第二章 問題山積みの夫の農業

君に農業してくれなんて言ってないよ!


 私が熊本に来たのは、イチゴを収穫している時期だった。

400平方メートルほどのイチゴ畑は、9月に苗を植えた直後に農薬を使ったのが最後。気温が高くなるにつれて害虫と病気がひどくなっていた。

「この白いふわふわしたものはなに?」

「さあー、なんだろ」

 その夜、ネットで調べていた彼が報告した。

「うどんこ病だってよ」

 うどんこ病は、炭疽病と並ぶイチゴの大敵だ。ハウスの中でどんどん広がり、畑を壊滅させることもあるという。

「去年は燻煙剤使ったおかげで大丈夫だったのかなあ」

 イチゴを作り始めて2年目の夫は、イチゴの病気を見るのが初めてらしかった。

 最初は、病変のある茎や葉を抜いてハウスから出していたが、あまりに病気の伝染が早いので苗ごと抜くようになった。しかし、広がっていくスピードにまたも追いつかなくなり、苗を抜くのもやめた。

 夜な夜なネットはもちろん、本や雑誌をひっくり返してイチゴのうどんこ病に効果のある方法を二人がかりで調べた。

 神智学の分野で愛読していたルドルフ・シュタイナーの農業本に、スギナを煮だした液がうどんこ病に効くと書いてあったので直径80センチの巨大鍋で煮出して散布した。まったく効果がなかった。

 そうこうするうち、ヨトウムシ、アブラムシ、ダニなどの害虫がいちごのまわりに続々出現した。モグラなのかイタチなのか、正体不明の獣までが、夜のハウスに侵入して、イチゴを食べていった。

まったく知らなかったが、通常、イチゴ農家はイチゴが未熟なうちに収穫するらしい。夫は完熟まで摘み取らない。だから余計、夫のイチゴは、病気にも害虫にも獣にも被害を受けやすい。小さなキズ、食害の跡があるものを取り除くと、収穫したいちごの半分しか商品にならない日も珍しくなかった。

 イチゴの栽培に使う農薬の指標は都道府県によって異なるが、50回以上使うのがザラだという事実をこの時期知った。

栽培期間が一年半の長きにわたること、皮もない脆弱な果実なのに、みかけが価格を大きく左右することを考えれば当然といえば当然のこと。

「毎日状態がひどくなっていくのを見ていながら、よく農薬を使わないでいられるね」

 農薬を使って欲しいと思っているわけではない。だけど、実感としてそう思うのだ。誰だって愛情を注ぎ、丹精した対象が、次々に病気にたおれ、死んでいくのを見ているのはいやだろう。

「アフリカに医薬品を送るのが正義だと考える人が、農薬否定するって変よね。薬があるなら、使って治してあげたいと考えるのが、人の気持ちの自然じゃない?」

「農薬使って収穫を増やそう、というのは俺の場合、モチベーションにならんのよ」

 そう言われるとホッとはするが、私が夫の立場でそれができるかどうかは、なってみないとわからないと思った。

 ところが、病気と虫の害はピークをすぎると、徐々に鎮静していった。枯れた葉をとりのぞいたり、目についた虫を手でつぶしたりするだけしかしてなかったのに(だけ、と言ったけれど、時間は相当かけた)。

「不思議ねえ。もしかして、農薬かけた?」

「いいや。でも、こういうこともあるのかも。農業はわからんこといっぱいあるから」

 得意がるわけでもなく夫が言う。初めて会ったときから夫に感じていた謙虚さは、失敗を繰り返しながら農業をしてきた経験が身につけさせた部分もあるのかもしれない。


「せめて1パック600円でしょう」

 私はいつも夫に言っていた。

「高くしたら売れないよ」

夫がそう答えるのも毎度のこと。150円で市場に持っていくのが嫌なら売り先は道の駅しかない。しかし、そこで350円で売っていては毎日売れ残る。持っていったイチゴが一パックも売れず、全部持ち帰ったこともある。

 しつこいようだが、彼のイチゴは美味しい。こんなイチゴは東京でもニューヨークでもパリでも食べたことがない。イチゴの世話で忙しい夫を残し、正月に一人で帰省したとき、700円前後の小売値がついたイチゴが食卓にのぼった。一口かじって普段食べているものとのあまりの違いにものすごく驚いた。

どうしてこんなにおいしいオットのいちごが安いのか。あきれるほど売れ残っているのか。ヘンだ。

 都会にいた頃の自分が彼のイチゴを知っていたらと思う。おいしくない果物に慣れてしまって、果物からエネルギーを得られるなんて思いもよらない。教えてあげたい。いったい、当時の私は、どういうイチゴだと聞けば食べたいと思っただろう。

「無農薬栽培で苗から作ったらどうかね」

 そんな農家はめったにない。めったにないなら目立つのではないか。単純にそう思って夫に言った。

「無理だよ。そんなことできないし、やりたいとも思わない」

 夫には珍しく、強硬に言い放った。

先述したが、イチゴの育苗期間はほかの作物に比べてかなり長い。長いだけでなく、時期によっては、時間きざみのこまめな世話を必要とする。農薬や肥料を標準的なレベルで使用する慣行栽培でもイチゴを作るのは並大抵のことではない。ましてうちは果樹農家。果樹の収穫期がイチゴの育苗の追い込み期にぴたりと重なり、苗づくりに向ける時間がない。よそのイチゴ農家から苗を買わせていただくよりほかに、うちがイチゴを作り続ける方法はない。

「でもね」

 この際、一気に言ってしまえ、と思った。

「うちの、今の状況は、変えない限りずっと続くよ。変える必要がない、とあなたが思うのはなぜ?」

 夫は結婚以来初めて、ものすごく不機嫌な顔を見せた。

「おれはきみに農業してもらいたいなんて言ってないよ」

 そんなことわかってる。だけど、私には確信があるのだ。夫のやり方は夫に向いていない。その方法では、日本じゅうにたくさんいる「昔の私」に届かない。


 農園をみつけてもらうために


 夫がブログを書いていることは知っていた。コンパクトカメラで畑や作業の写真を撮っては、その夜のうちに短文をつけてアップしていた。

顔も名前もさらして書くのが不可欠なショウバイ用のそのブログに私が書くのは、当初けっこうな勇気が要ったが、がんばって書き始めたのは理由がある。

 ホームページを公開しているせいで、しょっちゅう広告を勧誘する電話がかかってきた。広告はうちには意味がない。自分を振り返ればわかる。

広告で農園を知ったところで、熊本の、無名の、しっかりしたホームページさえ持たない農園から果物を買いたいとは誰も思わない。私が彼の柿を注文したのは、「彼」に興味を持ったからだ。

 農園に未来につながる可能性があるとしたら、「昔の私」のような人を探すことではないかと漠然と思っていた。そのためにすべきは、彼に(農園にといってもいいが)興味をもってもらい、もっと彼のことを知りたくなる、私がそうだったように、いっそ彼の果物を食べてみたくなるブログを書くことだ。

 幸い私は農家一年生。田舎も農業も知らないから、ブログの読者と目線が同じだ。当時の私は、無知ゆえに夫の農業に、日々派手に驚き、派手に感動していた。これを書けばいい。

問題があるとすれば、無知でヘタクソな私から見ると、夫の農作業は尊敬に値する、ほとんど偉業にみえることだ。夫への賛辞がノロケだと反感を買わないようにする方法は、私の無知無能ぶりをあまさず、隠さず書くことだと思った。

夫に向ける私の「下から目線」にあわせて、ブログ上での夫の呼び方を「園主」にした。彼が料理人なら「シェフ」、大工なら「棟梁」と呼んだだろう。

 『おいしい果実ができるまで』と、タイトルをつけた。ニューヨークのファッション・ジャーナリストの友人が「果実はえみこさんのことですね」とメールをくれた。

大海に細いつり竿をさしている気分で書き始めたのに、誰も読まないだろうと思っていたのに、一ヵ月くらい書いたころ、手ごたえがやってきた。読んでくれていることを伝える知らない人からのメールが飛び込んでくるようになった。今もそうだが私たちのブログにはアクセスカウンターをつけていない。分析もしていないからアクセス数はわからない。

