人生がこんなにおもしろいなんて農家のヨメになるまで知らなかった

えぃみー

第一章   田舎で暮らしたい 


さっきまで窓辺に立って外を見ていた夫が、意を決したように、玄関に降り、長靴をはきはじめた。

「袋?」 

「うん」

「あたしも行く」

 空と地面をつなぐ雨つぶの列は、あまりに密度が濃いので壁みたいに見える。毎日、ほとんど一日中、こんな雨だ。これだけの雨を見たことがないのは私だけでなく、近辺のベテラン農家にしても同じらしい。梅雨だし、南九州だし、夏の大雨はある程度には慣れているはずの地元の人たちにとってさえ、例外的なこの夏は例年の七割増しの雨量だった。あまりにも長く続く雨が、中学生のときに読んだサマセット・モームの「雨」を何度も思いださせた。

 雨が上がったら桃の袋がけの続きをすると夫は言ったが、止むまで待っていたら、手遅れになってしまう。

 夫とつれだって雨具で全身を包み桃園に行った。

 雨が目に入る。レインコートのフードが視界をせばめる。雨音が雨以外の音を消す。世界と自分が分断されてしまったような浮遊感にわくわくする。集中がたやすい。何も考えなくても手が動く。

土砂降りの中、夫婦が濡れねずみになって労働する姿は、はたから見れば気の毒以外の何物でもないだろうが、気が付くと私の顔は笑っている。

 こんな、歓喜に近い感情が畑仕事をしているときにわき起こることがある。大雨でも晴天でもそれは起こる。畑仕事が好きか嫌いかと問われれば、好きではない。それでもそんな時間が時折やってくる。


ハーブの畑にいたる道


 二十世紀の終わりごろのことだ。長距離恋愛七年の果てに、順風満帆だったフリー編集者兼ライターの仕事をたたみ、ニューヨークに住み移った。ジャーナリスト・ビザは五年おりたが、恋人との同居は三ヶ月で決裂した。それでも同時多発テロで日本の雑誌がニューヨークの記事をいっせいに自粛、仕事が完全に途絶えるまで二年も帰国しなかったのは、ニューヨーク暮らしが楽しかったからではなく、「底」に向かって滑り落ち続ける不幸が極まるまで、体がどうにも動かなかったからだ。

 例によって待ち合わせをすっぽかされた日、電話に出ない男を、他にしたいこともない私は、携帯を握り締め、待ち続けた。本も読まず、音楽も聴かず、ただ待っていた。ふと空を見たら茜色がさしていた。

意味もなければ熱もない、無駄に呼吸だけした一日がまた終わっていくのかと思った。感情が、ゆっくり死んでいくようだった。もはや、悲しくもさびしくもない。やけにさっぱりした気分で身じろぎもしなかった。すると、死人のように静かになった心にこんな問いが浮かんだ。

「じゃあ、わたしが本当にしたい暮らしはどんな暮らし?」

 手元のノートを開いた。ペンを握り、文字をつづりはじめた手は一度も止まらなかった。

「どこの国かわからないけど、広大な緑あふれる土地を所有している。朝は早く起きて、犬と自然の中に散歩に行く。朝ごはんの前に畑に行き、ハーブや野菜やフルーツをとってきて、それで朝ごはんをつくる。夫にコーヒーを淹れてあげて、夫といっしょに朝食を食べて、それから仕事をはじめる。締め切りには関係なく、窓から豊かな緑が見える部屋で、書きたいものを、書きたいときに書いて、十分に収入が得られる暮らしをしている。夜は夫と一緒にごはんを食べて、一緒に眠る」

 こんな内容を書いた。読み返してうっとりした。何度も読み返した。でも遠い。遠すぎる。遠すぎて私には無理。ぜったい。

 私が生きたい私を私は生きてない。頭は毎日それを思っていたが、やめられなかった。男への執着も自分を貶めることへの執着も。

やっと、「底」に手がついたおかげで、触ることができた心の声だったかもしれない。書きつけたそのときより前に、そんな願いを持ったことがなかった。

 二十代で結婚、離婚した前の夫も含め、私の友人や知人はほとんどが同じ業界の人だった。「いつかは田舎暮らし」。それは少なからぬ人が抱く憧れのようだったが、必ずついているのが「いつかそのうち」という言葉。誰も本気で現実にする気はない。私の人生も、ハーブの畑にはもちろんつながらない。

 そんなあきらめが封印したか、もしくはその後も性懲りもなく続いた男とのすったもんだのせいか、すっかり忘れきっていた「夢の暮らし」が二○○九年の夏、突如再浮上した。きっかけは、女友達の一言だった。

「えみちゃんって『西の魔女が死んだ』のおばあさんに似てるんだよね。映画みた?」

「本は読んだけど……」

 友人のデザイナー、アヤ子さんの恵比寿の家で二人で食事をした夜だった。

「DVD、見てみたら?」

 見た。三百円で借りたDVDは、いとも簡単に人生を変えてしまった。

俳優と私が似ているとはまったく思わなかったが、私の夢がそこに、スクリーンの大きさで描かれていることに衝撃を受けた。

私と似ていると、実は別の友人にも以前言われたことがあった主人公の祖母は、銅鍋でイチゴを煮てジャムを作る。祖母の亡き伴侶は、石を拾ってコレクションするような、自然に対して感覚を開いている人。力の抜けた家も、インテリアも好みだった。

 これ。私はこの世界の人になりたい。この暮らしがしたい。降ってわいた願望は、獰猛なほど切実だった。十年近くを無駄にした。だけどもう猶予はない。今度こそ、まっすぐここに行く。この日、決めた。 

 

 ミャンマーの寺とネット婚活


 ミャンマーの寺に宿泊して朝の三時起きで一週間瞑想したことがある。

ミャンマーへの旅行企画のひとつとして女性誌の編集部に提出したら、どういうわけか、一番自信がなかったこれだけが通った。瞑想も仏教も今のようなブームとは遠かった二十世紀末。タレントに瞑想させる企画だったのに、経費の都合で私が瞑想することになってしまった。カメラマンに撮影されながら覚えた瞑想は、まったく予想していなかったが、おもしろかった。

 二○○二年には、ファッション誌で企画が通り、スリランカ人の高僧、アルボムッレ・スマナサーラ師を取材した。取材のあと、スタッフに誘われて年末年始の瞑想合宿に参加した。

ニューヨークから帰国した直後だった。ニューヨークの男と切れず、仕事のペースももとに戻らず、自分のおろかさへの自覚を深めている最中だったのが私にとってはラッキーだった。瞑想は不幸なときほど深まりやすい。年末の熱海で私は、瞑想の深淵にちょっとだけ触れる体験をした。五泊の合宿から帰ってくると、瞑想は私の生活にいともたやすく定着した。 

