第31話 不完全な日常

 その日――

 メリアはまどろみの中から一気に覚醒すると、すぐさま上体を起こしていた。天蓋付きの豪華なベッドの上で、高級な羽根布団をまくっている。彼女はそこから慌てて跳ね起きると、シルクのネグリジェのまま姿見の前に直行していた。


「……ふぅ……」

 やがて、自分の姿を確認してから、大きな息を漏らしている。そこに映っているのは、紛れもなく若い人間の女性だ。見紛うはずもなく、メリア・セント・スティードその人だった。


 王城にある彼女の私室。ここに帰ってきて既に三日が経過しているが、毎朝同じ行動を繰り返していた。無事に人間の姿には戻れたのだが、途中でルール違反をしたからか、完全には例の呪詛を解くことができていないのだ。場合によっては、再びトロル化が起こる可能性もゼロではなかった。


 ただ、余程のことがなければ、普段の精神力で押さえ込むことができる。王都の危機も無事に回避することができたので、結果オーライだった。


 あのあと――

 無人になった住宅の一つに近づいたメリアは、ちょうどその庭で元の人間の姿に戻っていた。その後、同じ建物に不法侵入して衣服を拝借し、王城へと密かに戻っている。それらの借り物は既に返却済みだったが、庶民の姿で急に帰還したことについては説明を放棄していた。


 なんにせよ、今日から通常業務に復帰だ。溜まっているはずの書類にも目を通さなければならなかった。すぐに、いつものローブに着替えようとする。一着は最初のトロル化で完全に破損してしまったが、まだいくつも予備があった。


 ただ、その一つに袖を通している最中にふと気づく。

「……あれ? そういえば、レイアさんから借りたコートを引き千切って、そのままにしちゃったような……」


 この事実をやっと思い出していたが、すぐには対応策が思いつかなかった。

「……ま、あとでフォローすればいいよね……」

 後味の悪さは残ったものの、大したことではないと判断する。次いで、室内に掛けてある機械時計に目を移していた。


「朝食までは、まだ時間がある……か。どうしよう……」

 中途半端な余暇にしばらく熟考したが、結局は日常の何気ない接触を優先する。

「……うん。ニルムとルビアの顔でも見に行こうか」

 まだ幼い実弟と実妹の顔をそれぞれ思い浮かべながら、部屋の扉へと向かっていた。


 だが、それを開けた直後――

「――ッ⁉」


 その向こうに見知った顔が急に出現。侍従長のシロエだ。メリアは意外な展開に思わず硬直していたが、相手は一切気にせず、いつもの口上を述べていた。

「おはようございます、姫様」

「……え、ええ、おはよう、シロエ」


 メリアが思わず後退すると、相手も無遠慮に室内へと入ってくる。

「どちらかに行かれる御予定だったのですか?」

 途中で立ち止まりながら何気に尋ねたところで、一方のメリアはようやく動揺を鎮めていた。


「いえ、特には……それより、時間が早いけど何かあったの?」

 この疑問に、シロエは姿勢を正しながら答える。

「先日の事件の事後報告と、明日の予定変更についての御報告がございます」

「!」

 先の言及にメリアが敏感な反応を見せていたが、相手は構わずに語り始めていた。


「まずは先日の事件ですが、人的被害は幸い皆無とのことでした。それと、スキル・マイスターの間に広がっていた指輪は、全ての機能が沈黙したようです。大討伐広場に関してはかなりの物的被害が出ていますが、復旧は未定です。先代様の像だけはすぐにでも予算がつきそうですが、他は後回しになるでしょう。しばらくは二つだけになりそうです」


 ただ、この最後の数にメリアが首を傾げる。

「二つ? もう一つは何?」

 計算が合わないことを訊くと、シロエは言葉足らずを訂正していた。


「そちらは再建する訳ではありません。大魔獣使い様の像だけは無傷でしたので、それと合わせて二つという意味です」

「!」

 ただ、その人物を持ち出され、メリアは一人の男子の顔を脳裏に浮かべる。


(……まさか、かばいながら戦ってた訳じゃないよね? 実際のところは、敷地の外れにあったからなんだろうけど――)