 二ヵ月もすると、ブログの読者を経て桃の購入者になってくれた人から電話がかかってくるようになった。

 お客さんたちから繰り返し言われたのは、驚くまいか、「ブログを読んでいると、奥さんの性格がいいのがわかる」だった。

 ネットは、本や雑誌より受け取る情報量が多い。それは、無意識の領域で感じ取らせてしまう、ネットならではの情報。読み手が受け取っているのは文字やビジュアルイメージだけではないと思う。

 正しげなことを書くときに、怒りや嫉妬の心があると、読み手はそれを嗅いでしまう。自慢の気分は、自慢することで表現し、怒っているなら、怒っていることを隠さない文章を書き、しょげているときは、弱っている自分をあからさまにした。 

書き手の「気」と「内容」が一致していること。その嘘のなさに、読み手は安心感を受け取り、好印象を作る気がした。それはライターとして書いているときから気をつけていることで、お客さんから言われたことは、編集者からもたまに言われていた。

 もうひとつブログを書くうえで意識したのは、隠しごとや装飾のない文章を書くことだった。

「ブログにこんなこと書いていいのか」と迷うことは今でもしょっちゅうある。夫に聞けば必ず、「なんでも書いていいよ」と言うので、最近は相談もしない。結局、農園や自分の弱さ、ダメさにめげているときほど、それを世間にオープンにするほうを選ぶ。

 未熟や弱さは、生きているかぎりくっついているヒトの属性であると農業が教える。自分たちのおろかさを明かしたところで困ることはたぶんない。お客さんがこんなメールをくれたときは、声をあげて喜んだ。

「ブログを読んでいると、あまり大変そうで申し訳ないと思いながら笑ってしまいます」

 農業の大変さを知ってともに悩んで欲しいわけじゃない。むしろ、しようがないねえ、と笑われたい。

 夫が手作りしているホームページを刷新したいという気持ちは、熊本に来て間もない頃から思っていた。

「プロに頼んで新しいサイトを作ろうよ」

「だーめ。お金がないから」

「私が費用を出してもダメ?」

「そんなことしなくてもいいよ」

 彼が農家になった翌月から積み上げてきたホームページだ。手直しでなんとかなるなら、なんとかしてあげたいという気持ちもある。

「僕だってなんにも知らなかったけど、本読んで自分でやったんだから、君だってできるよ」

 文章を入力する以外にパソコンスキルがなかったが、彼に教わり、何十時間もかけてトップページを作りなおした。

 いの一番に手がけたのは、「スタッフの紹介」だ。夫の紹介では、幼児期から始まる夫と自然のディープな関わりを強調し、私の紹介では、ネットコンカツで熊本に押し込んできた経緯を強調した。

 アップしてまもなく、東京の友人から「自分のことを明かしすぎだ」と削除を忠告するメールをもらったときは、よくも悪くも人の心にひっかかったことを知って喜んだ。するっと読ませる上品な内容では、特長の薄い、どマイナーな農園に通りすがりのネットサーファーの興味をひきつけることなど不可能。友人が慌てるくらいでちょうどいい。

当時の農園のホームページへのアクセスは一日十人を越えることがめったになかった。ものすごく少ない。が、手直し以降、アクセス数も注文数も、微増しはじめた。

買う人のほとんどが、ブログの読者だった。なぜわかるのかというと、お客さんが私を知っていたのだ。メールの文面から、電話に出たとたん笑い始めるお客さんたちの温かい声からそれがわかった。


  安くしなければ売れ残る


 6月、桃の収穫シーズンが始まった。

 当時桃は、ほとんどをJAに売っていた。JAの選果場が近所にある。午後2時くらいまでに桃を運び込まなければその日の収穫がお金にならなくなる。

 夫は朝の五時半には布団から出て、収穫を開始する。

 初めて桃の収穫についていった日、軽快な足取りで桃の木から果実を摘み取る夫を見ていたら、彼が摘み取ったばかりの桃を手渡してくれた。

「皮はどうやってむくの?」

「かぶりついて大丈夫。鳥が食べた跡があるでしょ。ヒヨが食べた桃は美味しいよ。あいつらは美味しい桃がわかるからね」

 早朝のフレッシュな空気のなか、採りたての桃を洗いもしないで食べるのは生まれて始めて。かぶりついたら、鼻に抜けるかぐわしいアロマにびっくりして、寝ぼけた頭が飛びはねた。果汁が口内に収まりきれないほどほとばしり、あふれ出た汁が手のひらからこぼれ落ちてひじまで濡れる。

 こんなにおいしい桃は食べたことがないと思った。いくらでも食べられそうだった。すかさず言った。

「これも食べていい?」

「いいけど、こっちのほうがおいしいよ」

 彼の収穫している横で、彼が選んでくれる桃をいくつも食べた。一日最多で六個食べた。自分で選ぶよりも彼が選んでくれるもののほうが絶対においしい。葡萄狩りほど桃狩りがメジャーでないのは、美味しい桃を素人が選べないせいもあるかもしれない。

 ところがこれだけ美味しい桃も、JAに売れば価格は二キロで一五○○円がせいぜいなのだった。

 イチゴと同様、桃もJAが指導する農薬の、せいぜい二割程度しか夫は使っていなかった。イチゴと同じく、完熟するのを待って摘み取るから、虫害や病害が出やすい。イチゴと同じく、出荷できる率が低くなる。七割くらいだと彼は言ったが、もっと下回っている気がした。たぶん半分くらいだろう。

 JAでは完熟している桃を嫌う。形の悪いのもダメ。せっかく決められた時間までに駆け込むように桃を運び込んでも、検査の結果、ハネられて持ち帰る桃が必ずある。時期によっては相当、大量にある。

 農業の仕事は「栽培」と「収穫」と「販売」だと思っていたが、とんでもない誤解だ。「選別」、「パッキング」という大仕事があるのだ。

 桃なら表面に蛾の刺し傷がないか、指の押しあとがついてないかなどをしっかり見て、取り分ける作業が必要だ。

それでなくても桃は皮が薄く、傷がつきやすく、少しでも傷がつけば売り物にならなくなる悪魔のような果物だ。夫は、桃の内側に異常が発生していないか、または今は大丈夫だがあとでそうなることはないかを推しはかるため、手のひらで桃の重さを計り、桃を鼻に近づけて香りに異常がないかを確かめる。

 ブランドの確立された大産地では、そんなことをしていては間に合わないので、ベルトコンベヤーにかけて、ゴロゴロと桃を廻しながら検分し、箱づめするところもあるそうだ。そうした荒わざに耐えられるよう桃が硬いうちに収穫する、あるいは硬い品種を奨励する地域もあると聞いた。そんな場所では、完熟を待って収穫するなどもってのほかだろう。

 パックや箱代、網キャップ代は当然農家もち。手数料も差し引かれる。広大な土地で、大量に作るなら営利が得られるかもしれないが、農地が狭く、低農薬でみかけもよくなく、商品になる率が低い夫の桃をJAに売るのは、どう考えても不利だ。それでなくても夫の桃の扱いは、まるで繊細な美術品を扱うようにていねいで、時間がかかる。

 スーパーの産直売り場でも桃を売らせてもらえるようになったと、夫は春も浅いうちから嬉しそうに話していた。

 私がそのスーパーに初めて行ったのは、まだ住所が東京にあるころだったが、なんだかいやな予感がした。並んでいる農産物が安すぎるのだ。

ある農家の女性は、一本105円の野菜(それが何だったか忘れた)を、私の目の前に10個並べて帰っていった。 

車に乗り込むやいなや、夫に聞いた。

「あれぜんぶ売れても1050円で、スーパーが2割とったら840円だよね。840円の儲けのためにわざわざ置きにくるの?」

「そういうものだよ」

「そういうものってどういうもの? ガソリン使って、時間使ってここまで来て、価格シール作って、シール貼って、たった10個? もっとたくさんおけばいいのに。そう思わない?」

