日記

 4月2日

 実のオヤジが死んだのを知ったとき、オレの脳裏に過ったのは、一瞬の安堵だった。もう、これで……。

 これで、このクソみてぇな生活から解放されるんだって。

 あのクズ野郎がいなくなれば、こんな地獄からはおさらばできるはずだって、そう思った。

 だが、現実は違った。

 あの男は死んだが、その事実を喜ぶ暇もなく、今度はオレ自身が迷宮にとらわれてしまったのだ。

 結局、オレの人生は何ひとつ変わらなかった。

 いや……むしろ前よりも酷くなったと言っていいだろう。今の生活に比べれば、まだマシだと思えるような日々が始まったからだ。

 そんな毎日を送るうちに、オレの中で何かが崩れていった。

 それはきっと心の奥底にあった、最後の砦のようなものだったに違いない。

 いつの間にかオレの心の中にあった希望という名の光が消え去り、代わりにドス黒い絶望と虚無感だけが残った。そして、いつしかオレは考えることをやめていた。

 それが、今の自分だ。

 まるで抜け殻のように生きるだけの存在―――それこそが今のオレなのだ。


 4月4日

 オレのダチだったペトルーが言ってたことを思い出した。

 なぜ過去形かっていうと、ヤツは今行方知れずたから。

 それはともかく、ヤツはこう言ってた。

「この世には2種類の人間がいる。女を愛せる男とそうでない男だ」ってな。

 確かにそうかもしれないけどよ、それじゃああまりにも極端すぎやしねえかい? でもまぁいいさ。

 少なくともオレは前者だし、これからもずっとそうだと思ってるぜ。

 なんせオレは……。いや、なんでもない。

 ただちょっと思い出しただけだ。


 4月7日

 実のオヤジはやたら言葉や箴言にこだわって、それこそ取り憑かれたように集めていた。

 オレからそのことを聞いた友人ダチ曰く。

「あの人はきっと、この世に神がいるかどうか確かめたいんだ」


 4月8日

 最近、まったくクソが出ない。

 逆に吐き気が酷い。多分食べたり飲んだりしたものはすべて口から吐き出されている。

 病院に行ったら、医者はこう言った。

「あのね、心の問題だから病気っていうのもおかしいけど、とにかくストレスが原因だから、そのせいで脳に異常が起きてるんだよ。あとは、不眠症だよね。それと胃痙攣もあると思う。とりあえず精神科か神経科かどっちかに行ってみたら?」


