間違える事は辛い

杜甫口(トホコウ)

あらすじを書くことの辛さから考察する己の『自意識過敏』

昨晩、俺がどうして小説を書く際のあらすじが嫌いなのか考えたのだけれど、結論から言うと、「俺が間違っている事を認識するのが嫌だから」がメインを占めている。


これまでも俺は何度もこれを意識して、なるべく「自分は完璧じゃないんだから間違って当たり前」って事を受け入れていこうとしてきたのだけど 、結果から言うと全くできてない。


その原因は、結局の所努力不足で、この問題の根本にあるのは、「俺は絶対的に正しい」っていう希望的観測+「負けたくない」って特性の持ち主であり、それが理由で俺は小さなころから「自分の好きを言えない」状態に自分を縛り付けていた。

言い訳は色々あるけど、たとえば「自分の好きを語る奴は嫌いだ」みたいのとか。

で、なんでこういう事を考えるかってところに問題がある。


これまでも俺は何度もこの問題を意識して、なるべく「自分は完璧じゃないんだから間違って当たり前」って事を受け入れていこうとしてきたけれど 、

ここで、さっきの「俺が間違っている事を認識するのが嫌だから」が関わってくる。


これは、こないだ人から言われた「もう一歩作品に深みが欲しい」って言われたときにそれを追求する事を躊躇する気持ちが生まれたのとかにも関わってくるんだけど(ていうか俺の全生活に関わる)、それで最近俺は「自分の好き」を語れるようになってきた。

なんて、自分では思っていた。

それは例えば知人とやっているインプット会なんか最たるもので、負けず嫌いな自分と他人との差をむしろ楽しんでる。

で、それ自体はいいんだけど、問題はどうしてインプット会では違いを楽しめるのに、あらすじみたいな形で「自分の好きを世の中に突きつける」みたいな形になると躊躇するのか。(あらすじっていうのは、自分の作品の良さを解説する解説動画みたいなものだ。それをするには自分の好きが重要になってくる)


問題は、俺の姿勢にある。

インプット会とかで俺が楽しく語れるところの大部分は、「負けず嫌いな自分のネガティブ面」に関してが多い。

半面、ポジティブ面を語る事は少ない。

この原因は、「俺が完璧に絶対的に正しい」という希望的観測が関わっている。

あらかじめ自分で「これは間違い」って判断している事を告げる事は易しい。

なぜならそれは俺の中で「この考えは恐らく間違い」って最初に疑ってるから。

だから、たとえそれが実際に間違っていたとしても、「ほら、やっぱり間違ってる」って俺は言い訳をして、


「つまり俺は正しい!」


って答えのみを手に入れて満足している。

この辺が俺が理解浅い原因の、最大の要因の一つだと思った。

つまり本当に俺が努力するためには、


「俺はこれが正しい!」


ってはっきり全開で思えるところで突っ切って、

その上で間違いを見つける。

ゆくゆくは楽しむ。

って所までいかないと、「俺の好きを語る」ってレベルまでいかないんだろうな。

ってついさっき思った。


間違える事は本当に辛い。

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