「そんなに持ってきても売れないからじゃない? いろんなスーパーに少しずつ置いてるのかもよ」

 100円を10個、で心から驚いていた私だったが、そのスーパーで桃を売り始めた私たちがそれと同じことをするのに時間はかからなかった。

 桃をスーパーに持っていくのは、志願して私の役目にしてもらった。行くと前回持っていった桃が必ず売れ残っている。結局、どこで売るにしても、隣の桃より安くないと必ず売れ残る。 

「よそはいくらで売ってた?」

「2個で300円」

「明日いったら、価格のシールをその値段に貼り替えて」

 1個150円の桃を売るために、スーパーまでの道を往復する。数がはけないから、持ち帰る量を減らすために、持っていく量を抑えるように自然となっていく。

 田舎町の小さなスーパーは、そもそもお客の数が限られている。おまけに球磨地方は、熊本で最も低所得のエリアのひとつ。そんな場所で、玉ねぎやキュウリよりも必要度が低い果物を買い物かごに入れる人は多くない。

 私たちが暮らす錦町は、私がここに来てまもないころに農水省をたらいまわしにされながら調べたデータによると、桃の耕作面積では九州最大だった。そんなすごい場所なのに、誰もそんなことを取りざたさない。つまり、錦町の桃にはブランド力が皆無だ。ブランド力がないということは、高値で売れる理由がないということだ。

地元の道の駅でも町内のスーパーでも総じて安売り合戦が繰り広げられていた。農家の利益を守るため、安売り競争に歯止めをかける規則を作っている道の駅は全国に多いと聞くが、ここにそんなものはないので、一個50円の桃だって並んでいた。

 物と客であふれかえる都会に近いエリアの直売所しかこれまで知らなかった。

「一日に三回直売所から携帯にメールが入って、ホウレンソウを持っていくよ」

 取材で聞いた農家の話が脳裏に浮かぶ。話を聞いた当時の私には、そのすごさが全然わかっていなかった。都会のベッドタウンとして人口を増やし続ける地域に隣接する農家と、真の田舎の農家が同じやり方で農業している。

 地産地消は購買力のある都市生活者がゴマンとやってくる場所では十分に未来につながるコンセプトといえるが、そうでない場所では……。


 儲からないのがいやなのよ


 熊本に引っ越す直前、千葉の農家を取材する機会があった。

「私、熊本の農家と結婚するんです」

 大勢のスタッフと一瞬離れ、二人きりで撮影場所へ移動する短い時間に私は告げた。

「あなたが? 農家に?」

 相手はまじまじと私を見た。

「ずいぶん勇気ありますね」

「へえ、そこまで言うんですね?」 

「農家ってね、意外に思われるかもしれないけど、自殺が多いんですよ。農機具は高級外車よりもっと高いし、いろんなもの買わされるからね。それがまた壊れやすくってね。大きい借金抱えて、不作が続いて、首が回らなくなるんだね。最近もあったなあ。そういえば熊本だったような」

「そ、そんなのはたぶん、うちのは買わないと思う。有機農業みたいだから」

 実際は当時、夫の農法などほぼ知らなかった。農薬を減らしているらしい、とホームページを読んでイメージしていただけだ。

すると、笑っていない目で私の目をしっかりと見て、その農家が言った。

「有機は勇気だよ」

 友人らと有機農業の事業体を立ち上げ、大きな直売所まで自らで運営しているその人の言葉を、私はのちに何度も思いだすことになった。 

 スーパーに並べた売れ残りの桃を引きあげるためにスーパーに行くとき、つい足取りが重くなる。「そんなことで暗くなる必要ないよ」と夫は言うが、暗くならずにいるのは無理だ。

 一個50円や100円の桃に蹴散らされ、うちの桃は持って行った数のままで残っている。

 冗談じゃない。金輪際このスーパーで売るのはやめる、と誰に向けることもできない怒りを抱えて車に戻った。車を出す前に一呼吸おきたかったので、東京の友人にスーパーの駐車場から電話をかけた。電話の向こうで友人が言った。

「ジム・ロジャーズは言ってましたよ。これからの日本で可能性のある産業は農業だけだって。三十年前にこれからはデジタルの時代だって予測した人が、これからは農業だって断言してるんですからね、この予測はかなり固いでしょう」

ジム・ロジャーズは、投資をなりわいとしているその友人が信奉している有名なアメリカ人投資家である。ジム・ロジャーズ語録は昔から彼の十八番だった。

「ジム・ロジャーズがどういう意味でいったかしらないけどね、農業にそんな展望があるようにはどうしても思えないわ。周りみていると後継者のいる農家はめったにいない。親も子供にそれを望んでないみたい」

「どうして跡を継がせたくないんですかね」

「儲からないのがいやなのよ」

 言葉にしたら、全身がスカッとした。

儲からないのがいやなのよ。何度でも言ってやる。儲からないのは楽しくない。おもしろくない。

 毎日売れ残りの桃ばかり見ていた。ちょっとの傷ゆえに売り物にできない桃、安売り競争に負けて帰されてくる桃、そんな桃を夫は、毎日毎日大量に捨てていた。

 正確にいうと、捨てるのではなく、鶏の餌や土壌にまく「果実エキス」をつくる容器にほうりこんでいる。

 早朝から起きて、夫婦で桃の収穫と出荷に、一日じゅうクタクタになるまで働いているというのに、大量廃棄と少しの儲け。こんなの絶対におかしい。まずいならまだしも、彼の作る桃は、食べたことがないくらい美味しいのだ。

「普通だよ」

 と夫は言うけれど、

「こんなに何個でも食べられる、体にスイスイ入っていく桃がどこにあるの!」

 と語気荒く言い返している私だった。

 私が売らなければ。その思いが体の深いところで噴き出して、こぼれた水たまりが毎日大きくなる。

「あなたのホームページで売ってる桃だけどね、低農薬の完熟桃の直販価格が2キロで1800円なんて安すぎる。6個から9個の桃を入れるのだから、せめて2100円にしようよ」

 せめて、といいながら提示する金額が小さいのは、私も値付けを怖がっていることを露呈している。しかし300値上げしただけでも、うちの農園としては記念すべき出来事だった。 

 商売をする、商売しなければ、という気持ちの芽が、小さいながら生えてきた。だが、これでお客さんは買ってくれるのか、夫の数少ない固定客から嫌われるのじゃないか、そんな迷いと恐れがぬぐえなかった。

 いっとき、暇さえあれば通った麻布の骨董店があった。そこでは包み紙を商品にして売っていた。外国から送られてきた商品を包んでいた白い紙である。

「これ、タダで手に入れたんですよね?」

「そう。いい感じ出てるでしょう」

 原価0円のその紙は、虫ピンで留められ、かすれ感を演出して塗装された白壁によく映えた。価格は覚えていないが、聞いて目を丸くしたのは覚えている。

 この感覚。品物とお金を交換するリアル。私たち夫婦は多分、このリアリティを怖がっている。バリューを自分で決めるのは覚悟だ。言い換えれば「自分がバリューだ」と世間に向かって胸を張るような。

できない。私たちは揃いも揃ってお金をいただく覚悟ができてない。 


 「ぶどう直販店」をオープン


 ブドウの収穫期になった。

当時ブドウ畑の面積は十アールで、ネットで注文を受ける少数をのぞいてすべて道の駅で売っていた。が、道の駅では一房100円のブドウが売られているのだった。一房100円に太刀打ちできる価格などつけられっこない。

 躍起になってポップを作り、「減農薬」と「おいしい」ことをアピールしたが、効果はもちろんなかった。お客さんにアピールするのは、低農薬よりも、おいしいよりも、安値なのだと、乏しい売り上げが教えてくれた。

 棚置きの期限切れになり、納品した数からほとんど減っていないブドウを回収に行くのは私の役目だ。

 熊本に来てからというもの、こんなことばかりしているような気がした。

 そんな頃、梨園を経営する女性と話す機会があった。

「梨は、市場にもっていったら5キロ200円やもん。だけんうちは直販たい。1キロ500円で売れる。今はちょっと落ちたけど、年収はずっと1000万以上やったしね。観光バスでわーって来て、トイレに行く暇もないから膀胱炎になったけど、子供全員に家を建ててやった。1時間で10万以上売れるときもあったけんね」

 1キロ500円で売りながら何軒も家を建てるには、どれほど膨大な量の袋かけをして収穫をしたのか、想像するだけで空恐ろしい。だが、おばさんの果樹園からの帰り道で私は叫んだ。

「直販所が、欲しい~!」

 直販所なら隣に比べるものがないから、自分たちの売りたい価格で売れる、と単純に考えた。おばさんが話した果樹園全盛の時代がいつ頃か正確にはわからないが、果樹園が一斉に儲かった時代があったことは、国道筋に並ぶ何軒もの果樹直販所が教えている。今その多くが戸を閉めたままだ。使ってないなら貸してもらえないだろうか。

 なんとその翌日、「清掃してくれるなら、期間限定で、タダで使っていいよ」と、元農家の奥さんが私に言った。望みは口に出してみるものだ。

 5年間開けたことのなかったシャッターを押しあげて掃除を開始、一週間かけてごみを片付け、電気まで引いた。ペンキとベニヤ板を買い、大きな板にペンキでぶどうのイラストを描き、文字を書いた。

 人生で初めて販売員になったのがうれしく、「お店に遊びにおいで」と都会の友人に電話をかけたが、店は2週間で閉店した。

 売り物がなくなったのだ。買ってくれる人の多くがリピーターになってくれた。みんな、おぃしいと言ってくれた。しかし、近辺の農家直販店は量がたくさん取れるから、おまけをどっさりつけることで、お客さんを喜ばせるのが習いらしい。お客さんもそれに慣れていて、きっちり量り売りすると「あれ?」という顔をする。

「あの店はこうだった」と言われて、「うちは違います。低農薬です。すでに十分安いです」なんて言えなかった。どれだけポップを並べても、農薬や肥料の多寡に意識を向けるお客さんは皆無だった。

 お客さんが途切れると、携帯電話をポケットから出して近辺の温泉旅館に電話営業した。

「錦町の果樹農家なんですけど、いまブドウの味がのってきたので、そちらでつかっていただけないかなと思ってお電話しました。来月には太秋柿もはじまりますし、お味見だけでもしていただければと思いまして」

 担当者まで電話がつながったときは、100%の確率で注文がとれた。昔取材した縁で年賀状のやり取りをしていた他県の高級旅館にも電話したが、地縁の壁は突破できなかった。

 旅館には、直販店より高い価格で売った。桃でも同じことはしたけれど、ブドウのほうが売れるのは、ブドウ農家が地元に少ないせいだろう。

 畑はあっという間に空っぽになった。たった10アールのブドウ園。道の駅だけでは売れ余るが直売所で、地元価格で売るほどに量がないことに、やってみるまで気づかなかった。

「がまだしよるね(頑張ってるね)」

 この頃になると、近所からそんな声がときどきかかるようになったが、そんなこと自分では少しも思わない。私がジタバタするたびに、経費が飛んでいくだけ。


 兆候 

 

 ブドウの収穫が終わって何週間もたったのに、直販店でブドウを購入したお客さんから「ブドウないですか」の電話がかかり続けた。ブドウを買ってくれるお客さんの袋には、東京でアートディレクターをしている友人が作ってくれた(デザインだけでなく、印刷までしてくれた)フライヤーを必ずしのばせた。それを頼りに電話してくる人があとを絶たなかった。

 おいしかった。孫に食べさせたい。娘に送りたい。そんな電話に驚いたり喜んだりしたが、返礼として伝えるのは、「もうないんです」の言葉。電話の相手全員にこう言いたかった。

「土地さえあればもっと作れるんです。あいてる土地知りませんか?」

 ブドウがいくらおいしくても畑が狭くては話にならない。ブドウ畑を増やす話は私が熊本に来る前から始まっていた。夫は私が来る五年前から、町の農業委員会を通して土地を探してもらっていたが、候補の土地さえ出てきたことがないと言った。

 せっかくおいしいものを作る彼と、売るのが楽しい私がセットでいるのに、土地が、畑が足りない。

 畑を探していることを人に会うたび言い続けた効果か、貸してくれるという人に会えることもあった。

だが、条件があい、決めたことを伝えると、「悪いけどやっぱり……」と、電話がかかってきた。

「ウチはよかばってん、親戚が果樹農家に畑を貸すのはやめろと言ってきた」

「親戚がいつか都会から帰ってくるかもしれん。果樹農家に土地を貸すのをやめろと言ってきた」

 果樹は一度植えると簡単には引っこ抜けないことを知っているから、貸す側も慎重になる。買うしかないとあきらめ、購入も想定にはいれていたが、できれば土地は買わずに借りたい。あと30年で70代半ばとなる、後継ぎもない私たちが広い果樹園を私有する必要はまったくないのだ。

「あと5年もすれば、高齢者が果樹園を貸してくれるようになるたい」

 何度となく同じことを言われた。それを吉報のように聞く私に、横から夫がぼそりと言った。

「おんなじことをおれは5年以上前から聞いとるけどね、実際にそんな話が出てきたことは一度もないよ」

 錦町役場の農業委員会を訪ねると、「ウチヌノさんのような意欲のある若い人たちにこそ、土地を探してもらいたいし、頑張ってもらいたい」と行くたび言われた。でも、何の進捗もなかった。

 果樹の苗の植えつけは2月までにすませないと、また一年を棒に振ることが決定する。地権者に翻弄され迷走する私たちをみかねてか、「考え方を変えて、畑作か稲作を始めるのはどうか」とアドバイスする人がいた。否定する理由もないので二人でJAに相談に行った。

 稲作や畑作用の土地なら探すのはそれほど難しくないのはわかっていた。民主党が政権をとった時期、所得保障が米に出るようになり、飼料米、飼料稲、大豆、麦、そばにもそれが予定されていた。補助金のつく作物を選んで作れば、果樹より経営が安定するかもしれない。飼料用の稲は植えるだけで10アールあたり8万円の補助金が出る(2017年現在)。

 ところがJAからの帰り道、夫が言い出した。

「おれ、それしても面白くもなんともない」

 夫は、炭、果実酢、酵素など、味がよくなると聞いたものは、手間を惜しまず手作りし、果樹園に散布していた。時間がかかろうが、効果があるかどうかあいまいだろうが労をいとわないのは、夫にとって果樹栽培がおもしろいからだ。お金とおもしろさを天秤にかけて、お金をとったことがないのは、私も同じだったから夫の気持ちはよくわかった。

 追い打ちをかけるように農業委員会から驚くべきことが伝えられた。

「農業委員会は今後、果樹農家への賃貸のあっせんはせんことになりました」

 なんでも、10年契約で農業委員会を通じて貸していた果樹園を、地権者が返して欲しいと言ってきたそうだ。何年も積み上げてきた仕事が、ようやくお金に変わるかどうかという時期になって、いきなり冷や水をくらった果樹農家は当然怒り、育てた果樹を移植するための費用負担を地権者に要求した。地権者はそれをはねつけた。間に入った農業委員会がどういう仲裁をしたのかは知らない。

 諦めるしかないのかと思いかけたその頃だ。

10年以上放置されている、荒れ放題の4000平方メートルの土地を整地してくれるなら、買うか、借りるか、使わないかを考える猶予期間として5年間無料で使ってかまわないという地主が現れた。支払いは5年後からでいいという。

 経費と時間をかけて、荒地を畑に戻したところで、数年後に問題が出てくる可能性はかなり高い土地だ。その場所から遠からぬ地区で猿が畑を荒らしているという話は、以前から耳に入っていた。

 そんな土地が心にひっかかる理由は、夫が土地を探し初めてから8年目にやっと出てきた土地だから、だけが理由でもない。実は同じ時期に、錦町でも、土地がみつかっていた。それでも、私たちが気になってしかたないのは、獣害の脅威があり、家から遠い隣町の土地なのだった。

私も夫も、初めて行ったとき、「住めるものならここに住みたいくらい」と同じことを思った。私たちが迷っていることを聞いた近所の農家も、普段は口を出さないお義母さんまでも、「やめたほうがいい」と断言したが、「そうですよね、やめます」と、簡単には思えなかった。