 4月9日

 こんなことを思い出す。

 オレのおふくろは実のオヤジに捨てられた。

 オレがそのことを訊くと、おふくろはこう返した。

「お父さんは、私のことなんてどうでもいいのよ」

 そして続けてこうも言ったのだ。

「あなただって私のことを捨てるわ」

 そう言っておふくろは泣いた。


 4月11日

 カベに分断された街に行ったときのこと。

 唯一の通り道に門がある。

 オレは門番に尋ねる。

「ずっとここにいるんですか?」

 門番はこう答えた。

「そうさ。この道を行く者があれば、誰でも歓迎するよ」


 4月13日

 頭痛がどんどん酷くなっていく。ノドから得体のしえないモノが迫り上がっていく。

 医者から処方されたクスリを飲む。

 そう言えば、むかし病気で寝込んだオレを看病したおふくろがこんなことを言ってたのを思い出す。

「苦しいのは生きてる証拠だよ」と――

 その言葉を思い出したときに、不意にあることに気付いた。

 ああ……そうか。これはきっと『生きている』という実感なんだ……と。

 やがて、クスリが効いてきたのか、睡魔がオレを襲ってきた。朦朧としたまま、なんとかベッドに行って、そのまま意識を失う。


 4月15日

 ベッドでタバコを深く吸いながら、女はこう言う。

「あんたの父親だっけ、ホント変な男だったよ。あんたと違ってヤりもしないで、延々とアタシの話を聞きたがってた」

 オレは服を着ながら尋ねる。

「なんで、親父はそんなことしてたんだろうな?」

 女は笑いながら答えた。

「さあね? きっと、何かを期待してたんじゃないかしら……。アタシが話をしてる時だけ生き生きしてたし」

 オレはベッドに横になりながら聞いた。

「期待って何をだよ?」

「知らないわよ。あの人の考えなんて分かんないし」


 4月17日

 知らせを受けてあわててやってきたオレの前に横たわったダチの姿があった。

 まるで寝てるみたい。

 担当らしい制服警官が死因を説明する。

「睡眠薬の多量摂取ですね。死亡時刻は……深夜0時から3時の間です」

「おい!」

 慌てて声をかけるけど返事はない。ただの死体だ……。

 オレは膝から崩れ落ちた。

 もう何もかも終わりな気がした。

 この先どうしたらいいのかわからない。


 4月19日

 アタマがギシギシと軋んでいく。

 吐き気もドンドン酷くなってきた。

 鏡で顔を見るとナスの色になってる。

 医師の処方箋を貰って、薬剤師のもとへ。

 あんまりなオレの状態に薬剤師はこう言った。

「とりあえず、痛み止めを出しますけど……あまりオススメできません」

「何故です?」

「この痛みはストレスや疲労によるものだからです。つまり……」

「つまり……?」

「強いお薬ほど良く効いて早く治りますが……その分反動が怖いですから」

 そんなことはオレもわかっている。ただ、辛さが少しでも緩和されて、眠りが来てほしいだけだ。


 4月20日

 混濁した意識の中、オレは思い出したことがある。

 シーモアとか言うクラスメイトの話。

 やつは時々予言めいたことを言ってた。

「オレはどうなんだ?」

 ふざけて聞いたオレに、シーモアはこう答えた。

「キミは……そうだな。うん。まぁがんばって」

 その時のあいつの笑顔は、今まで見たこともないくらい優しいものだった気がする。

 オレはその顔を思い出しながら――そのまま気を失った。


 4月22日

 頭痛が酷くなって、視界が歪み始めた。

 もうほとんどの物が歪んで見えている。

 今目の前にいるコアラは誰だろう?

 声からして女だろう、そのコアラはオレにこう言う。

「ねぇ! アンタ何なの!?」

 あぁ……頭の中で、ガンガン音が鳴っている……耳鳴りか? うるさいなぁ……何だよ一体……。

 そう思っても、その音は徐々に大きくなっていく一方だ。


 4月24日

 オレはほとんど虚になっている。何もかもがフワフワした意識。

 過去に遡行していく。

 オレはおふくろにこんなことを言った。

「どうして、他の家と違っていろんなご飯が食べれるの?」

 オレの周りは、オレ以外1日の飯にこと書く状態なのに、オレとおふくろだけは3食食えていた。

 おふくろは答える。

「お父さんのおかげなんだよ」

 オレはそれを聞くとすぐに納得する。

 ああ、そうか。親父が稼いでるのか。親父すげぇんだ。

 今思うと、なんとも無邪気で単純な子供である。でも当時は疑問なんて一切抱かなかったのだ。


 4月26日

 いくらオレだって、生きてくために身分証用の書類を取りに行かなきゃいけない。

 あまりに顔色が悪いオレを見て、窓口係が言う。

「あの……大丈夫ですか? 気分が悪いようでしたらお医者様を呼んできますが……」

「ああいえ、ちょっと貧血気味で……。でもすぐ良くなると思うんで大丈夫です」

 そう言いながらもオレはふらふらと立ち上がった。

「あー、やっぱダメだわ。今日は仕事にならないから帰ります」

「あ、はい、では書類のほうはこちらで作成しておきますね」

「よろしくお願いします」

 外に出るとまだ日は高くて、オレはほっとした。これなら歩いて帰ることもできるな。


 4月29日

 頭痛がドンドン酷くなっていく。吐き気も。

 オレの意識もそれに比例して朦朧としていく。

 むかし、近所に住んでたジジィがこんなこと言ってた。

「こんなもんで痛いとか言ってるのか。わしの若い頃はのう、こんな痛みはナンボのもんじゃいと……」

 それを聞いてたオレがウンザリしてるのに気づいたの、ジジィはあわてて話しを畳む。

「あ~あ~そうかいな。若いもんはこの程度の怪我なんか慣れっこじゃろからなぁ。年寄りが無神経なこと言ったわい」

 そうじゃないんだってば!

 と叫びたかったけど……その声すらもう出せなかった。これは、オレの脳内でリプレイしたモノだから。


 5月1日

 今日は買い出しの日だ。病んでても、生きていかなきゃいけない。たとえ孤独なものであってもだ。

 買い出し先のお店で、一週間分の食料を買う。

 カウンターの店員が、オレのあまりの顔色を見て

「大丈夫ですか?」

 と問いかけるので、オレは答えた。

「いつもこんな感じなんで」

「でもあなた死にそうですよ? 顔色が土気色してますよ!」

「いつもそんなに悪いですかね……まあ気にしないでください」

 その言葉を聞いても店員は納得した様子ではない。しかしオレとしてはそれ以上説明しようもない。

 心配そうな店員に、空元気な相槌を打って帰る。


 5月2日

 不注意でじつわのオヤジの残した原稿が一部燃えてしまった。

「わあっ」

 あわてて火を消すも、読めなくなっちまったとこがイッパイある。

 ついでに、原稿自体もグッチャグチャになってる。

「……あーぁ」

 思わず泣きそうになる。でも泣いたってしょうがないから我慢する。

 とりあえず、このグチャグチャの原稿を何とか直さなければ。


 5月3日

 彼女は実のオヤジの実家から派遣された、というか三行半叩きつけられたときに、唯一味方した人の娘さんだという。実際はどうだかしらない。

 彼女は灰だらけになったオレの部屋を見て、フウとため息をつきながら

「まったく、とうしたらこうなるのかしら?」

「うん、ホントすまない」

 謝るオレに、彼女は着けている眼鏡を上げながら、こう返す。

「まあいいです、それよりさっさと片付けますよ」

 そう言いながら彼女は灰を集めてゴミ袋にまとめだす。


 5月5日

 頭痛がひどくなっていく。

 オレはもう夢と現の違いもわからないことがある。

 今もオレのとなりには10歳くらいのガキが座ってた。

「大丈夫?」

「とても良くない」

 ガキはそれを聞くと、こう返す。

「じゃあ一緒に行こうよ。その方が楽しいから」

 そうして、目を覚ます。


 5月20日

 オレが思うに、この世に生きる連中の生涯ってのは何を得て、どういう風に生きるかが重要なんだろう。むかし、実のオヤジの愛人の1名が言ってた。

「女が男に求めるものじゃないわよ。男が女の何を求めるかよ」

 なるほどと思ったね。男は、そいつの生涯どんな影響を与えられるかで自分の価値を計る。女は、そいつの生涯そのものを背負う覚悟があるかどうかだ。多分、そんな話だったと思うけど。


 5月28日

 オレの実のオヤジはクッソ高いマンションに2部屋借りていた。

 1つは自分の秘書だったのを愛人に、もう1つは高校生くらいの女の子を住ませていた。

 それに、おふくろ。

 ようは3名の女を行ったり来たりしてたわけだが、本人はあっけらかんと

「まあ、金はあるし、この歳になると、ひとりの女とずっと一緒にいるって気色悪いんだよね」

 なんて、フザケたこと言いながら生活していた。


 5月30日

 特に書くことがない。

 体調も良いとは言えないが、快晴と言って良いくらいにアタマがスッキリしてる。

 こんな日もあるもんなんだな。


 5月31日

 親父は実のオヤジに比べて真面目に生きていこうとしてたが、何故か貧乏クジばっかり引いてた。本人もグチっぽく

「何で俺はこうなんだろう?」

 と、よく言ってるけど、きっと運が悪かったんだなあ。

 おふくろはもう調子が悪かったし、オレも正直良い息子じゃなかった。親父は最後まで

「何で俺はこうなんだろう?」

 と、思ってたんだろう。

 可哀想に。


 6月1日

 また、旅行に行ったときの思い出。

 オルリンズの駅を降りると、過疎の街特有の景色がお出迎えしてくれた。

「これでも、郊外は栄えてるし、少し遠出すれば牧場とかもあるんですがね」

 駅員はグチるように言う。

 オレが

「どうかしたんですか?」

 と訊ねると、駅員は

「ええ……最近じゃ若い人が町を出て行ってしまうんでしてねぇ」

 そう言って苦笑した。


 6月3日

 意識がまた朦朧としている。

 もう、日常生活を蝕んでいるというよりは、頭痛とそれにともなう意識朦朧がオレのデフォルトとなっていた。

 ダチ曰く

「お前、顔色悪すぎ。マジで病気なんじゃね」

 とかのたまっていたが、実際、原因も何もさっぱりわからないし、正直治る気もしない。


 6月4日

 ようやく少しは治る。

 珍しく、意識も少しだけ、ホントに少しだけだがスッキリとしていた。

 久しぶりに外に出ると、オレを見た掃除してたババアが

「あら!あんた生きてたのかい?もう死んでるかと思ってたよ!」

 と、大声で言ってきた。

 適当に相槌。

 歩きながら、むかしのことを思い出す。

 ガキのころオレが欲しいモノを買えなくて泣き喚いたとき、実のオヤジの愛人が諭すように

「この世にはね、どうしたって手に入らないもののほうが多いのよ」と優しく言ってた。

 どこに行ってたかというと、映画を観に映画館へ。

 実母を失い、継母と確執があった少年が、夢の中の冒険をへて、彼女たちと和解するって話の映画。

 オレの目から涙が出る。


 6月5日

 夢を見た。むかしの夢。

 犬がオレに銃口を向けている。犬は言う。

「さて、弾はあと1発だワン。空砲かもしれないし、鉛弾が飛び出して、お前の脳天を割るかもしれないワン。どっちだと思う?」

 そう言って、引き金を引く。それで目が覚めた。

 オレは色とりどりの夢をみる。なぜだろう。

 となりにいた女はこう茶化す。

「なにいってんの、そんなもんみんなそうよ」

 たしかにそのとおりだ。オレが勝手に気にしているだけ。


 6月7日

 また思い出の中へ。

 オレがセンセイと呼んでいたかれは、大学の語学講師だった。

 若いころは秀才と呼ばれていたが、病気で療養したためか、語学が好きじゃなくなってた。快活な性格で、友だちが有名作家や教授なのでかれらの思い出話をよくしてくれたので人気だったが、同じ教材を取っ替え引っ替えする授業をするセンセイだった。かれに進路相談したときの話だ。将来の不安を口にしたオレにセンセイはこう言った。

