしてくれるんだろう。
疑問が浮かびながらも僕はその水を口にした。
乾いた喉へ染み渡るように冷たい感覚が広がる。
水はこんなにも美味しいものだったのか……
そんな感想が不思議と浮かんだ。
それはまるで当たり前のように口にしていた物を、今まで口にしていなかったかのような感覚で……
僕は手元の水をジッと見つめた。
「目が覚めてすぐがこんなところでは驚いただろう」
声の主は気さくに話す。
この人は僕の事を知っているのだろうか……
「なに、そのうち慣れる。今はもう少しその体を休めるといい」
そのまま何処かへ行こうとする背中。
黒い何処かの軍服のような服の前は腰の辺りまでなのに、後はくふくらはぎの真ん中辺りまで延びて、方向転換の名残で揺れている。
「あ、あの……」
「ん?どうかしたのか?」
首だけを後方へ向けて人当たりのいい笑みを浮かべると、その口元で八重歯が光った。
右側が長く垂れ下がった前髪の奥で光る赤い瞳から伝わってくる暖かい眼差し。
なぜ僕にそんな目を向けることが出来るんだろう……
浮かぶ疑問に気が付いたように彼は隣のベッドへ腰を下ろした。
「そうか、自己紹介がまだだったな。俺はこ……」
言いかけた名前を飲み込むように止めると、一瞬何かを考えて再びこちらを見る。
「俺はコウだ。光と書いてコウと読む。気軽にコウと読んでくれ」
「僕は……」
あれ?
どうにもこうにも自分の名前が思い出せない。
「大丈夫か?」
急に黙り込んでしまったのに変わらず優しい言葉をかけられて、僕は思わず彼の顔を見つめた。
「もしかして……名前が分からないのか?」
すがるような目をしてしまっていたのかもしれない。
少しだけ困惑した表情が見えて、急激に押し寄せる不安。
この分からない場所で僕は唯一の存在を失うかもしれないと思った。
「僕は……」
これ以上不審がられるのも嫌で必死に言葉を探すも、巡る思考の中に答えは見つからない。
「僕は…………」
「無理をしなくてもいいぞ。そうか、名前すら失っているのだな。安心しろ……俺は、お前が何者かをちゃんと分かっている」
僕を支配する不安を一掃する力強い言葉。
僕を知っている……
普段ならきっと怪しいと疑っただろうその言葉に僕は酷く安堵したのだった。
『シュウ』
コウは僕の事をそう呼んだ。
その名前が妙にしっくりきて僕はなんの疑問も持つことはなかった。
そして、コウは動揺した僕が落ち着いて、あの固形の食事を済ませるまで昔話のようなくだらない話を少しだけ聞かせてくれた。
「シュウはボールを投げるのが上手くてだな」
「なんだよ、それ……。僕、野球でもしてたの?」
「あ、いや……野球はやってなかったな。どちらかといえば部屋で何かを作ったりするのが好きだったぞ」
「へぇ……でも、ボール投げるのが上手いんだ」
「ああ!真っ直ぐ飛ぶものだから、俺はいつだって簡単に受けとめる事が出来たんだ!」
「え……キャッチボールかよ」
「まぁ、そんなところだな!」
「他には?」
「よく一緒に河原を走り回ったぞ!」
「僕、結構アクティブじゃん」
「ああ、そうだ!だが、俺達には絶対に勝てなかった」
「ん?俺達?」
「あ……」
「コウ?」
「本当はもう一人居るのだ」
「……僕の知ってる人?」
「ああ。だが今は……」
「ん?」
「いや、何でもない」
歯切れ悪い言葉を無理矢理切るとコウはその場で立ち上がった。
「そうだシュウ、落ち着いたなら建物の中を見てみないか?」
コウが何かを隠した事は今の僕でも分かる。
だけど、今それを蒸し返す事が正しい事とは思えなかった。
だから僕は……
「……仕方ないなぁ。行くか、コウ!」
「ふっ……」
何かを懐かしむような暖かい笑みを浮かべたコウは僕の手を優しく引いた。
部屋を出ても建物の壁はやっぱり白一色だった。
時折違う色があってもそれは無機質な鉄の塊で、ここまで色の無さすぎる世界を僕は初めて見たような気がした。
最初にコウが連れていってくれたのは、トイレやシャワールームといった生活に必要な場所で、ちゃんと生活のできる環境であることにホッとした。