 片道四十分もかかるというのに、何度も土地を見に足を運んだ。朝、昼、夕方の様子を確かめるため、時間を変えて見に行った。獣害の実態を聞くため、近辺の果樹農家を訪ねたこともある。問題はないと言われた。

 しょうこりもなくまた見に行き、やはり決定できず帰宅した日のことだ。玄関のドアを開けたら、電話が鳴っていた。あわてて受話器をとったら、ブドウを買ってくれていた旅館からだった。

「ブドウ、もうないって聞いたけど、ほんとにないんですよねえ? 美味しかったもんですから」

 いくら言われたって、もうブドウはないし、土地だってない。うれしいのか悲しいのかわからなかった。話が終わり、受話器を置いた姿勢のまま、しばらくぼんやりしていた。

 すると、目の前に白い羽がふわふわと天井から舞い落ちてきた。ひろげた手のひらに着地した羽をしげしげと見た。羽毛布団から飛び出した羽か? 鶏舎から飛んできたニワトリの羽? 窓を閉め切っているからそれはない。これはそう、天使の羽だ。あの土地に「GO」のサインだ。そう思うことにした。

荒地を畑に戻す作業を自分たちで、それも自腹を切ってやらなければならない土地を私たちは、役場を通して契約した。天使の羽のことは夫に伏せた。そういう話を否定する夫でないのはわかっていたけれど。じつはその少し前に、私はこんなことを夫に言っていた。

「初めてここに来た時から果樹にあいさつをしてきたけど、桃に関しては実をつけてもくれなかったことを考えると、桃園に行くのさえ嫌な気分。みんなに、お疲れ様でしたって言って周ってるときも、桃にはあいさつもできない」

 へんなこと言うね、と夫が笑ってくれてかまわなかった。ところが、予想もしていなかったことを夫が言った。

「だめだよ、それは! 桃だってがんばったんだけど、天候のせいでできなかっただけなんだから、桃は悪くないよ。桃にもちゃんとお礼言っといて!」

 効率と非効率を天秤にかけられないのが私と夫の共通点。判断の基準がいつも、人に言えることではないというのも共通点。大丈夫なのか、このふたりは。


異常気象


 私が熊本に来た2010年はのちに、「30年に一度の異常気象の年」と呼ばれた。

 なんと5月になっても、気温が氷点下以下まで下がる夜がやってきた。その日は、夜の9時も過ぎているというのに、外が異常に騒がしかった。昼間でもめったにないくらい家の前の道路を軽トラが何台も行きかっている。

「何をしてるの?」

「畑をあっためているんだよ」

 一帯は果樹の里だ。桃、梨、栗、柿、ブドウなどの果樹農家が何軒もある。

「畑を温める? どうやって?」

 方法は二つあるらしい。一つはたき火や、練炭などの器具を用い、火や熱で温める方法。交代で火の番をしながら、畑の随所に火をつくる夫婦もいるという。かつてはゴムタイヤを燃やす農家もあったらしい。

 もうひとつは機械を使う方法。暖気の通る管を果樹園じゅうにはりめぐらして、年に一度あるかないかの寒波に備えているところもあれば、屋外用の大きなヒーターを設置しているところもある。    

 うちの柿畑も近所の畑と同様、開花期を迎えていたが、何もしなかった。皆の忙しそうな風景を横目に、テレビを見ていた。

なぜかといえば、戸外用のヒーターを持っていない。草生栽培をしているせいでたき火を作ることもできない。草ぼうぼうの園地では、たき火は夜の風にあおられ、果樹園全体に燃え広がる。つまり、できることがなかった。花を凍死(枯死)させてしまった柿の収穫量は、前年の七割減だった。

桃の開花期にも、氷点下の夜があった。トンネルと呼ばれるビニールハウスの中で、数十個の練炭を焚いたが、寒さから守りきれなかった桃の木の花は、凍って枯死した。桃の収穫量は、前年度の三割減だった。

 収穫が減った理由は、氷点下になった夜だけが理由ではない。その年の夏は、冒頭に書いたような記録的な豪雨に続いて、異常なほどの高気温が連日続いた。収穫期にあたった品種の桃は、内部が茶色く焼けて商品にならなかった。

 ついでに言うと、続く秋は異常なほど雨が降らず、テレビのワイドショーが野菜の高騰を話題にしていた。

迎えた冬は、前年よりさらに厳しく、最低気温は氷点下十度まで下がった。イチゴ畑では毎日夜通しストーブを焚いた。灯油代を毎晩イチゴ畑に費やしたというのに、暖房が十分でなかったのだろう。イチゴの収穫量も前年度より激減した。

 なんという世界。

長時間労働、多すぎる経費、安すぎる販売価格、絶え間なく襲う天候リスク。そして無謀な低農薬。これで、どうして農業、やっていけるのだろう。


  美味しいものを作ろうとしたら儲からない


 「美味しいものを作ろうとしたら儲からない」という言葉は、複数の農家の口から聞いた。初めて聞いたときは驚いたが、そのうち当然だと思うようになった。

 おいしいと思える果実はどこにもなかった。

自分たちの勉強のために、遠くの県から「減農薬」で栽培したとされる果物を取り寄せることをたまにしていた。取り寄せた、評判も価格も高い果実は、口の中にいつまでも違和感を残した。夫はそうならないが、私には、取り寄せたほとんどすべての果実が、一口かじっただけで二度と口に入れられなかった。食べたあとで頭が痛くなることも何度かあった。

「これ、本当に減農薬?」

「農薬は味にはあまり関係ないと思う。農薬をかけたあとの一週間くらい光合成が弱くなる場合があるからそれがあんまり頻繁だと味も悪くなるかもだけど」

「ものすごく嫌な味なんだけど、農薬が理由でしょ?」

「肥料をやりすぎてるかもね。それは味に出るって言われるから」

 特別栽培認証(慣行農法の半分以下の農薬と肥料で栽培されたことを農水省が認定する)された果物を畑でもいでもらって食べたときも、二時間ほど口の中のしびれが取れなかった。

 慣行農法で許容されている農薬量は県によって異なる。その県と作物の組み合わせが全国的に有名なときほど、農薬の使用基準が高いことが多い。半分でもウチから見れば相当、ということが少なくない。儲けるための「減農薬」と、儲けを減らすウチの「減農薬」。使う言葉が同じでもゆき着く先は正反対だ。

 果物を食べる人が減っているらしい。

 正月に消防行事の炊き出しに行ったら、20~30代と見える団員のほぼ全員が弁当箱の中に、大きくて真っ赤ないちごだけをゴロンと残しているのに心底驚いた。イチゴが嫌いな子供が増えていると聞いたこともある。

買う人が見かけで選ぶから、JAを含む流通各社は見かけのよいものを高く、悪いものを安く農家から買う。大多数の農家は、見かけがよくなる栽培方法、または、たくさん収穫できる栽培方法を選ぶ。例外はあるが、多くの作物は食味がいくらよくても買い取り価格は上がらないから、おいしいものを作るために見かけや収穫量を犠牲にする農家なんて酔狂といっていい。

「桃に農薬使ってますか」という電話がお客さんからたまにかかってきた。

「使ってます。年に2、3回」

「じゃあいいです」 

 桃の農薬って何回使うと思う? と友人に聞くと、これまでに聞いた全員が「2、3回」と答えた。答えは20~30回だ。

 回数は、成分数の数で勘定する。農薬はしばしば水で薄めて使うが、希釈率の指定は、「1000倍~2000倍」などの幅がある。「1回」という数字の実態は農家ごとで違う。

「買うのに印鑑が必要なほどの劇薬を使うのに、大雑把な計量で、とんでもなく濃いものをかけている農家は高齢者に多いです」と、農薬の販売をしている業者から聞いたこともある。

 一般的に果樹農家は、「農薬をかけるというより、農薬で洗うというくらいの量」を使うと、近所の果樹農家が教えてくれた。薬の購入に年間数百万の金額がかかることもザラらしい。それはある意味正しく、中途半端な農薬の使い方をしていると、病原菌や害虫に薬に対する耐性ばかりついて、農薬がきかなくなってしまう。