「いいかい。将来というのはね、いまから先にあるんじゃないんだ。過去と現在があって、その先に未来があるんだにゃ。きみがこれからどう生きるかということが重要にゃんだよ。そのためには、いまこの瞬間を大切ににゃなきゃいけないよ」

 頭痛に耐えながら、それでも必要なモノを買うための買い物へ。

 店員はオレのますます酷くなってる顔色を見て

「お兄さん、また顔色悪いけどホント大丈夫?」

 と心配してくれたが

「すみません」

 と謝りながら、やり過ごす。


 6月9日

 思い出。

 親戚だとかいうおしゃべりな紳士が、オレにこんなことを言った。

「まあ、キミは幸運かもしれんね、なにしろ、この家にひきこもっていさえすれば、もう二度と、あんな目に遭わずにすむのだから。あの疫病神は出て行ったし、この家は呪われてはいないし、ここにはあの女性の幽霊も出没しない。もっとも、だからといって、あの男が許されていいことにはならんがね」

 その隣りでは、同じく親戚だとかいう、こちらはもの静かな紳士が心配そうにオレを見つめてる。

 それで目が覚める。

 目を覚ますと、孤独感に苛まれる。

 ユメの中のオレは、そんなことにも気づきはしない。

 それでも、体は動く。

 動かなければならないと、心は叫んでいる。

 ならば、それをすればいいのだろう。

 立ち上がり、オレは歩き出す。

 一歩、また一歩。


 6月10日

 城塞都市とか言われていたとこに行ったときの話だ。

 国境でもないのに、パスポートやら身分証、入国許可証を検問員に見せなきゃ入れない。

 検問員がオレに曰く

「現在、この付近は自分がナニモノか証明できる物と入国許可証がない限り、許可できません」

 なんで、そんなことに行くかというと、そこに住んでるダチが倒れたという知らせがあったからだ。

 今にも朽ち果てそうなダチを見て、オレは絶句する。

 ダチは、そんなオレにこう言った。

「おい、いい加減にしろ。俺がこの程度で死ぬワケねぇだろう? オマエも分かってるだろうがよ」

「う……あ、ああ……」

 確かにそうだ。こいつは確かに死ぬようなヤツじゃない。カラ元気だとしても……。

 そうして、しばらくオレとダチは話をしていた。

 なんでこんなことを思い出したのか、ダチが励まそうと、病気で痩せた腕でオレを掴んでこう言ったからだろう。

「俺はいまじゃただの骨と皮膚だけのかたまりだけど、お前のはそうじゃないだろ。だからまだやれる」


 6月18日

 ハイパインに女に会いに行くため、船旅に出ることになった。

 船旅といっても、椅子もなければザコ寝で何日も過ごすわけだが。

 隣にいたおっさんがオレに話しかけてくる。

「よお、聞いてるか、あんちゃん?」

「……」

「聞いてるのか、って訊いてるんだよ?」

 オレは答えなかった。

 おっさんがもう一度、同じ内容を繰り返すので、面倒になり、返事をした。

「だから、聞いてるって」

「そうかい、それはすまねぇ」

 とおっさんは言う。

 このやり取りは4~5回ぐらいやっているのにだ。おっさんは、また最初から、同じ内容を繰り返す。


 7月3日

 オレの精神状態:安定。

 ホントにここ2、3週間平穏な日々をおくっている。

 具体的には

 ・朝は早い。

 ・夜は遅い。

 ・睡眠は充分取れてて、夢も見ない。

 ・クスリもそんなにやってない。

 ・食事もオレにしてはバランスよくとっている。

 ・今までと比較すると規則正しい生活リズムで、心身共にある程度は健康状態である。

 こんな感じだ。

 まぁ、この平穏な日々がいつまで続くかは判らないが……。


 7月4日

 久しぶりに夢を見た。

 夢の中でおふくろが苦しんでる。陣痛らしい。

 助産師が、こう励ましている。

「頭、出ましたよ。もう一息です」

「苦しい、痛いよう」

「がんばってください。もうすぐです」

 でも、生まれた赤ん坊は死産だった。おふくろの悲鳴が耳に残っている。

 そして、オレは目を覚ました。

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