『  』の地平線

 眩しいばかりだった。

 そうとしか記憶に残らず、けれど確かな存在が僕を染める。中学生になったばかりの僕には不完全な『大切』な存在だった。


 夏の海はきっと空と変わりない。どこまでも壮大で無限大。さざ波は雲の口遊みや飛行機雲を作る雑踏のよう。だけど耳に心地よくて安心してしまう。


「あんたぁ、こないとこでなにしよんが?」


 なまりなのか昔を感じさせるアクセントの声の主に振り返る。砂浜をゆっくりと歩むお婆さんに慌てて頭を下げた。そんな僕を見てからどこか遠い過去を懐かしむように地平線の夏を滲ませる。


「こかぁ待ぢ人のくるとこさぁ。あんたぁみたいなわかもんがくるぅとこじゃないわい」

「待ち人?」

「そうさ。わぁたしももうかれこれ十年は待ったさぁ。そんで、ようやくってもんさぁ」

「十年……」

「わぁったら、さっさと戻んなぁ」


 そう言って待ち続けた誰かに逢いにいったのだろうか、お婆さんは砂浜から海の地平へと歩いて行った。

 海を上を歩いていく光景を眺めながら、ぼんやりとここはどこなのだろうと、今更ながらに考える。身体もあるし、思考もできる。でも、どうして僕がここにいるのかわからない。途端に怪しげな場所に思えてきてそっと一歩足を引いた。

 砂の音が耳朶を打ったのと同時に鼻孔を刺激する潮のにおいの間に煙たいにおいが混ざる。隣を見れば、地平線へ歩いていく人々を見ながら煙草を蒸かせたアラサーくらいの女性が佇んでいた。


「あの……お姉さん」

「うん?なんだい坊や」


 僕に反応しれくれたが煙草を吸うことはやめない。


「ここは、どこなんですか?」

「なんだ?坊やは記憶はないのか?」

「記憶はあります」

「なら問題ないね。ここは人の狭間さ。夏の幽霊たちが旅立つだけの場所さ」


 あんまりピントこなくて首を傾げると、お姉さんはふっと息を吐いて笑う。


「死に直面している、もしくは死んだ人間が一年にただ一度だけ待ち人を待つことを許された夏の狭間。煙草でも吹いてないとね、やっていられないものさ」

「お姉さんは誰かを待ってるの?」


 まだ理解できていないけれど、ふとお姉さんの事が気になって訊いた。するとお姉さんは煙草を眺めながら自嘲する。


「煙草が嫌いなあいつをな」


 そう言って煙草を口に加えて煙を捨てる。

 僕はこの夏が悲しくて誰かと遊んだ海じゃなくて、ここにはいてはいけないような気がした。無意識に頭を横に振った僕にお姉さまは僕の頭を優しく叩く。


「それが坊やの答えさ。さあ、ちゃんと生きな。後悔なんてするんじゃないよ」

「……うん。ありがとうお姉さん」


 待ち人と共に地平線の夏へと滲んでいく人々を背に、今だ待ち焦がれるお姉さんを夢に見ながら、ふと『  』と呼ぶ『大切』な人の声に、そっと目を覚ました。

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