 それから七年が過ぎた二○○九年は、長いときは一日六時間、朝五時に起きて一日三回、毎日長時間の瞑想をしていた。ここまで瞑想した時期は、あとにも先にもない。

 過去最高レベルに仕事量が多く、ノンストップで忙しかったが、この生活があと二十年続いてもいいかと自分に問えば、ノーなのだった。家賃十万円のマンションは快適で、銀座まで十五分で行けるし、男女を問わず友人・知人はたくさんいるし、仕事にも暮らしにも不満はない。不満はないが、満足にはまったく足りない。足りないのは夫だ。田舎の暮らしだ。

「なんでもしたいこと実現するのに、結婚だけは、したいしたいと言い続けながら、どうしてできないのかねえ」

 友人のひとりが不思議そうに言ったことがある。結婚だけは、ではないが、したいと言い始めて何年たってもできない、私の人生の最難関は結婚だった。

 衝撃とともに見終えたDVDを返却するより早く、「インターネット結婚相談所」のサイトを開いた。この瞬間を逃したら、また日常にまみれてやるべきことを忘れてしまう。それは避けたい。

 田舎に暮らす未来の夫を探す方法は、ネット以外にないというのが私にとっての最終結論だ。「誰か紹介して」とは、これまで何人もに言ってきたが、紹介されたことは皆無だ。

 田舎に住むこと。伴侶とともに食べたり眠ったりすること。求めているのはこれだけだ。仕事を捨てる気は毛頭なかったので、ターゲットは東京に通える範囲の県に絞った。

 夫の年収や学歴はどうでもいい。年齢も二十歳上から二十歳下までOK。ルックスや職業などの表面的なことには昔から人が驚くほどこだわりがない。

 前の夫は二十代で禿げていたし、出会った頃はトイレもないボロアパートに住んでいたが、問題視した覚えがない。夫が中卒でも、背が低くても、太っていても貧乏でもかまわない。どんな人も変わる。離婚したとき、夫の髪は結婚したときよりもっと薄くなり、年収は結婚したときの数倍になっていた。

 では、何を条件に探せばいいのか? 

「あなたは、それがわかってないからみつからないんですよ」

とは大手結婚相談所を女性誌で取材したときに担当者から厳しく指摘されていた。ネット婚活は特に、条件をつけなければ検索もできない。条件が何より大事。条件しかないといってもいい世界だ。

 漫然と関東近辺の田舎在住者を探してみたが、メールを送ってみようと思わせた人は一人もいなかった。

 熊本県人の会員のプロフィールを見てみようと思いついたのは、当時熱心に求婚してくれていた男性が熊本の出身だったからに他ならない。ポルシェの改造車に乗り、ルイ・ヴィトンのビジネスバッグを提げて駆け回っている人と私の望む田舎暮らしをできるとは思えなかったが、彼は心ねのいい人だった。熊本県はいい人の多い県なのかもしれない。そんなことを思いつくと同時に、カーソルを熊本に置き、クリックした。

熊本に移住してもよいかどうかなど考える暇もない思い付きだった。

 出てきたのは、何百人もの熊本男のプロフィール。書いてあることは他の県と同じだ。職業とか年収とか、「年より若いと言われます」、「温厚な性格です」とか。読む気にならない文章を高速スクロールで流し読みしていたら、パソコンの一隅が白い小さな光を一瞬放った。 

 慎重に画面を戻した。携帯電話で自撮りした小さな写真が現れた。これが光った? パソコンは毎日開いているが、画面が発光するなんて経験はない。

 とにかくプロフィール文を読んだ。年齢がひとつ上の四六歳。職業が農家で、熊本に住んでいることの他に、具体的なことは書かれてなかった。顔も特に好みでない。気になるのは、光ったことだけだ。この人を「流す」ことはできない気がした。1500円を振り込めば、この男性のリアルのメールアドレスを教えてもらえる。迷わず、その晩ネットから振り込んだ。

  

  未来の夫に会いに行く


 アドレスを受け取ると、すぐに熊本のその人に簡単な自己紹介を書いたメールを送った。

今か今かと返事を待ち続けたが、翌日の夜になっても返事は来なかった。

 三日目の夜、フラれたんだと覚悟した。もう寝ようと、最後のメールチェックをしたら、「すみません!」とタイトルがついたメールがきていた。

「すみません。メールに気が付きませんでした」

 翌日から熊本の農家とのメールの文通が始まった。何を書くかが問題だった。仕事と瞑想しかしてない毎日だからといって、それを話題にしたら引かれてしまう可能性は高い。田舎の人はマスコミの女なんてろくでもないと偏見を持っているかもしれない。結局、盛り上がりはないが、返事だけは律儀に返すやりとりが一週間ほど続いた。 

 ある夜彼から、「こんなホームページをやっています」とURLが送られてきた。錦自然農園という名前が彼の農園であることを初めて知った。

 開いてみたそのホームページは彼が手作りしたことがわかる素朴なものだった。何年もかけて書きつがれてきた記事から、彼の軽やかな明るい人柄が伝わってくる。同時に、親と同居していることを初めて知った。 

親と同居……。それがいいことか悪いことか一瞬考えた気がするが、やりとりをやめるほどのこととは思わなかった。

 彼の農園でその時期、柿が販売中だった。即座にクレジットカードをバンコクの取材先で購入したセリーヌの長財布から引っ張り出し、注文した。

注文には電話番号の記入が必須だ。電話番号を入力しながら、これで電話をかけてこない男だったら、メールのやり取りはやめると決めていた。それくらいの積極性もないなら、付き合うのは無理だろう。柿が食べたいからではなく、彼の反応を知りたいから注文した。

 注文した翌日の夜に彼が電話をかけてきた。

 柔らかな声でゆっくり話す人だった。電話は一時間以上も続いた。顔も知らない人とよくこんなに長話できる、と思ったのは電話を切ったあとだった。

 その翌日、彼の柿が届いた。夜、届いた箱にとりついて急いで封を開け、出てきた柿を水道の水で軽く洗い、皮をむいて、台所で立ったままかぶりついた。

 食べ始めたら最後、食べるのが止められず、果汁がだらだらと手にしたたっているのもかまわず、大きな一個をあっというまに完食した。迷わず二個目に手を伸ばす。今度は皮をむかずに軽く洗っただけで食べた。薄い皮。甘いのにさっぱりした味のよさ。そしてふしぎな食感。柿ってこんなにおいしかったっけ? 農家男に対する興味が敢然と立ち上がった。

「すごくおいしかったです。こんなに柿がおいしいと思ったのは初めて」

 翌日、今度は私から電話して彼に言った。

「そうですか。その柿は太秋といって、味がいい品種なんですよ」

 昨夜から用意していた言葉を私は言った。

「来月時間が取れるんですけど、そっちに行っていいですか?」

「えー!」

 ものすごい驚きと、非難のまじる声が瞬速でかえってきた。実はもう、航空券購入は最後のクリックを待っていた。彼の頑固な拒絶と抵抗はずいぶん長く続いた。げんなりと私は言った。

「飛行機代は二万円もしないし、私はよく飛行機に乗るので鹿児島もオオゴトじゃないですし」

「そんなことじゃありません。私はあなたに感情的になっていません」

 ショックというよりは、身を乗り出すような気持ちだった。こんな率直な言葉をかくも穏やかに使える男。どういう農家なんだ、この人は。やっぱり会いたい。どんな人か見てみたい。

「それは私だって同じですよ。でも電話やメールで仲良くなったって意味ないでしょ? 会ったらその場で終わる関係かもしれないのに」

 私がそう言うと、今度は彼も黙った。

「鹿児島のホテル、二泊予約しますけど、いいですね?」

「二泊もですか」

「一泊にしますから、一日だけ付き合ってくれませんかね」

「わかりました……」

 こうして会うことが決まったあとも、意図して彼のことをネット検索したりしなかったし、電話やメールは毎日のようにしていたが具体的な質問はしなかった。そのかわり、彼のメールの文章のトーンを聞き、電話から伝わる気のようなものに耳をすませた。

持論だが、メールの文章に人間性は七割以上出ていると思う。ねちっこい男はねちっこい文章を書くし、文章に偉そうな匂いがする男は、会社名か経歴かにアイデンティティを依存している。

 唯一確かなことは彼の柿がおいしいこと。それ以上のことは、会ってからわかればいい。それは自分がこれまでの恋愛で得た教訓だった(よく知りもしないうちに妄想が走りだしたらろくなことにならない)。

 彼が率直なコミュニケーションができる人だということが、やりとりを始めてすぐにわかった。後で気づいたが、これこそ私の男選びの最重要ポイントなのだった。

 20代で結婚、離婚したときは、「これは言っちゃいけない」という言葉が元夫との間にたくさん挟まっていた。お互いに思っていることを言わなかった。

好き放題に仕事に明け暮れ、国内外に出張し、徹夜して遊んで帰ってくる私に、夫はいつも不機嫌な顔を見せたが、彼から文句を言われたことは一度もない。もっといえば、結婚していた四年間、まともにケンカしたことがない。人がいるときだけ唖然とするほど仲のいいふりをするのが上手な彼に言うべき言葉があるような気がしたが、それが何かわからなかった。一度別居してみないか、と提案したのが私にできた最後にして最大の誠実だった。即座に却下されたけれど。

「日本人は無理だよ。きみはガイジンと結婚したほうがいい」

 と、連載を担当していたある作家から言われたことがある。日本の男は結婚した相手とは腹をわった会話などしないらしかった。


  出会いから三時間で結婚を決める


 空港にはとっくに迎えに来ていると思いこんでいたのに、二十分も待たされた。携帯電話を握りしめてゲート付近に立っていたら、駝鳥みたいに腕もふらず小走りにやってくる男がいて、すれ違い様、「あ」と互いから声が出た。写真よりもいいじゃないか、と思った。

 綿のトレーナーとジーンズ。服選びに迷ったあげくの選択でないのは間違いない。都会臭のある服以外に手持ちがなく、迷いに迷って綿のシャツとスカートという部屋着にしている服で来た私と、まるでカップルみたいにテイストが同じだ。

「車持ってきますからここにいてください」と言われて空港のエントランスで待った。ややあって、目の前に相当に使い込まれた三菱の四駆が止まった。乗ってから知ったが、エアコンもカーステレオもなかった。

 シートを調節したら? と言われてレバーを引いたら、いきなり上半身が前に折れた。慌ててレバーを引くと今度は後ろにそっくりかえった。レバーを動かすと前にバタン、後ろにバタン。やっと調節できて彼を見ると、真っ赤な顔で大笑いしている。それがちゃんと顔を見た最初だった。つられて私も笑いだした。

 最初に格好つけの仮面を引きはがされたのが良かったのか、車が動き出すと同時に気の置けないおしゃべりが始まった。気がつけば、私は車を揺らす勢いで爆笑していた。とりわけ彼の失敗談に腹を抱えた。ふと思った。この人は自分を笑うのが好きな人だ。この人と結婚したら笑ってばかりいる人生になるような気がした。それっていいかも。

 これまでの私の経験では、男のほうが女より簡単に傷つく。プライドの地雷を踏まないよう気遣いしているうちに、こちらも本心で接することができなくなる。彼にはそういう気遣いの必要を感じなかった。

 何の話からだったか、プライドが高くて、見栄っ張りの男友達の話を笑い話に披露したら、彼はひとしきり笑ったあとで言った。

「見栄とプライドは違うよね。プライドがあったら見栄張れないもん」

 見栄張れないもん。なんてこと言うのだろう。やばい。私、この人と結婚するかも。出会いから二時間たっていなかった。

 私の提案で鹿児島の霧島にある高千穂河原という遺跡に立ち寄ったときだ。

「私ここ本当に大好き。マチュピチュみたいだなって思うんだけど」

「チチェン・イッツアにも似てると思うな。ほら、ここから見てみて」

「ほんとだ……」

 マチュピチュはペルー、チチェン・イッツアはメキシコの遺跡だ。私は仕事とバカンスで両方行っていた。こんな話までできる人だとは。驚きはここで終わらなかった。

「浪人も留年もしないで大学を卒業したから、入局する前に一年留学する時間をくださいって国税局に言ってアメリカの語学学校に数か月留学したんだ。学校が終わると、ロサンジェルスで中古のバイクを買って、そのまま試験場に行って運転免許をとって、キャンプしながら全米とメキシコを周って、最後にバイクを売って、そのお金でヨーロッパに渡って、鉄道でソ連より西側を一周してから帰ってきた」

 彼が中卒でも高卒でもかまわなかったが、大学を卒業後、東京国税局で税務調査官をしていたとは想像もしなかった前歴だった。仕事が性に合わず、三年目に依願退職したらしい。

 彼の畑を見に家の敷地まで行って初めて、彼が三年がかりで家をセルフビルドしていることを知った。国税局にしても家づくりにしても最近取得したばかりの英語の通訳ガイドの資格にしても、彼は自分の得点になることは自分から話さない。失敗談はいくらでもするけれど、成功談は聞かれるまで言わない。

 午後も早い時間、私から言った。

「結婚するの、どう思います?」

「悪くないんじゃないですか」

 夜、居酒屋のテーブルで向かい合ったころには両者とも結婚の意思を口にしていた。あまりにことがスムーズに流れ、特別な言葉を交わした記憶もないが、彼がこんなことを言ったのは覚えている。

「どうして君にはこんなにしゃべれるんだろう」

「どういう意味?」

「どうして俺は、君には自分を全部出してもいいと思うのかな。君がインタビュアーで、そういう技術があるから? 俺はこれまで、こんなふうに話ができる人に会ったことがないよ」