 毎年、イチゴと桃の花に受粉させるためにミツバチを借りている宮崎の養蜂家・増田数馬さんは、会うたびに蜂の未来を嘆く。

「日本中が農薬の使いすぎ。イチゴなんかEUの基準の3000倍よ。国産っていえば安全だと思う人が多いけど、実際は外国産のほうがよっぽど安全ってことがほとんどなんだけどね」

 増田さんは、蜂が生きられない国へ日本が向かいつつあるのを肌で感じるという。

「日本の農家の90%は、たくさん作ればお金になる言うて、農薬、肥料いっぱいかけて、たくさん市場に出すことしか考えん。そんなのおいしくないから農家は自分で作ったもんを食べん。雨も降らんハウスの中で土に農薬埋め込めば、害虫から何ヶ月も守られるかもしれんけど、それは根をつたって、花に行く。その花に蜂がつく。稲だって強い農薬使うから、それがあぜ道にふりかかって、あぜ道に咲いた花に蜂がつく。そうやって蜂が消えたらどうなるか、誰も本気で考えん」

 増田さんは農薬の使いすぎを憂いているだけで、農薬を使わない栽培を礼賛しているわけではない。うちの低農薬イチゴハウスの蜂をチェックしても、

「大丈夫。内布さんとこで蜂が減るなら、日本中のイチゴ畑で蜂は消えとる」

 と言ってくれる。環境に問題がないといわれると安心はするが、無農薬でないからお客さんには響かない。

 うちの桃は無農薬ではないが、40年間桃が食べられなかった人がうちのだけは食べられる、と教えてくださった。

うちの柿やいちごだけは食べられると、化学物質過敏症なのに毎年のように購入いただく人たちがいる。もちろんいずれも農薬はゼロではない。あえて薦めたりしないが、理解したうえで購入されている。

農薬を使っても雨が多くて流れてしまうとか、薬剤の使用量が体に反応するほど多くないとか、いろいろな理由があるかもしれない。農薬がシビアに体を不調にする病気をもつ人のほうが「無」でなくてもいい、と考えてくれるのがおもしろい。

農薬を使っています、と言ったとたんに、「じゃいいです」と切れる電話の寂しさを何度も経験した私は、 

「無農薬が好きな人、多いね」とため息まじりに夫に言うことがあった。

「なんでかねえ」

 そんなこと気にしもしていない夫の口ぶりだ。

「なんにしても、古い品種は新しいのより農薬なくても作りやすいっていうね。食味はそれほどよくないけど、古いのは新しいのより病気にも虫にも強いことが多いからね」

「それよ!」

 思わず読んでいた本を放り出した。

「そういう品種に切り替えようよ。もともとちょっとしか使ってないんだからさ、うちのブドウ園なら簡単に無農薬にできるよ。ベリーAはどう?」

 すると思いもかけず夫が、どんよりとした目を私に向けた。

「ねえ、無農薬にするのがそんなにいいこと?」

「え?」

「僕は、自分が食べたいブドウを作りたいよ」

まったくだ。無農薬というただの言葉に、なんで夫のおいしいブドウを否定してまでこだわる必要があるのか。いや、もともより頭ではわかっている。だけど。だけどなのだ。違いはとても大きい。だって買う人が気にするのは、「ムノーヤクですか?」だから。ネット検索で、私たちのような小さな農園でも、上位に出てくる可能性がある唯一のワードは、「無農薬」だから。

 錦町で果物を作っても産地バリューがない。安さで客を引いていたら先がない。都会のマルシェに売りに行くには遠すぎてメリットがない。

 でも、ムノーヤクなら? きっと何かが変わる。  


 「秘密の花園」プロジェクト

 

耕作放棄地をブドウ園にするための開墾は、柿の収穫が終わるのを待って始めた。

 秋も早いうちから始められたのは、柿が不作で収穫期がほとんどなかったおかげだ。

 ゴム長はいて、風が吹きすさぶ中、鼻水をぬぐいながら荒野を切り開く。小説『秘密の花園』でメアリーとディコンが荒れた花園を元に戻していく作業を思いだした。

「はじめてここに来たとき、鹿がおった。ここは鹿のすみかやったみたいよ」

「あそこに羽がたくさんあるけど、あれはなに?」 

「雉だな。獣にやられたんかな」 

 もともと果樹も野菜もいっしょくたに植えられた場所なのか、何代かにわたって継ぎ足された種々の作物が、繁茂する雑草の底に眠っていた。

 ワイヤーが縦横に張り巡らされている。ブドウ畑には流用できないので、それを一本ずつ外すだけでも相当の時間を要した。

 夫が梅や梨の木をチェンソーで伐り、わたしがそれを棚から下す。カマをふるって、伸び放題の草を刈り取る。ヨウシュヤマゴボウもセイタカアワダチソウも直径五センチ、高さ二メートルに達している。草というにはたくましすぎる、まるで木だ。草原というより林。野原がジャングルになってしまうのは、降水量が亜熱帯雨林なみだからだろうか。

 草のジャングルの中で鎌を振り続けた。いつものように全身傾注で作業に埋没していると、いつものように集中が快感に変わるときがくる。二時間作業を進めると確実に風景が変わる。それがやる気の素になる。毎日少しずつ体が楽になるのもうれしい。

同じことをしている、と思った。古の昔から人類はこうやって自分たちに都合のよい秩序を得るために、自然と格闘してきたのだ。私がしていることは祖先がしてきたことだ。

 開拓地(私たちはそう呼んでいた)にはしばしば、お弁当を持って行った。海苔をまいたおにぎり、麹漬けにしたきゅうりやナスやカブ、パプリカの味噌炒め、半熟のゆで卵、熱いほうじ茶。草の上に足をのばして食べるお弁当は、いつもこの上なくおいしかった。

「おれは農家に向いとると思う」

 ゆで卵の殻をむきながら夫が言った。

「なんで?」

「俺、こういうふうにしたら、こうなるってことが確実にわかっとる仕事は飽きる。どうなるかわからん仕事が好き。これが絶対に正しいとかないのが農業はいい」

「農業には正解がいっぱいあるってことね」

 夫は、畑を整地するユンボの扱いがとても上手い。ロボットを機上で操作する往年のアニメヒーローの気分なのか、一度はじめるとなかなか止めようとしない。

 農家になる人生が彼に用意されなかったら、彼はこんな能力が自分にあるとも知らず、横浜で住宅を売っていたのだ。そう思うと感慨深い。

 農業だけじゃない。人生にはきっとたくさんの、いや無数の、正解がある。

 予定通り三ヵ月かかって開墾が終わり、ブドウ苗を植えるために地面に穴を堀る日が来た。土地を探した長い年月と、開墾の労苦を経てやっと迎えた植えつけ。シャインマスカットを中心に植えた。なぜかといえば、私たちが食べたい品種だったから。

 ところが、数か月が経過してようやく苗の成長が目に見え始めた矢先、それを待っていたかのように、シカが新芽を食べ、シャインマスカットは全滅した。

 気を取り直して二年目、もう一度苗を購入した。ところが植えなおした二年目も鹿に食べられ、三年目もまた苗を買って植えた。

 二年目から苗の周囲を一本ずつビニールで覆うだけでなく、園地全体に高さ二メートル以上、幅数十メートルにおよぶ網を張り巡らしたので、獣害はいったん収まったかに見えたが、ようやく果実が実り始めた三年目から、カラスの大群が畑を襲うようになった。

 近隣の村では、ハンターを数人雇用して年間一千頭にのぼる鹿を駆除しても、鹿は減るどころか増えたという。筍や椎茸の栽培をしても猿に荒らされ、家庭菜園の小さな畑でも例外なく襲われるという地区がある。別の町のある果樹園は、収穫期を迎えた果樹園が一日して猿の集団によって壊滅されたと聞いた。

 いたるところで獣害は起こっている。はなはだしいのは鹿の害。動物保護の視点と農家保護の視点の両方に立つと、山野にオオカミを放つというアメリカやドイツの一部で行われている方法以外に抜本的な方策はないような気がしてくる。