「湯船は無いが我慢してくれ」
「ん、大丈夫」
「お?シュウは確か長湯だったはずだが……」
「え……」
「あ、ああ。すまん。そう聞いたことがあるんだ」
「そうなんだ……」
「歌が上手くてな。よく風呂場で歌っていたぞ」
「はぁ?」
「あ、いや、そう言っていたんだ」
「ふーん」
「よし、次に行こう」
シャワールームをそそくさと出ていく背中に、さっき一瞬見せた楽しそうな表情を思い浮かべる。コウは僕とキャッチボールをしたりかけっこをするような存在だったらしい。それも、本来なら友達には知られたくない恥ずかしい記憶を共有できる程の……
てか、キャッチボールとかけっこって小学生かよ……
そんな言葉が浮かんで、思わず込み上げてきた笑いを飲み込もうとしたら盛大に吹き出してしまった。
「ん?何か面白いものがあったのか?」
立ち止まって振り返ったコウは首だけを後へ向ける。
「いや、何でもないよ」
「本当か?その割りには楽しそうじゃないか」
「え?ま、まぁね」
「ん?」
「いや……コウと僕は子供の頃からの友達……だったんだなって思ってさ」
記憶のない僕が『友達』と言うのはおこがましいのかもしれなくて、尻すぼみになった言葉にコウは複雑そうな表情を浮かべたあと嬉しそうに笑った。
「シュウと俺は友ではなくてだな……あ、いや、その……何と言えば良いのか今は分からないんだが……」
「そっか……」
「だが、シュウには俺達とは別にとても仲がいい友がいたぞ」
あんな事まで知ってるコウとは別の仲のいい友達って……
「お、思い付いたぞ!」
「何?」
「友ではないが、友よりも近しい仲だった」
「家族とか?」
「それとも少し違うんだ。まぁ、それについてはおいおい話そう。それに……この話についてはもう一人欠かせない存在が居るんだ。あちらの方がシュウとの付き合いは長いからな。今はこれ以上話せなくてすまない」
僕以上に気落ちした表情を浮かべるコウにこれ以上聞くこともできず、僕はただそのまま頷いた。
沈黙にジーっという機械音が響く中、再び歩みを進め始めたコウの後を追う。僕よりも大きく背も高い背中は真っ直ぐと綺麗に伸びていた。
黒い背中を追う……
僕はこれに近い光景を何度も経験しているような気がして、不思議とコウを疑う気持ちはなくなっていった。
「次はここだ」
複数あった鉄の扉のほとんどを無視して辿り着いた鉄の扉には、『医務室』と書かれているプレートが付いていた。扉の脇にあるボタンを押すと、その重そうな扉は結構な速さで開く。コウが入っていくのに置いていかれないように小走りで入れば、その光景は見知ったものだった。
「学校の保健室みたいだ……」
小さく漏れた僕の言葉を拾ったのか、クスリと笑ったコウは丸い椅子に座ると、くるりと回して僕の方を向いた。
「コウは先生っぽくないな」
「ん?それは俺が黒いからか?」
「それもあるんだけど……雰囲気的な問題?」
「はっはっは!相変わらずシュウは失礼だなぁ」
「え、ごめん!そんなつもりじゃ」
「いや、いいぞ!シュウはよく俺にこう言っていた」
『お前は本当に落ち着きがないな』
「落ち着きがない医者ほど恐ろしいものだろ」
僕がそんなことを言っていたなんて……
今の僕からすればコウはかなり落ち着いていると思う。
「だがな、怪我や不調があったら、頼りないかもしれないが構わず言ってくれ」
「ありがとう」
「兄貴がいればな……きっとシュウは安心してこういう事を頼めるはずだ」
「兄貴?」
「ああ、さっきから話しに出ていたもう一人だ」
「コウの兄さんだったのか」
「あー、正確には兄ではないのだが……俺はそのように思っていた。落ち着いてはいるがマイペースな人でな……だが、怒らせると結構恐ろしい」
「コウが恐ろしいってどんな人だよ」
「はっはっは!俺には少々手厳しい人だったんだ」
「えー。僕なんかめっちゃ怒られそ」
「そう思うか?」
「うーん……分かんないけどそんな気がした」