 真面目に聞いているように見えたので、まじめに答えなければと思った。

「私があなたの魂しか見てないせいじゃない?」

「またまたそんなこと言ってー。でも、なんで君に会えたのかなあ。不思議だ」

 翌日は早くもお別れだ。

「あと一日いられたらいいのに」と、鹿児島空港で彼が言った。

「あなたです。私は二泊するといったのに、一泊に変えさせたのは」

 彼はさもおかしそうに笑いながら言った。

「次は僕がいくから」

 きっかり二週間後、彼が東京にきた。ネルシャツにフリースジャケットを羽織り、リュックをしょったスタイル。中は歯ブラシと小さなタオルと下着の着替え以外はすべて地元の特産品のお土産だった。都会で彼が小さく見えることもなかった。彼はどこにいても彼だった。

 パソコンの画面が光ったのは、やはり意味があった。

 ネットという大海原から彼という針を拾い上げられたのは、瞑想していたおかげだと私は信じている。瞑想はカンと運をよくするのだ。


  ワインが飲めなくてもいい


 次に彼に会ったのは、翌月、十二月の末だ。

 結婚のことは両方の親にはすでに伝えている(会ったその日に結婚を決めたことは伏せた)。彼の家に年末年始の二週間、滞在することになった。 

 彼のお義父さんは昭和五年生まれ。当時八十歳だった。もともと熊本の球磨村という彼らの家から二十キロほどのところで生まれ育ったそう。お義母さんは隣町の人吉市出身だ。

 夫婦は三十代はじめに福岡に移住し、数万の鶏を飼う養鶏業者として二人の息子を育てあげ、終の棲家を熊本県球磨郡に探した。三年探しても土地が出てこなかったので、広すぎることに目をつぶって今の土地を購入したという。

 移住したときお義父さんは七十歳だった。中古のプレハブと簡易トイレをまず購入して寝る場所を整えてから、二百平方メートルを超える鶏舎を夫婦で建て、材料費二十七万円の家も夫婦だけで作ったそう。風呂はドラム缶にいれた水を沸かして風呂桶に移して入っていたらしい。

 仮住まいを確保してから、ゆっくり新居を建てるつもりでいたお義父さんたちの小屋暮らしが、私がやってくる半年前までそのまま八年も続いたのは、土地についていた果樹園の世話をしてもらいたくて都会から呼び寄せた息子、つまり私の夫となる次男が自分で家を作り始めたからだ。

「どうしてあなたは家が作れるの?」

「不動産屋時代にいつも見てたから」

「見てたら作れるもの?」

「まあ、本とか読んだし。誰だってできるよ。やらないだけで。家って半分が材料費で半分が工賃なのよ。親は材料費、オレは工賃の分を自分が作ることで担当しただけ」 

 彼もユニークだが、その両親はさらに上をいった。

 養鶏術に独特の哲学を持つお義父さんの卵を求める飲食店は全国から引きも切らないが、「錦町の道の駅で売る分がのうなる(なくなる)」と言い、すべて断っている。池波正太郎を愛読し、書斎代わりにしているワゴン車で本を読むのを日課としていた。

 お義母さんは一九七○年代に彼のお兄さんが中学に持っていくお弁当に玄米を詰めていた食の知性派で、お義父さんが肝臓を壊し、医師から余命三ヵ月と宣告されたときは、ケールとヨモギなどの摘草で青汁を作って飲ませ、一年後に医者も驚く快癒を成し遂げた本物の“魔女”だった。

 お義母さんの希望で、私が台所をあずかる日々が始まった。初めて来た家で料理を担当するのが初めてなら、ねぎだの大根だのを土から引き抜く経験も初めて。井戸水で泥を落とし、包丁をいれると中から大根のしぶきが飛び散った。芋類はさまざまなバリエーションで豊富にストックされていた。どれもこれも驚くほどおいしく、鍋を火にかけてから畑に採りに行けるホウレンソウのうまいこと、あまいこと。

 ある時はお義父さんと二人で自然薯を、二時間かけて掘りあげた。夕食は、自然薯をたっぷり入れたお好み焼きと、お義父さんの卵とだし汁でゆるめたとろろ、庭の柚子などで手づくりしたポン酢で和えた自然薯の酢の物を並べた。自分で作ったのに、食べながら、「おいしい、おいしい」とひとりで言い続けた。

 彼のイチゴを初めて食べたときも驚いた。東京に送ってもらった柿は絶品だったが、イチゴもこれまで食べてきたものと全然違う。栽培する人によってここまで作物の味が違うとは。ニューヨークと東京と世界各地で食を取材してきたはずが、こんなことも知らなかった。

デパ地下では絶対に買えない、ものすごく旨い食べものが野から、庭から、まっすぐに食卓に上る日常。これは、すごいところに来たと思った。

「お義母さんたちもいるし、料理を失敗しちゃいけないと思うと緊張する」

 夫にそんなことを言ったのは、軽い気持ちだったが、目の前で彼の顔がみるみる曇った。

「どうしてそんなこと思うの? 失敗していいよ。いや、失敗して。お願いだから失敗して!」

 真剣に言う彼の顔がおかしくて、またしても大笑いになった。 

 セルフビルドの家づくりは、お義父さんたちの日常に支障がないほどには終わっていたが、彼の部屋や客間の内装工事は手付かずのままだった。よって、私たちのスイートルームは、当時彼が寝起きしていた古くて小さなプレハブになった。

 初めてそこへ行ったときは、あまりの汚さに靴のまま上がろうとして彼があわてて止めた。薄い布団、小さな机、年代ものストーブが三台。あとは荷物と埃が埋めるそこの、どこを踏めばいいのかわからなかった。

 全てのストーブを点火しても空気は凍ったまま。吐く息は布団に入るまで、いや布団に入っても白いまま。そんな部屋で、紙パックから注いだ焼酎をヤカンの湯で割って飲んだ。焼酎は少しもおいしいと思わなかったが、琺瑯びきのマグカップがまるでキャンプみたい。おかしさがこみあげて一人で笑った。

「楽しい?」

「うん」

 大昔、上司から「お前は簡単に幸せになれる」と呆れられたことがある。

壁が薄いせいで、朝になると耳元で鳴いているみたいに鳥の声がする暮らしが私の暮らし。朝起きると外の水道で顔を洗うために飛び出していく男が私の夫。シュールすぎて笑いが止まらない。  

夜、彼の話を聞くのはテレビを見るよりずっと面白かった。

「一大決心で農業を始めてみたけれど、向いてなかったらどうしよう、後悔することになったらどうしようとか思わなかった?」

「僕は覚悟して来たから。できないとかやめるとかの逃げ道は一切ないって思って来たから」

「へえ」

「引っ越してきたのは五月で、翌月からもう収穫だったからね。年間で一番に忙しいときだし、ゆっくり教えてもらうなんてまったく無理なわけ。すみませーんって畑や作業場に入っていって、実際に仕事してるのを横で見せてもらって、いろんなこと覚えた」