 年収160万円の衝撃

 

 ある日、軽トラのドアノブがとれた。

 私の左手が握っているものがドアノブだとわかったときは、びっくりしすぎて、笑いが止まらなくなった。キューバかカンボジアでなら走っているかもしれないが、まさか自分の人生にもこんな車がやってくるなんて。ガムテープでドアノブを貼り付けて、軽トラはその後も使い続けた。

 うちが貧乏だということは誰が見てもあきらかだったろう。結婚して間もない頃は、実家の母は会うたびにお小遣いをくれた。ありがたく受け取った。

 経理に興味も能力もない私は、農園の貯金通帳を開いたことがなかったし、夫の年収がいくらなのか、結婚前からたずねたことがなかった。かなり少ないのはわかっていたからあえて聞かなかったというのが本音のところだが、年収の額を聞く気になったのは、そろそろ「真実」と向き合わなくては、と思ったのかもしれない。結婚から一年が過ぎようとしている12月だった。

 3月に熊本に来てから、見てきた風景を総括すると、どう考えても利益が出ている気がしない。いったい私たちの稼ぎはいくらなのか? その数日前から柿がいくら売れたのかとか、いちごはいくら儲かったのかとか聞いていたので夫には、だいたいの足し算ができていたのだろう。聞いたとたん、答えがすばやく返ってきた。

「160万かな」

 耳に聞こえた日本語の意味を脳が理解した瞬間、心臓が凍り付いた。

「そのうち40万がJAへの支払いで」

 今度こそ谷底に突き落された。彼は休みなく、ずっと働いていた。私も微力とはいえ、かなりの時間を畑やパソコンの前で費やした。二人分の労働の結果が、成果が、こんな、子供の身長のような数字だとは。

「これやりたい」

「やろう、やろう」 

 二人の会話はこの連続だった。

「ちょっと待って」

「もう少し考えよう」

夫婦のどちらもそんなせりふを言ったことがない。それが悪いことだったのか? 私の沈黙は少々長すぎたかもしれない。かわいそうな夫が、暗い声で言った。

「オレ、バイトする」

「ダメ」

 反射的に言葉が飛び出した。私が来る前の年まで夫がスーパーでバイトしていたとは聞いていた。お金に困ったら時間給の仕事をするというのはある種のパターンだ。誰もが考える。

「なんで!」

 彼の言葉に怒気があるのは、自分に怒っているのだろう。

「バイトしたら考える時間がなくなる。時間売るのは、いちばん効率が悪いよ。もっとお金をつくる方法あるよ。考えようよ。やってないことまだあるでしょう。好きなこと好きなだけして、お金にかわる方法、きっとあるよ」

 私にアイデアがあるわけじゃない。夫の農業の方法に、考えないといけないことがあるのがわかっているだけ。それを探そう。探したい。問題は山ほどあって、それは解決されるのを待っている。

 長いこと二人とも口をきけなかった。静寂を破ったのは夫だった。

「農業はほんとにわからんって、何十年も農家をやってきた人がいうよ。これをやればうまくいく絶対のことなんかひとつもない。毎年条件が変わるし、わかったと思ったって、それが答えだってことはまずない。これだけが俺が農家になってわかったことだ」

「だからおもしろいってあなた、言ってたね」

「うん。だからおもしろい。だからもっとがんばりたくなる」

「いざとなれば草を食べたって生きていける。バイトはやめようよ。百姓なんだから百姓にできることしよう」

 露地で作物を作るならまだしも、うちは施設がほとんどだ。ブドウ畑に、イチゴ畑に、早生桃にハウス状のものが必要。これらのビニールの張り替え期は数年おきにめぐりくる。数ヵ月おきにやってくる果物のパッケージの請求書も、ついに動かなくなった軽トラの購入費用も……。ぜんぶ私が払った。

 だましだまし使っていた草刈機は、あまりにしょっちゅう壊れて時間のロスが多すぎるので、購入させてくれと頼んだ。乗用草刈機は中古で35万円だった。

「君のお金を使いたくない」とごね続ける彼がうるさくて、あるとききっぱりと言った。

「私は小野田さんの奥さんになりたいの」

 小野田さんの奥さんとは、ルバング島のジャングルで30年間生き延びた小野田寛郎さんの奥様のことだ。

 小野田さんの奥様は、結婚によってブラジルに渡る前、保険の代理店を経営し、東京の都心でティールームを経営していた実業家だったそう。日本から持ってきたお金は、ブラジル到着と同時に小野田さんに渡し、彼は経営する牧場のトラクター代金にすべて使った。彼女は日本に里帰りするお金さえ残さなかったという。

 こんなにお金が必要になるとわかっていたら、もっと貯金しておけたのに。東京時代の最後の頃は、欲しいものがないのに欲しいものを探してデパートをぐるぐると歩き廻ったり、ニューヨークに二週間も滞在し、オペラをたくさん見たりしていた。熊本に来たとき、私の貯金は800万円に少したりないくらいだったが4年後には300万円を切っていた。 

 熊本に来た最初の年、2月までしか働かなかった私に東京から降りこまれた金額は、果物のために二人がかりで稼いだ額よりずっと多かった。もうひとついうと、「介護保険が前の年の四倍になっとる。間違いやろうな」とお義父さんが言ってきたが、もちろん間違いではない。私の収入が世帯収入を増やしてしまったせいと、農業収入が安すぎるせいだ。

 

  お金を使わない果樹園


 私が熊本に来るまで夫はどうやって果樹園を営んでいたのか不思議になることがあった。

 果樹農家に新規就農する人が、野菜やコメ農家に比べて少ないのは、経費がかかるせいもある。

 夫は貯金ゼロで果樹農家になった。すでに桃が植えられ育てられて収穫を待つばかりになっている果樹園に「居ぬき」で入ったのはラッキーだった。また、その農地購入を親がしてくれていたこと、私が来るまで親世帯と家計が一緒だったことの恩恵も大きい。そもそもこの条件がなければ夫が仕事をやめてまで横浜から熊本に来る理由もなかったが。

 貨幣を持たない夫は、住まいの建築費の半分にあたる施工費、設備費、設計費を自分の頭と体で支払った。つまり、自分で施工し、昔のコネを駆使して住宅設備を9割引きで購入し、知り合いの設計士に無料で図面を引いてもらった。

 この方法を夫は、農業経営にも採用していた。

 果樹農家は果樹の下を通ることのできる運搬車の購入が必須だが、買うと30万円はかかる。ドアの取っ手のとれた軽トラに乗る夫にそれは不可能な支出だ。代わりに夫は、廃車寸前の軽トラをタダ同然でゆずってもらい、車の窓から上の部分の車体をグラインダーでカットし、果樹棚の下でも動けるサイズにした。

 農薬や液状肥料を散布するスピードスプレイヤーも高級外車に匹敵する価格なので新車は無理。廃車ギリギリのものをいただいたり、安く売ってもらったりしている。5年に一度の割合で次のお古を探すことになるけれど。

 夫と一緒に車に乗っていると、突然車が止まり、「ちょっと待ってて」と言い残し、遠い畑の中に見える人に向かって走っていくのはしょっちゅうだ。放置されているハウスや素材をみつけたときの常で、譲ってくれないかと、交渉を開始するのである。

 ワイヤー、鉄パイプ、ビニール、ネット、素材を留めるパッカー、柱。設備を構成する素材や部品も、手間をかけて探し、セコハンを使うことが多い。

 鉄骨のしっかりした連棟ハウスになると建設費用は通常1000万円以上かかる。それでもどうしても必要だと思い決めると、不要になっている連棟ハウスを知らないかと、出会う人すべてに聞き、つてをたどった。無駄足はいくらでもする覚悟。顔を見ながら話すのが大事と彼が言う。電話ですまさないで、足を運ばないとダメなのだそうだ。

「解体もしてくれるなら無料でいいから持っていって」という物件にやっとのことで巡り合ったときは、収穫が一段落する晩秋を待ち、数週間かけて解体し、軽トラで何往復もしてうちの畑に運びいれ、また数週間かけて組み上げた。探したり交渉したりすることの比ではない、大変な作業だった。