「シュウには甘過ぎる人だったぞ。いつも俺だけが怒られてはシュウは笑っていた」
「え……僕最低じゃん」
「ははは!シュウは変わらず素直だな!」
「はぁ?なんでそうなるのさ」
「シュウは笑ってはいたが、そのあと必ず兄貴を叱っていたんだ。あんまり意地悪をしてやるなと……な」
「僕、年上にかなり失礼だったんだね」
「俺達の間に年齢は関係なかったからな。いつだってシュウが中心だったんだ」
「僕が…中心……」
「ああ」
「いつか……全部思い出せるかな……」
「時が来れば思い出せるさ。さて、次に行くか?」
「うん」
勢いを付けて立ち上がったコウは足早に進んでいく。
何処を歩いてもあまり風景の変わらないこの建物を、迷わずに進んでいけるのは凄いと思った。
なんていうか……精神病の病院みたいだ……
まさか僕は……
なんてね。
だったらそうだとコウは隠さずに言ってくれるはずだ。
短時間でも分かる。
コウはそういう隠し事はしない。
じゃあ、ここは一体どこの建物で、なぜ僕達はここで過ごしているのだろう。
それにしてもここには……
「着いたぞ。ここは食堂だ」
僕の思考をおもいっきりぶった切ったコウは、両開きの大きなガラス扉の片方を開けて入っていく。
その後をまた小走りで着いていくと目についたのは大きな機械で、僕のイメージする食堂とは全くの別物だった。
「うむ……今夜からは使えそうだ」
機械を確認したコウは苦笑を浮かべる。
「これは何の機械?」
「ん、これか?これは調理器だ」
「調理器?」
「このタッチパネルでメニューを選べばその料理が出てくる。しばらく使って居なかったらか起動してもなかなか動かなくてな!さっきは間に合わなくてあんなものですまなかった」
「はぁ……」
料理って機械で作るものだっただろうか……
いや、違うだろ。
いくら記憶がないとはいえ、僕の知る食堂とは誰か調理できる人がいてそれを口にする場所だ。
「ああ、そうか。シュウはこれを初めて見るんだったな。では、夜にでも試してみよう。夜には上手いものが食べられるぞ!とはいえ、俺も使うのは初めてだがな!はっはっは!」
「初めてって、コウは何を食べてたのさ」
「俺か?俺は……そうだ!さっきのやつを食べていたぞ」
「え……」
コウの体は適度に筋肉の付いた健康的な印象だったんだけど……
あんなものだけでそんな体が作れるものなのだろうか……
「なに、心配はいらん。俺は健康だぞ」
「聞いてないよ!」
「はっはっは!シュウも大分ほぐれてきたな!俺は嬉しいぞ」
「そりゃどうも」
僕はこのコウの雰囲気に、さっき切られた思考を今なら聞いてもいいような気がした。
「あのさ……コウはそれでいいとして他の人は何を食べてたのさ」
コウの赤い瞳が大きく見開いて揺れると途端に曇っていく。
「何?」
「この建物に居るのは俺とシュウの二人だけだ」
やっぱり……
なんとなく気が付いてはいた。
妙に静かな生活感のない建物。
響くのはジーっという小さな機械音だけで……人の気配を感じない。
「驚いただろう?」
「いや?なんとなく気が付いてたよ」
「そうか」
「僕が目覚めて良かったな、コウ」
「え……」
「お前はもう一人じゃない」
ホッと安堵する表情に安心したのは僕の方だった。
目が覚めて自分が何者かも、ここが何処なのかも分からなければ、本来ならきっと不安に駆られておかしくなるところだったと思う。現に最初は不安になった。
だけど今の僕は不思議と落ち着いていて、それは多分コウという存在があったから。だったらこれからは僕もコウの支えになれるようにしなければいけない。
ここには僕ら二人しか居ないのだから。
それになぜここに二人しか居ないのか……
一体何があったのか……
疑問は沢山あるけれど、いつか必ず教えてくれる。
そう思わせてくれる何かをコウは持っていて、それを信じてみたいと思ったんだ。
初夏の陽射しと白い人 KAHORU @regrets07
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