「普通は研修とか受けるんじゃないの?」

「普通はどうなのか知らないけど、行かなくてもなんとかなるよ」

「見るだけで覚えられるかな? あたしには無理だな」

「そりゃ失敗はいっぱいしたよ。失敗はやってもいいことにしてた。今もそう。自分責めてもどこにも行けないもん。自分がやるしかないんだから」

 年末年始の休暇中とはいえ、年明けに原稿の締め切りがあるので、食事の準備と食べる時間以外は部屋にこもって原稿を書いていた。畑に出ている彼をいい匂いのする台所で待つのがうれしかった。

スーパーに日本酒もワインもほとんど置いてなかったので、「ほんとにないんですか?」と驚いて聞いたら、「このへんは焼酎を飲むとこですから」と憮然と言い返された。そうだった! オッケー! もうこの人生で、ワインが飲めなくてもいい。本気でそう思った。

 あきらめきって実現させようとも思わなかった私の十年越しの夢は、腰を上げてみれば実に簡単に現実になった。

 

 出会いから二ヵ月で結婚


 彼の家に初めて行った日の三日後、実家に彼を連れて行った。父は、彼に向き合うと、神妙な面持ちで言った。

「心配しているのは、ご両親との同居がうちの娘にできるのかということです」

 彼の返事は簡潔だった。

「うちの両親は、彼女が好きです」

 こんなすこやかな明るさに慣れていない父も母も私も言葉を失って押し黙った。妹が彼との結婚を、「六億円の宝くじをあてたようなもの」と言う理由はわからなかったが、家族は皆、私の結婚を喜んだ。

 実家から熊本に帰ってきた翌日、「もう結婚していいんじゃない」と彼が言うので、「それもそうね」と、ふたりで鹿児島の高千穂河原に向かった。中南米の古代遺跡に似ていると意見が一致したところだ。巨石の前で声をそろえて結婚を宣言した。

 夜、気温が氷点下に下がりそうな日は、イチゴハウスに設置した古いストーブを点火しに行く彼についていった。

頬が切れそうな寒さのなか、小さなヘッドライトだけが頼りの夜道を手をつないで歩いた。街灯も人家の明かりも見えないが、プラネタリウムのような星くずが全天にまきちらされていた。

降るような星空と息をのんだクスコやハワイ島など、過去に取材で行った星空の絶景ポイントが思いだされた。もう海外旅行には行けなくてもいいような気がした。 

だって私は、ずっとここで星を見て暮らせる。遠くへ行動範囲を広げなくていい。これからは、毎日が旅行だ。

 婚姻届けを出したその日から、二人で近所の人にあいさつに回った。

 「結婚しました!」

 彼が言うと、多くの人は文字通り仰天した。

「よかった!」と目を赤くしている人がいた。

「これから一生のおつきあいですね」としみじみ言う人がいた。

土地とともに生きる農家の近所づきあいは、都市と違って、死ぬまで続くのだと初めて気づいた。

 「最近内布君のところに若い女性が出入りしとるが、お嫁さんじゃなかかと話しよった」とは何人かから言われた。若くはないんです、は言わずにおいた。  

 結婚はしたものの、いつ熊本に引っ越しするのか白紙の状態で東京に戻った。結婚を報告された友人たちの反応は、田舎のご近所さんとは正反対だった。

驚きというより当惑。怒っている人もいた。

「農家ってね、アナタ、そういうタイプじゃないでしょう」

「ダメだったら戻ってくればいいよ。やっぱりね、とか言わないからさ」

「農業が流行っているからって君までブームに乗らなくても……」

「そこまでして結婚したかったの? 絶対無理。そこまでしないと結婚できないなら、私はしなくていいわ」

 東京にはしょっちゅう帰ってくるし、仕事もやめないと会う人ごとに言っていたが、ある人にそれを言ったら大反対された。

「夫婦は一緒にいないと必ず心が離れる。特にあなたは仕事にすぐ夢中になるから、もうそういうのはダメよ。東京に帰ってきたらダメ。東京の仕事なんかしたらだめ」

 末期がんで闘病中のおばから言われたのだった。

「仕事やめるなんて、そんなの無理よ」

 おばは、長患いをしている人とは思えない力強さで言い返した。

「だめ。本当にそれはだめ。行ったり来たりなんかしないで、ちゃんとご主人さまのそばにいなさい。夫婦は一緒にいることで夫婦になっていくんだから」

 仕事が好きすぎて私生活とのバランスを取るのがヘタクソなのは、先の離婚で証明ずみだ。長年の女友達が、「これからは、くれぐれも仕事をしすぎないように注意してね」と心配そうに言うのも重く響いた。

「農家のヨメになるのに、仕事を続ける? そんなの無理に決まってるだろう」

 二十年来の友人の男性編集者がイタリアンレストランのカウンターで赤ワインに酔った勢いで絡んできた。

「農作業をしないだ? 農家のヨメがそんなことできるわけないだろよ。甘いな、君は。前からそう思ってたけど本当に甘い」

「そういいますけどね、私のオットは、君に農作業をしてもらいたいとは思ってないって言ってますよ」

「言っているだけだって。本当のことを言うと君がこないと思って」

 同じようなことは何人もから言われていた。

「なんでそんなことがわからんかなー。農作業をしない農家のヨメなんてありえないの」

 二十代のときから一緒に仕事しているカメラマンも、神田の居酒屋で自説をひっこめようとしなかった。

「ずいぶん農家に詳しいみたいですね。そこまで言い切れるってことは、農家に知り合いがいるんですね」

「いないけど」

 知りもしないのに私の無知を正そうとしてくれる友人たちの熱意あるおせっかいは、農家のヨメがいかに前近代的で薄幸なイメージに縁どられているかを物語っている。私はそんなイメージをもっていない。戦前の小説やドラマじゃあるまいし。

「君が来年帰ってきていて、ここで一緒にワイン飲んでないことを祈るよ」

 もう、何とでも言ってください。

  

 東京との貨幣価値のギャップ 


 東京に戻るや、前もってアレンジしておいた通り、取材や打ち合わせを詰め込めるだけ詰め込み、二週間後にはまた、パソコンと資料を抱えて球磨に舞い戻った。今回は「出稼ぎに出ていた妻が東京の別宅から帰宅した」が正しい。

 ある日、部屋で原稿を書いていたら、窓から顔を出した夫が「イチゴを青果市場に出しに行くけど」というので、仕事を中断してついていくことにした。

 彼がイチゴ栽培を始めたのは、その前年からと聞いていた。それまで、果樹の仕事が比較的暇な冬は、スーパーでバイトをしていたらしい。バイトをしないですむようにイチゴ栽培を始めたという。

 青果市場でイチゴを納品して軽トラに戻ってきた彼に、何の気なしに聞いた。

「一パックいくらで売ってきたの?」

「百五十円」

 今履いているブーツを買うためにイチゴは何パック必要なのか、という考えがすぐに浮かんだ。今日市場に持ってきたのは40パックくらいだったような。あれ、ろくせんえん? 計算間違えてるかな?

「イチゴってすぐできる? 種を植えて収穫するまで簡単?」

 簡単に栽培ができるから安いのかも。希望をつないで質問すると、夫が言った。

「大変だよ。苗を作り始めて収穫するまで一年半。収穫期が長いし、手間がものすごくかかる」

 彼が昼間ずっとイチゴ畑にいたことは知っていた。うねの間の細い通路に腰をかがめ、葉っぱをひっくり返して虫や病気を探し、草を抜いたり、虫よけのための酢をかけたりしていた。

 あのこまやかな作業と、三時間くらいかけていたパック詰め作業。栽培期間が一年半。そして六千円……。私がその日書いていた原稿は、複数の企業が協賛したPRのためのムック本でギャラは一ページあたり三万円だった。

 質問を続けた。 

「近所の人はみんな人吉の市場で売るの?」

「いろいろだよ。イチゴはJAに売る人もいるけど、そうするにはJA部会に入るのが条件で、そのためにお金払うから量を作れないと意味がない。ウチは畑が小さいから、それができない。桃とかは、JA部会に入ってるけどね。このへんは買い値が安いから、夫婦で二台車を出して、毎日、県外に持っていく農家もけっこういるみたいよ」

「イチゴは直送とか直販とかしないの?」

「イチゴは傷みやすいし遠方に送るのは向かない。直販はしたいけど店もってないしね」

「お義父さんみたいに道の駅で売るのは?」

「昨日持って行ったよ。けっこう売れ残るから、お父さんみたいに毎日は行かないね」

「売れ残ったイチゴはどうするの?」

「引き取りにいく。持ち帰ったイチゴはお母さんが冷凍してる。冷凍庫はイチゴでいっぱいだよ」

 お義父さんが生まれ育った球磨郡球磨村は二○一四年に国税局が発表した納税者の所得平均額ランキングで全国一九四○の自治体中で、なんと最下位だった。

ちなみに一位は東京都港区。球磨村が特別ではない。球磨近辺はどこも似たようなものだ。産業は消えかかり、人口が流出し、未来は先細る一方……。

 彼のいちごは道の駅で、三五○円で販売されていた。よその農家はもっと安かった。物価も所得も安いのである。 

 一年くらい前から電話取材と資料で書ける、いわばどこにいても書ける書籍の仕事が増えていた。東京と往復する飛行機の運賃は安くなる一方だし、事務所の片隅を無料で貸してくれるという友人の申し出もあり、熊本にいながら東京の仕事を続けるのはさして難しいことと思えなかった。

 なのに、百五十円で夫がイチゴを売っていると知ったときから、東京の仕事を続ける価値が私の中で急落しはじめた。

 農業が大変な状況にあるとはさんざん見聞きし、取材して記事にもしてきた。けれどそんなことは、これまでは完全にヒトゴトだった。ヒトゴトではなく、自分の夫のコトとしてみてみると、農業とは、実に不思議な世界なのだった。

 売り上げと生産性がこれだけ低くても仕事として続けられるのはどうしてなのだろう。夫がとても楽しそうに見えて、悩みや不安を抱えているように見えないのはなぜなんだろう。

 夫の農業にもっと入り込みたくなった。方法はわからない。農業をするなんてとても言えないし、思ってもない。だけど、これまでのように取材と称して他人の人生を垣間見て上っ面を書くより、夫の農業に入り込むのは、断然おもしろそうな気がした。 

 夫のすりきれたトレーナーやくたくたの靴は、どれだけ彼が消費生活から遠ざかっているかを物語っている。彼の「ボロボロ」は、おしゃれでもなんでもなく、消費で幸せになりたくてもなれない人の現実だ。

 仕事をやめることにすると思う、と東京で引っ越しを待つ時期、編集者の一人に告げたら、こう言われた。

「言いたくないけどだまされてない? そんなにせっかちに何もかも信じて大丈夫なの?」

 これこそが私が言われたかったことだ。おかげで私は言うことができた。

「だまされるときは、何かを欲しがってるときだけよ。私は何も欲しがってないから大丈夫」

 何も、と言ったが私にだって欲しいものはある。それは、東京の私のマンションへ毎晩、スカイプ(ネットの無料電話)で届けられた。

「ねえ、私にそこで何をしてほしい?」

「君は君がしあわせになることをしてくれたら、おれはそれが一番うれしい」

 てらいもなく愛情を言語化し、行動で表現する男。いそうでいない。少なくとも私は初めて会った。

仕事はやめよう。人生には欲しいものを全部とっていいときと、ひとつしか選べないときがある。今は後者だと直観した。

 ドッジボールやゴム飛びを最後にしたのがいつだか憶えていないのは、「これが最後」と思わないで最後をやってしまったからだ。

 これが最後、と思いながら最後の雑誌取材に行った。現場は六本木ヒルズ。有名な芸能人たちの記者会見の模様を記事にする仕事。数時間で書き上げた原稿の稿料は二万円。イチゴパック百三十個分。

 

 田舎暮らしの始まり

 

 「東京にいるあいだに、あっちでなにをしようとか決めなくていいかもよ。住み始めると、吸う空気も食べるものも違うから、考え方も変わるかもしれないし、仕事に関して、いま思ってることと正反対のこと思ってるかもしれないし、それくらい自由な気持ちでこっちくればいいんじゃないの?」

 彼は正しかった。熊本に来るギリギリまで校正していた医学系の本が最終稿になり、次々と球磨の家に送られてきていたが、一か月もしないうちに、封を開けるのさえおっくうになった。

 「ゲラ(校正刷り)、やらなくていいの?」と夫が心配そうに私に言ったとき、何のことだかわからず、不審げに、「ゲラって何?」と返したのは熊本に来て三ヵ月目だった。 

単語の意味がわからなかった。一瞬のちに思いだして、自分で自分の忘却力にびっくりした。二十年以上の間、もっとも使用頻度の高かった言葉が頭の中から消えた。いや消えたのは、仕事が何より大好きだった私だ。多いときは一日三回、わずかな時間があれば飛び込んで、新刊や雑誌のチェックをしていた書店に、まったく行かなくなった。 

代わりに毎日行くようになったのが、山だ。都心に住んでいるときは、しばしば青山や西麻布まで片道一時間以上かけて打ち合わせの場所まで歩いた。「私をしあわせにすること」は、たくさんはないが、確実にベスト5に入るのが、散歩だった。

 熊本に引っ越した翌日から、朝食前にひとりで散歩に出るようになった。

 朝食はきっかり八時からと決まっている。準備は七時半から始めるので、帰ったら味噌汁をすぐに作れるよう、水を張った鍋にいりこと昆布と椎茸を入れてから出発した。

 最初は二十分で行ける渓流への往復だった。徐々に歩く距離が長くなっていき、最後は毎日二時間、ときに三時間かけて山道を歩くようになった。

 石清水が植物や鉱石の上を通過する時に生まれる無限の色、ロマン派の交響曲はじつは写実なのだとわからせる山の音、天と地が溶け合う青山の稜線ににじむ水墨画の色合い。完璧というしかない美の断片に足が止められ、呆然として自分を忘れ、時間を忘れた。

 いったいどうして私はここに来ることができたのか。球磨にも熊本にも住みたいと望んだことはない。何も知らずたどり着いたらここだった。誰にお礼を言うべきなのかわからないが、誰かに言いたく、太陽にも川にも山にも手を合わせ、頭を下げた。

 ある時、山道で変なものを見た。十メートルくらい先の茂みに三十センチはありそうな白いふさふさした尻尾が飛び込んでいったのだ。

「そんな動物いるかなあ」 

 夫に聞いてもらちがあかない。近所のご夫妻が軽トラで通りかかったので、「しっぽが三十センチ以上ある白い動物っていますか。彼女が山で見たって言うんです」と、夫が聞くと、「さあ、シランなあ」という返事に続いて、思いがけない強い目が、ご主人から私に向けられた。

「一人で山に行きよるとな?」

「はい」

「一人で山ん中には入らんほうがよかよ」

 その顔がとても真剣だったので聞かずにいられなかった。

「なぜでしょうか」

「山には、やまんたろうがおる」

「やまんたろう?」

「山の精霊といえばよかですかね」と夫が横から言った。

「見たこと、あるんですか」

「三回くらい会った。姿は見えんかったばってん、あれはやまんたろうやった」

「見えないのになんでわかるとですか、やまんたろうだって」

「声がすっとたい。やまんたろうは真似する。チェンソーで木を伐る音とか、人の話し声とか。人がおると思って行ったらおらん。また声がする。またそっちに行ってみると誰もおらん。そうやって山の奥に奥にと入っていったもんが二度と帰ってこんごとなった話はいくらっでんある」

 やまんたろうの名は、柳田国男の『山の人生』(岩波書店)にも出てくる。日本全国に山の精霊との遭遇奇譚は残っているが、熊本のそれはやまんたろうと呼ばれ、男の姿をしていると書かれている。

 やまんたろうの話はその後も何人かの人から遭遇したときの話を聞かせてもらった。山の精霊を否定しないここでは、河童も否定されない。河童との遭遇譚を生まれて始めて聞いたのは、三十代前半の女性からだった。

 朝の散歩は、桃の収穫期まで豪雨の朝をのぞいて毎日続き、ある日きっぱりと終わった。球磨の自然のすみずみに息づく形なきものへのあいさつが一通り終わったのかもしれなかった。


無理をしているのがわからない


「農家と結婚するだけでもたいへんなのに、両親と同居なんて大丈夫?」

 両親、親戚、友人から、「また?」とうんざりするくらい心配されたのがそのポイントだ。

 暇さえあれば本を読んでいるお義父さんや、噂話やワルクチを一言も口にしない、品のよさがにじみ出ているお義母さんを見た、のちに友人になった農家の主婦から、「ああいう老人は、このへんにはちょっとおらんよ」とびっくりした声で言われたこともある。私は運がいいのだと思った。心配などまったくしなかった。

 実際はどうだったか? 

彼の両親と一緒に食事をし、一緒にテレビを見たりするライフスタイルは、スタートから一ヵ月でお義母さんたちの希望により終わった。

 午前八時、正午、午後七時。ぴったりと決まった時間に四人分の食事を整えるのは私の仕事だった。パスタやパンは出さないこと。辛いものを控えること。決まりごとはそれだけ。野菜を畑から抜いてきたり、散歩の途中で摘んできたりすることから始まる食の準備は、おもしろいが、片手間でできることではなかった。

 一度指を折って数えてみたら、用意する時間、食べる時間、片付けの時間、十時と三時に畑に持っていくおやつの時間を足し合わせると、一日六時間ではぜんぜん足りないくらい食に一日じゅう追われていることがわかった。

 だからといってそれを不満と思ったことは一度もない。ところがある日お義父さんが言った。一緒に食事をするのはお互いに無理をすることになるからやめよう、と。これからは家計も別に、と言うのだった。 

 お義母さんたちの食事やくつろぎの時間はこれからは、母屋から3メートル離れた場所にある「小屋」に場所を移すのだそうだ。

 義父母が福岡から移住した直後、十年前に建てたそこは、プロの手を一切借りず、老夫婦だけで作ったものだ。当然おんぼろを極めている。しかしお義母さんは、そこがいいのだ。口にこそしないが、私という他人がいる便利な新居よりも、そっちが寛げるということなのだ。聞いた一瞬後、目に涙がたまった。ここでこぼれ落ちたら大変と、必死でこらえた。

「私はどんな悪いことをしたんだろうか?」

自責の念が押し寄せ、妄想は渦を巻いて止まらなかった。

「そんなに一生懸命やらんでいいよお」

 お義母さんに何度も言われていた。

「大丈夫? 無理してない?」

 夫がときどき聞いた。

「なんでそんなこと聞くの」

「だって生活が全部変わっちゃったし、不安とかあるだろうし」

何べん聞かれても答えは同じだった。

「無理してないよ」

 想定外だった別居宣言に、呆然としている私に夫がやさしい声で言った。

「いいんじゃない。お母さんは食後にはだらっとしたいんじゃない? でも君がいるとしにくいんだろ」

 夫の言葉は、「君のせいでみんな寛げないよ」と私の脳内で翻訳され、傷ついた私は声も出せなかった。

 ところが翌朝のトイレで私は自分の本心を知ることになる。熊本にきて以来ずっと便秘ぎみだった。それが前ぶれもなく解消された。その日を境にお通じがスムーズになった。 

 役目から解放されて初めて、自分がいかに無理をして、自分を押し殺して一ヶ月を過ごしてきたかを知った。

毎日の食卓を、スタイリストごっこか、と言いたくなるほど一日三回美しく整え、終わるやいなや、食器を洗うために立ち上がるのは、私の本性からかけ離れている。なのに、熊本に来て以来、「こんなことは、私にとってのあたりまえです」と言わんばかりに、平然とやっていた。

 義父母と食事を別にするようになって初めて、ドライブ先でラーメン屋に寄るというイベントが実現された。夕食の時間に間に合うように出先から急いで帰らずともよくなったからだ。ラーメン屋で夕食をすますのは、なんという解放感だったろう。店の名前まで覚えている。

 見知らぬ他人と暮らすのも、毎日食事をともにするのも人生で初めてだ。ただ不慣れなのか、無理をしているのか、どうして私にわかるだろう。

まっすぐに立っているのも辛いレベルの腰痛が、熊本にきて二週間目から続いていたが、食事の準備から解放されたとたん消えた。ようやく思い出した。私のコレは、いつだって精神的ストレスに起因していたことを。「仕事もしていないのにどうして?」と不思議に思っていた。そうじゃなかった。心に無理強いすると、体は素直に悲鳴をあげる。ところが私はその悲鳴をかたくなに無視する癖がある。

「こんなことになるんじゃないかと思っていたんだよ。君たち、似てるから」

 夫が笑顔で言った。

「私とお義母さんのどこが似てるの?」 

「神経質なところ」

 私が結婚したほぼ同じ時期に都会から農家に嫁いだ知人がいる。知人は夫の両親との同居を半年続けたのち、もう耐えられないと、夫とその両親に別居を願い出たそうだ。願いは受けいれられたが、一度離れた心は元に戻らず、彼女は都会に帰っていった。

 私は運がいい。義父母から言い出してくれなかったら、私は愛想笑いしながら限界まで無理を通しただろう。そしてどうなったか? 想像もできない。

 ラーメン屋のあとで温泉に寄ったら、湯船の中で年配の女性たちが「ウチのヨメが」と愚痴の大合唱をしていた。お義母さんにもこんな仲間がいればいいのに、と思った。


やりたかったことをする

 

 義父母とスープの冷めない距離で暮らすのは、実に快適だった。料理上手なお義母さんからしょっちゅうおかずの差し入れをいただき、私たちも都会から贈られてくるお菓子などをきっちり半分渡すのをならいとしていた。食事どきに、お義母さんたちの居間からこれまで聞かれなかった大きな笑い声が聞こえるようになった。お義母さんたちは正しかったとあらためて思った。

 私もしたいようにした。

油断すると台所からあふれそうにたまる大量の野菜や果物を調理し、果樹園の世話をちょっとだけ手伝い、夫とともに内装工事をしたり、家具を作ったりして、家を少しずつ整えた。 

 したい暮らしの青写真はなく、計画もなかったし、義務もない。台所仕事をしたくなければしなくていい。

「今日はインスタントラーメンと冷凍餃子でひとりで勝手にごはんしてください」と、夫に言ったところで、夫は不満を言うどころか喜ぶだろう。「ひとりで勝手」するのが好きな男なのだ。

 自分の「自然」を押し切って、起きている時間の大半を家事に向けていたのは大失敗だったが、ここに来る前から、熊本に行ったら、これまでの人生でしていないことをしたい、という気持ちが強くあった。

経験がないせいで知らないおもしろいことは、世の中にいくらでもあるような気がした。それをすべてやってみるには人生には時間が足りないが、簡単にできる未経験のことにはできうる限りチャレンジしたかった。

 家の玄関は、ドアがついているだけのあっさりしたものだった。時間がない夫にかわり、玄関アプローチを整えることを申し出たら「やってくれ」というので、私が担当することになった。

 夢の玄関の絵は、東京にいる間に用意していた。幼稚園に行く前からスケッチブックに描いていた夢の玄関まわり。花の植え込みがあり、犬小屋があり、半円の芝生スペースを石が囲んでいる……は、実現できなかったが、フンデルト・ヴァッサー(オーストリアのアーチスト)風に雑草が茂るレンガの階段がテラコッタの踏み石に続き、芝生を敷いた半円の外周を石が囲む景色を構想した。 

 もちろん庭づくりの経験はない。触ったこともなかった一輪車にスコップですくった土をのせ、運び、土を出して、それをならす作業から始めた。次は、土中に埋まっている石を掘り出し、一輪車で運び出す作業。一日中何十回もひとりで一輪車を往復させていると、

「いい加減にやめんと腰が痛くなるよ」

 と、お義父さんが真顔で止めに来た。しかし、どういうわけか、私の腰は何日作業を続けても少しも痛くならなかった。ものすごく楽しいだけだった。

 Tシャツを一日に三枚取り替えても足りないくらい汗をかくのも初めてだ。太陽の下にずっといるので、去年までは白すぎる肌が恥ずかしいくらいだったのに、立ち寄った近所の人から「黒くなったね」と驚かれるようになった。ちょっと誇らしかった。

 ふっと、明日は仕事しなくちゃ、となじみのある考えが頭にたなびくことがあった。でもそれは錯覚で、私には急いで書かないといけない原稿なんかない。それに気づいた瞬間、夏休みに突入した子供の気分を味わった。宿題のない夏休み。永久に終わらない夏休み。

 早朝からEM(乳酸菌、酵母、光合成細菌などの微生物)などを散布している彼の園地に朝ごはんを持っていくことはよくあった。彼の作業の区切りがつくまで、ひとりで雑草を踏み分け、樹木の間を歩きまわった。

 無心に歩いていると、耳元できれいな音楽が聞こえた。ピアノによく似たとても高い音だった。足を止めて今の音源はどこかと考えたが、遠くの家から聞こえたような音ではなかったと思う。こういうことが、ときおり起こった。

 畑で草取りをするのにも凝った。草を引き抜き、中腰のまま少しずつ移動していく。夫から、帰ろうといわれても、「いやだ」と拒絶、しつこく草を抜き続けた。実家の庭の草ぬきはしたことがない。頼まれたこともなかった。

 人生で初めて真剣に草取りをして知ったが、草取りと瞑想は似ている。瞑想は、頭の中の思いや感情や体感、体の動きをみつめることと私はとらえている。心に言葉が泳がない時間を終えて立ち上がるときの充実感ときたら。

 夜の八時どころか、七時に布団に入ることも珍しくないくらい、毎日を使い切った。

背中が熱くなるほど体を動かしたり、剪定枝を燃やして昇る炎の熱に頬をあぶられたり、近隣の温泉に日参して朝からとろけたり、近所の渓流でクロスとともにテーブルを広げて食事をしたり、夫をかわいがったり、犬と遊んだり。

うれしい瞬間を積み重ねる毎日を最高にしあわせだと思っていることに偽りはまったくないのだが、受診した病院の受付などで、職業欄の空白に向き合うときにのみ、正体不明のもやっとした気分が心によぎった。

私は何をする人なのか。アイデンティティがいまだにつかめない。私の職業は主婦じゃないし、農家でもない。本のゲラが届き続けているから、「ライター」と書くときもあったが、納得しているはずもない。

 なにものでもない自由はすてきだが、エネルギーを集中的に注ぐものを持たないのは、どこかつまらないのだった。 

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