 と、そこまで憶測して、急にエイドとの最後の接触を思い出していた。


 そして、急に頬を赤らめながら口走る。

「――あ、あれはノーカウントで!」


 だが、このなんの脈絡もない言動に、シロエは反応できない。

「は?」

 思わず素っ頓狂な声を上げていたが、一方のメリアはすぐに全てを振り払っていた。


「な、なんでもありません!」

 その意味不明な言動にシロエは一瞬戸惑うが、すぐに切り替える。


「……それよりも――」

 と、ここで急に真剣な面持ちになっていた。

「そろそろ本当のことを仰って頂けませんか?」


 この問い掛けに――

「――!」

 メリアの表情も一瞬で変化するが、相手はやはり構わずに追及する。


「先日までの行動について、明確な事情を御説明願います」

 ただ、これに関しては極力口外したくなかったため、彼女は頑として詭弁を貫こうとしていた。


「……だから、それは何度も言った通りです。今回の事件が起きそうな兆候が見られたので、極秘裏に行動していたんです。知っている人物の動向が怪しいと思っていたら、案の定でした。結果的に私の出番はありませんでしたが、全ては最良の布石だったんです」


 一切動じすにまくし立てるが、一方のシロエも引かない。

「我々にも内密にするというのは、いささか得心がいきません」

 すると、メリアはここで丁寧な応対をしていた。


「……その辺は、いずれ話します。今は勘弁してください」

 上の身分の者からこのような言動があっては、シロエもさすがにこれ以上は押せない。

「……分かりました」


 渋々主張を引っ込めていると、メリアが話題を逸らしていた。

「それよりも、明日の予定変更について知りたいのですが?」

「そうでした」

 一方のシロエも即座に反応し、語り出す。


「明日、先日の事件で活躍した御二方をこの王城に招き、その労をねぎらうようにと、お父上様からの言伝です」

 これを聞いたメリアは一瞬動揺したが、すぐに落ち着き払った様子を見せていた。

「……あー……例の二人ね……」


 人間の姿でエイドとフミルに会うのは、これが初めてだ。自分が例のトロル・ロードだと看破される訳にはいかないので、初見のフリをしなければならない。そのことを強く胸に刻んでいると、シロエが少々妙な発言をしていた。


「しばらくその御二方とは連絡がつきませんでしたが、ようやくお返事が来ました。褒美も取らせるようにとのお達しです」

「連絡がなかった? どうかしたの?」

 その点を尋ねると、シロエは即答する。


「女性の方はリベレーションを行っていたようです」

 それは、スキル・マイスターにとって避けられない慣習だった。


 デフォッグの一部を自らのペナルティとして受け入れる時、その効果は主に永続型か負債型の二つに分かれる。後者の場合、体内に蓄積された因子をどこかで発散させる必要があった。


 それがリベレーションだ。これを定期的に行わないと、戦闘中にペナルティが発動してしまうこともある。個々のプライバシーとしてその内容は秘匿されているが、これを耐え忍ぶ期間はどうしても必要だった。


 メリアもそのことを理解していたが、ここでまた思わず口走ってしまう。

「あー、あの子って負債型なんだ」

「?」

 その言動にシロエが首を傾げていたが、今度は先程よりも上手く誤魔化していた。


「……以前にちょっとだけ聞いて知っていたの。今のアカデミーには、若いのに優秀な子がいるって」

「左様ですか」

 相手が特に関心を持たなかったため、メリアはすぐに話を進める。


「……それで、もう一人の男子はどうしたの?」

 その点も気になって訊いてみたのだが、ここで意外な回答があった。

「そちらの者ですが、どうも体調を崩していたようで」

「え……?」


 瞬時に先の一戦を思い出し、一気にその表情を曇らせると、さらに詳細を尋ねる。

「奴から何か悪いものでも貰ってたの?」

 ただ、この追及に、シロエは困惑するだけだった。


「いえ、そういう訳ではないようです。ただ、私も諸般の事情によるものとしか聞いてはおりませんので」

 この内容に、メリアは訝るしかない。


(……どうしたんだろ? ちょっと想像できないんだけど……)

 あの斜め上を突っ走るエイドの印象とは、あまりにも掛け離れていた。ただ、ここで黙考しても答えが出るようなことではない。明日になれば分かることだと思い直し、今日はこのまま他の仕事へ向かうことにしていた。

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