 畑を温めるための暖房器具も何十年も使い込まれたお古をいただいたり、安く売ってもらった。壊れて打ち捨てられたものを安く買わせていただき、修理して使うこともあった。修理代が高くつくこともあったが、中古市場に出てくる農機具は、たいていウチには高価すぎた。

 イチゴハウスにはビニールパイプを床面に這わせ、暖房のかわりにした。こんなことで効果が出るのか半信半疑だったが昼間のうちにささやかでも蓄熱したホースが夕方以降のハウス内の温度をあげる助けになっている。

 作業場をかねた倉庫は、就農時に一ヵ月かけて夫が自作した。柱を立てるのも基礎を打つのも、前の月までスーツを着ていた38歳の彼がひとりで行った。繁忙期のさなかに移住してきた夫に、時間の余裕はなかったはずだが、新品で購入するしかない材料以外は、廃材をかき集めたらしい。

 国税局をやめたあとに勤めた旅行代理店や不動産会社の時代に身に着けたことは、農家の仕事に役立っていると彼が言う。

「お金では解決できないことが、人とのつながりで解決できた経験、いっぱいしたから。そういう仕事の仕方がたぶんしみついていると思う」

 お金がなくても就農できるか、という質問を夫はよくされている。あるとき、夫がこんなふうに答えているのを聞いた。

「お金がなくても経験がなくても農家にはなれるけど、たくさんの人に頭下げて、たくさん助けてもらわないと農業はできないから。人間関係に疲れたとか、人がわずらわしいからとかの理由で就農する人は、難しいのかもね」

 最近は、夫が就農したときと大きく違い、45歳以下で新規就農すれば、年間150万円が5年間補助される。つまり750万円を国がくれる。夫婦で就農すれば年間250万円、5年間で1250万円だ。

それ以外にも農業は補助金が多く、補助金の内容いかんで仕事の内容を決める農家は珍しくない。お金がないから農家になれないという時代ではなくなっている。 


   作って売る人になろう


田舎暮らしは、燃料費が高い。ガソリンは、草刈機にも剪定に使うチェンソーにも必要だ。畑を温めるための灯油も、桃が蚊に刺されないよう、夜通し灯りをともすための電気もいる。一家に一台ではすまない車のガソリン代と維持費を農業用燃料費に合算すれば月6万円は下らない。お父さんたちと家計が一緒なら10万円に届くかもしれない。

 この決して安くない固定費の分だけでも果樹以外の定期収入があったら、果樹をどんな気象異常が襲っても、夫が意に沿わないことをしないですむのではないだろうか。

 自分たちで作れる何かを売り続けることで定期収入が得られたら最高だ。気象に関係なく材料が得られ、体力の衰えに関係なく続けられるもの。続けるうちに仕事の質を上げ、顧客を増やし、お義父さんにとっての養鶏のように八十を超える頃には、心身にムリをかけず、人に求められる仕事に育っている……そんなものはないだろうか。

 これまでだって、資格や認定を得たわけでもないのに、原稿とか企画とかをお金にしてきた。プロじゃないから販売はできない、と何人もの人が言うのを聞いたが、問うべきは、プロかどうかより、作った価値をお金と交換してくれる人がいるかどうかだろう。

 田舎は自然素材だったらタダで手に入るものが豊富にある。お金に換わるものが私たちに作れるのかどうか知りたい。夫とともにさまざまなものを試作した。

 木を使って何かできないか、二人で山に遊びにいくたびに考えていた。昔から海外に行くとリュックの底が抜けるほど石や木片を拾ってきた私は、ここでも近隣の山深い渓流に行くたび同じことをした。前と違うのは、「何かお金にかわるものにならないか」と考え込んでいることだ。

 結婚指輪として夫に贈られたのは、ひのきを自分で削った指輪だった。木の指輪を夫はもっと作りたがっていたが、素材と技術があっても肝心のセンスがない。はりきる夫を止めた。

 柿渋に可能性がないかとも考えた。柿渋は防水、防虫、抗菌作用に優れている。除菌文化の高まりのなかで必要とする場がある気がする。布団カバー、パジャマなどの寝具、ふきん、まな板などの料理器具や箸や器などの食器にどうか。毎年のように 仕込むようになった。

 せっけん作りにも手を染めたが、せっけん作りは周囲で手に入る素材以外に必要な材料が多く、材質にこだわりすぎる偏執も止められない。計算したら材料費が一個500円になった。製造中止。

 薬草茶も作った。ハト麦などがブレンドされた雑穀茶や柿の葉茶は、母のおかげで中学生の頃からなじみがある。取材で訪れた上海やシンガポールで、飲めばたちまち神経がゆるみ、体にエネルギーを感じる烏龍茶やハーブティを経験していた。

近隣はいたるところに茶の木が自生し、茶の材料となるビワの葉、柿の葉も豊富で、果樹園には野草が豊かな植相を見せる。それらを採取し、ブレンドの試作を重ねた。

 ブドウ樹液やドクダミなどでつくる化粧水、びわの葉エキス、酵素液(ジュース)を作るのにも凝った。酵素液は、夜明け寸前に材料を収穫すべしという説を守って素材を収集、飲用にも畑の散布用にも作った。

 果実のスイーツも作った。柿なら、柿のプリン、柿のケーキ、柿のゼリー。桃なら、桃のジェラートに桃のタルト。それから、イチゴ、野イチゴ、桃、ブドウ、いちじく、柿、柚子のジャムを作った。

 イチゴ酢もブドウ酢も柿酢も作った。作るのが難しいとされる柿酢は、虫害がひどく売り物にはできなかったうちの太秋柿が原材料だった。すばらしく芳醇で旨かったが、幸運が味方してたまたま作れたらしく、何度作っても、同じレベルのものは二度と作れなかった。

 ダイニングテーブルと机と本棚も作った。

 建設資材の材木を買いに行った製材所で、夫が「テーブルを作る材木が欲しいんですよね」と立ち話で言うと、「これ持って行っていいよ」と目の前に転がっている丸太を指さされた。

直径1メートル、長さ4メートルあったが、「7000円でどう」と言われて耳を疑った。丸太を製材して板にしてもらい、三ヶ月かけて乾燥させた板の樹皮を鎌で削るのは私がした。夫がカンナをかけ、いただいた十年ものの柿渋と蜜蝋で私が塗装した。

 「買う人」でいるだけではもったいない。田舎にいるのだから、こんなに素材があるのだから「作って売る人」になる。

「何を買うか」で自己表現することは何十年もしてきたが、「何をお金にかえるか」で自己表現した経験は、ほぼない。このシフトは、気持ちの上では東京人から熊本人へのシフトより私にとって大きかった。

 夫も、「これ売れないかな」とつぶやきながら、いろいろなものを作り始めた。竹で作った筆、草で編んだ箒、ランプ、ストーブ、酵素風呂……。思い付きから行動までに時間をほとんど挟まない人だから、「作る」という決意表明もないうちに、できていてびっくりさせられることが多かった。

 ガレージ造りくらいなら3、4日で完成させる夫を見て、

「農業より大工さんのほうが儲かるとじゃないかね」

お義母さんが冗談半分に言ったことがあった。可能性はあるかもしれない。実際、大工さんに見積もりを頼んだら100万円といわれたらしいガレージ造りを7万円で請け負ったことがあった。廃材を使い、シンプルな構造ながら必要な強度を満たしたそれは、友人にとても喜ばれた。

 たまに作るだけなら、作れるものは無限に、いくらでもある。でも、それを仕事にするとなると、別の考え方が必要だ。

 ひとつは、趣味のレベルを超えてたくさん作ることになっても作るのを楽しめるものかどうか。

ふたつめは、お金を払って買った人が、それを人にもすすめたくなるほど喜んでくれるものかどうか。 

 やってみなければ答えはみつからない。でも、その答えがみつからないなら、みつからないでかまわない。正解にたどりつきたいというより、やってみるとどうなるのかを知りたい。やってみる、つくってみる、は今も続いている。

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