第10話 動揺と決意
広大なマティカの森のほぼ中央――
そこには、近隣に住む現地民しか知らない泉があった。歪なYの字をした細長い池で、水底がくっきり見えるほど透き通っている。ここだけ緑の天井がないため、柔らかな日差しが周辺の大地にも降り注いでいた。
今――
その水辺に、一匹のトロル・ロードがいた。ずっと水面を見つめたまま、先程から全く動かない。醜い顔であるため、その感情はほとんど読み取れないが、それでも絶望の淵に立たされている様子が傍目に見ても分かった。
メリアは――
(――――――)
心が折れ掛けていた。水面に映った自分の顔。そこには、見慣れた眉目秀麗な様は欠片もない。どう見ても、フォグ・モンスターのそれだった。
無論、こうなった原因は既に分かっている。あのアンデッドが死に際に遺した置き土産だ。そのことを急に思い出し、彼女は大きく息を吸い込んでいた。
同時に、首を大きく持ち上げると、目を閉じたまま顔面を水面に叩きつける。
(――ッ!)
大きな水飛沫が上がっていたが、すぐには顔を戻さない。充分に頭が冷えたことを確認してから、ゆっくりと首をもたげていた。
それでも――
(……落ち着きなさい……私……ッ!)
湧き上がってくる負の感情が抑え切れない。醜く強張った両手は水辺の土を空しく掴んでおり、指の間からは泥がやり場のない怒りのように噴出していた。
やがて――
(………………)
ようやく落ち着きを取り戻し、水辺から少し離れる。現実から逃げたいという感情がなかった訳ではないが、とにかく一度客観的に状況を整理する必要があった。
メリアは改めて自分の身体を確認する。間違いなくトロルのそれだ。本物のフォグ・モンスターではないため、人に対する憎悪のような感情はない。口は大きく左右に裂けており、身の丈は人間の二倍ほど。ぶよぶよの皮膚の下には、強靭な筋肉を備えている。着ていたローブはこうなった段階で、膨張した自分の身体が引き裂いてしまった様子だった。
(……ほんとは全裸なんだけど……)
そう理解するが、上半身の胸部と下半身の局部には分厚い体毛が生え揃っているため、羞恥心はあまり感じない。ビキニを着用しているような感覚だが、その姿に色気は皆無であり、絶無でもあった。
通常のトロルではなく、トロル・ロードに化けてしまったのは、自分が王族だからだろうか。判然としなかったが、とりあえず基礎能力は通常よりも上のようだ。マッド・スキルとして、極めて高い再生能力と体力を誇っている。これがあったからこそ、部下達の追跡を難なく撒くことができていた。
そこまで思い出して――
(……そう……そういうことだよね……)
騎士達の行動を、改めて理解する。森の中でこの強大なフォグ・モンスターに遭遇したら、当然あのような反応になるだろう。無論、自分であることをすぐに判別することなど不可能だった。
ここまで考えて、改めて敵の意図を推し量る。自らの消滅と引き換えに発動した今回の呪詛だが、それでも対象を死に至らしめるまでの効力はないようだった。
ただ、強制的に特殊な効果を発揮することはできるようだ。そこで、目標をフォグ・モンスターに変化させ、同士討ちを狙うことを思いついたのだろう。その可能性が極めて高いと思われた。
(……嫌な手を使ってくる……ッ!)
効果対象――つまり、自分から人間としての誇りを奪い、さらにその部下にとどめを刺させようというのだ。これほど悪辣な一手はないだろう。怒りが再び込み上げてきていたが、なんとか抑え込んでいた。
(……それよりも……!)
本来の自分のスキル。それが使えるかを改めて確認してみる必要がある。だが、何度試しても全く発動しなかった。想像はしていたが、どうやら完全に封じられているようだ。それが発揮できれば、自分であることも証明できたかもしれないが、その手段は早々に諦めていた。
とにかく――
(……元に戻る方法……)
それを考えるしかない。このまま敵の思う壺になるつもりは毛頭なかった。
すると――
(……うん?)
自らの感覚に、人間の時にはなかった何かがあることに気づく。それは精神と肉体の狭間にあるらしく、いつでも引き出すことができる情報のようだ。どうやら、先程の思念に反応した様子だった。
ここで、メリアは刹那的に思い出す。
(――そういえば……!)
昔、アンデッドが強力な呪詛を使用するためには、解呪のための条件を付与しないといけないと学んだ記憶があった。現実の理を著しく曲げる力だ。反作用がなければ成立しないらしい。その原理原則を思い出し、一筋の光明を見出していた。
(……条件は⁉)
居ても立ってもいられず、精神と肉体の狭間に概念だけの心の手を伸ばす。それに反応して、聞き覚えのあるアンデッドの声が脳内で再生されていた。
が――
(――解呪のための条件を提示――)
(――今の自分を愛する人間と……濃密な接吻をすべし――)
それを聞いて――
(――ッ⁉)
メリアは完全に思考が停止していた。
しばらくその意味を頭の中で反芻するが――
どう考えても、これ以外の感想はない。
(こんな化け物と……ディープ・キスをする奴がいるか――――――ッ!)
思わず咆哮も上げてしまう。近くに騎士達がいたら問題だったが、どうしても我慢ならなかった。
あり得ない。
ただただ、あり得なかった。
これは、盲点をついた単なる嫌がらせだ。物理的には、確かに不可能ではないだろう。条件としてこの世界に是認もされているのだから、その通りにすれば元の姿に戻れるはずだった。
だが、そんなシチュエーションにどうやったら辿りつけるというのか。人間とトロルのラブ・シーン。全く絵が思い浮かばない。そもそも、王族にとって接吻は婚姻の証とか色々あったが、全部頭の中から吹き飛んでいた。
(……ふふふ……なるほど……これも奴の精神攻撃の一環ってことね……)
メリアは必死に感情を押さえ込みながら、なんとか呑み込む。感情に溺れることは、敵の思う壺だ。自分にそう言い聞かせていた。
同時に、何か抜け道がないか考え始める。正攻法では絶対に到達不可能だ。こちらも裏道を探す必要がある。聡明な頭脳だけは持ち越しているため、あらゆる可能性とその実現性をいくつもシミュレートしていた。
やがて――
(……一つだけ……試してみる価値があるかも……)
小さな希望だったが、確かに光を見つけていた。ただ、条件がかなり厳しい。今すぐに実行することもできないし、成功するかも分からなかった。
それでも――
(……前に進むしかない……私は……こんなとこで終わらない……!)
その小さな希望に縋るしかなかった。完全に諦めなければ、どうにかなるだろう。あまりにも楽観的だが、今はそれが必要だ。そうするしかないという現実もあったが、とにかく決意を深く胸に刻んでいた。
不意に――
(――⁉)
メリアは森の奥から聴こえた物音に敏感に反応する。先程、思わず咆哮を上げてしまっていた。騎士達の誰かに勘付かれたのかもしれない。そう判断すると、即座にこの場をあとにしていた。
誰もいなくなった水辺の畔に――
森に戻ってきたばかりの鹿の親子が現れたのは、その直後のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます